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chronology 1973 - 1


1973/01/25 ジェイムス・テイラー公演パンフレット発行。
コメント

1973/02/14 『ライトミュージック』3月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
鼎談:日本のポップスを考える かまやつひろし×細野晴臣×井上尭之

1973/02/15 ソロ・アルバムのレコーディング初日。機材が狭山市鵜木/自宅に運び込まれる。

「レコーディングがスタートしたのは、2月15日から。」(1)
「なんだかんだで遅れてしまいました。」(1)
「最初、自宅とは別に一軒借りる予定だったんですけれど」(2)
「自分の家に機材を持ち込んでやったんだけど、それがこのレコーディングのコンセプトだったのかもしれない」(3)
「最初の計画では、これまでに自分でやってきたものをまとめてみようかと思っていたのです。それが、1月にスタートする予定だったレコーディングが2月にのびるなどしたため、その間に自分自身が変化。」(1)
「時間が経つと、その間絶えず曲をいじっているので、曲が変わってくることがありますね。レパートリーも変ってくるので選曲も変りました」(2)
「すごくホットな体験をしたままソロの録音に突入したんです。リトル・フィートのレコーディングを見たりとか、ヴァン・ダイク・パークスの音作りの現場を体験したりとか、そういう衝撃を抱えたまんま。それはまだ、自分の中で消化しきれないままでしたね」(4)
「煮詰まっていた」(5)
「精 神が昂揚してるじゃない、そうすると物足りないところがいっぱいでてくるわけでしょ、これを相対的に見ると落ち込んでるように見えるわけで……。相対的に 見ると逆かな。ただ、その時には落ち込んでるんだけど、実をいうと精神は昂揚してるんだね。ほとんどもう興奮状態のなかに漬かってるっていうのかな。欲が あってもどかしさを感じているんだよね。そこでいろいろ悩むわけじゃない。でもそれは落ち込んでるんじゃなくてね、イイ悩みなわけだよね」(6)
「ヴァ ン・ダイク・パークスの影響が、日本に帰ってからジワジワと大きくなってきてたんだけど、何をどうしていいかわからなかったの。ただ、なにかをやらなきゃ という気持ちだけはものすごくて、この気持ちをどうしようっていう……。だから、レコーディングを進めながら考えていったんだよ」(7)
「『飛べない空』を作ったころにはまだなかった自信が、だんだんついてきたけど、ソロ・アーティストとして一枚のLPを作るのは『HOSONO HOUSE』がはじめてでしょう。何やっていいかさっぱりわからなくてね。方向性はなんとなくつかんでいたけれども、具体的にどういう曲を作ってどうのこうのというのは、真剣に考えないでやろうと思った」(8)
「狭山では、好きな音楽がいっぱい増えて、最初は点だったのが線に繋がった。ただ楽しむんじゃなくて、ルーツを探っていく。深い勉強をしたおかげなんです」(9)
「ヴァン・ダイクの『ディスカバー・アメリカ』っていうアルバムを徹底的に聞き込んでいくうちに、あのアルバムをとっかかりにして、ぼくの感覚が過去に戻っていったの。たとえば、ぼくが子供の頃に聞いていたハリウッドの映画音楽とか、そういうノスタルジックな世界を思い出したんだね」(7)
「ハリウッドのソープ・オペラ、その後にはガーシュウィンとか、アメリカの歴史を遡っていたね」(5)
「1920年代のポピュラーと民族音楽。むかしからきいてはいましたが、とくに熱中しはじめたのは、このレコーディングの途中から」(1)
「それと同時に、精神的な不安定さから、ジェイムス・テイラーとか、ああいうシンガー・ソングライターの暖かい音楽に救いを求めていた」(7)
「ロック・ビートがイヤになったんだよ。だから古いカントリーを聴き直したり、シンガー・ソング・ライターものを聴いたりしていたわけだ」(5)
「ぼくはこの頃から不安に陥っていたんだ」(5)
「当時の僕は終末感にさいなまれ、その上、ある精神的なショックのフラッシュ・バックなどもあって、身も心もズタズタに分裂してしまうような状態に落ち込んでいた。」(10)
「この頃は家族がよく付いてきたと思うよ。あの頃、自分が狂った姿を一番見ていたのが奥さんだからさ」(5)
「そのいっぽうでリズム&ブルースの新しい動き、スライ&ファミリー・ストーンとかビリー・プレストンなんかが入ってきたでしょう」(7)
「当時は、リズム&ブルースの中でも、16ビートの音楽に非常にエネルギーがあって、特にビリー・プレストンとかスライ&ザ・ファミリー・ストーンが飛び抜けて新しい音楽をやっていたんです」(8)
「そういうものを、ぼくは同時に見てたわけ。そういう時に作ったから、『ホソノ・ハウス』っていうアルバムには、それらの要素がみんな入ってるんだよ」(7)

吉野金次の証言
「基本的にはザ・ バンドの『ミュージック・フロム・ザ・ビッグピンク』(編注:原文のまま)の雰囲気を狙ってたんですよね。スタジオとコントロール・ルームが分かれてるっ ていう発想を変えてしまって、ひとつの部屋に全部の機材があって録りたいときに演奏するっていうか、楽器と同じように録音装置を扱いながらやりたいなと 思ったんです」(5)
「入ってすぐのリビングは20畳ぐらいもある大きな部屋、天井も高い。最初はこの部屋をスタジオにするつもりだったが、結局、コントロール・ルームとして使用させてもらうことにした。スタジオには寝室が選ばれた。」(1)
「6畳くらいですごく狭かった」(5)
「細野さんたちはどこで寝てたんだろう」(11)
「この部屋にはやがてタタミが何枚も運び込まれ、窓際に立てかけられた。反射音を少なくしようとしたからだ。」(1)
「16トラックあるっていっても、タムを全部ばらして録るほど自由にはいきませんでしたね。あの頃、ぼくの場合はドラムには4トラック使ってました。LRを2トラックに振り分けて、後はスネアとキックというのが通常のパターンでしたね」(5)

石浦信三の証言
「何人ものミュージシャンやスタッフが集まってくる。そして、泊まりがけでレコーディングをする。食事ひとつとっても、もう炊き出し。細野さんの奥さんが1人で奮闘してつくるわけね。まるで、キャンプ。楽しかったけど、2度とはできないことをしてたわけですね」(11)
「民 家を使ってレコーディングするというのは、たぶん日本でははじめてだったと思いますけど、もともとの発想はザ・バンドの『ビッグ・ピンク』です。ピアノの 音ひとつ録るにしても大変でした。実際に録音してみると、床の響きまで影響してくる。『床まで楽器』ということね。そこまでいっちゃった」(11)

三浦光紀の証言
「ぼくにとって画期的なレコーディングでした。細野さんの自宅でレコーディングしたのは、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のようなアルバムが念頭にあったからでしょう」(11)

※編注:3月まで続く細野の自宅でのレコーディング風景は、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)の他、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)などで見ることができる。


1973/02/16 ソロ・アルバムのレコーディング。機材の設置とサウンド・チェック。北中正和が見学に訪れる。狭山市鵜木/自宅。

「スタジオでやったのとは違って、音がよくまわりました。」(1)
「床 が木、壁がベニヤとシックイの8畳の洋間をスタジオ代りに使いましたが、そこに、ボクと鈴木茂、林立夫、松任谷正隆の4人が入り、しかもそれぞれが楽器を 持っているんですから、広くはありません。隣りに、10畳の部屋もあるんですが、極端に音をまわらせるため、わざと狭いほうの部屋を使ってみました。」(1)

北中正和の証言
「午後3時、車で狭山まで届け物をする便があったので、それに便乗させてもらう。」(2)
「運転するのは風都市の上村さん。助手席は、今回のレコーディングの進行を担当しているやはり風都市の石浦さん。」(2)
「ア メリカ村の細野さんの家のあるあたりは小ざっぱりとした住宅街である。アスファルトの道が一本、低い山腹の脇を走っていて、その道と山腹との間に、同じ造 りの白塗りの木造家屋が4列に並んでいる。どの家も白い柵がついていたり、古い芝生が植わっていたりする。細野さんの家は、山腹側にあり、15メートルば かり離れたところまで、緑の崖が迫ってきている。」(2)
「家 に近づくと、外に音がきこえてくる。タタッタタッタ チャチャン ドカドス コンポコポンとかなり大きな音がもれている。セッティングが終わって、音出し の最中らしい。音出しというのは、楽器類が正常に鳴るかどうかを確認するためのテストのこと、と石浦さんが説明してくれる。」(2)
「玄 関を入ると、12畳くらいの居間である。まず目に飛びこんできたのが、居間の中央にズンと並んでいる録音用の機材類とうねるように床を走っているコードの 束。とにかくそれらが居間の半分近くを占め、その前にミキサーの吉野さんと野村さん、その奥のソファ周辺に三浦さんたちキング・レコードのスタッフ、カメ ラの野上さんたち、それに猫が一匹、たたずんでいて、ぼくらが入って行くと機材を見守っていた視線をいっせいに玄関の扉のほうに向けた。たぶん試しどりを しているのだろう、16チャンネル用の6センチ幅くらいのテープがぐるぐる回っている。」(2)
「や がて演奏が終り、演奏室になっている8畳の部屋の扉があいて、細野さんたちが出てきて、リビング・ルームの人口密度は最高潮に達した。簡単なあいさつを済 ませて、半開きの扉から演奏室の中を少し覗かせてもらったが、ピアノ、ドラムスなどの楽器、椅子、マイク・スタンドとコードなんかで、かなり雑然としてい る。」(2)
「ふだん寝室に使っているところをスタジオ(演奏室)に、普段の書斎兼音楽室を寝室に使うようにして、宿泊しきれないメンバーは、アメリカ村に住んでる友だちのミュージシャンのところに泊るなどする」(2)
「録音の段どりを追ってみると、機材類の配線や、楽器の準備ができた段階で、マイクの位置を決める作業がある。これは、メンバーとも相談しながらミキサーの吉野さんが決めて行く」(2)
「マ イクでとった音は、調整卓にくる。シグマ社製、カーナビー・コンソレット・カスタムという名の、20の入力回路と16の出力回路を持つ卓である。つまり、 20本のマイクで拾った音をそれぞれ独立に調整し、16チャンネルのテープ・レコーダー(アンペックスMM1100)に送り込むことができる。といっても 一度に16の回路全部を使って録音するようなことはまずない。」(2)
「メ ンバーに練習で演奏してもらって、その間に吉野さんは、卓で音のトーンやレベルを調節していく。それで試しどりをしてみて、それをメンバーがききながら、 そこでピアノをもう少し強く、といった意見を出しあう。その作業を、気に入るところまで繰り返してOKしたら、はい、スタートということになる。サウンド に関しては、細野さんたちが決めていくわけである。」(2)


1973/02/17 13:00 ソロ・アルバムの本格的なレコーディング開始。18:00まで。狭山市鵜木/自宅。

「自宅でメンバーが合宿状態でレコーディングするということは、正味に使える時間が長いという利点とともに、一つ 間違うとしまりなくダラダラやってしまう危険性とが同居していました。そこで、1時から6時までとレコーディング時間を区切り、三日やったら1日休むとい うやり方にしました。」(1)

北中正和の証言
「3日間仕事をしては2日休むといったゆったりとしたスケジュールで、2月17日から空オケ」(2)
「ほとんどの曲がテイク1でOKになったという」(2)

※編注:スケジュールに関する北中正和の発言が「三日やったら1日休む」とする細野説と食い違うが、ここでは可能性のひとつとして引用しておく。


1973/02/25 はっぴいえんど『HAPPY END』発売。
風来坊:compose, words, vocal, bass, guitar
氷雨月のスケッチ:bass
明日あたりはきっと春:bass
無風状態:compose, words, vocal, bass, guitar, piano
さよなら通り3番地:bass
相合傘:compose, words, vocal, bass, mandolin, guitar
田舎道:bass, piano
外はいい天気:vocal, bass, piano
さよならアメリカさよならニッポン:compose, words, bass, chorus
「タイトル名が皮肉」(12)
「ジャケットのイメージも強いけどね。松本の色があそこで出てたら、『風街ろまん』よりもっとダークな、落ち込んだ、シリアスな世界になってたと思う」(13)
「僕とか大瀧とか茂が飛び出しちゃったのね。すると地が出てきて、あの、陽気なね」(13)
「1曲ごとのプロデューサーはいたけど、トータルなプロデュースはないままに終わってしまったんだ。」(3)

無風状態
「曲のアイディアは、元々あったのかもしれないけど。うーん、どこで作ったんだろう? 現地で書いたのかもしれない、詞の内容からすると」(14)
「も う解散しようという気持がきまってて、アメリカ旅行だというんで、むりやりレコーディングしたような状態でできたレコードなんで、わりとクールだったんで すね。お互いの関係もいっときほど親密じゃなくて、例えば松本の家に入りびたったりとかあんまりしなくなっている時代で、音楽がどんどんプライベートにな りつつあった。『無風状態』というのは、そんなバンドのことを考えながら作った。わりと状況 論的な比喩だったんです。はっぴいえんどで自分たちが何やってるのかわからなくなってきて、それで突然、船を降りちゃうんですけどね(笑)。『やつはエイ ハブ気取って船をひと吹き(編注:原文のまま)』という詞があって、それは自分のことだったんですよ。自分をシニカルに見ているとそういうふうに見えたん です。ところが大瀧詠一は『あれは自分のことだろう』というんです。自分って大瀧くんのことです。『僕を責めているんじゃないか』と、彼は非常に傷つい て、詞を使って攻撃されていると思って、非常に落ち込んでいたんです。それを、野音の帰りか何かにいわれて、ええっ? と思ったことがある。ああ、そう か。それほど彼は繊細になっているのかと思って」(8)
「いや、違うよといっただけなんだけど。これはナゾにしといたほうがいいかなとかって(笑)」(8)

風来坊
「これは言葉に困って作った曲ですね」(14)
「で きた当時は非難されて、言葉の遊びすぎとかって。はっぴいえんどには、松本隆という大御所になっちゃった人がいてね、彼と一緒にいるのはつらいんですよ ね。詞を書くと、比較されちゃうから。比較にならないような詞を書くほかなかった。責任ないやと思って。いいかげんにやれという気持で、わりと気軽に作っ ていたんです(笑)」(8)
「誰にも言ったことないけど、『風来坊』の元になっているのはディズニーの『三匹の子豚』なんだよ」(5)
「小さい頃から聴いてたスウィング版の『3匹の子豚』」(14)
「ソラミミで『風俗低俗風来坊』って聴こえるんですよ。そのニュアンスで作っちゃった、いい加減に(笑)」(14)
「その英語のうたを聴いたとおりに"風俗 低俗 風来坊"ってなっているんだ。でも、他の部分はどうしても詞ができなくて、"ふらりふらふら風来坊"っていうので押し通しちゃった(笑)。困ってこうなっちゃったんだよ。イイヤって」(5)
「その頃、僕、作曲がギターからピアノに移ってたんですよ。『風来坊』はピアノで作った覚えがありますね」(14)
「音には異常にエコーが付けられているな。この頃はまだエコーのことがよく分かっていなかったんだ。ミックスは、おまかせだから。まだ自分では勉強中なんだよ、分かんないんだから。曲作りのときにはアレンジまでがせいぜいなの。エンジニアリングまでは自分が行っていない」(5)

相合傘
「これは、より音楽的というか、右脳的に作ったものだね」(5)
「それまで『飛べない空』や『無風状態』の詞を書いてきて、それはアナロジーっていうかレトリックを使ったものだったんだ。けど、『相合傘』は"あいあい"っていう響きが気に入ったからだけなんだよ」(5)
「意 図的ですね、それは。言葉を捜していたというのもありますけど、日本語は捜さないとリズム感が得られないんですよ。思いつきだけではなかなかできなくて。 わりと観念的にいじくりまわさないとさまにならないとこがありますね。松本隆はリズムを無視してやっていて、そこがまた面白かったことは面白かったんです ね。ベンケイがな、ぎなたを……みたいな世界を詞にもってきて。でも大瀧とか僕は、根っからリズム好きな人間で、言葉のリズム感を非常に気にしていた。例 えば大瀧は『台風』という、シャウトできる言葉を見つけてきたり。僕は軽やかなミニマルな言葉を捜そう捜そうとしていた時期で」(8)
「(編 注:「道行き」というのは)日本人なら当時は誰でも知っているような言葉だったんですよ。捜し出すといってもね、そんなに苦労しないで出てくる言葉で。 はっぴいえんどのときから、松本隆も『花いちもんめ』とか、『春爛漫』という曲で、わりとそういう世界をやっていたと思います。それの受け売りというか、 借りちゃったという感じ。つねに音楽ばっかり考えていて、詞はその音楽を生かすための手段だと考えていたんですけど、詞を載っけると、どうしても詞が全体 を支配していくということにも気がついていたというか、困っていた時代ですよね。例えば大瀧も僕も、曲を作るときは英語で、誰かの英語の詩を拝借して作る 場合もあるんです。ざっとしたスケッチを作って、さて、それを日本語に置き換えていくというときに、リズムで言葉を選んだりするんですよ。何が出てくるか は、そのときのコンディションによるわけで、そのときに何に集中していたかとか、どんなことを考えていたかということでインスピレーションが出てくるわけ ですけど」(8)
「ぼくは実は『相合傘』みたいなキャラクターなんだよ、本当は。ぼくの周りの人はみんな分かっているし、音楽を聴いていれば分かるはずだよ」(5)

松本隆の証言
「あまり好きじゃない。っていうか、存在してほしくないレコードですよ、ぼくにとっては」(15)
「あのお気楽さが好きだという人は多いよね」(13)

鈴木茂の証言
「解散を決めてから作ったんで、もうかなりばらばらな感じがしますね」(11)


1973/02/27 13:00〜18:00 ソロ・アルバムのヴォーカル・レコーディング開始。狭山市鵜木/自宅。

北中正和の証言
「2月27日頃からはかぶせ(歌入れ)」(2)


1973 鈴木茂・林立夫・松任谷正隆とのバンドをキャラメル・ママと命名。

「実はソロでやっていくという明確な意志はなくて、僕には」(13)
「僕のソロをきっかけにね、バンドをやっていこうじゃないかと」(16)
「このままバンドに移行してね」(13)
「名前を付けたんです、僕」(16)
「別になんの意味もなく、語呂がいいから(笑)」(17)
「当時の、まあ、学生運動の中で、こう…キャラメルを、息子にあげる、ママみたいなね。甘ったれた、息子に(笑)。甘やかすようなね」(16)
「そんなような名前が、ちょっとだけ出てきた、流行ったことがあって」(16)
「新聞、かなんかで、読んで」(16)
「それを、いただいたんです」(16)
「コンセプトも何もないんですね」(16)
「どんな音楽かっていうものがなくて」(17)
「どちらかというとプレーヤー志向のグループだった」(12)
「ベーシストという役割がとても気に入ってて、ベースが面白くなってきたわけですね。演奏することがまた楽しくなってきた。それははっぴいえんどの反動なんですね。また元に戻ったんですよ」(13)
「クリエイティブを追求したのがはっぴいえんどで、ところが演奏が燃焼できないタイプの音楽だしね。発散できないでしょ」(13)
「林立夫のドラミングがすごく好きで、天才だと思ってたの。もちろん鈴木茂も当時は天才少年って呼ばれていたんで、彼らと一緒にプレイできること自体が喜びだった」(18)
「もちろんみんなそれぞれ、とてもいい腕なんで、えー、バンドをやるっていう気持ちはひとつになったんです」(16)

鈴木茂の証言
「『Hosono House』を作っているときにキャラメル・ママのいろんなことを話し合ってたんですよね。だからあの時のセッションが下地になったのかな」(19)
「『HOSONO HOUSE』が終わって、"じゃあ、やろうか"って話になったわけ」(20)
「そ のころぼくは、もう人のバックやるのいやだったんですよ。だから、まあ、お金の問題はあったけれど、できれば自分のバンドだけでやっていきたかった。だか ら、キャラメル・ママとしてもバンド活動をしたかったんですよね。ちょうどいちばんノッてきたときにはっぴいえんどが解散しちゃったってこともあったし」(15)

林立夫の証言
「バンドでありたかったですね。こんなドラム・セットがいいって、アメリカで、26インチのバスドラとか買いましたもん。だから、自分としてはバンドのイメージでした」(20)

松任谷正隆の証言
「イニシアティブは基本的に細野さんにあったと思う。こんなサウンドとかあんなサウンドとかいろんなことを彼が言ってたのを憶えている」(20)


1973/03/10 13:00〜18:00 ソロ・アルバムのレコーディング。ホーン・セクションのダビング。狭山市鵜木/自宅。

北中正和の証言
「ホーン・セクションのかぶせ」(2)


1973/03/11〜翌2:00ごろ ソロ・アルバムのミックス・ダウン。狭山市鵜木/自宅。

「音の鳴りが防ぎ切れないんで、ミックスのときはちょっと苦労していましたね」(4)
「シンバル類はちょっと飛び出ていますから」(4)

吉野金次の証言
「ベースをライン で録音しなかったのが失敗で、ベースのマイクにドラムの音が全部かぶってるんですよ。だからミックスのときにベースのフェーダーを上げると、ドラムの音量 も全部上がっちゃうんです。だからちょっと混沌とした感じになってるんだけど、クロストークと呼べないくらいのレベルで入ってきちゃってるんですよね。そ れがちょっと後悔してる点です」(5)

北中正和の証言
「16チャンネルのテープから、カッティング用の2チャンネルのマザー・テープに編集しなおす作業である。」(2)
「細野さんたちは、夜中の2時頃までこの作業を続けたため、近所の人たちから大いなる苦情を受けたそう。」(2)


1973/03/12 ソロ・アルバムの打ち上げパーティ。狭山市鵜木/自宅。

1973/03/14 『ライトミュージック』4月号(ヤマハ音楽振興会)発売。
取材記事、コメント:いい音をとりたい キャラメル・ママ(細野晴臣のレコーディング・グループ)にみる新しい録音方法への試行

1973/03/16 ソロ・アルバムのレコーディング終了。狭山市鵜木/自宅。

「終ったのが、3月16日」(1)
「いちばんよかったのは、時間の束縛感がなかったことですね」(2)
「80時間くらいじゃないかな」(2)
「時 間がたっぷりとれてしかも節約できた、というと矛盾してるみたいだけど、よりくつろいだ状態でやっているから、無駄な時間があるようでないんです。街のス タジオでレコーディングする時だと、今日は何時から何時までというふうに時間が決まっているから、演奏していても"ここで間違っちゃだめだ"なんて意識が どうしても強くなってきて、そんなふうな状態で"ここで本番いきます"なんてかけ声がかかったりするともうダメ、萎縮してしまいます」(2)
「東京のスタジオは1時間いくらとかね、経済システムに組み込まれているから、プレッシャーが凄かったんですよ」(9)
「キャラメル・ママのメンバーは、僕のうちに1ヶ月近く泊まり込んだ。録音が終わったら、ご飯を食べて、トランプをして遊ぶ。縛りがない、自由なレコーディングは楽しかった。後で聞いたら、隣の小坂(忠)家はうるさかったみたいだけど(笑)」(9)
「ミキサーとよく対話できたこともよかったですね」(2)
「街 のスタジオでやる時と違うのは、同じ所で一緒に暮らすことになるから、自然に話す雰囲気ができてくるわけです。ブラック・ジャックなんかをやりながらね。 街のスタジオの場合でも、もちろんミキサーとは話し合いながらやるわけですが、毎日毎日スタジオに出勤しても、そこで初めて顔を合わせるわけです。それで 時間がくれば、お互い離れ離れに自分の生活にもどって行きますからね。その点はやっぱり違ったですね」(2)
「や はり自分のテープ・レコーダーで録音するのとは事情が違いますから。ひとつ感じたのは、やはり機械が大きすぎたことですね。それは部屋の狭さにもよるのか もしれないけど。それから、機械が大きくて複雑なものだから、自分ではもちろん取扱いきれなくて、ミキサーに依存する度合が非常に高いわけです」(2)


1973/03 北中正和のインタビュー取材を受ける。

北中正和の証言
「細野さんが自宅でレコー ディングするという話をきいた時、まず最初に浮かんだのは、彼の音楽についてぼくが感じる魅力的な点、たとえば優しくほのぼのとしていて、それでいてアイ ロニカルな面もあって、遊びもあって、微笑みと寂しさをいちどに感じさせるような細野さんの歌の世界を、最もよく表現するためにそうしたのだろうか、その 辺のことが知りたいという気持だった。」(2)
「と ころが実際、数度狭山まで足をはこんでみると、まずたいてい細野さんの家の居間は混雑していて、細野さんの奥さんはいそがしそうに何人分もの夕食を作った り、お茶を出したりだったし、心なしか細野さんもいくぶん疲れているように見えてきたのだった。ぼくの思いすごしだといいのだけれど、取材ということで見 学させてもらうため居間の片隅にすわっていても、細野さんや他のスタッフに、余計な神経を使わせてしまっているのではないかという気がしてきたのであ る。」(2)
「そんなわけで、細野さんに、レコーディングの意図や結果などについて少したずねてみることにした。インタビューしたのは、ミックス・ダウン終了後、数日たってからである。」(2)


1973/03 野上眞宏と『HOSONO HOUSE』のためのフォト・セッション。狭山/WORKSHOP MU!!。

野上眞宏の証言
「アメリカの写真家ラリー・クラークによる衝撃的な写真集『タルサ』の表紙に使われたピストルを持った少年の写真のポーズを、細野に真似してもらった。引用をやったのだが誰も知ってる人がいなくて引用にならなかった。」(21)


1973/03/20 18:30 加川良コンサートに出演。お茶の水/日仏会館。
出演:加川良、中川イサト
編注:出演形態、演奏曲目ともに不明。

1973/03/21 ヤング101『ぼくら青春の日々』発売。
ジャングルジム:bass
僕が5年前に考えたこと:bass
ふしあわせな朝:bass
何んにもしてあげられないよ:bass
山手線からの風景:bass
僕の暮し:bass
イニシャルを刻め!:bass

1973/04/19 ソロ・アルバムのカッティングに立ち会う。吉野金次、北中正和らが同行。キング・レコード埼玉工場。

北中正和の証言
「護国寺のキング・レコード本社前から2台の車に分乗して、本庄市の近くにあるキング・レコード埼玉工場へ着くまで約3時間。」(2)
「着いた工場は、小ざっぱりとした清潔な建物と敷地である。」(2)
「カッ ティングの技術者の酒巻さんは物静かな人で、作業のあいまを見て簡単な説明をしてもらった。カッティングとは、マザー・テープの磁気の波をアンプによって 針先の振動に変え、それをラッカー盤に切り込むプロセスのことである。この段階でも、ある程度の音質やレベルの調整は可能である。」(2)
「吉 野さんが酒巻さんと相談しながら、カッティングのレベルをもう少し上げられないかなど交渉の後、テスト・カッティングをしてみる。見ているとメーターの針 が赤い目盛のほうまでピョンピョンはみ出したりしている。カットできたものをプレーヤーにかけてみて音の調子を確かめる。その作業をくり返して、レコード の片面に相当するものを作りあげ、それを細野さんが自宅に持ち帰って、自分のききなれた装置できいてみて、音の歪みや異常、音がやせてないか、針がとんだ りしないか、などをチェックする。それがOKなら、同じ条件でカッティングして、プレス工場に回されるわけである。」(2)


1973 キャラメル・ママ、バンド活動の他にプロデュース・チームとしてバッキング活動も行う方針が固まる。

「はっぴいえんどまでは良い意味でアマチュアリズムでしたね。それを仕事にしようという意識はなかった。それが終 わってから初めて"どうやって仕事にしようか"っていう"ミュージシャン"としての意識が生まれたわけです。実はその前のエイプリル・フールは職人的な技 の世界だったけど、サイクルとして職人的な意識が出てきたのはキャラメル・ママの時だったんです」(18)
「最初の頃は石浦君がみんなの行く末をどうするか考えてくれていた」(11)
「まあヴォーカルの問題は、あったわけですね。誰が歌うかっていう(笑)。僕は歌う気があんまり、なくて」(16)
「メ ンバーには、ボーカリストがいないねと、相談してたんです。自分はボーカリストじゃないっていう前提でね。全然自分では好きじゃないんですよ、自分が歌う ということはついでにやってることであって、僕の思うバンドのスタイルではないわけです。あくまでもソロだったら許されるだろうと。責任は自分にあるんだ から。でもバンドだと、はっぴいえんどの時と同じように、やっぱり一歩引くところがあるわけです。なんでも歌えるわけじゃないから」(13)
「ぼくはシンガーじゃないし、やっぱり、ぼくのヴォーカルじゃバランスがとれない。」(3)
「だからヴォーカリストのことが気になって探して……でも全然いないから、仕方なく自分で歌ってた。あくまでも仮のプロセスとしてね」(20)
「メンバーもそのつもりだったから。誰も僕に歌ってくれとは頼んでこないし(笑)……小坂忠のようなヴォーカリストが昔から周辺にいたから、あのくらい歌が歌える人を想定してたんです。まあでも……歌手を探すことができなかった」(20)
「それで、どうやって活動していこうかと考えたわけ。インストゥルメンタル・グループとしてはやりたくなかったしね。それじゃ、やっぱり、スタジオ・セッションでやるしかないと思ったんだ」(3)
「ヴォーカルが、ちゃんと、しっかり、いればね、きっとバンドになってたんでしょうけど。どうしようかっていうまんま、ずっと(笑)。ズルズル。で演奏能力は高いわけですから(笑)。結局、歌う人に、付いてって言うかね」(16)
「演奏のほうに興味があったんです」(13)
「モデルがアトランタのマッスルショールズリズムセクションとか、そういうものにとても惹かれてた頃で」(13)
「マッスル・ショールズのスタイルにすごく影響され出してて、まあミーハーなもんで(笑)……ステイプル・シンガーズとかね、ヒット曲のバッキングが素晴らしかったんですよ」(20)
「アメリカには彼らのようなリズム・セクションがあちこちにいて、そのスタジオでなけりゃ出せない独自のカラーを持った音を作ってた。つまり、プロデュース・チームを作ってた」(3)
「そういう連中の仕事っていうのをまだ具体的には考えてなかった。キャラメルはバンド指向だったから。でもそういうのはアリだな、と」(20)
「ぼくもそれがやりたかったし」(3)
「日本にはそういう土壌がないけれども、幻想でもいいからそれをやろうという気持ちになっていったんだと思いますね」(20)

鈴木茂の証言
「林と細野さんが、なんか人のバックやるって言いだしたんですよ」(15)
「当 時そういうグループがアメリカにはけっこうあったんですよ。マッスル・ショールズとか、作家チームのTMコーポレイションとか。いろんなレコード会社とか スタジオに固定したバンドに近いようなグループがいて、そういう人たちがレーベルのカラーを決めてた。そんなスタイルに憧れて始めたんです。バンド単位で 言えば、セクションってあるでしょ? あれとかに影響されて…」(20)
「時代ってこともあったんだろうけど、4人とも歌でリードするタイプのミュージシャンじゃなかったし、みんな演奏がすごく個性的なんですよ。それを生かす方法だったのかもしれない」(20)
「はっ ぴいえんどとちがっていたのは、歌が中心にまとまる音楽じゃなかったということですね。強烈にバンドを引っ張っていくヴォーカルがいなくて、楽器でつな がってた4人という印象があります。誰かヴォーカリストを入れようかという話し合いもしましたけど、意見がまとまらなくて、世の中にはいっぱいヴォーカリ ストがいるわけだから、われわれは演奏能力を使ってその人たちと一緒にやっていこうということになったんです」(11)
「ぼくはあくまでもバンドやりたいんだ、と言いはったのね。音も見えはじめてきたし」(15)

林立夫の証言
「致命的なのは、 ヴォーカリストがいなかった。それでいて、みんなインストより、ヴォーカルものの方が好きだったんです。でも、ヴォーカリストがいなかったのは必然だった と思います。バンドとしては歌がない以上はダメだ。でも、僕らは、インストだけでやっていく腕もないし、興味もなかった。そうやって考えるとバンドとして の存在は意味がなくなる。といって演奏面でいうと、信頼できる仲間は手放したくない。そこで何かできないかなぁ…って時に」(20)
「構想が出てきたんです」(20)

松任谷正隆の証言
「キャラメル・ ママの決定的な弱さは、リード・ヴォーカルがいなかったことですね。僕の中ではずっとそれがネックになっていて、ティン・パン・アレーに移行していく要因 だったとも思う。もし、どっかからいいリード・ヴォーカルを呼んでくればいいとかいう考えだったら、ヴォーカリストのいるバンドとして継続し、ティン・パ ン・アレーにはならなかったと思う」(20)

前田祥丈の証言
「風都市から電話があって、これからはマネジメントだけじゃなくて、原盤制作もやっていく、人が必要だから来て欲しいと。僕はプーだったんで(笑)、おもしろそうだ、って行ったんですよ」(11)
「シ ティ・ミュージックの立ち上げに関わったんです。なんでそういうことをやろうと石浦さんが考えたかというと、はっぴいえんどが解散して、キャラメル・ママ が誕生したけど、彼らの仕事をどうするかというときに、ヴォーカリストのバッキングのサウンド・プロデュースがビジネスになるんじゃないか、ということ だったんです」(11)

※編注:当時、プロデュース/バッキング活動は「キャラメル・シティ」名義で行い、キャラメル・ママのバンド活動と区別していくという構想もあったが、これは結果的には形になっていない。


1973 キャラメル・ママ、荒井由実のレコーディングへの参加が決まる。

アルファの村井社長から、荒井由実っていうシンガー・ソングライターがいるからやってみてくれって」(18)
「アルバム・プロデュースしないかと」(22)
「突然アレンジを任されました(笑)」(23)
「そのときは『1度録音したものがあるけど、自分の考えていたものとはちがうから、もう一度やってみてくれ』ということだった」(11)
「でデモ・テープを送ってきてくれたんですよ。すでにそれは、たぶんかまやつさん、今はムッシュですけど(笑)、かまやつさんが、高橋幸宏とか、小原礼と、セッションで、確か、『返事はいらない』だったかなぁ、その、楽曲が入ってて。違うタイプで、アレンジしてみてくれと」(22)
「でも曲がそんなに面白くなかった。良ければ何にもなかったんだけど、悪ければ悪いほど料理に燃える(笑)」(18)

村井邦彦の証言
「キャラメル・ママで活動していた細野くんを呼んで」(23)
「ミュージシャンとして以前から尊敬していたし、ユーミンの音楽とブレンドすればきっと素晴らしい作品になるんじゃないかと」(23)
「僕は絶対にコレだと思ったの。ユーミンが『自分のバンドでやりたい』と言っても『絶対にダメ』(笑)」(23)

松任谷由実の証言
「レコーディングの前に、アルファの村井邦彦さんのところに、風都市の石浦さんとキティの多賀英典さんの両方からプロデュースの売り込みがあって、キャラメル・ママでやりましょうと決めたのは村井さんだった」(11)


1973/04/30 キャラメル・ママ、『リサイタル 遠藤賢司 歓喜の歌』出演。神田/共立講堂。
遠藤賢司 遠藤賢司(vo, g, harmonica)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松任谷正隆(kbd)、林立夫(ds)、駒沢裕城(steel.g)、井上陽水(g) 他
 待ちすぎた僕はとても疲れてしまった
 ミルクティー
 寝図美よこれが大平洋だ
 Hello Goodby
 他
※編注:遠藤賢司から譲り受けた愛猫・寝図美もステージに登場した。この日の演奏の一部は遠藤賢司のライヴ・アルバム『遠藤賢司リサイタル 歓喜の歌』(ポリドール/1973年)に収録されている。

1973/05 キャラメル・ママ、南正人のレコーディング。荒井由実が見学に訪れる。八王子/南正人宅。

クンの家に機械をもちこんで」(24)

南正人の証言
「参加ミュージシャンは再び細野くんにおまかせした。アレンジは現場で即興的に行われたが、さすがに皆、いいセンスしているなと思った。」(25)

宮崎まさ夫の証言
「ユーミンと初めて会ったのは、八王子のわらぶき屋根の家で南正人のレコーディングをしていたとき。妙に背の高い黒髪の女の子がオープンリールのデモ・テープを持ってきた。それが後のアルバム『ひこうき雲』になるもの」(11)


1973 リハーサルを見学に訪れた鈴木顕子と知り会う。林立夫、鈴木茂が同席。新宿/御苑スタジオ。

「これはね、もうはっきりしてんの(笑)」(26)
「いやもちろんね、ピアノーと歌がうまい、ことは置いといて、あのー、なんて言うんですかね、こんーな短い、ミニスカートから」(26)
「脚がこう、きれいな脚がピョンとこう出てたんですよ。それはねーもう、僕だけじゃなくてみんなこう、つい、見ちゃう。見ちゃうもんですね、あれは」(26)

矢野顕子の証言
「新宿御苑駅近くの、その名も御苑スタジオの二階。急ごしらえで作ったような練習スタジオへ行くには、足の横幅と同じくらいしかない階段を注意深くのぼっていかねばならず、おく病なわたくしは、降りるときにはどうしたらよかんべえと思案しながら上がっていった。」(27)
「林立夫君は青学の先輩で前から知ってた」(28)
「そ の彼が暗闇階段をのぼりきったわたくしをつかまえて、『ねーねーほそのさーん、このひと、ぼくの後輩、あっこちゃんてゆーの』と、非常に簡単に簡潔に紹介 してくれた。壁ぎわで、ひとりくらーくギターをひいていた鈴木茂さんは、伏目がちに、でも、にこやかに『こんにちあ』といった。ほそのさんはといえば、パ イプいすの上にあぐらをかき、カウボーイブーツはちゃんとそろえてあった。かわいい柄のシャツはきちんと上までボタンがとめてあって(当時ははずしておく のがナウイとされていた。一般には)わたくしはさすがうまい人は着てるもんもうまいなあと心の中でつぶやいた。」(27)


1973/05 鈴木顕子のレコーディング。目黒/モウリスタジオ。

矢野顕子の証言
「ほぼ自費(といっても親のお金)で」(29)
「アレンジが矢野誠さんでバンドがキャラメル・ママ」(28)
「細野さんのこと、よく覚えてるんだよねー。ちゃんとヒゲはやして、シマシマのセーター着て、椅子に座ってベース弾いてた。大丈夫かな、この人? って思ったけど、『こうしないと弾けないの』って言われてね。LP1枚分やって、いい感じだったんだけど……」(28)

※編注:このセッションは未発表となったが、いくつかのテイクはのちにアルバム『JAPANESE GIRL』『いろはにこんぺいとう』『ひとつだけ』に収録された。


1973/05 『ニューミュージック・マガジン』6月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
取材記事、インタビュー/『Hosono Houseの自宅録音をルポする』

1973/05 季刊『ベルウッド』No.4(ベルウッド・レーベル)発行。
手記/ボクの家で録音したボクのアルバム

1973/05/21 中川イサト『お茶の時間』発売。
その気になれば:bass, piano
夕立ち:guitar, knees
ゆきしぐれ:hammond organ
プロペラ市さえ町あれば通り - 1の2の3 -:bass

1973/05/25 『HOSONO HOUSE』発売。
ろっかばいまいべいびい:compose, words, produce, arrangement, guitar, vocal
僕は一寸:compose, words, produce, arrangement, bass, guitar, vocal
CHOO CHOO ガタゴト:compose, words, produce, arrangement, bass, vocal
終りの季節:compose, words, produce, arrangement, bass, guitar, vocal, melodion
冬越え:compose, words, produce, arrangement, bass, vocal
パーティー:compose, produce, arrangement, bass, vocal
福は内 鬼は外:compose, words, produce, arrangement, bass, vocal, kalimba
住所不定無職低収入:compose, words, produce, arrangement, bass, vocal
恋は桃色:compose, words, produce, arrangement, bass, guitar, vocal
薔薇と野獣:compose, words, produce, arrangement, bass, guitar, vocal
相合傘:compose, produce, arrangement, bass, guitar, flat mandolin
「70年代のムードを……一番表している空気感が出ているアルバムだと思うんだ。パーソナルに作れば作るほど、そういう ものが出て来ちゃう。だから人に言っても仕方がないくらいのパーソナルな心境だよ。例えば、う〜ん、ある種の体制が崩壊したというか。そんな中から、アメ リカではバッファローが生まれてきて、日本ではその3年おくれではっぴいえんどが始まった。それが終わって、先のことを考えられない状態で、ただただバッ ク・トゥ・カントリーの時代。都会を捨て、田舎で新しい家庭を作ってという衝動だけで田舎に住んだわけ。幻想のカントリー、アメリカですら幻想なのに、ひ とひねりした日本で作ったカントリー。新しく家庭を持って、子供ができてっていうパーソナルな状態から出てきたから、70年代的に思えるのかもしれない」(30)
「"HOME(家)"っていうのがテーマになってる。一時的なものだけどね」(7)
「狭山での生活、ミュージシャンの生活ってものがそのまま出て来てるっていう感じだよね」(6)
「家 で録ったということは、スタジオを自分の家の日常に入れちゃったんで、そういう目論見はあったんです。ただし、生活自体が、さっきもいったとおり、アメリ カ村みたいなところに住んでいる幻想だったんで、それ自体がひとつのフィクションだということも、どこか考えていたことは考えていたような気がする。東京 では作れない音楽ということはありますね」(8)
「『HOSONO HOUSE』ではコンセプトは持てなかったんです。コンセプトというのはいったい何だろうと思って。どうやってコンセプトというのを立てていいかわからな くて。松本のやり方だと、詩の世界から構築していって、というやり方をしていたけど、僕にはそれはできないし、音楽的なコンセプトというのは雲をつかむよ うな話で」(8)
「『ホソノ・ハウス』の詞っていうのは、あの頃のぼくの生活、あの場所から出てきたもので、それ以上のものも、それ以下のものも書けなかったんだ」(7)
「歌詞作りも自分のキャラクターだと思って押し通していたところもありますから、けっして自信があったわけじゃないし。のびのびというか、めちゃくちゃで。開き直って作っていたとこが多いんです」(8)
「意図っていうのは、ノヴェルティ・ソングなんですよ。決してラヴソングでもないし、何かをメッセージするわけでもない。ノヴェルティ・ソングというのはどうやって訳せばいいかわからないけど、そういうジャンルがあるんです。冗談音楽もその中の一つだし。昔はトニー谷とかそういう人たちがいっぱいいたけど、その後日本にはなくなっちゃったものなんです」(31)
「冗 談音楽を作る気はない。ただそういうジャンルは好きなんです。ノヴェルティ・ソングというのは冗談だけじゃなくて、カリプソなんかがそうですけど、ティピ カル・ソングというのもあるし。そういうものに、僕はいきいきしたものを感じていたんです。そこにはもちろんユーモアもあるし、皮肉もある。音楽の中でま だ歌われてないことがあるはずだと思っていたし、『ラヴソングだけじゃないだろ?』という気持ちは強かったですね。だから、ラヴソングを書くつもりは全く なかった。ちょっと甘ったるいものを書いたことはあるんだけど、後悔する(笑)。でもそれが日本ではウケちゃうんです。そうすると、『やっぱりな、簡単す ぎる』と思う」(31)
「はっぴいえんどはある程度客観的に参加できたけど、こっちのは自分の個性が剥き出しだから、自分では楽しくはないですよね。これは等身大ですから」(4)
「プロデュースみたいな真似事はできなかった。ですから、寝起きの顔を鏡でみているようなヤな感じですよね。若気の至りというか」(4)
「とにかく、自分の音楽を作るということを始めて、模倣じゃないところへ行こう行こうとした」(9)
「まだ、自分の新しい音楽が固まっていない時期のもの」(1)
「作品とは思えないわけよね。頭で創ったものじゃあないから。何かもっと、恥ずかしいものだね。作品として客観的に見れるものじゃないから。習作の時代だから」(6)
「全 部自分の曲で自分が歌っているわけだから、はじめてのプロデュースってことになるんだろうけど、自分の中では、トータルに自分の作品を作るっていう感じは あっても、プロデュースという意識はなかった。それより、シンガー・ソングライター・ミュージシャンという感じだったね」(3)
「か たや、リトル・フィートとヴァン・ダイクの影響が抽象的に入り込んできてて、内面的に侵食していた。肉体的にはリズム&ブルースのほうに表現方向をもって いこうという志向があった。しかも、自分の声はジェイムス・テイラーに影響されているという状態で、非常に分裂しているわけです」(8)
「演奏家の自分と、シンガー・ソングライターとしての自分が、僕の中で分裂していたんです。切り替えが必要だったと思うんです」(4)
「R&Bをやろうとは思ってないんです。あれは演奏家の部分でね。16ビートは好きだったけど、いざ歌うことを考えると、『僕はソウル・シンガーにはなれない』って思ってたから」(4)
「根はカントリー・シンガーなんです」(4)
「どちらかっていうと音楽が全面に出てるよね。音楽至上主義」(6)
「音に対するコンセプトは強かったんだ。そういう意味ではプロデュースしてたんだろうね」(3)
「『HOSONO HOUSE』には、他と似た音楽もあるかもしれないけれど、それだけではないなと思います」(9)
「自 分の音っていう意識を持ってる人は、あのころ少なくてね。たいてい何とか風だったり、他人にまかせちゃっていた。ぼくらは、そうじゃないってところに自信 を持っていたから、こういうところはこうやるんだとか、具体的な細かいところを意識していたんだ。音も、重ねていって、特別なコクを出そうとしたりね」(3)
「そういった意識が続いていたんだ。それがグンと強まったのは、やっぱりヴァン・ダイク・パークスのプロデュースを目のあたりにしてからなんだけどね」(3)
「カリフォルニアっぽくはない。全然トロピカルのムードはないよね」(4)
「ザ・バンドの『ビッグ・ピンク』は、本当によく聴いたレコードでしたね。当時、みんな一斉に聴いていた。でもそういう完成されたスタイルでやることは、不可能だったんです」(8)
「自分の中から出せるものしかできないと思っていました」(4)
「若いせいか、ああいう落ち着いたサウンドができなかった。枯れたサウンドというのが一番むずかしいんですよ。若かったんですよ。二十四、五。僕がそのぐらいだから、みんなもっと若かった」(8)
「ただ、方向性はそういったものを目指していたことはたしかです」(8)
「レコーディングに入る前は、ソロ・アルバムといってもバンドの音と同じになるんじゃないかと心配していました。」(1)
「メンバーが集まってみんなで音楽を作っていくところは、まるでバンドのスタイルなんで。たまたま僕が自分で作って歌っているだけで」(4)
「つくっていく過程では、たしかに4人の力が寄り集まり、その相乗効果みたいなものが表われはしました。」(1)
「しかし、出来上がりはバンドで出している音とは違う味のものになった」(1)
「キャラメル・ママのアルバムではなく、あくまでボクのソロ・アルバム。だから最終的にはボクのワンマン・アルバムと言えるでしょう。」(1)
「ある意味で、はっぴいえんどへの未練を残しながらも訣別を表したものになったが、同時に次に行くための僕の道標となった。」(32)
「なんか変わりつつある自分のプロセスみたいなものがレコードになった気がするのです。」(1)

ろっかばいまいべいびい
「この録音は完全に1人だよ。スタジオでは録れない音。スタジオでは絶対にこうしてはいけないという音なんだ」(5)
「この頃は、一般的に70年代に流れていた音楽がどんどんつまらなくなってきちゃったというのがあるな。それで、ジェイムス・テイラー、ヴァン・ダイク・パークス、トム・ラッシュ、ゴードン・ライトフットジョン・ハートフォード……そんなのばっかり聴いていた。そしてさらには、はっぴいえんどからここに至るまでには、すっかりハリウッド漬けになってたんだ」(5)
「シッ クスティーズ、フィフティーズを通り越してね。まずは原体験のSP盤でよく聴いていたようなハリウッド物をまた聴き出したんです。ハリウッド物といっ ちゃっていいのかどうか、厳密にいえば一九三〇年代のダンス・ミュージックとかポピュラー・ソングを集めていたんです。ディスク・ユニオンなんかに行く と、むかしは店先の新譜のコーナーに通ってたんだけど、そこを素通りして一番奥のヴィンテージ・コーナーにしか行かなくなっちゃった(笑)」(8)
「とにかく古けりゃなんでもよかったな」(5)
「とりつかれたようにその世界に入り込んでいたんです」(8)
「当時、深夜のテレビが活発になりはじめたころで」(8)
「見ている人だけ見ていればいいやというようないいかげんな編成でね。そこで名作映画がずらっと放映されて、全部吹替えだったんですけど、フレッド・アステアの映画を全部やったり、ジーン・ケリーのを全部やったり。あるいは名もないハリウッド・ソープ・オペラをやっていたり、ハンフリー・ボガード物をやっていたり」(8)
「そ ういうのを見て、あのころのサウンドにずいぶん惹かれてね。当時の頭の中には、だからリトル・フィート、ヴァン・ダイク・パークス、『ビッグ・ピンク』、 日本語、狭山の生活、それから16ビートのリズム&ブルースがひしめいている。でも、基本的な趣味というのは、非常にハリウッド的な音楽の使い方ですね。 それは、ヴァン・ダイク・パークスの『ディスカヴァー・アメリカ』の音楽のアプローチの仕方にも通じていた。そのころそれは、どうやって作っていいかわか らない謎の音楽で、まだ明確には何をやっていいかわからないけど、無性に好きだったんですね」(8)
「そうしたものを聴いていたのは『ろっかばいまいべいびい』を作るためだったのかもしれないな」(5)

僕は一寸
「日本語のロックがどうのこうのという騒ぎの中心になった"はっぴい"も過去の事となったし、少し静かにしていたいという思いを込めて『僕はだまるつもりです』と唄った」(32)
「だいたいそういうことを音楽でそのころはよくいっていたんだな、僕は」(8)

CHOO CHOO ガタゴト
「バンドは疲れる、もうやだよと(笑)」(33)
「イメージで作っていったものでね。メッセージじゃない」(4)
「東海道線ですね。在来線のイメージ」(8)
「ツアーを題材に歌っていいんだということを教えてくれたのは、ポール・サイモンですね。『早く家に帰りたい』という曲があった。トレイン・ソングでは、『ナイト・トレイン』というジャズを聴いていましたし、プレスリーの『GIブルース』の中の『フランクフルト・スペシャル』とかもありますね」(8)
「リトル・フィートの例の垣間見たセッションの曲が『トゥー・トレインズ』で。その曲のニュアンスが非常に強いですね、『CHOO CHOO ガタゴト』は。かなりダイレクトな影響かもしれません」(8)

福は内 鬼は外
「俳句を作る人が、行ってもいないところの景色を描くのと同じで、たまたま語呂合わせがうまくいっちゃった曲なんです。何も考えないで作ったんです」(8)
「そのころは、ほんと、無意識でやっていたんです。リトル・フィートの衝撃がまだ尾を引いていたころで、バンドのサウンドでやるという考え方が支配的だったから、とにかくその場でアレンジしたバンドのサウンドにすれば事は解決したんです」(8)

住所不定無職低収入
「へんな歌だ(笑)」(8)
「潜在意識で出てきたような言葉を何の考えもなく使っていたんだと思う。当時は作品を作ろうということじゃなくて、何かとにかくやっちゃえという感じですね」(8)

恋は桃色
「僕はひとつ歌詞をまちがえて歌ってるんだよね」(4)
「『夜をつたって』と言ってるつもりが、『夜をつかって』と言っていて、歌詞カードもそうなってる」(4)

薔薇と野獣
「これはかなりソウル・ミュージック仕立てですね」(8)
マーヴィン・ゲイのカーンという音を聴いて、みんな使っていたんです。マーヴィン・ゲイが最初なんです」(8)
「ダブル・ヴォーカルというのは歌の下手な人の常套手段だったから(笑)」(4)
「耽美的な言葉がわりあい多い」(8)
「珍しいですよね」(8)
「なぜそのときにそれを使ったのか。すべてはね、僕の晩年に解決すると思っているんですけど(笑)」(8)
「わからないんです。天使が降りてきて、後ろから肩を叩くんですよね、チョッチョッて。どういうイメージを抱いていたんだろう(笑)」(8)
「カントリーにずっと浸って東京を離れて暮らしてるうちに、東京が懐かしくなってきて、帰りたいなと思っている歌ですね」(8)
「家 のそばが丘になっていて、いつも山に圧迫されている感じがしたんですね。狭山に長くいるうちに、幻想の世界に住んでいるというのがだんだんわかってきたん です。つまり、ヒッピー・ブームの中で、音楽的なブームとしてカントリーに移行していって、なんかわからないままコミューンみたいのを作ってね、現実には あり得ないようなアメリカ村みたいなとこに住んで、まわりにはミュージシャンとかアーティストが住んで、ニュー・ファミリーみたいのを結成したりしてね、 ほんわかした中で生活していたのが、だんだん崩壊しつつあったんですね。そういう不安感というのはありました。もう一度現実に戻って、都会に戻らなきゃい けないというのは」(8)
「あの当時のぼくなん かの生活を、一種のカントリー志向っていうふうによく言われたけど、やっぱりそれは、ぼくにとってはある種の精神的な安らぎへの逃避だったのね。だから、 ぼくは狭山の家に閉じこもりながらも、いつも東京を見てたの。で、いつかは絶対に東京に帰る、帰らなきゃいけないと思ってたんだ」(7)
「ぼくにとっては、自分が住んでいた狭山の家もそうだったけど、やっぱり東京っていうのも"HOME"だったんだよ」(7)
「『薔薇と野獣』っていうのは、そういう歌だったの。いつも都市の影が見えてるっていう」(7)

相合傘
「(編注:はっぴいえんどでロサンゼルスへ)行く前に作ったものかな。あまりに音が悪いんで録り直すつもりかなにかで」(4)
「せっかく作ってあったのに、これをまるまる入れるにはいい加減な作りだったんで」(4)

林立夫の証言
「僕が例えば(編 注:オスカー)ピーターソンを見て、ビートルズを聴いてしびれて、色んなものに影響を受けてきて、茂は茂でベンチャーズなどにも影響を受けて、そういうの が集まってひと固まりになって、ザ・バンドの『ビッグ・ピンク』みたいなひとつの在り方みたいな冠にパカッとはまったんだよね。あの『hosono house』は」(34)
「演奏の精度より雰 囲気っていうんだったんだ、やっている音楽の細かい部分は、そのザ・バンドなんかとアプローチは全然違っていて。あれじっくり聴いてみるとすごくジャズ的 だったり、ラテン的な要素が入っていたり、そうかと思うとすごく牧歌調だったり…。だから、あの『hosono house』はその後のキャラメル・ママやティンパンアレイがやろうとしていたことの全てのエッセンスが入っていたんじゃないかなあ、と」(34)

吉野金次の証言
「細野さんは、『薔薇と野獣』が気に入っているといっていたっけ。」(1)
 ろっかばいまいべいびい
「細 野さんが手持ちのオープン・リールで1人で作ったデモ・テープのバージョンをそのまま使ってるんですよ。録り直したと思うんだけどああいう感じで録れなく て、SN比や音質は悪いんだけど絶対こっちのバージョンの方がいいってぼくが譲らなかったんです。それにFAIRCHILDのリミッターを大量にかけまし た。この曲はトータルにリミッターがかかってるんでより強烈な雰囲気になってますね」(5)

石浦信三の証言
「細野さんにとっては最初のソロ・アルバムで、これもまた一筋縄ではいかないことがいろいろありましたね。はっぴいえんどの音楽というのは、松本の詞というのが骨格にあったわけでしょ。『HOSONO HOUSE』には、その松本の詞がない。細野さんはびびっていましてね。こんな詞でいいのかと悩んじゃう。文学じゃない、歌なんだからいいのって励ますわけだけど、そう簡単に割り切れるものでもない」(11)
「そこをくぐりぬけて『HOSONO HOUSE』はできたわけです」(11)

野上眞宏の証言
「シンプルにしようって、細野君の顔のアップの写真でということになった。表は地味にして、裏側はピンクにするっていう案もあったんだけど、結局、黒になったんだよね」(21)


1973 トリオ・レコードと風都市が設立したレコード・レーベルをショーボートと命名。

前島洋児の証言
「ショーボートの名付け親は細野晴臣なんです」(11)

石浦信三の証言
「名前を決める段階から大変だった。『ショーボート』という名前は蒲田のキャバレーが商標権を持ってる、だから行って頭下げてこいということになる。頭下げるだけじゃなくて、お金も包んで渡すことになる。40万か50万払ったのかな。もちろんトリオのお金でね」(11)
「吉田美奈子と南佳孝のアルバムでスタートした」(11)


1973 キャラメル・ママ、吉田美奈子のレコーディング。目黒/モウリ・スタジオ。

「キャラメル・ママの夢は、マッスルショールズみたいに、スタジオ・ワークをまとまったリズム・セクションでやろうということだった」(11)
「その最初の仕事が吉田美奈子のファースト・アルバム。ぼくがプロデュースをやった。アレンジも、セッションでやったんだ。その場でね。何の心配もせずに、スタジオでセッションをやって音を創っていった」(3)
「ずいぶん時間がかかった。自分がミュージシャンで、仲間もミュージシャンで、その中でアレンジやリズム・セクションのよさで音楽制作するのがぼくにとってはプロデュースということだった。そこから先のことは当時はわかっていなかった」(11)

吉田美奈子の証言
「アレンジは私がやりました」(35)
「ひとりでやっていれば自分のテンポで出来るんだけど、バックを入れると合わせるのが大変! "綱渡り"の曲は大変だったわ」(35)

松任谷正隆の証言
「どっぷり暗い風都市の音」(11)
「彼女が作りたいものがはっきりあって、形が決まっていた」(11)

石浦信三の証言
「合宿練習のときは一緒でも、実際には歌入れの部分とバンドの部分をばらばらにやってる」(11)


1973/06 『ミュージック・ライフ』7月号(新興楽譜出版)発売。
インタビュー/人間探訪

1973/06 南佳孝のレコーディング。目黒/モウリ・スタジオ。

南佳孝の証言
「目黒のモウリ・スタジオっ ていうでっかいスタジオで録ったんだけど、ベースが細野さん、ドラムが林立夫、ギターが鈴木茂、キーボードが矢野誠さん、その4リズムが基本でしたね。あ とクジラ(武川雅寛)とか駒こ(駒沢裕城)とか。アレンジはほとんど矢野さんに丸投げっぽかったんじゃないかな」(11)


1973/06 井上陽水のレコーディング。

1973 キャラメル・ママ、荒井由実バッキングのリハーサル。新宿/ヤマハ。

松任谷由実の証言
「細野さんは、まだ子供 のわたしが六本木に遊びに行っていたころからなんとなく知ってくれてて、ちょっとシニアな感じだったけど、他のメンバーはもう少し若かったわね。それまで に鈴木茂さんとはアルファのCMの仕事で一緒になったことがあったし、ミッチ(林立夫)も顔見知りだった。面識のなかった正隆さんがわたしとコミュニケー ションをとってくれることになって、正隆さんもわたしもキーボード奏者だから、第一声で『ぼくに何かやることあるんですか』と言われて、『あのー、下手で すからよろしくお願いします』とあいさつしたのを覚えてるわ」(11)
「新 宿西口のビルの中にあったヤマハのスタジオでリハーサルしたの。5人で車座にすわって、弾き語りのデモ・テープをもとにヘッド・アレンジしていった。何小 節目から入るとか、簡単に打ち合わせして、何度か演奏して決めていった。そのころのわたしはブリティッシュぶりっ子だったから、最初は音の取り方がちがう 気がしたけど、だんだん、自分の声と合わせるのは、こういうサウンドかもしれないと思うようになった」(11)

松任谷正隆の証言
「キーボードを弾く女性がいるわけだから、スタジオに行ったら『クビです』と言われるのかと思ってた」(11)
「『ヘアー』とか川添(象郎)さんの流れから来ていて、それまで接したことのない世界だった。曲はすでにあったから、キャラメル・ママはアレンジ・バンドみたいなつきあいだった」(11)
「吉 田美奈子のデビュー・アルバム『扉の冬』と同時進行だったんだけど、メンバー間にはいろんな意識があったと思う。二つのプロジェクトをお金のためと言って た者もいたし。だけどやっていくうちに、こういうマッスル・ショールズみたいなスタンスで、バンドを正当化できそうな、そんなイメージが芽生えていたんだ と思うな」(20)

石浦信三の証言
「その当時の小中学生のエレクトーン教室のようなところを借り切って、十何日も練習しながら作った」(11)

有賀恒夫の証言
「細野さんとか、松任谷さんとかね、ユーミンと一緒にいきなり練習場に入ってですね、練習しながら作っていくと」(22)
「コード譜をみんなに配って、それでみんな自分の発想で、じゃあイントロこういうふうにしようとかなんとかって話し合いで作っていく形をいわゆるヘッド・アレンジっていうふうに僕たちは呼んでますけども」(22)


<出典>
(1)『ベルウッド』No.4 ベルウッド・レコード/1973年
(2)『ニューミュージック・マガジン』6月号 ニューミュージック・マガジン社/1973年
(3)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(4)CD 細野晴臣『HOSONO HOUSE』ブックレット キング・レコード/2005年
(5)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(6)『リメンバー』VOL.16 SFC音楽出版/1987年
(7)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(8)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(9)細野晴臣&東京シャイネス『東京シャイネス』公演パンフレット ミディアム, チェス/2005年
(10)『ニューミュージック・マガジン』10月号 ニューミュージック・マガジン社/1976年
(11)北中正和責任編集『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 音楽出版社/2004年
(12)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(13)『Switch』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(14)CD『はっぴいえんどBOX』同梱ブックレット プライム・ディレクション/2004年
(15)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(16)NHK-FM『細野晴臣2001年音楽の旅』 2001年1月2日
(17)『ミュージック・ライフ』7月号 新興楽譜出版/1973年
(18)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(19)『レコードコレクターズ』4月号 ミュージックマガジン/2005年
(20)『ロック画報』14 ブルース・インターアクションズ/2003年
(21)野上眞宏写真集『HAPPY II  SNAPSHOT DIARY:1970-1973』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(22)BSフジ『Hit Song Makers』 2005年2月18日
(23)CD 村井邦彦『COMPOSITIONS』同梱ブックレット FOAレコード/2005年
(24)『新譜ジャーナル』号数不明 自由国民社/1973年
(25)南正人『キープ・オン!南正人 1965/2005』 マガジン・ファイブ/2005年
(26)NHK教育『土曜ソリトン Side-B』 1995年12月16日
(27)映画『PROPAGANDA』パンフレット ヨロシタミュージック/1984年
(28)矢野顕子ツアー '87 パンフレット『UNQUESTIONABLY AKIKO YANO 1976-1987』 やのミュージック/1987年
(29)CD 矢野顕子『ひとつだけ』同梱ブックレット エピック・ソニー/1996年
(30)『モンド・ミュージック 2001』 アスペクト/1999年
(31)『ユリイカ 詩と批評』9月号 青土社/2004年
(32)『ライトミュージック』8月号 ヤマハ音楽振興会/1975年
(33)『プレイヤー』12月号 プレイヤー・コーポレーション/1999年
(34)『音芸人』第参回 ペット・サウンズ・レコード/2005年
(35)『ヤング・ギター』10月号 新興楽譜出版/1973年
update:2016/11/24

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