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chronology 1972 - 2


1972/07/01 はっぴいえんど、福岡でライヴ。
はっぴいえんど
 曲目不明
大瀧詠一の証言
「何だかんだといいながら、まあ、もうこの辺でやめる事決まり始めてたんじゃないのかな。決まり始めてて、最後にじゃあ、ツアーやって、最後のあれで稼ごうみたいな事だったように思うよ。最後のツアーを入れようみたいなところで、この7月、8月を目一杯忙しくやって」(1)

1972/07/02 13:00 はっぴいえんど、『牛にひかれて善光寺参りのコンサート』出演。長野市民会館。
出演:あがた森魚、山平和彦、蜂蜜ぱい、中川五郎

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/07/05 大瀧詠一のレコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
乱れ髪

1972/07/06 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1972/07/07 はっぴいえんど、文化放送主催『花のフォークタウン・コンサート』出演。渋谷公会堂。
はっぴいえんど
 曲目不明

高田渡 高田渡(g, vo)、松本隆(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、大瀧詠一(g)
 曲目不明

野上眞宏の証言
「高田渡とのセッションもあった。」(2)

※編注:この日のリハーサルの様子と楽屋でのスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


1972/07/08 はっぴいえんど、京都/同志社大学学園祭に出演。京都/同志社大学。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/07/10 大瀧詠一のレコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
あつさのせい
大瀧詠一の証言
「この『あつさのせい』でのメンバーを考えてみますと、細野晴臣・鈴木茂・林立夫・松任谷正隆と、これは後の『HOSONO HOUSE』(73)で登場する<キャラメル・ママ>が、72年のこの曲で実現していたことに驚きました。」(3)

1972 はっぴいえんどの解散話が出る。目黒/モウリスタジオ。

鈴木茂の証言
「いきなり、『もうやってけないから』っていう風に、誰だったか忘れちゃったけど言われて」(1)
「モウリスタジオで」(1)
「僕はもう全くね、その時は予測してなかったんですよ。だから、まだまだやるもんだと思っていたし、バンド自体が」(1)
「非常にショックでしたよね、その話が最初に出た時」(1)


1972 はっぴいえんど、石浦信三を交えてミーティング。解散が決まる。目黒/モウリスタジオ。

「結局みんな僕がリーダーだと思ってたんで、僕が何考えてるかを尊重してくれてたんだと思うんですけど。僕は解散を決心してたんですね。ですから、みんなが何を考えているかということに気を使わなかったんです、殆ど」(1)
「他のメンバーはまだ未練があるみたいだったし、そういう意味では衝動的でわがままな解散だったワケです」(4)
「3人の葛藤っていうのは、これはあったと思うんですけどね。かたやソロ、かたやプレイヤー、かたや作詞家っていうね、そういう3人だったんです。そこでまあ方向性が、明確になってきたんです。ですから、3人の中で又何かやろうとか、そういう事じゃなくてですね」(1)
「当初の目的を短期間で果たしちゃったわけですからね」(1)

鈴木茂の証言
「大滝さんのソロアルバムのもう終りかけの辺りでそのスタジオに全員集まって、『もうやめよう』って」(1)

松本隆の証言
「僕が怒って家に帰った日があるよ(笑)。イスをけとばして。それはアメリカ行くずっと前だよね」(1)
「それはミーティング。4人と石浦で、5人。ただ、時間の問題だったんだけどね」(1)
「解散っていうのは、大滝さんと細野さんで決めちゃったから」(1)
「とりあえず僕は、こうなったからって、ある日言われて、茂と」(1)
「全員プロデューサーになろうと言って、プロデューサーの集団として発展解消しようと」(5)

大瀧詠一の証言
「松本がえらい勢いで、おー、それなら解散してやろうって、席をバーンって立ったのだけは覚えてる」(1)
「松本は、まだ、やる気でいたんだと思うんだよね」(1)

前島洋児の証言
「ぼくが風都市に参加したときには、はっぴいえんどがバラバラになって、石浦信三もやる気があまりなくて、もう 解散するしかないね、って言ってて……ある意味分解しかかっていた時期だと思うんですよ。それで、とりあえずいろいろ話をしてみようというんで小1年くら い……ちょうどアメリカ録音に行く前から話始めたんだけれども、結局、続けていくメリットをぼくらもあまり感じなかった、メンバーと話してるなかでね。商 売だけ考えていけば、アルバムを出せばそれなりの評価は得られただろうし、商売として成立したと思うけれど、基本的にやりたくない人たちに無理やりそうい う汗をかかせたって仕方ないって気がしました」(6)
「その頃はだってもう、メンバー一緒に話できないわけですよ(笑)。だから個々に大滝だ、細野だ、茂だ、松本だって話を進めていく。それぞれ自分のやりたいことというか、新たなものが、バンド活動していく中で見えてきてたんじゃないかな」(6)


1972/07/14 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/07/18 はっぴいえんど、ミーティング。

1972/07/19 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1972/07/22 はっぴいえんど、仙台/電力ホールに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/07/23 はっぴいえんど、名古屋/愛知文化講堂に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/07/25 小坂忠 & FOUR JOE HALF『もっともっと』発売。
ありがとう:acousutic guitar, vocal
春が来た:acoustic guitar, vocal

1972/07/25 いとうたかお「あしたはきっと/かたつむり」発売。
あしたはきっと:bass

1972/07/25 はっぴいえんど、リハーサル。四谷スタジオ。

1972/07/26 はっぴいえんど、『コンサート・コンサート#2』出演。芝/郵便貯金ホール。
出演:かまやつひろし、加藤和彦

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(b, g, mdl, vo)、鈴木茂(g, vo)、林立夫(ds)、後藤次利(b)、松任谷正隆(kbd)、
駒沢裕城(st.g)、小坂忠(vo)、吉田美奈子(vo)
 花いちもんめ

 暗闇坂むささび変化
 夏なんです
 風をあつめて
 他

遠藤賢司 遠藤賢司(g, vo)、松本隆(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、大瀧詠一(g)
 曲目不明

野上眞宏の証言
「この日、はっぴいえんどは小坂忠とフォージョーハーフと共演した。」(7)
「はっぴいえんどに小坂忠らが加わり、珍しいツードラムでの楽しい演奏だった。」(2)
「細野晴臣、大滝詠一、小坂忠、吉田美奈子が歌いながら踊ってみせる楽しいステージだった。」(7)

1972/07/28 大瀧詠一の結婚式に出席。

1972/07/29 はっぴいえんど、NET『土曜ショー』に生出演。
はっぴいえんど
 夏なんです

1972/07/29 はっぴいえんど、文化放送主催『晴海ハルミナ』出演。会場で文化放送放出品の輸入シングル・レコードを買い漁る。
はっぴいえんど
 曲目不明
「ぜんぜん憶えてない。放出品の、シングルだけを憶えてる」(8)
「10円だから」(8)

大瀧詠一の証言
「晴海のあの、文化放送のあのーイベント。生かなんか。落合恵子が、司会してたんです」(8)
「外盤、のシングル盤が10円、で売ってあるんですよ」(8)
「あとで、あのー言われたんですけどその時にどうして全部買うっていう風に言わなかったのか。それはやはり、財布の状況、ですね」(8)
「ただしね、その前に、『あっ、これはみんなに知らせなきゃ』って思ったんですよ、事実」(8)
「みんなあの、ばらばらに泣き別れしたんですよ。『ダ・ドゥ・ロン・ロン』が細野さんとこ行くとかね、『ヒーズ・ア・レベル』が僕んとこ来るとか」(8)
「でー松本くんところへタムラ・モータウンが行くとか」(8)
「そういうようなあのー、全員なんか泣き別れしたんですよねぇ」(8)


1972/07/30 はっぴいえんど、静岡県/沼津市公会堂に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/07/31 はっぴいえんど、『白樺湖高原音楽祭』出演。長野県/白樺高原。
出演:高田渡、モップス 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/08/01 はっぴいえんど、『痴物狂コンサート』出演。八王子市民会館。
出演:あがた森魚

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/08/04 はっぴいえんど、福岡県/小倉市民会館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/08/05 15:30 はっぴいえんど、20世紀FUCKS社 & SOON!主催『大震祭Vol.3』出演。長崎市公会堂。S00N!の長門芳郎と出会う。
出演:布谷文夫、精神発見同盟、アゼリア、NJC、スコーピオン、シーホース、いとうたかお

はっぴいえんど
 花いちもんめ
 かくれんぼ
 どろんこまつり
 それはぼくじゃないよ
 夏なんです
 ちぎれ雲
 春らんまん
 はいからはくち
 びんぼう

「長崎行ったっけ、はっぴいえんど」(9)
「いろいろ行ったから忘れちゃった」(9)

長門芳郎の証言
「長崎、僕は実家なんですけど」(9)
「ぼくは大学飛び出て東京と長崎を行ったり来たりしてた」(6)
「ミニコミ作ったり、コンサート主催したり。で、そん時に、はっぴいえんどを、やりたいと」(9)
「はっぴいえんどはとにかくやりたかった。はっぴいえんどと、布谷文夫と矢野(編注:誠。長門の知り合いで、こ の日は布谷文夫のバックでピアノを弾いた)さんと、いとうたかお。初めてプロを呼ぶんで、ぼくらまったく素人だけど、ちゃんとチケットもチラシもポスター もつくって。その時に初めて大滝さんとか細野さんとかに会った」(10)
「この時にはっぴいえんどのマネジャーで(前島)洋児さんが来たのかな」(6)

※編注:この日の演奏の模様は、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 7(プライム・ディレクション/2004年)に全曲収録されている。


1972/08/05 夜 はっぴいえんど、『大震祭Vol.3』終演後、長門芳郎の運転で博多に移動。

長門芳郎の証言
「翌日が能古島のコンサートだったんで、免許とりたての1週間くらいだったんだけど」(6)
「メンバーには言わずに」(9)
「はっぴいのメンバー乗せて博多まで行った」(6)
「そのときに松本さんや細野さんと音楽の話をしたけど、まさか後で一緒に仕事するとは思わなかったね」(6)


1972/08/06 はっぴいえんど、『ノコの島民芸博覧会』出演。博多/能古島。
出演:小坂忠&フォー・ジョー・ハーフ、頭脳警察、高田渡、ディランII、友部正人、遠藤賢司、井上陽水 他

はっぴいえんど
 曲目不明

松任谷正隆の証言
「出番が終わってぶらぶらしていたら、はっぴいえんどのメンバーが牛車に揺られて真っ青な顔をしてやって来た」(6)

※編注:『ノコの島民芸博覧会』は、8月5日の16:00から6日の20:00まで、オールナイトで行われたイベント。


1972/08/11 はっぴいえんど、心斎橋/ヤマハに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/08/12 はっぴいえんど、関西テレビに出演。

1972/08/15 はっぴいえんど、熊本でライヴ。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/08/17 はっぴいえんど、静岡/駿府会館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/08 はっぴいえんど、盛岡/岩手放送に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明
大瀧詠一の証言
「この時にねぇ、アンコールとかっていう時に、『空飛ぶくじら』やれって言われた時には、何か俺はちょっと、惨 たんたる思いがしたね。『空飛ぶくじら』は、ただ大滝詠一ってやるんじゃなくて、ジャケットの横にはっぴいえんどが書かれて、はっぴいえんどの大滝詠一が 歌う『空飛ぶくじら』みたいなスポットだった気がする」(1)
「みんなにね、これは何か、まずい事しちゃったなあ、みたいな感じだったよね」(1)

※編注:大瀧詠一の記憶では、岩手放送へのはっぴいえんどの出演は8月20日となっている。


1972/08/20 10:00 はっぴいえんど、『ジョイパーク野外コンサート』出演。浜松/ジョイパーク四ツ池内ゴルフ場。
出演:はちみつぱい、小坂忠、頭脳警察、フラワー・トラヴェリン・バンド、エム、エディ藩、スピード・グルー&シンキ、友部正人 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/08/24 はっぴいえんど、FM東京の番組に出演。

1972/08/25 布谷文夫「からのベッドのブルース/台風」発売。
からのベッドのブルース:wood bass

1972/08/25 はっぴいえんど、名古屋勤労会館に出演。
はっぴいえんど
 ちぎれ雲
 抱きしめたい
 はいからはくち
 他
※編注:この日の演奏の一部は、CD『風街図鑑』Disc 7と『はっぴいえんどBOX』Disc 7(プライム・ディレクション/2004年)に収録されている。

1972/08 狭山/ジョンソン基地の『Country Night』に行く。美沙子夫人、野上眞宏、WORKSHOP MU!!の面々などが同行。

野上眞宏の証言
「横田基地の『Black Awareness Party』同様、狭山のジョンソン基地で『Country Party』という催しがあった。ハリウッド映画の中の田舎町でよくある移動カーニヴァルのような雰囲気だった。」(2)
「アメリカ版の夏祭り。この特別な日を、大人も子供も楽しんでいた。」(2)

※この日のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる他、大瀧詠一のアルバム『大瀧詠一』(ベルウッド/1972年)のインナー・スリーブにも採用されている。


1972/08/29 はっぴいえんど、大阪厚生年金会館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/08/30 はっぴいえんど、徳島文化センターに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明
大瀧詠一の証言
「これが実質の最後ですよ。いわゆるツアーリングの」(1)
「ああ、これが最後なんだなあ。みたいな感じでやってたよね」(1)
「要するに、みんな暗黙のうちに終わってたはずなんだよ。これで最後なんだって、確か。暗黙の了解があったように思うけどなあ」(1)

1972/09/04 はっぴいえんど、ニッポン放送の番組に出演。

1972 旅行に行くはずだったアメリカ/ロサンゼルスでの、はっぴいえんどのレコーディングが決まる。

「10月の何日かあけといてくれって言うからあけといたら、それがアメリカ行きで」(11)
「だんだん話がふくらんで、どうせ行くならってわけでレコーディングすることになっちゃった。(笑)」(11)
「うれしいですよね。もう、初めてですからね、レコーディングも嬉しいし」(1)
「まあオマケって気持ちはありました。それから先に、つなげていく様な、だいそれたものを作る気は無かったです。バンドとしてこう、カチッとしたものではないんだ、という事です。ま、それは、ソロの寄せ集めになるんじゃないかと思ってました」(1)
「もしも、東京でレコーディングっていう話だったら、もうぼくには考えられなかったの。はっぴいえんどの3枚目っていうのは、もう考えられなかったから」(12)
「だけど、ロサンゼルスということであれば、4人の気持ちがその時点ではひとつになれるから。なにしろ、ロサンゼルスはバッファロー・スプリングフィールドのいたところだからね。それならできるなと思って」(12)
「我々が行く前に、既にイーストがキャピトルで、五輪真弓がクリスタル・スタジオで豪勢な録音をしていたので、それなら僕たちはジム・メッシーナさんにプロデュースしてもらおう...ということだったのですが、残念なことに彼はスケジュール上不可能になってしまった。」(13)

大瀧詠一の証言
「みんな行くんだったら、ただの観光より録音でもしましょうかってなって」(1)
「本当に付属的みたいなかんじだったから。私としては、もうまるっきり、スケジュール的にいうと、レコーディングなんてもう眼中にないかんじだからね。ソロが1枚できあがってすぐだもの」(1)
「出し尽くしてたから、曲がない。実は乗り気じゃなかったんだけれど。でも、まあレコード買いに行けるし、みたいな(笑)。行きゃあなんとかなるんじゃないかなって思って」(14)

鈴木茂の証言
「やめようって言ったそのすぐあとに、でも最後にアルバムを1枚作ろう、それはベルウッドでって」(1)
「僕としては非常にもう醒めた状態で、とにかくアメリカで楽しみたいんだっていうのが半分くらいあって」(1)

松本隆の証言
「アメリカへははっきり言って行きたくなかった。もう解散決まってるのに、アルバム出してもしょうがないって言ってね、僕は反対した方なんだよ。でも、他の3人が行きたいって言うんで」(1)
「それだったら、詞は自分で書いてねと言って」(15)
「今回ぼくはドラムだけ叩く、と。だから詞はそれぞれ自分たちで書いてくれって」(16)
「ソロアルバムのつけ合わせでいいじゃないかって言ってね。ぼくは詞書きたくないからって」(1)

三浦光紀の証言
「観光旅行で何で行かなきゃならないの(笑)、解散してるのに」(1)
「僕は『風街』終わって、大滝くんのソロやってる最中にも、最後のはっぴいえんどアルバム作ろうと準備はしてたと思うんですよね」(1)
「『風街』終わってからね、だからもうソロ活動するって思ってたから、現に大滝くんのレコーディングが始まって るわけだから、当然僕はソロになるだろうと思ったんだけど、一人一人アメリカ連れてくわけに行かないんで、僕は最後のアルバムを作るっていう形でね、アメ リカへ連れて行くんなら会社も説得できるし、それで向こうで全員が勉強して、それで帰ってきたらそれぞれのソロ活動に生かしてくような形になると思うか ら」(1)
「その頃向こうでレコーディングしてるグループってなかったと思うんですよね。だから、僕は何としてでもはっぴ いえんどに関しては、向こうでレコーディングさせたいと思ってたから、それで解散したにもかかわらず、精神的にはバラバラになってたんだけど、もう、とに かく最後にアメリカでやりたいんで、最後のアルバムってことでやらないかって事で僕は、メンバーじゃなくて石浦君か岩井さんかどっちか忘れたけど、誰かに 言ったんだと思うんです」(1)
「それで、メンバー説得できないから遊びに行くって言ったかどうか、そこから先は僕、わかんないんだけど(笑)」(1)
「アメリカでないと、まとまって仕事しないと、僕は思った。日本でもう、一緒にやろうって言っても、できないと思ったから」(1)
「会社で反対されたとき、経費は国内でやるのと変わらないと説得して」(6)

山本隆士の証言
「僕は『ヤング・ギター』(シンコー・ミュージック)の編集長だったんだけど、キング・レコードの三浦さんとは 仲が良くて。彼から、すでに解散することが決まっていたはっぴいえんどの最後のアルバムをアメリカでレコーディングしたいからそのコーディネイターをやっ てもらえないか、と相談されたんだ。僕は68年に初めてアメリカに行ってて、向こうの音楽事情みたいなこともある程度判っていたし、僕の知り合いやシン コーのコネクションを使えば何とか出来るかなと思って、それで引き受けたんだよ」(17)
「メンバーのパスポート写真撮りからレコーディング現場まで、コーディネイターのような立場でぜんぶつきあいました」(6)
「草野(編注:昌一。当時のシンコー・ミュージック専務)さんを説得して著作権をシンコーで預かることにして話を進めました」(6)
「日本でのミーティングで(編注:プロデューサーは)"誰がいい?"って訊いた時、大滝君が"ジム・メッシーナ だったら全面的に任せてみても面白いな"みたいなことを言ったんだ。それで、当時『ミュージック・ライフ』のロサンジェルス・ブランチにいた知り合いの キャシー・カイザー嬢に頼んで、ジム・メッシーナにコンタクトを取ってもらった。でも、当時の彼はクスリでイッちゃっててさ(笑)、探しても見つからな かったの」(17)

草野昌一の証言
「三浦光紀さんから『はっぴいえんどが解散しちゃうんで最後の大仕事をしたい』と協力を頼まれて、出版(著作 権)を引き受けました。三浦さんは、ぼくがテンプターズや森山良子でアメリカ録音していたのを知っていたんですね。その経験があったから、ホテルを探した り、レコーディング・スタジオは1週間丸借りすると安くなるとか、そんなお世話をしました」(6)

前島洋児の証言
「アメリカ録音をしてみたいというのは、共通に残されてる思いだったわけで、ベルウッドとしてもニューアルバム を出したくて出したくて、と。だったらその餌で釣るしかない。はっぴいえんどもみんな餌だってわかっていて、でもまあ、いいかっていう感じだったんじゃな いですかね。餌を食ってやろうって感じでいったんだと思いますよ」(6)


1972/09/13 はっぴいえんど、ミーティング。

1972/09/25 はっぴいえんど、FM東京の番組収録。

1972/09/26 はっぴいえんど、TBSラジオの番組収録。

1972/10/04 19:00 羽田空港に集合。大瀧詠一、鈴木茂、松本隆の他、三浦光紀、山本隆士、上村律夫らスタッフ5名。

山本隆士の証言
「風都市からはりっちゃん(上村律夫)が一緒に来てました」(6)


1972/10/04 21:40 空路、アメリカ/ロサンゼルスに出発。

「解散は決まっていたけど別に仲が悪いわけじゃないし、いちいち話さないけど、みんなそれぞれの思惑があった」(18)
「気持ちは物見遊山だよ」(18)
「ぼくらはすごくピュアな気持ちでL.A.に向かっていった」(18)
「準備も何もなかったの。曲も足りなかったし」(11)
「自分のために家でデモを録ったりした曲が何曲かあったんです。そういう曲を持っていったんですね、ロサンゼルスへは。『相合傘』はその中の1曲です」(14)
「何しろ曲は不完全のまま、歌もろくろく練習していないし、大滝ときたら曲も作っていないという塩梅なのです...。」(13)
「レコーディングの時間は、正味約2週間。はたして2週間でLPが作れるものか不安なまま、心は半分沈みがちに旅立ったのであります。」(13)

松本隆の証言
「『茂くんの分以外の詞は書かないから』って、飛行機に乗ったんだ」(14)
「茂は書けないと言うから、じゃあ、茂の分は書いていった」(15)


1972/10/04 夕方 はっぴいえんど、ロサンゼルス着。滞在用に借りたハリウッドのアパートに移動。

「一緒に行った9人でアパートを4部屋借りて」(11)
「大阪の法華クラブみたいなアパート」(13)
「 アーティストの卵たちがたむろしていて、隣の部屋から歌が聞こえてきて。近くにデニーズがあって、ヘルス・エンジェルスがたむろしていて、警官がワン・ブ ロックごとに立っていて、お金をせびるホームレスがいっぱいいたな。速く歩いてたら、茂が言い出したんだ。『速く歩きすぎないか』って(笑)。『アメリカ 人はもっとみんなゆっくり歩いてるぞ』って」(7)
「こわれかけたエレベーターとうるさいエアコンがあって」
(7)
「このエレベーターがとてつもなく恐しく、3階を通過するたびに一種独特の震動があるのです。僕はもともとエレベーター恐怖症で、なるべく階段を使う習性の持ち主なのです。」(13)
「ある日、茂と僕が廊下を歩いていると、管理人のオバさん(女のクセに、ジョン・ウェインみたいな声をだす)が我々に向かって、チンプンカンプンな英語で 話しかけ、ゲラゲラ笑っているので、きっと冗談でもいってるのだろうと思い、わからぬまま2人ともハハハ...と笑い返してやりました。実は『おまえさん たちの仲間がエレベーターに閉じ込められているよ。こんなことは初めてだ。ゲラゲラ』てなことをいっていたらしいのです。要するに、例の魔の3階でエレ ベーターが動かなくなり、大滝と松本が閉じ込められていたのです。現場へ行ってみると、ドアが3センチばかり開いていて、中には怖いのか楽しいのかわから ないような顔をした2人がブツブツといってます。管理人の亭主の方は、さもすぐ開きそうな顔をして、ドアをいじりまわしていましたが、どうともせず、事態 は深刻になる一方。エレベーターの修理人も来たのですが、やがて捨てゼリフをいってあきらめてしまいました。後ではオバハンが相変わらずゲラゲラ笑ってい ます。ドアの開閉回路が過熱して来て、火事になるのではないか...という心配もでてきました。」(13)
「ひょっとすると、この2人は異国で死ぬのではないか...という素敵な考えがひらめいたのもつかの間、彼らは天井から抜け出して4階から脱出に成功。この事件があって以来、みな階段を使ったかというと、あにはからんや、乗らなかったのは僕ひとりでした。」(13)

鈴木茂の証言
「ハリウッドの真中にウイークリー・アパートみたいなのを借りて」(7)
「暗くなったころに空港からハリウッドまで行った」(7)


1972/10/05 はっぴいえんど、ミーティング。

「アメリカで大変お世話になったキャッシーちゃんという人が、我々の名前を呼ぶのに手こずり、アメリカ風の名前を つけたのです。松本は隆をもじりタック。大滝は詠一がイーチとなまり、僕は晴臣がハルとなり、茂はスズキのままでした。ナゼかといえば、スズキはオートバ イ・メーカーとして有名だったからです。」(13)

山本隆士の証言
「さっそくミーティングをした」(17)

三浦光紀の証言
「行ったらさ、曲作ってないって言うの、誰も(笑)。本当に(笑)。行ったら誰も曲作ってなくて、何なんだろうなって思ってたんだよ」(1)
「茂だけは作ってきてたみたいですね」(1)
「曲作れって言うのを、バンドだったらリーダーに言えば済むんだけどさ、一人一人説得しなきゃいけないんだもん。一人3曲ずつやるんだからさ。細野くんがリーダーだからまとめてやろうとか、そういうアレじゃないんだよね」(1)
「大滝くんはね、あの時ソロ作ってたから、もう曲無いってな事をチョコッと言ってたんだけどね。全部出しちゃったから、俺曲がないから、言いわけして‥‥それで全員外出禁止とか言ってやった覚えはあるんだけどね」(1)

松本隆の証言
「細野さんは『相合傘』をはじめ自分で書いてきたわけ。でも、大瀧さんは『実は全然書けてないんだ』って(笑)、確かロスに着いてから告白されたのかな」(14)
「大滝さんが歌っているやつって、だから『風のくわるてっと』に入ってた、曲のついてない詞なんです。ぼくにしてみれば手抜きの極地だよね」(16)

鈴木茂の証言
「細野さんの場合はとにかく対抗意識あるから、用意してあったのね」(1)

大瀧詠一の証言
「細野さんや茂クンに『もっと作れば……』っていったんだけど、結局作ることになって」(19)


1972/10/05 はっぴいえんど、リトル・フィートのレコーディングを見学。ロサンゼルス。

「いちばん印象的だったのはね、たまたま同じスタジオでやっていたリトル・フィートのセッション」(12)
「それまで彼らのことは知らなかった」(7)
「かなりカルチャー・ショックを受けたんです」(6)
「バッファローがひとつのピリオドを打って、ウエスト・コーストに、またそれ以上に豊富な新しい動きが出てきてた時期だったの。そういうものに触れたっていうのが大きかったよね」(12)
「もう、ぶったまげた。熱気があるわけ。これは、なんかスゴイものができちゃったんだなぁと思わせるものがある」(12)
「スタジオに入っていったらね、すでにもう中でやってるの。ギタリストのローウェル・ジョージがね、指揮をしてるんだけど、それがもう御神楽みたいな指揮で、すっかり入り込んじゃってる」(12)
「彼はギターを持たずにバンドの指揮に入っているんですね。ボディ・ランゲージで接している。それに圧倒されました」(20)
「ドラッグの匂いはむんむんしてるし」(12)
「曲も、なんか聞いたことがないような感じで」(12)
「ああいう時は、もう手放しで吸い込まれちゃうね」(12)
「『トゥー・トレインズ』と『ディキシー・チキン』をやっていた」(7)
「彼らの『ディキシー・チキン』という3枚目のアルバムの中でも、いちばんいい曲だよね」(12)
「『トゥー・トレイン』のリピートのところを、めちゃくちゃすごい大音量で録音してたんだ」(12)
「何よりもびっくりしたのは、圧倒的なサウンドでしたね。力強いビートと。音のクオリティ。彼らのエネルギーと 興奮状態。音楽を作る現場というのはこうあるべきかもしれないというような。彼らは、いまきっと何か新しいことを生んでいるに違いないということが伝わっ てくるんです」(6)
「で、終わって彼らがコントロール・ルームに入ってきたの。ぼくらは隅っこでチョコンと座ってたんだけど、彼らはもう自分達の世界に入り込んでるから、ぼくらなんか目に入らないのね」(12)
「僕たち4人で見てたんですけど、誰も気づいてくれない。ハイになってて。白い粉がザーッと横に並んでて(笑)。まるで映画を観ているみたいでしたよ」(20)
「なんかスゴイ熱気で、『やったね!』『おれたちやったぜ。おめでとう!』みたいな感じで盛り上がってるのを見て、あ、レコーディングっていうのはこれだ、と思った。この感じは、はっぴいえんどだって知ってるぞっていう、そんな感覚があったの」(12)
「音楽は肉体でやらなくちゃ、そう思った。しかも、ドープも必要かな、と(笑)。彼らはだってぼくらのことを見えてないんだもん。それくらいレコーディングの創造に没頭していた。そんな瞬間を垣間見たら、ね。こっちはドープしていないのに、ドキドキしちゃった」(18)

鈴木茂の証言
「キャシー・カイザーってコーディネイターがミュージシャンをよく知っていて」(7)
「スライド・ギターのうまいのがいるから1曲弾いてもらったらどうかって。それがリトル・フィートのローエル・ジョージ。それ誰?ギターはここにいるじゃないかと(笑)。それでクローヴァー・スタジオへレコーディングを見に行った」(7)

大瀧詠一の証言
「クローヴァー・スタジオを見学に行ったときに<ディキシー・チキン>をやってた」(21)

松本隆の証言
「『ドラムはもうやめよう!』と思ったんだ(笑)」(14)
「見学させてもらって、テイク20録ってもまだまだいける体力の違いを見て、『僕はここまで出来ない』と諦めが付いた(笑)」(14)

山本隆士の証言
「キャシーが、僕がすでに押さえておいたサンセット・サウンド・レコーダーズというスタジオでちょうどリトル・ フィートがレコーディングしているから、観に行かない?と言うわけ。それで、下見も兼ねて行ってみたんだ。そしたらさ、フィートの演奏を目の当たりにして メンバー全員が"うわぁ、すげえっ!"ってなって、それで急遽"コイツらに頼めないかな?"って話になったんだ」(17)

※編注:細野と山本隆士がサンセット・サウンド、鈴木茂と大瀧詠一がクローヴァー・スタジオと回想してい るため、ここではスタジオ名の特定を避けた。また、見学はLA到着直後とする上記の山本隆士の証言に対し、細野や鈴木茂は、見学ははっぴいえんどのレコー ディング後とする証言も残しており、複数回見学している可能性も考えられる。


1972/10/06 鈴木茂、松本隆と3人でリハーサル。ロサンゼルス/サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)。

「初めてスタジオ入りした日は、しばらく演奏していなかった上、緊張していたこともあり、かなり固くなってい た。顔はひきつり、演奏もギコチなくなっていたのですが、ミキサーのウエイン氏は、我々がよほどつまらなそうに演奏しているように見えたらしく、飛び出し てきて、『スマイル、スマイル!』と叫んだものです。」(13)
「もっと笑え、もっと笑えっていわれながら(笑)、なんで笑わなくちゃいけないんだって思いながら、僕たちは無表情ですからね」
(22)
「どちらかというと僕たちは、笑っていても泣いているように見えるくらい渋い顔をしているので、真剣な 顔の日本人が、アメリカ人にはやりたくなさそうな顔に見えたのも無理はありません。しかし、いきなりスマイル!...といわれても急にニコニコできるわけ もなく、かえってそれが気になって、なおさら固くなる一方。要するにその日は練習だけで終わってしまったのですよ。」(13)
「一番感じたのは、スタジオの中の音が違ったことだろうな。電圧のせいだと思うんだけど。向うの方が電圧が高いから。楽器も、特にキーを使っている楽器は気のせいかもしれないけど、よく言われるようにいい音がしていた」(11)
「音が違うんで、理由をいろいろ考えてたね。日本だと音が耳に届く前に30%くらい地面に吸い取られちゃうんじゃないかとか(笑)。でもL.A.では100%耳に届く」(23)
「ミキサーのウエインは新進ヘビー・ロック・バンド、キャプテン・ビヨンドをとった人ですが、ああいう音は好きかと きくと、そうでもなく『オレはポコもやったし、デイブ・メイスンもとった』といいはるのです。でもLPのクレジットに彼の名は確か、なかったはずなのです が......!」(13)

鈴木茂の証言
「全く醒めた状態でね、メンバー同志も割と根に持つ方なのかよく解らないけど(笑)。もともと明るい人間じゃないですからね」(1)
「スタジオ入った時もみんな下向いて喋らないんですよ」(1)
「お互いこのあと別れるんだな、とか思うと、やっぱり沈むよね」(16)
「僕はこれで、あの中で一番明るかったくらいだから、他の想像できるでしょ。で、ミキサーが『何だこれは?』って事になって。だって、一時間ぐらいブスーとして音も出さない」(1)
「だんだん暗くなってきちゃって、"おまえら何やってんだ!?"とか怒り出した(笑)」(16)
「先ず笑え。笑わなかったら俺は降りるって言うわけ。メンバーも仕方なくウソの笑いを浮かべて、それで始まったっていう強力なレコーディングだった」(1)
「理由もなく、しょうがないからニコニコしちゃってね(笑)。それからようやく音のほうもうまい具合にいきはじめたの」(16)
「楽器がショックでしたね。レンタル屋に行ったら、もういろんなのがあって、いやあ、すごいなと思った」
(7)

山本隆士の証言
「朝より貸楽器屋から運搬された楽器のセッティングがされ、細野晴臣(ベース)、鈴木茂(リード・ギター)、松本隆(ドラムス)の3人だけのレッスンが始まった。」(19)
「スタジオでのミキシング・エンジニアは、ウェイン・デイリー。」(19)
「レッスンのときから、コミュニケーションを感ずるため、一緒にレッスンするように努め、重要なポイントだけをハッキリ彼らに言っていた様でした。」(19)

三浦光紀の証言
「先ず笑ってくれって言ったんだよ。ブスーッとしてんだから」(1)
「笑わないよ。口きかないもん、だって。それでもつながってたんだろうね。面白いけどね」(1)
「仲悪いかっていうと、そうでもなかったのよ。お互い気に入らないわけじゃなかったんですよね。だけど、喋べらない。困った。殆どだから口きかないで5人で仕事してた、そういう感じ」(1)
「写真見ると結構いっしょに笑ったりしてんだけどね、記憶の中ではあんまりくだけたって記憶がないんだよな」(1)
「割とタレントとディレクターの付き合いっていうより、僕なんかこう一歩下がっちゃって、もうスターを見る目で見てたからね」(1)
「ミュージシャンと付き合う時は殆どミュージシャンができない事をアシストするっていう感じでしか付き合ってなかったから」(1)
「音楽の方向から何からもうミュージシャンが決めてる訳だからね。だからそういう意味では、はっぴいえんどはスターだったものね、僕にとっても」(1)


1972/10/07 10:00 はっぴいえんど、レコーディング開始。ロサンゼルス/サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)。

「朝はマネージャー兼運転手の上村君が、ドアを足でけとばすことによって毎日9時に起床。」(13)
「そこから毎日、近くのハンバーガーインまで食事に。」(13)
「バーガーイン《ハウスパイ》」(13)
「初めはハンバーガー、そのうち飽きてとうとうロースト・ビーフ・ハッシュという、コンビーフとイモだらけの大変なごちそうを発見し、いつも食べに出かけていたのでした。」(13)
「ロースト・ビーフ・ハッシュを食ってから、歩いてスタジオまで行き、10時に録音開始。途中昼めしをはさんで6時までガンバルのです。1日は24時間、 睡眠時間を8時間とすると、残りは16時間。その半分以上はうす暗いスタジオにいたので、昼間のハリウッドについてきかれても、返答は困難。余った時間は ほとんどレコードの買いあさりによって費されたのだ。」(13)
「6時に終って、あとレコード漁りに行ってくたくたになって帰って来た。レコーディングのある日はそういった日課」(11)
「最初は固くなっていた我々も、次第に乗ってきました。」(13)
「僕たちはしらーっとした気持で自分たちのレコーディングをやっていてね」(22)
「そのころ、松本は、詞を作るほうに力を注いでいて、ドラマーとしての部分をそろそろ失いつつあった。大瀧は大瀧で、プレイヤーの部分を放棄していた」
(24)
「だから、ぼくたちはコンポーザー・シンガーのカラーが強かったわけで、ミュージシャンとしての要素をしっかり持っていたのは、鈴木茂だけだった」(24)
「そんな分担ができていたからトータルなプロデュースというのは、このアルバムに関しては、まったくなされなかったんだ。ひとりひとりが、自分の担当分だけをプロデュースするということだった」(24)
「ミ キサーのウエインがいろいろ忠告を与えてくれましたが、やはり多少の行き違いもあり、意志が全て通じず心配でした。ただし、日本のバンドだからという差別 や甘やかしはなく、日本人でもこれだけやるのか...といった驚きの表情も見せないかわり、この曲はいい、言葉はわからないが、フィーリングがわか る...というように実力だけを対象にするのが、厳しいと同時に、我々に希望をもたせてくれたものでした。」(13)
「ある日、さっそうとスタジオに入ってきたのは、古いギターケースと小さな箱をかかえた鈴木茂でした。ギターケースの中身はこれまた古いグレッチのギター で、念願のグレッチの中古をかなり安く値切って買って来たのです。小箱の中身はオルガントーンのような機械で、その日は一同、いい買物をした、いい音だ、 これが念願の音だと大満足でした。翌日さっそくレコーディングに使おうと思い、茂に頼むと、なにやら浮かぬ顔をしているのでよくきくと、そのユニバイブと いう機械が輸入品だというのです。つまり、箱をよく見ると、隅に《Made in Japan》と書いてあったのです。みんな何といって慰めていいかわからず、『それ、きっと日本では売ってない輸出用の品だ。買っても損はない』となだめ たのです。」(13)

三浦光紀の証言
「自分の作った曲を自分がプロデュースして、後はバック・ミュージシャンに徹するって考え方だから、その間に自 分の曲が作れる。はっぴいえんどってのは、グループっていうよりも、本当ソロ・アルバムを作ってる感じだったものね。だから普通は、曲があって、みんなで 話し合ってこうやって行こうってのがあるんだけれど、細野くんの曲は細野君が全て、これはこうやるんだ、これはこうやるんだ。大滝くんの曲は大滝くんが全 て、これはこういく、これはこういくでしょ。で、茂は自分の作った曲はこうやって、こうやるんだって。もう全部そいう形だったから」(1)

山本隆士の証言
「レコーディングに入る準備段階が大変だった記憶があるなぁ」(17)
「細野君は比較的順調に作業を進めていた。茂も同じ」(17)
「全然違和感なかったよ。ドロドロした雰囲気もなかったし、4人がそれぞれを認め合っている感じ。新たな方向性に向かって別々に飛び立とうとするのを互いにリスペクトしている……僕にはそんな風に見えたな」(17)
「メンバーは暇さえできればレコードを買いに出かけていました。」(19)
「レコードの価格が安く、新しいアルバムでも3ドル(900円)位で、ちょっと古いものなら50セント(150円)位からあるのです。」(19)
「主に買いに行ってたレコード店は、ハリウッドの近くにあるタワーレコードというレコード屋。」(19)
「メンバーがよく通った店がもう一軒あります。そこは我々のアパートから歩いて5分位のところですが、そこでは昔買い忘れたいいレコードが59セントの棚にギッシリと詰まっていて、連中は殆んどその棚の中から探して買いました。」(19)

※編注:サンセット・サウンドでのレコーディング風景は、CD『はっぴいえんどBOX』(プライム・ディレクション/2004年)Disc 3のエクストラ・コンテンツ「はっぴいえんど写真館」および同梱ブックレットなどで見ることができる。


1972/10 はっぴいえんどのメンバーと、ジョン・スチュアートのステージを観覧。山本隆士が同行。ビバリーヒルズ/クラブ・ジョージ。

山本隆士の証言
「ロスに着いて間もなく、ビバリーヒルズというところの<Club George>で元キングストン・トリオの一員ジョン・スチュアートが出演していることを知り、全員で行ってみました。一人3ドルを支払い中に入ると、すでに若者でいっぱいで前座のロック・グループに拍手をおくっていました。」(21)
「サイドメンについたドラムスのリズム感のよさにメンバーも感心しました。そして、お遊び的にビートルズの『ゲット・バック』を演奏するなど終止飽きさせません。ステージが終わってからメンバー全員でジョンの楽屋へ訪れたら、快く会ってくれました。」(19)


1972/10 はっぴいえんどのメンバーと、ロサンゼルスで開催されていためぼしいコンサートを観覧。

ジョニー・リバースジョン・プラインを見て来たんだけど、リバースの方は、ミュージシャンがみんな好きな連中ばっかり。ジョー・オズボーンとか、ジム・ゴードンだとか。4人ともリバース見ないでジム・ゴードンばっかり見ていた。(笑)ジョン・プラインは詞が分らないと、ちょっときついかも知れないな」(11)

大瀧詠一の証言
「トルヴァドールにライヴを見に行って。で、ドラムはどう見てもジム・ゴードンなんだよ。もうドラムばっかり見 てた。そしたら、1曲目が<ロッキン・ニューモア、ブギ・ウギ・フルー>で、びっくらこいた。そのころまだ知らないからさ。でも、ニューオーリンズ・タイ プだっていうようなことは、だいたいわかったけども。俺はそれより一番感動したのは<ユー・ディグ>っていうのを最後にやったことだね。<秘密諜報員>の B面の。あれがいいんだ。それは誰も知るまいって、ひとりほくそえんだ。俺はジョニー・リヴァースはずいぶん聴き込んだから」(21)
「ソウル・エクスプロージョンのチャイ・ライツとか、ドラマティックス、それからケイシー・ケリーって人が良かったよ。ジョニー・リヴァースの前座だったけど」(19)


1972/10/10 VA『フォーク・ギター』発売。
中川五郎
 Mr. Bojangles:organ

高田渡
 自転車に乗って:bass


1972/10/13 ブラス・セクションを中心に、現地ミュージシャンによるダビング開始。

「麻田浩氏もちょうどその頃、ナッシュビルでレコーディングしていて、バック・ミュージシャンのメンバーがチャーリー・マッコイケネス・バットレイデビッド・ブリッグスというキマっている人々なのです。それなら僕たちは...というと、最初はユニオンの関 係でスタジオ・ミュージシャンは使えないという話でしたが、ナゼかユニオンの方はOKになり、そのかわり誰が来るかわからないという心もとない状態だっ た。」(13)
「ところが偶然とは恐ろしいもので」(13)
(編注:ヴァン・ダイク)パークスと彼のアレンジャーのカービー・ジョンソンが協力してくれることになったのです。」(13)
「リズムはほとんど勝手に作って、あとのブラスのアレンジだけは(カービー・ジョンスンに)お任せだった」(14)
カービー・ジョンソンがブラスを指揮したんだけど、すごいね。踊りながら棒を振ってね、リズムが信じられないほどすばらしいんですよ。また、ホーンのメンバーが良くて、トム・スコットとか……トム・スコットだけで充分って感じ」(11)

山本隆士の証言
「ベーシック録音が大体とり終えたとき、ブラス・セクションを入れることになり、そのヘッド・アレンジャーとし て、ジュリアード音楽院を卒業し、アメリカ、ウエスト・コーストで活躍するロック・グループのプロデュース及びアレンジをしているカービー・ジョンソン、 サックスにジャズ・プレイヤーの第一人者トム・スコット、そしてピアノにワーナー・ブラザーズからアルバムがリリースされている、キーボード奏者ビリー・ ペイン、トランペットにチャック・ファインドレイ、フレンチ・ホーンはデイヴ・デューク、トロンボーンはスライド・ハイド、エレキ・スライド・ギターに ローウェル・ジョージってな具合」(19)
「訊いてみたらふたつ返事でOKだった。おそらく彼ら自身のレコーディングが最終段階で余裕があったんじゃないかな。彼らの仕事に取り組む姿勢は素晴らしかった。向こうにしても、知らない日本人とセッションする喜びみたいなものがあったと思うけど」(17)


1972/10 日曜日にはっぴいえんどのメンバーとアナハイム/ディズニーランドへ行く。山本隆士が同行。

「日曜日は休みだから、ついでに店の方も全部閉っちゃうんで、遊ばなくちゃ損だってディズニー・ランドかなんかへ行って、これもくたくたになって帰って来た。(笑)」(11)

山本隆士の証言
「毎日忙しい日をおくり休日らしい休日がなく、ディズニーランドへ行っただけがせめてもの休日だったようです。 それも朝早くではなく、午后3時頃から出かけたのです。ディズニーランドは全部見て回ったら二日間もかかる広さと、趣向を凝らした乗り物でいっぱいです。 4時に入って無我夢中で遊んでいた我々は、気がついたら夜中の12時になっていたのです。」(19)
「彼等が一番喜んだのは、なんといってもディズニーランドの名物的なマッターホーンのボブスレーです。」(19)

大瀧詠一の証言
「12時過ぎまで人がいっぱいいて飽きないね」(19)

※はっぴいえんどアメリカ滞在中の日曜日は、10月8、15、22の各日。8日はレコーディング開始直後 であり、22日はサンフランシスコ/KEMOテレビに出演していることから、ディズニーランド行きは15日だった可能性が高い。なお、この日のものと思わ れるスナップを含むロサンゼルス滞在中のプライヴェート・ショットを、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 3(プライム・ディレクション/2004年)のエクストラ・コンテンツ「はっぴいえんど写真館」で見ることができる。


1972/10/16 レコーディングの合間に、はっぴいえんどのメンバーとポコの事務所を訪問。リッチー・フューレイらと会う。山本隆士が同行。

山本隆士の証言
「レコーディングを見にくるといっていたポコのメンバーから電話が来て、見に行けなくなっちゃったので、事務所に来てくれないかと言われ、昼休みを利用して、全員で会いに行ったのです。」(19)

※編注:この会見の模様は『ヤングギター』1月号(シンコー・ミュージック/1973年)に掲載され、のちに『はっぴいえんどBOOK』(シンコー・ミュージック/2004年)に再録された。また、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 3(プライム・ディレクション/2004年)のエクストラ・コンテンツ「はっぴいえんど写真館」の最初の写真は、この日のものと思われる。


1972/10 ヴァン・ダイク・パークスがレコーディングに参加。ロサンゼルス/サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)。

「レコーディングで楽しかったことといえば、勿論パークスと一緒にやったことだと思う」(11)
「最大の収穫」(24)
「ヴァン・ダイク・パークスがスタジオに現れたのは予定外だったんです」(20)
「突然なんだ。それまでは、ヴァン・ダイク・パークスっていっても、ビーチ・ボーイズの60年代後期のアルバムに参加してるとか、プロデューサーだとかいう程度しか知らなかったの」(12)
「実ははっぴいえんどの連中は彼の『ソング・サイクル』にもそれほど深入りしていなかった」(22)
「大作だけど、難解だなと思っていた」(6)
「そんなものもあるなと。天才がいるんだろうと。あんまり関係ないと思ってたんですよ(笑)」(22)
「それが、突然ローウェル・ジョージを連れて押しかけてきて、ひっかきまわして帰っていったんだ」(12)
「べつにこっちから頼んだわけじゃないんです。日本からバンドが来ているという話を聞きつけて、彼がやってきた。ミキサーと友だちだったらしくて、ローウェル・ジョージも連れて遊びにきたんですよ。一緒にやりたいって」(22)
「当時むこうのスタジオに日本人のわけわかんないミュージシャンなんか来ないから、興味持ったんだろうね」(7)
「『ソング・サイクル』の印象が強いので、ちょっとクレイジーな人かなと思ったら本当にそうだった(笑)」(14)
「ラリってスタジオに来て、天皇論を30分聞かされて(笑)」(20)
「演説からはじまるんです。日本の天皇はどうのこうのとか言い出して(笑)」(22)
「何かいろいろ彼は言ってたけど、言ってることが全く分らないんですよ」(11)
「彼のいうことがメチャクチャで、通訳の人もしどろもどろ、我々に通じるのに2時間は要したでしょう。」(13)
「僕たちに向かって延々と天皇制について演説をしているかと思うと、ピアノを一人で弾き出して止まらなくなっちゃうんですよ(笑)。ソッとしておかなきゃいけない」(14)
「"この人、大丈夫かな"って思うくらいいやなヤツだったんです」(20)
「当時はしらふなときがなかったらしくて、困った人だという印象があってね」(22)

さよならアメリカ、さよならニッポン
「すごく好きだよ。あんな好きな曲はないの」(12)
「せっかく来たんだし、何かやろうということになって」(20)
「どうしても1曲足りないので、皆でスタジオで作った曲を、彼にアレンジしてもらうことになり」(13)
「『1曲、みんなで作ろうよ』と。ヴァン・ダイクと一緒にやるためにもね。『作り込まないで、簡単なのを作ろう』ということで、出来てきたのが松本の『さよならアメリカ、さよならニッポン』という言葉で、その断片からとりあえずセッションに入った」(14)
「歌詞は、これ以上つくるのはやめようっていうことを、みんなできめたんです。面倒くさくなるから(笑)。事を なるべく荒立てないように。なるべく簡単な曲にして。というのは、ヴァン・ダイクは困った人だというのが定評だったし。なるべくシンプルにしてと。はから ずしてミニマルになったわけですけれども」(22)
「みんなで作って、ヴァン・ダイク・パークスにアレンジしてもらって。そしたらカリプソになっちゃった。(笑)」(11)
「見事にカリプソに変身してしまい、それも大変光栄なことなのですが」(13)
「ヴァン・ダイクは当時16ビートを基本にしてカリプソをやっていたわけで、いわゆるポリリズムですよね。アヴァンギャルドですね」(22)
「彼は、スタジオ・セッションをアレンジするんだ。ぼくたちが作った曲をね。その場で料理していくんだ」(24)
「任した以上、彼が仕切るんです」(22)
「最初は一応コード進行だけつけていったわけだけど、それから構成がどんどん変って……それがメチャクチャすごくて…大変だった。(笑)」(11)
「次第に乗ってくると、構成もどんどん変わってしまうし、リズムも複雑になってくるし、やっとつかめた頃には、やってる方も聞いてる方も心身共に疲れ果てていたのです」(13)
「その手腕にはかなりホレこんだ。彼のやりかたは、みんなで作ってゆくスタイルで、セッションをやりながら、だんだんに決めてゆく」(24)
「彼がピアノを弾いて、ヘッドアレンジでどんどんアレンジしていって」(11)
「指の動きなんかヨレヨレだったので心配してたんだけど、ところがセッションが始まったら的確なんですよ」(14)
「調整卓の前に陣どって、メンバーにああやれこうやれってフレーズをその場の思いつきで指示していって」(12)
「われわれが彼のいうとおりに演奏するわけです」(22)
「そこのところ、ドラムスはこうやれっていうぐあいにね」(24)
「リズムから作り上げていく」(20)
「ハイハットで16ビートをきちんと打ち続けろっていう。松本は必死になっているわけ。そこでバスドラを、あい間を見て、ストンと入れさせる。本人はいっしょうけんめいだから全体のことはわからないんだ」(24)
「あれはテクノだったよ」(12)
「そういうふうに現場で進めてゆくやりかたっていうのには、すごく影響を受けたね」(24)
「リトル・フィートのレコーディングのセッションとダブッて、ああ、すごいいい経験していると、自分たちがね。 これは快感だなと。このアレンジの仕方が。これは不思議だと思って。レコーディングの新しい局面というか、そこでわれわれは非常にブレークスルーしたわけ ですね。われわれというか、大滝とか僕のなかでは非常に強かったと思う。僕は興奮しましたね」(22)
「レコーディングに対する考え方が90度くらい変わっちゃった。それは大滝もそうです。ぼくと大滝がそれを受け継いでいます」(20)
「僕はそれまでダビングとかね、音づくりに興味はあったけど、エンジニアを介してやってて、別にそれほど深くは ないわけだよ、やってることは。ただ録ってるというだけで。ところがヴァン・ダイクと一緒にやった時のセッションというのは、自分たちでは想像してなかっ たセッションだった」(5)
「音の扱い方というのかな、リズムと音との扱い方。詞があって曲があってだけじゃすまされない、何か音楽の世界 というのを体で感じた。というのは、ヴァン・ダイクが指示して、われわれが自分たちで演奏したせいだと思うんですよ。外から見ていただけじゃわからないで すから。例えばリトル・フィートも見てただけですごいと思うとは思うけど、何がどうなっているんだかわからなかったんです。そういうビートの問題とか音の 扱い方が、わりと立体的に視野のなかに見えてきたというかな」(22)
「立体裁断のように作っていくというのかな、洋服で言えばね。違う言い方をすれば、レイヤー志向と言うのかな、積み重ねていく、立体的な作り方ができるんだということを初めてそこで学んだわけですよ」(5)
「まるで絵を描いているような作り方。リズムを作って、ビートを聴いて、そこにアクセントを付けていく。できあがっていくものはすごく立体感のあるもの」(20)
「それまでやったことのない方法だった」(20)
「それまでは、僕たちも、音にこだわっていたとはいえども、非常に日本的なこだわり方でね、絵巻物を描くように音楽を作っていた」(25)
「ある部分、まあ、そこがいいのかもしれないけど」(5)
「ここでこうなって、ここに葉っぱを描いてとか、ここに蛙が飛んでとか、そんなような作り方をしていたんですよ (笑)。時間軸に沿って並べていく。奥行きの遠近法のことはあんまり問わない。インスピレーションも、単に、ここに蛙を飛ばそうというインスピレーション しか出てこないんです(笑)。ただ、その飛ばし方に、わりと日本的な技があったりね。線の描き方とか。そういうところに非常にこだわっているところがあっ たんですけど、ヴァン・ダイクのセッションのときには次元が違ったんです。音楽をやっている次元が。西洋の遠近法みたいな。インスピレーションの使い方が 違うんですよ」(22)
「『これが立体音楽なんだ』って思った」(18)
「当時は"Magic"という言葉で置き換えていましたね、僕の中では。解説不可能な世界だったから」(20)
「すぐには受け入れるっていうことができなかったんで、そのあと何年かかかってじわじわと出てきました」(20)
「魔術のように僕たちには感じられて、そのときはわからなかったものを、その後、自然に会得していったというか」(22)
「揺り動かされる体験でした。ただの良い人じゃないんです。とっても問題がある人で、やっていることもクレイ ジーで、すごいインパクトなんだけど、いざセッションしたら、それ以上の何かを持っているわけですから、こっちはもう影響されっぱなしですよ。くちあんぐ りなまんまで、支配されちゃう。そういうことをたぶん『体験』って言うんでしょうね。あらがいがたい体験。そうすると、自分の中の何かが崩壊して、いいこ とも悪いことも取っ払って、そこにストンと入ってくる何かがあって、そこで変わるんですよ」(14)
「ローウェル・ジョージもね、ほんとうに陽気な人だったね」(12)
「この曲にスライド・ギターを入れたロウ・ジョージ」(13)
「ブリッジのフレーズを茂が考えてるとき、ローエル・ジョージが覗きこんで、大げさな身振りで、なんてこったい、すごいぜ、みたいなことを言って大騒ぎしていたのを覚えている(笑)」(7)
「茂に目の前で弾かせてみせてね、『OH!』とか、大げさに驚いてみせたりしてね。『それ、どうやって弾くんだ?見せてくれ』って言って、茂が弾いてみせると『WOW!』とか言う」(12)
「詩の意味を知りたがったので教えると、単純に我々がもう帰国するので、さよならアメリカだと解釈してしまい」(13)
「<さよならアメリカ、さよなら日本>って訳したんだけど、彼は単に日本へ帰るからそういう歌を作ったんだろ うって言うんです。そうじゃない、日本へも帰らないんだって」(11)
「『日本にもさよならだ』というと、『それじゃどこに行く』と来た。海の上だとか、宇宙だとかお茶をにごしていたら」
(13)
「何を勘違いしたか、メキシコへ行けばいいって。(笑)」(11)
「『それじゃ、メキシコへ行け。それがいい』などと来たのには手がつけられなかった。」(13)
「がっかりしてね。こんなにも分 からないものかと思った」(11)
「アメリカの多くのミュージシャンが、こんな単純な発想の持ち主だ...というのは言い過ぎですが」(13)
「この単純さが大きなパワーを生み出しているのかもしれないね。」(13)
「かなり象徴的な歌ですよね。自分たちの行く末を明示しているような歌です」(14)
「ひとつの決意というより、あきらめなんだけど、ぼくらの実感なの」(12)
「日本でやってた時に、ジャーナリストからぼくたちが考えてもみなかったことをいろいろつつかれたからね。『なぜ、日本語でやってるんですか』とか。いつも、そんなことばかり聞かれてたから、ぼくなんかはもう、警戒心ていうか、逆に横柄な態度で接しちゃってたの」(12)
「で、自分たちの故郷はロサンゼルスだと思って行ってみたら、そこでも日本語というものに異和感があるのね」(12)
「日本語が分らなくても、はっぴいの詞は分るって言ってくれた人もあったけど、どこまで分ってるのかは疑問だと思う」(11)
「だから、ちょうどアメリカと日本の中間に自分がブワーッと漂ってるような気持ちになってきちゃったんだ」(12)
「ア メリカや日本について、もう一度考え込んでしまうほど複雑な気持ちになったものです。スタジオの音の違いよりも、もっと根本的に何かが違うこと。いろんな 意味でアメリカは迷っているし、ドラッグがミュージシャンをむしばんでいるし、とうとう我々も、本当のヴァンダイクを理解できなかったと同様、アメリカも 発見できなかったと、日本とアメリカの間で宙ぶらりんの自分たちに気がついたのです。」(13)
「僕たちのやってるのはアメリカでもないし、日本でもないって感じがすごく強く残ってるんです。混沌としているというか、何やったらいいか分らなくなって来たところもあるし」(11)
「あの曲には、そんな思いが込められてるんだけど、そこでぼくの中では意識が変わったんだと思うよ」(12)

大瀧詠一の証言
 さよならアメリカ、さよならニッポン
「まるで曲がなくなったので適当にコード進行だけを決めて2拍子でツッチャンツッチャンてやってたんですよ。あ の"バーイバイ…"のところのコード進行。あれはぼくが作った。で、ツッチャンツッチャンやってたらヴァン・ダイク・パークスが入ってきて、『ファンタス ティック!』とか言いながら」(14)
「"その曲をアレンジさせろ"って」(16)
「気ままにピアノ弾きだした」(16)
「突然リズム・アレンジを始めて。あれよあれよと言う間にあの曲になっちゃった」(14)
「メロディもみんな決めちゃうんだよ(笑)。"真珠湾は卑怯だぞ"なんて言いながら勝手にやってるの。ぼくたちすることなくてさァ」(16)

松本隆の証言
 さよならアメリカ、さよならニッポン
「ヴァン・ダイク・パークスがリズムを作って、メロディを大瀧さんと細野さんが考えて。詞は単純な言葉の組み合 わせを繰り返したい! ということで、これはスタジオでその場で考えた。瞬間芸(笑)。この詞には、いろんな意味での「違和感」が現れてる。解散するのに 録音してる違和感とか、アメリカが嫌いだと言いながらアメリカの音楽を聴いて育ち、それを表現手段にしてる自己矛盾だったりとか」(14)

鈴木茂の証言
 さよならアメリカ、さよならニッポン
「ぼくらと一緒にピアノを演奏していたかと思うと、突然立ち上がって、お前たちの首相は誰だ。第二次世界大戦は日本のせいだ、とか言いはじめて、英語で30分くらい演説するの(笑)。ぼくたちはポカーンとして、文句言ってるのはわかった(笑)」(7)

山本隆士の証言
「思いついたアイディアを、その場でどんどん実験していくような感じだったね。曲の内容を、"グッバイ・アメリカ、グッバイ・ジャパン"みたいに説明したら、"そうか、じゃあメキシコがいいよ"とか言ってさ(笑)」(17)

※編注:ヴァン・ダイク・パークスとのレコーディング風景は、CD『はっぴいえんどBOX』(プライム・ディレクション/2004年)Disc 3のエクストラ・コンテンツ「はっぴいえんど写真館」および同梱ブックレットで見ることができる。


1972/10/18 はっぴいえんどのレコーディング最終日。ロサンゼルス/サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ)。

1972/10 はっぴいえんど、サンフランシスコに移動。

「移動する日程があったので、ミックスをウェイン・デイリーに任せて、サンフランシスコに移動しちゃったんです」(14)

※編注:サンフランシスコ滞在中のプライヴェート・ショットは、CD『はっぴいえんどBOX』(プライム・ディレクション/2004年)Disc 3のエクストラ・コンテンツ「はっぴいえんど写真館」および同梱ブックレットなどで見ることができる。


1972/10 『スーパー ロック・ギタリスト』(シンコー・ミュージック)発売。

寄稿:ギタリストに関する2・3の考察


1972/10/22 はっぴいえんど、サンフランシスコの日系人向けテレビ局KEMOの番組に出演。
はっぴいえんど
 田舎道
三浦光紀の証言
「サンタナか何かと共演したりしたでしょ」(1)

※『ロック画報』02(ブルース・インターアクションズ/2000年)によれば、この時の映像は三浦光紀が所有しているとのこと。


1972/10 ギブソンのアコースティック・ギターJ-45を中古で買う。バークレー。

「ギブソンのJ50、あのギターにあこがれたんだよ。あの地味な音がね、なかなか出ないの。他の人はだいたいマーチン系の派手な音でやってたの」(25)
「そのギターがなかなか手に入らないんだよ。で、はっぴいえんどでアメリカにいった時にどうしても欲しくて探したんだけど、J45になっちゃった。同じギブソンでもちょっと違う。微妙に違う」(25)
「なんかやだ。足りないんだ(笑)」(25)
「あんなに欲しかったものが手に入らなかったけど、そのおかげで、その後はテクノとかいろいろなことをやれるようになったのかもね(笑)」(25)

山本隆士の証言
「細野クンは、バークレーの楽器屋さんを日本いるとき紹介されたからと、サンフランシスコからバークレーに行 き、中古のギブソンJ-45を200ドル(6万円)位で買ってきました。ほんとうは、もっと時間があればいろいろ見たかったのにと、私も含め、メンバー全 員が残念がっていました。」(19)

※編注:バークレーでのプライヴェート・ショットは、CD『はっぴいえんどBOX』(プライム・ディレクション/2004年)Disc 3のエクストラ・コンテンツ「はっぴいえんど写真館」および同梱ブックレットなどで見ることができる。


1972/10/25 はっぴいえんど、帰国。

「ナゼか外国旅行をしてきたという感激はないのです。僕が子供の頃、アメリカから帰って来た叔父さんがトランクをあけると、アメリカという臭いがプンプンと部屋に立ちこもったものですが......。」(13)
「これはきっと、日本がだんだんミソ汁のニオイからバターのニオイに変わってきていて、特に東京などはきっとアメリカ以上に、そのニオイがしみついているのではないかと思います。」(13)
「最初は観光気分で行って、レコードもいっぱい買ったりしてたんだけど」(12)
「買ったのなんのって一番少ない僕でさえ80枚くらい。大滝詠一はなんと250枚! レコード屋でも始める気でしょう。鈴木茂は見たことも聞いたこともないレコードを買って冒険していましたが、その中にジャック・ジョーンズのLPがまじっていたのには笑いました。松本隆はというとR&B専門」(13)
「レコーディング技術面のことも含めて、おみやげをいっぱいもらった不思議な経験だったね」(12)
「バンドにとってじゃなく、個人的なそれぞれに、リトルフィートとヴァン・ダイクのもたらした影響ってのが、絶大ならぬものがあったんですね」(1)
「触発されたということですね。全然自分の中で分らないことには触発されないから。刺激がすごい強かったりし て。だから本当にいい出会いだったんです。興奮しましたからね。他のこともなにも全部すっとんじゃって、自分で書いた曲とかどうでもよくて、そのことばっ かりが頭の中にはあって」(5)
「その後の一人一人については、茂にも大瀧にも松本にもあったと思う。まあ、それぞれ自立できる力をもらったというか。ある意味、解散を後押ししてくれた」(14)
「ですから、よくよく考えてみると、やっぱり、行く運命があったと、思わざるを得ないんです。何の意味もないっていうんじゃなくて、非常に大きな意味があったんですね」(1)
「はっぴいえんどの為のものじゃないんですね。ただよく考えると一人一人がバラバラになって、それぞれがやって く立場になったという事ですよね。そういう影響を持ちながら、周りにさらに影響していかなくちゃいけないような世代だったんです。それ程、強い印象を持っ たんです。ヴァンダイクとリトルフィートといっしょにやって」(1)
「はっぴいえんどで一番足りない所って、やっぱりねえ、一番好きだったアメリカのサウンドの基礎ですよね。あ と、音楽の歴史ですよね。言葉には持ってるけれど、音楽的には断絶されたところで始めて、コピーから初まってっていう。そのルーツってのは、アメリカに、 やっぱりあるという」(1)
「ヴァン・ダイク・パークスっていうのはハリウッドの申し子でね。グッド・オールドデイズの良さを全部持ってる‥‥まあ、そういう人達とのふれ合いでね、ショックが大きかったですね、生の音で」(1)
「非常に期待して行ったんですけど、録音に関しては失望してたんですね、エンジニアに。人間は良かったんですけどね、まあ二流だったんですよね」(1)
「ヒッピーで、目の下にくま作って神経質な男だった」(1)
「エンジニアはヘタなんですけど、でも違うんですね、録れる音が。基本が違うんです」(1)
「技術に関係ない、出てくる音っていうのは」(1)
「それがさ、僕達は、気候のせいとか、地場のせいにする他ない位ね、謎があったんです。多分、伝統のせいだと思 うんですけどね。ポップスの伝統の積み重ねの音なんですね。でも、ヴァン・ダイク・パークスていうのは、それの上に積み重ねていく、何か画期的な音の世 界、空間を作る天才だったんで、そっちに非常に心をうばわれました」(1)
「サンセット・サウンドでの体験は学校みたいなもんですね。ミュージシャンとしての免許皆伝に近いかな。これは『体験』を通してでしか得られないものなんです」(14)
「これなら日本でもやれるって自信みたいなものはつけて来たつもり。別に録音するためにアメリカまで行かなくてもいいんじゃないかってね。向うでは、日本人だからどうこうってことは全くなくて、実力だけで評価してくれたからその意味でも自信がついたみたい」(11)
「非常に良い思い出ですね」(1)
「あれがなかったら、僕は、つまんなかったなと思いますね、はっぴいえんどは。はっきり言って。単なる日本の中で、日本の中での日本語のフォーク・ロックっていうのを言い続けてね、気持ちがね。終わっちゃったんですね」(1)


1972/10 平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス『ロカビリー三人男』発売。
ミッキー・カーチス
 The Diary:bass

平尾昌晃
 Crazy Love:bass
 恋の片道切符:bass
 You are My Destiny:bass

平尾昌晃/山下敬二郎
 Be-Bop-A-Lula:bass


1972/11 山本コウタロー『卒業写真』発売。
好きよ好きよ郵便屋さん:bass, electric piano
早川義夫さんに捧げる唄:bass
今日は一日:bass, piano

1972/11 風車のレコーディング。ポリドール第1スタジオ。

1972/11 愛猫・寝図美を連れて、狭山/アメリカ村の野球大会を見に行く。大会のテーマソングとして中山泰・鈴木良子の作詞による「パーティー」を作曲。

パーティー
「野球大会かなにかをやることになって、そのテーマソングを作ってくれって言われて、それで作った曲」(26)

※マイク眞木、麻田浩、WORKSHOP MU!!のメンバーらが参加したこの野球大会のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。


1972/11/22 はっぴいえんど『コンサート・コレクション・パート1』出演。目黒/杉野講堂。
出演:加川良、泉谷しげる、小坂忠

はっぴいえんど 大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(b, vo)、鈴木茂(g, vo)、林立夫(ds)
 曲目不明

※編注:松本隆は出演しなかった。

1972/11/25 大瀧詠一『大瀧詠一』発売。
指切り:bass, percussion
びんぼう:bass, organ
ウララカ:bass, chorus, guitar, piano
あつさのせい:bass
乱れ髪:bass, piano
恋の汽車ぽっぽ第二部:drums
いかすぜ!この恋:wood bass, piano
※編注:一部、宇野主水名義。

1972 鈴木茂と林立夫から新バンドのベーシストとして誘われる。ソロ・アルバムのレコーディングに、鈴木、林、松任谷正隆の参加が決まる。

「まぁ<はっぴい>の頃から、お互いに仲はよかったんだけど、この茂と林と松任谷ってのとはやりたかった。ソロ・アルバムを作るチョット前にその話があって、まぁ軽い気持ちで……」(27)
「はっぴいえんどの後、ソロ・アーティストとしてやろうという気持よりも、ベース弾きでやっていこうかなと思っ たことがあってね。ベースでスタジオをやると、なにがしかのお金がもらえて、けっこう嬉しい仕事だったんです。まだ、当時は売れっ子ではないけど、ぼちぼ ち興味はもたれてて、とんでもないところに呼ばれたりしていた時期」(22)
「個人のベース弾きとしては、インペグ屋さん(スタジオ・ミュージシャンの紹介業)というところからね、突然電話がかかってくるんですよ。で、ベースかついでのんびり行く」(22)
「そういう仕事もぼちぼち入ってきた時期で。だからベーシストという意識はけっこう根強くあったんです」(22)
「なぜ、ぼくがソロ活動をする気になったかというと、サイモン&ガーファンクルを解散したポール・サイモンがす ごく悩んだ、という文章を読んで、自分も同じだと感じたから。ソロでやる自信がなかったポールが、歌が強烈にうまくなくたって、自分でコンセプトを持って やっていけばできるよ、と元気づけられたって話だった」(24)
「その話に勇気づけられて、ぼくもソロでやってゆこうと思っていたわけ。そんなとき、鈴木茂と、当時、小坂忠とフォージョー・ハーフというグループにいた林立夫が、何かやりたいんだ、といってきた。それで」(24)
「手伝ってもらうことになった」(4)

鈴木茂の証言
「小坂忠さんが狭山に住んでて、細野さんもその近くにいて、松任谷君と林君と駒沢(裕城)君とかが共同生活して て、ぼくははっぴいえんどが解散してやることがなくて…って状況だったんです。細野さんは自分のアルバムを作ってて、忠さんのバンドもいまひとつ活発じゃ なかった」(28)
「まずどうしようかなって思って林に電話したんです。そしたら林が、"じゃ、一緒にやろう"って言い出して」(16)
「ぼくと林君が会って…彼とははっぴいえんどをやる前に一緒にやってましたから…その続きみたいな感じでまたやりたいねって言ってたんですよ」(28)
「で、じゃあどういう風にしようかって考えたのが、キャラメルママの母体なんですよね。で、小原にするか細野さんにするかっていうのはまだ決まってなくて、とりあえず今度のものに関してキーボード入れたいねってことで」(1)
「林が、親戚だったのかな? イイ奴だからって松任谷を連れてきて」(29)
「最初はキーボードを入れるっていうのは自分の頭の中になかったので。最初は(ギター、ベース、ドラムスの)3人という気持ちだったんですよ、自分の中では。でもキーボードがあった方が面白いってことで」(30)
「次はベースを探さなきゃ、と」(16)
「小原は……何やってたんだっけ、あのころ。ミカバンドかな。まあ、そんなことから、やっぱり細野さんにしようってことになった」(16)
「細野さんの方も『ホソノハウス』、あれ手伝ってくれって言って」(1)
「細野さんは自分のアルバムで忙しくて、実際バンドどころじゃなかったんです」(28)

林立夫の証言
「フォージョー・ハーフもなくなっていって、細野さんの方もはっぴいえんどが立ち消えになった時に、自分でソ ロ・アルバム作るからって細野さんから聞いて、ちょうど僕らはもう狭山に住んでいたから、じゃあ、こっちでレコーディングしない?ってことになって、 『こっちには松任谷っていうやつがいるからさ』って話になったんだよね」(31)
「個人的なことでいえば、ドラムっていう楽器にとって、ベーシストはとても大切なんです。ドラムってのは音符の 長さを調節できないから、その長さを調節するのがベースなんです。その長さが、自分にとってすごく心地よい人が細野さんなんですよ。だから、細野さんとは パーマネントなグループでやってみたいなと、ずっと思ってました」(28)
「僕からすればいいタイミングでした」(28)

松任谷正隆の証言
「何であの感じでやり始めたのかも憶えてないんですよ。ただ、とにかくフォー・ジョー・ハーフがいやで辞めて、 何かやりたかったことは確かですね。初心、じゃないけど、もっとちゃんと音楽をやりたいと思ったことは間違いない。サラリーマンじゃなくて、音楽で食って いこうという思いにはまだ至ってなかったけど、バンドをやるんだったら、もっとちゃんとした音楽をやりたいと思った。ちゃんと音楽に向き合って、ちゃんと 取り組めるバンドをやりたかった」(28)
「ひとことでは説明できないけど……ただ、イージーな感じにやりたくなかった」(28)
「僕の中にはバンド指向というよりも、自分のアイデアをちゃんとやりたいというのがあったんですね。だから、それが反映できないものは面白くなかったということだと思う」(28)
「きっとキャラメル・ママ発足段階では、それなりに自分のアイデアを生かせると思ったんだろうね」(28)


1972/12/10 遠藤賢司『嘆きのウクレレ』発売。
Hello Goodby:bass

1972/12/10 中山ラビ『私ってこんな』発売。
きっとそうなるわ:bass, piano
どうしよう:bass, mandolin
どんなにしたってさ:electric piano
わたしが望むのは:bass, piano
エントツとけむり:bass, piano
昔の知恵は今滅びてく:bass
片足ジャック:bass
ちんちん電車:bass
バッタのように:bass, piano

1972 ソロ・アルバムの自宅レコーディングに向けたスタッフ・ミーティング。狭山市鵜木/自宅。

「普通の民家でレコーディングしてみようというのは、ボクの案というより、そもそもはミキサーの吉野金次さんから出た案でした。しかし、ボク自身、スタジオでとる音はわかっていたし、おもしろみもなかったので、半分実験の意味もこめて大賛成。」(32)
「ぼくらがレコーディングしようとする場合、いいスタジオということになると、結局、毛利スタジオとか葵スタジ オしかないんですね。ところが、そういった貸スタジオで何度かレコーディングしてきてると、そこで録音できる音がもうわかってくるというか、限定されてく るんです。で、吉野さんと話していたら、自宅でやったほうがいいんじゃないかということになって…」(33)
「自宅にあるごく普通のソニーのテープレコーダーを使って自分で録音してみたことがあるんですが、それをきいてみると、非常にリラックスしていていいわけです。その延長上でやりたく思ったんです」(33)
「そのころは、スタジオの仕事みたいに、時間がきたら、はい、終わりっていうような割り切った仕事っていうの、 軽蔑していたんだ。時間も無制限にあって、好きなときに音を出して、おいしいものも食べる。そういう和気あいあいの雰囲気を出すのは、自分の家がいちばん だと思ったんだ」(24)
「何しろ初めてのソロだったし、あまり歌にも自信がなかったから、リラックスすることがいちばん大事だったんです」(26)
「ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(68年)の影響もあったし、住んでるのが同じような家だったんでね。ピンク色じゃなかったんですけど」(26)

林立夫の証言
「ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のような小さい場所でリラックスしてやりましょう、と」(31)

吉野金次の証言
「我々録音スタッフが狭山のアメリカ村にある細野さんの自宅『ホソノハウス』に集まったのは、レコーディングの始まる2ヶ月ほど前だった。初めての道だったこともあるが1時間以上も遅刻してしまった。細野さん以外にキャラメル・ママのメンバーも勢ぞろいしていた。」(32)
「細野さんが自らミルで挽いた豆でコーヒーを入れてくれた」(32)
「もてなしてくれたんだ。手まわしのミルの中に、コーヒーを5、6粒ずつ入れて、ひいて、サイホンで、時間をかけながら、ゆっくりやってくれて」(34)
「そのときに鳴ってたザ・バンドの『ビッグ・ピンク』とともに、印象深く残ってる」(34)
「細野さんのアルバムを作る話が出た時、ぼくはまず、どうしたら彼がレコーディングしやすい状態が作れるか、と 考えたわけです。その場合、毛利スタジオを使ったとしても満足できる結果が得られるとは思えなかったわけです。それはスタジオの性能が悪いからということ ではないのです。いままでそこで一応時間もかけてできるだけのことをやってきたわけで、じゃ、それ以上のものを期待するにはどうすればいいだろうかという ことになり、たとえば細野さんの家とか、生活の延長上でやるのはどうかという線が出てきたのです」(33)
「ジェイムス・テイラーやザ・バンドが、普通の家に8トラックなどの録音機材を入れてアルバムを作っていたころ」(6)
「どれもとてもイイ生音の味が出ている。一言で言えば『自然」ということなのかな。あとで付け足したといった反響ではないからだ。部屋の響きがとても活きている。電気的な残響を加えながら仕上げたスタジオ録音とは別の音。」
(32)
「細野さんは自分のソロもそういう方向での録音をやりたいと考えていた」(6)
「あの残響が少なめの、普段の生活環境とはずいぶん違った生音の聞こえ方がするスタジオにいると、楽器を弾いた り歌ったりしていなくたって、そこにいるだけで落ち着かなくなってしまうし、また、プロのスタジオ・システムそのものが持っている特殊なムードみたいなも のがあり、細野さんがリラックス出来ない、というのもわかる気がする。」(32)
「打ち合わせを続けていると、細野さんがソロ・アルバムでイメージしている音のことに今迄以上に気が付き始めてくる。」(32)
「アメリカ村で自宅録音が出来そうかと相談されていたのだったが、徐々にどうしても録音を実現させるぞという気持ちになってきた」(32)
「しかし、たしかにリスクも多いのだ。電源の問題、吸音防音のこと、それに関連して隣近所の苦情は、そしてモニターは?」(32)
「ブームのスタンドが全部セットできるのか。小さな部屋のスペースの中で音のクオリティーは保てるのだろうか。」(32)
「期待と不安が同時にやってくる。」(32)


1972/12 ソロ・アルバムの狭山市鵜木/自宅でのレコーディングが決まる。

「その頃、吉野金次さんが16トラックのレコーダー(AMPEX MM-1100)を買ったんですよ」(35)

吉野金次の証言
「細野さんのアルバムに間に合わせるために機材を揃えた」(6)
「借金で総額3500万の録音機材を発注してあった」(32)
「渋谷のジァンジァンの社長の高島さんという社長さんが、当時のお金で3500万円のスポンサーになってくださったんです」(6)
「16チャンネルのテープ・レコーダーと卓」(33)
「卓のほうは、シグマというメイカーに、ぼくが設計して作らせたものです」(33)
「72年の暮にできました。それで細野さんにすすめることもできたんです」(33)
「ギリギリ間に合って、自分のスタジオに入れるより前に、メーカーから直接」(32)
「買った機材がそのまま細野さんの家にポロロンと行った(笑)」(6)


1972/12/20 『ニューミュージック・マガジン』1月号(ニューミュージック・マガジン社)発売。
寄稿:ジェームス・テイラーの新アルバム

1972/12/25 クリスマス。狭山市鵜木/自宅。

「小坂忠といっしょにいたのかな。そしたらクリスマス・キャンドルを持ったアメリカ人が4, 5人で来て、アコーディオンを弾いて歌うんです、玄関の前で」(26)
「キャンドルサービス」(36)
「まだ残っている米軍の人たちの家族が、玄関開けたら5〜6人いるわけよ」(36)
「いや、びっくりしたな」(36)
「これはアメリカだなあ、夢のような世界だなあと思って。だけど、それ一回きりで(笑)。その後は普通の人がどんどん入ってきて、どんどん変わっていっちゃうんです。皆が蛍光灯を付けだしてね」(26)


1972/12/31 はっぴいえんど、正式に解散。

「結局、4人でもう煮つまっちゃったんですよ。やるべきことはやっちゃったし、頃合いもいいって、そんな感じ。もっとお互いの幅を広げたい。つまりあのままのはっぴいだと、広がりに限界を感じるわけですよ。もっといろんな人と接していくべきだと」(11)


<出典>
(1)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(2)野上眞宏写真集『HAPPY II  SNAPSHOT DIARY:1970-1973』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(3)CD 大瀧詠一『大瀧詠一』ライナー・ノーツ ダブルオー・レコード/1995年
(4)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(5)『Switch』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(6)北中正和責任編集『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 音楽出版社/2004年
(7)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(8)J-WAVE『Daisyworld』 1999年1月25日
(9)J-WAVE『Daisyworld』 1999年1月11日
(10)『モンド・ミュージック2』 リブロポート/1996年
(11)『新譜ジャーナル』号数不明 自由国民社/1973年
(12)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(13)『guts』1月号 集英社/1973年
(14)CD『はっぴいえんどBOX』同梱ブックレット プライム・ディレクション/2004年

(15)『ロック画報』01 ブルース・インターアクションズ/2000年
(16)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年 
(17)『はっぴいえんどBOOK』 シンコー・ミュージック/2004年
(18)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(19)『ヤング・ギター』1月号 新興楽譜出版/1973年
(20)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(21)『レコード・コレクターズ』4月号 ミュージックマガジン/2005年
(22)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(23)『GQ Japan』6月号 嶋中書店/2000年
(24)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(25)『レコード・コレクターズ』4月号 ミュージックマガジン/1995年
(26)CD 細野晴臣『HOSONO HOUSE』ブックレット キング・レコード/2005年
(27)『ミュージック・ライフ』7月号 新興楽譜出版/1973年
(28)『ロック画報』14 ブルース・インターアクションズ/2003年
(29)『ロック画報』02 ブルース・インターアクションズ/2000年
(30)『レコード・コレクターズ』7月号 ミュージックマガジン/2005年
(31)『音芸人』第参回 ペット・サウンズ・レコード/2005年
(32)『ベルウッド』No.4 ベルウッド・レコード/1973年
(33)『ニューミュージック・マガジン』6月号 ニューミュージック・マガジン社/1973年
(34)吉野金次『ミキサーはアーティストだ!』 CBS・ソニー出版/1979年
(35)
細野晴臣&東京シャイネス『東京シャイネス』公演パンフレット ミディアム, チェス/2005年
(36)
小坂忠『まだ夢の続き』 河出書房新社/2006年
update:2019/12/11

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