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chronology 1972 - 1


1972ごろ 笠井紀美子のレコーディング。東芝第一スタジオ。

「村井(編注:邦彦)さんとはじめて一緒にやったのは笠井紀美子のセッションだった」(1)


1972/01/14 18:30 はっぴいえんど、音楽舎初場所番外コンサート『花いちもんめ 猿飛佐助をたたえても でも満足できるかな』出演。霞ヶ関/虎ノ門ホール。
出演:遠藤賢司、サンズ・オブ・サン

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/01/15 友部正人『大阪へやってきた』発売。
酔っぱらい:bass
まるで正直者のように:bass

1972/01/16 はっぴいえんど、『聖ロック祭』出演。霞ヶ丘/日本青年館ホール。
出演:頭脳警察、村八分、遠藤賢司、ロスト・アラーフ、あんぜんバンド

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/01/22 『guts』3月号(集英社)発売。
コメント/オラッチの72年抱負宣言集

1972/01/22 はっぴいえんど、青山タワーホールに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/01/23 『はっぴいえんどコンサート』出演。新潟県/六日町。
はっぴいえんど
 曲目不明
※松本隆がドラムのタムに穴を開けたため、ギター3本による変則スタイルで演奏が行われた。

1972/01/24 ローラ・ニーロ『ゴナ・テイク・ア・ミラクル』を買う。

1972/01/24 はっぴいえんど、『マッシュルーム・コンサート Vol.2』出演。六本木/俳優座劇場。
出演:小坂忠&フォージョーハーフ、かねのぶさちこ、吉田美奈子、ブルース・バウアー、ガロ 他

はっぴいえんど
 曲目不明

野上眞宏の証言
「マッシュルーム・レコード主催のコンサート。マッシュルーム・レーベルにゆかりの深いバンドやミュージシャンがたくさん出演した。」(2)

※編注:この日の公演の様子と楽屋などでのスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


1972/01/24 『マッシュルーム・コンサート Vol.2』終演後、六本木/ビクトリアでお茶。

※編注:この時のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


1972/01/26 16:00 はっぴいえんど、風都市主催『風都市』出演。池袋/豊島公会堂。
出演:蜂蜜ぱい、吉田美奈子、高田渡、乱魔堂、小坂忠、遠藤賢司、友部正人、かねのぶさちこ、しば

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/01/29 はっぴいえんど、音楽舎主催のコンサートに出演。新潟市公会堂。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972 藤巻俊雄「マミーブルー/旅立つ時」発売。
旅立つ時:bass

1972/01 ジミー時田・寺本圭一・斎藤任弘・大野義夫『カントリー・パンプキン』発売。
ジミー時田
はみだした男:bass, piano
平和のタムタム:bass

寺本圭一
また陽が落ちる:bass
離れていても:bass, guitar
それだけの幸せ:bass, guitar

斎藤任弘
春を待っている:bass, guitar
終りの季節:compose, words, arrangement, bass, piano, guitar

大野義夫
君を呼ぶヨーデル:bass
星の涙:bass

宇野もんど
まっしゅるうむ青年団:compose, arrangement, wood bass, guitar, kazzu, flat mandolin


1972 高田渡のレコーディング。

1972ごろ 金延幸子からプロデュースを依頼される。

金延幸子の証言
「URCでアルバムを作りましょうって話が出てきた時に、大滝君としては自分でプロデュースしたがってたみたい なの。でもシングルの時の志向の違いがあったから、私はそうしたくなくて。それで細野さんに頼んでみることにしたの。彼の家まで行って、"お願いします、 プロデュースやってください"って。そしたら、ニコッとして優しい感じで"イイですよ"って言ってくれた。でも"大滝の方は大丈夫か?"って心配してた。 で、大滝君とも話して、私としては細野さんをリスペクトしているから細野さんとやりたいと言ったら、それでもいいって。当時はそんなこともあって大滝君は 『み空』のレコーディングに入ってないの」(3)


1972/02/13 はっぴいえんど、TBSラジオの番組に出演。中野/丸井本店屋上。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/02/15 加川良「ポケットの中の明日/その朝」発売。
ポケットの中の明日:bass
その朝:bass, organ

1972/02/15 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/02 ガロのレコーディング。目黒/モウリスタジオ。

1972/02/25 ミッキー・カーティス「それだけの幸せ/また陽がおちる」発売。
また陽がおちる:bass, guitar

1972/03/05 笠井紀美子『アンブレラ』発売。
ベッドの舟で愛の海へ:bass
ジョージのブルース:bass
とじこめて:bass
窓をよこぎる雲:bass
乾き:bass
End of Love:bass
すべては一部のすべて:bass
四つの季節:bass
ちょうど一時間:bass
You Talk Too Much:bass

1972/03/05 美沙子夫人と結婚。

「その頃のぼくは精神的にすごく不安定だったし、安定したものにすごくあこがれてたの。だから、松本が結婚したっていうことにすごく影響されて」(4)
「松本とぼくが続いて結婚したっていうので、今度は大滝のところに影響が行くんだけどね」(4)


1972 遠藤賢司から、メスのシャム猫・寝図美を譲り受ける。

「大人になって初めて飼った猫」(5)
「うちに来た時は子猫で、なんだこのチビと思って」(5)


1972/03/17 加川良のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
靴ひもむすんで

1972/03/18 はっぴいえんど、『唄の市』出演。渋谷公会堂。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/03/19 はっぴいえんど、『ベルウッド発足記念コンサート』出演。池袋/西武百貨店前特設ステージ。
出演:六文銭、高田渡、あがた森魚、岩井宏、中川五郎、山平和彦、友部正人、シティライツ、我夢土下座 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/03/20 はっぴいえんど、大阪/PLランドに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/03/25 ミッキー・カーティス『耳』発売。
R公爵夫人の恋:bass
廃虚の王国:bass
海賊ゴルギータ:bass
丘の上の子供達:bass
傷ついた白鳥:bass
ラリったラクダに乗って40日間:bass
※編注:「また陽がおちる」も収録。

1972/03/29 17:30 はっぴいえんど、『We Insist』出演。神田/共立講堂。
出演:六文銭、カルメン・マキ&OZ、はちみつぱい、あがた森魚、小坂忠、武蔵野たんぽぽ団

はっぴいえんど
 曲目不明


1972/03/30 18:00 『マッシュルーム・コンサート 小坂忠リサイタル』出演。芝/郵便貯金ホール。
出演:ガロ、成田賢

はっぴいえんど
 曲目不明

小坂忠&フォー・ジョー・ハーフ 小坂忠(vo, g)、駒沢裕城(st.g)、林立夫(ds)、後藤次利(b)、松任谷正隆(banjo)、細野晴臣(g, vo)
 ありがとう
 春が来た

※編注:この日の小坂忠&フォー・ジョー・ハーフの演奏は、ライヴアルバム『もっともっと』に収録されている。

1972/03/31 はっぴいえんど、名古屋/愛知県体育館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1972/03 ミッキー・カーティス『耳』発売。
また陽がおちる:bass, guitar
R公爵夫人の恋:bass
廃虚の王国:bass
海賊ゴルギータ:bass
丘の上の子供達:bass
傷ついた白鳥:bass
ラリったラクダに乗って40日間:bass

1972/03ごろ 大瀧詠一からアメリカ旅行の誘いを受ける。

「ふってわいたようなアメリカ行きの話」(6)
「僕が聞いたのはね、はっぴいえんどで行く目的で立てられた計画じゃないんですね、それ。多分ね、大滝くんに関係あると思うんです。ソロなのか何なんだか判らないけど」(7)
「それで立てられた計画で、おそらく大滝君が遠慮したというか、気を使ったと思うんですね、メンバーに」(7)
「初めは遊びが目的」(6)
「最初は『アメリカに物見遊山に行こう!』というような話だったんです。大瀧からだったかな?」(8)
「それがだから、はっぴいえんどで行く事になったと、それで観光気分で行くっていう事ですね」(7)

大瀧詠一の証言
「僕がモウリ・スタジオでよく練習をしてて、録音してたでしょ。ソロをやる時に、高田渡が遊びに来たんだよ。フラッと。で、高田渡が、今度アメリカ行くんだよっていう話だったの。三浦光紀がアイデア出したんじゃないか」(7)
「三浦さんが確か高田渡と一緒に行くとかっていう。それで大滝さんも一緒に行かない、みたいな話だったの。で、じゃあ行こうか、みたいなさ」(7)
「で、その時に、俺も行くんだったら、みんなも行きたいって言うんじゃないのかなって、俺は思ったわけ。みんなの話を聞いてみよう、みたいな事で、で行くかって言ったら、みんな行くってなって」(7)
「最初とにかく、高田渡と俺と、三浦光紀だけで行く話だったんだ、なぜか。それは絶対にまちがいない」(7)

三浦光紀の証言
「もともと、大滝さんのソロ・アルバムを作っていたとき、エンジニアの吉野(金次)さんはレベルの高い人だし、 大滝さんはキングの工場に行ってカッティングまで立ち会ったんだけど、どうしても思うような音が出せない。どうしてなのか、向こうに行って、何がちがうの か知りたいと思ったんです。大滝さんにその話をしたら、おもしろいと感じてくれたみたいで、ぼくはメンバーを説得した覚えはないんですが、じゃあみんなで 行ったらということになったんです」(1)


1972/04/01 『エイプリル・フール・コンサート』出演。大宮市民会館。
出演:安全バンド 他

細野晴臣 細野晴臣(g, vo)、松本隆(poetry reading)*
 ありがとう
 暗闇坂むささび変化
 風をあつめて
 終りの季節 *

※編注:はっぴいえんどで出演予定だったと思われるが、細野晴臣がソロで出演。この日のMCで松本隆は、前日の名古屋でのコンサートで「はっぴいえんどは解散」、ソロ活動を始める細野の「応援に来た」と語ったという。


1972/04/02 はっぴいえんど、テレビ神奈川『ヤング・インパルス』パイロット版に出演。
はっぴいえんど 大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g, cho)、鈴木茂(g, cho)
 曲目不明
※編注:松本隆は欠席。

1972/04/04 12:30 はっぴいえんど、メロディーハウス主催『聖ロック祭・パートIII』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:遠藤賢司、中川五郎、RCサクセション、井上陽水、安全バンド、梅雨前線、ガロ、サユリグループ

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明

野地義行の証言
「きっかけは、細野さんがピアノをやりたいって言うんで、そうするとベースがいなくなるということで、急遽やっ たんですよね。練習は、あの当時ね、ほとんどぶっつけ本番のステージでしょ、はっぴいえんどは。だから、1時間前とか、そんな程度だったんですよ。曲は 知ってました、それは、ステージ以外の普段の付き合いがありましたから」(7)

※編注:はっぴいえんどはこの日のトリを務めた。井上陽水は友部正人の代わりに出演。


1972/04/06 16:00 はっぴいえんど、『ONLY ONE EARTH CONCERT』出演。栃木会館。
出演:ブラッディ・サーカス

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明


1972/04/07 はっぴいえんど、大阪タカシマヤに出演。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明

1972/04/08 はっぴいえんど、『はっぴいな拓郎たちの一日』出演。神田/共立講堂。
出演:吉田拓郎、泉谷しげる、五輪真弓

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明


1972/04/09 13:00〜24:00 大瀧詠一のレコーディング。目黒/モウリスタジオ。
びんぼう:bass, organ
表通り(ウララカ):bass, guitar, chorus
大瀧詠一の証言
 ウララカ
「『はいからはくち』(70年)のオリジナルだったシングル・バージョンはシャッフルで<はいからー・はいからー>というコーラスで始まるものでした。」(9)
「その<はいから>というコーラスの後ろに<ラ・ラ・ラ>というコーラスもかぶせてあります。そして71年の<はっぴいえんど>のステージでは『はいからはくち』は『風街』で聞かれるアルバム・バージョンを演奏、72年にはまた変えてフィル・スペクターの『DA DOO RON RON』のコード進行とサウンドで『はいから』の詞を乗せたバージョンをステージで演奏していました。(とにかく、同じアレンジではすぐに飽きたのです)」(9)
「その『DA DOO RON RON』バージョンのサウンドとメロディーが同じで歌詞を変えたのがこの『ウララカ』です。イントロのアイディアはデイブ・クラーク・ファイブの『オー バー&オーバー』の<アウ>というのと以前の『はいから』のバック・コーラスの<ラ・ラ・ラ>を足したものです。」(9)
「本来ならコーラスを自分一人の多重録音かシンガーズ・スリーにすればもっとポップ色が出たのですが、それまで ステージで3人でやりなれているということと、この曲の元が<はっぴいえんど>時代の『はいからはくち』であり、更にこの曲が<はっぴいえんど>から大瀧 詠一ソロへのキッカケとなった作品であることを記するために、メンバーでコーラスを行ったり間奏をサックスではなくギターにしたのです。」(9)

1972/04/11 15:00〜19:00 大瀧詠一のリハーサル。新宿/御苑スタジオ。
空は不機嫌
海に近い駅

1972/04/13 14:00〜18:00 大瀧詠一のリハーサル。新宿/御苑スタジオ。
いかすぜ!この恋
真昼時
指切り
空は不機嫌

1972/04 森山良子のレコーディング開始。青山/ビクタースタジオ。

1972/04/22 はっぴいえんど、音楽舎主催『フォーク・オールスター夢の競演 音搦大歌合』出演。九段/日本武道館。
出演:岡林信康、吉田拓郎、遠藤賢司、六文銭、加川良、五つの赤い風船、かまやつひろし、井上尭之バンド、ガロ、高田渡、
   武蔵野たんぽぽ団、三上寛、山下洋輔トリオ

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 それはぼくじゃないよ
 空いろのくれよん
 春らんまん
 びんぼう
 はいからはくち

大瀧詠一の証言
「『びんぼう』だとか『ウララカ』っていうのは、はっぴいえんどのステージで、混然一体としてやってた」(7)

※編注:この日の演奏の模様は、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 7(プライム・ディレクション/2004年)に全曲収録されている。


1972/04/25 高田渡『系図』発売。

※編注:wood bassで参加しているが、参加曲の詳細は不明。


1972/04/25 友部正人「一本道/まちは裸ですわりこんでいる」発売。
まちは裸ですわりこんでいる:bass

1972 ガロのレコーディング。
美しすぎて

1972/05/05 夜 はっぴいえんど、大阪に向けてバスで出発。

1972/05/06 はっぴいえんど、福岡風太主催『春一番』出演。大阪/天王寺野外音楽堂。
出演:はちみつぱい、あがた森魚、遠藤賢司、高田渡、武蔵野タンポポ団、小坂忠&フォー・ジョー・ハーフ、友部正人、
   五つの赤い風船、ごまのはえ、加川良、ザ・ディランII 他

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(vo,g)、細野晴臣(g)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 びんぼう
 はいからはくち

※編注:この日の演奏の模様は、風都市による自主制作LP『春一番』Disc 3及び、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 7(プライム・ディレクション/2004年)に全曲収録されている。

1972/05/11 はっぴいえんど、文京公会堂に出演。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明

1972/05/12 はっぴいえんど、池袋/豊島公会堂に出演。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明

1972/05/14 13:00〜20:00 はっぴいえんど、マットルーム主催『第3回 日本語のふぉーくとろっくのコンサート』第2部に出演。日比谷野外音楽堂。
出演:モップス、かまやつひろし、加橋かつみ、南高節とかぐや姫、RCサクセション、遠藤賢司、クニ河内、ガロ、頭脳警察、
   武蔵野タンポポ団、小坂忠、中川五郎、ジプシー・ブラッド、乱魔堂 他

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 春らんまん
 五月雨


1972 いとうたかおのレコーディング。
あしたはきっと

1972/05/27 17:30 はっぴいえんど、『サンシャイン・コンサート No.4』出演。静岡/駿府会館。
出演:小坂忠 他

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明


1972/05/28 はっぴいえんど、『フォークビレッジ』出演。日比谷野外音楽堂。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明

1972/06/03 13:00 はっぴいえんど、『聖ロック祭』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:頭脳警察、蜂蜜ぱい、RCサクセション、井上陽水、友部正人、小坂忠、あがた森魚、中川五郎、なぎらけんいち

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(g,pf)、鈴木茂(g)、野地義行(b)
 曲目不明


1972/06/05 13:30〜18:30 大瀧詠一のレコーディング。目黒/モウリスタジオ。
指切り:bass, piano
大瀧詠一の証言
「これは一番<はっぴいえんど>的ではないサウンドとでも言いましょうか」(9)

松本隆の証言
「あのとき、はっぴいえんどのみんながソウルを好きだったんだ。」(10)


1972/06/06 はっぴいえんど、渋谷/東急百貨店本店5階に出演。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(g, vo)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)
 曲目不明

1972/06/10 ガロ「美しすぎて/学生街の喫茶店」発売。
美しすぎて:bass
学生街の喫茶店:bass
※編注:「美しすぎて」はシングル・バージョン。ノン・クレジット。

1972/06/10 はっぴいえんど、『日本アマチュア・ロック祭』にゲスト出演。審査員も務める。霞ヶ丘/日本青年館。
はっぴいえんど
 曲目不明
※編注:『ヤングギター』8月号(シンコー・ミュージック/1972年)によると『日本アマチュア・ロック祭』は6月11日開催となっているが、ここでは、大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』(SFC音楽出版/1986年)をはじめ、大瀧詠一の手帳をもとにしてい るというはっぴいえんどの各種年表で『Aロック』と表記されている6月10日のイベントが、『日本アマチュア・ロック祭』を指すものと判断した。

1972/06/10 はっぴいえんどのメンバーと石浦信三による、『日本アマチュア・ロック祭』をめぐる座談会収録。北青山/505。

※編注:「ぼくらの時代の新しいロックのジェネレーション」のタイトルで『ヤングギター』8月号(シンコー・ミュージック/1972年)に掲載されたこの座談会は、『はっぴいえんどBOOK』(シンコー・ミュージック/2004年)でも読むことができる。


1972/06/11 中野/丸井本店でソロ・ライヴ。
細野晴臣 細野晴臣(g, vo)
 曲目不明

1972/06/12 16:00 大瀧詠一のレコーディング。目黒/モウリ・スタジオ。
いかすぜ!この恋:wood bass
指切り:guiro

1972 金延幸子のレコーディング。見学に訪れた久保田誠とニアミス。麻布/アオイスタジオ。

金延幸子の証言
「細野さんは私の感覚を尊重してくれたし、また彼の人柄っていうのが凄く好きだった。そういった意味で、ああこ の人と一緒にやれて良かったなって思ったのね。懐が深いって言うのかな、全部聴いた上で必要なアイディアを出してくれる。だからスピリチュアル的には細野 さんが一番良かった。ただ『み空』の時は松本さんが叩けなかったのね。確か風邪をひいてたのかな。それで細野さんが指名した林立夫さんが叩いたのよね」(3)

久保田麻琴の証言
「金延幸子さんっていう古い友達がいて。今度アルバムを作るからっていうことで遊びに行ったの」(11)
「そこに、林君も来てた」(11)
「林君と最初に会ったのいつだったっけ?って話になって。ハワイだっけとか言ってたら、"いや、アオイスタジオで会ってる!"って言うから(笑)」(11)
「林君は僕のこと覚えてたって。髪長くてブーツはいてたって(笑)。細野さんはベース弾いてて、すごくいい演奏だと思ったんだけど、ちょっと一ヵ所気に入らないっていって」(11)
「聴き返すと、確かに一ヵ所グリッとなってて。こんなところよく気がつくなぁって思ったな」(11)


1972/06/25 ガロ『GARO2』発売。
美しすぎて:bass
水車は唄うけど:bass
蝶が飛ぶ日:bass
編注:「学生街の喫茶店」も収録。宇野もんど名義。

1972/06 加川良『親愛なるQに捧ぐ』発売。
靴ひもむすんで:piano, bass
白い家:bass
親愛なるQに捧ぐ:bass

1972 狭山/アメリカ村に移住。

「ベトナム戦争が終結する3年くらい前。それでどうやら米軍ハウスに空きができて、僕らのようなお金のない若者も借りれるようになったんです」(12)
「非常に単純なことの積み重ねから出発してるの。まず、それまでぼくはずっと実家にいた。だから東京から出る理由がなかったのね。お金もなかったし。で、バンドやって少しお金が入るようになって、たまたま狭山のハウスを見つけてきた連中が、すごいよ、安いよって」(13)
「一足先にアメリカ村に住んでいたWORK SHOP MU!!の仲間が見つけてくれたんですよ。当時、僕らは彼らのことを"ハイエナ"と呼んでました(笑)。家具やら何やらいろんないいものを拾ってくるんですよ」(12)
「彼らが小坂忠の知り合いだったんで、彼から情報を得て、誘われて来たんです。なにしろ、家賃が2万ちょっとだったから」(14)
「現実的に払える」(13)
「一軒家で」(12)
「安かったねー(笑)。信じられない、夢のような値段だった」(15)
「東京だったら6畳のアパートにしか住めない」(12)
「とにかく家から出て住みたかったから、どんなにそこが遠いか考えなかった」(13)
「アメリカでも金持ちとは言えないような人が住むシンプルな家だったのね。それでもぼくにとっては夢のような豪邸だった」(13)
「僕は東京生まれだから、それまでずっと実家に住んでいたじゃない。そこにはっぴいえんどのみんなが集まったりしていて、家族に迷惑かけてたからさ(笑)。やっと独り立ちできて、嬉しかったんだよ」(15)
「すごく贅沢な家だった。庭が広いし、洋風に作られていて、とても現実的な家じゃなかった」(14)
「2LDKで、天井が高く、庭もある。ピンクのペンキで塗られた、夢のような住まいだった。でも、湿気が多くてね、かなり黴臭かった。そう。まるでスワンプ(笑)。『恋は桃色』で歌ったとおり。うん。『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』への憧れはあったね」(12)
「この頃、都会にいたら息苦しくなっていたから狭山に出ていった、そんな自然な流れだよ」(16)
「70年代の初頭は、ジェイムス・テイラーを筆頭にシンガー・ソングライターが出てきた時期でね」(12)
「ちょうどヒッピーカルチャーがサイケからカントリーに移行する時。そのタイミングに、たまたま住む環境も歩調が合ったというか」(15)
「いくら憧れて も、東京じゃできなかったんです。やっぱり、音楽は景色や空気と密接に繋がっているから。アメリカの西部へ行けないとすれば、アメリカの匂いのする田舎、 狭山が一番近い環境だった」(12)
「ようするに、ぼく自身、カントリー志向だったわけ。自然の中で暮らしたいと思っていた。やっぱり、これは都会しか知らなかったことへの反動だと思うんだ」(17)
「都会はどんどん変わりつつあった。原風景は破壊されて、はっぴいえんどのときにはあった"風街"って幻想もなくなった。東京生まれの自分にとって、故郷の喪失、不自然な状態。それで、田舎に憧れたんだよ。もちろんブームもあった」(16)
「カントリー・ブームから来ている、ゴー・バック・トゥ・ザ・ネイチャーみたいな時代だった」(13)
「バック・トゥ・カントリーで、周りもみんな子供を作り、コミュニティを作る」(16)
「コミューンみたいなところで、何かドロップアウトの気分で、皆が集まってきたわけです」(14)
「あの頃のぼくたちの格好ってのは、ロング・ヘアーに髭面にダンガリーパンツっていう感じでしょ。ヒッピーのコミューンの場所としてはぴったりの場所だった」(13)
「でも真似事だね。バーチャル・アメリカン・カントリーを狭山で作った」(16)
「本当にあの狭山時代は楽しかった。あそこ住んでいなかったら、僕のソロアルバムもできていなかったと思うし」(15)
「狭山に引っ越してから、いろいろな発見も多かった」(15)
「忠のこともさ、実は狭山時代に『あ、こういう人なんだ』って初めてわかったんだよ」(15)
「本当の意味で『友達』という距離感になったのは、狭山で隣に住むようになってからでしょうね」(18)
「それまでは同じバンドのメンバーといえども、お互いに距離を置いていたじゃない。忠はヒッピーだし、怖かったし(笑)」(15)
「狭山時代に、忠の実像というか、本当はどういう人なのかが、よくわかった」(18)
「『ああ、普通の人なんだ、いい人だな』と」
(15)
「シンガー時代の強面の印象とは違って…
…なんていうんだろう…すごく気さくなヤツでした。 気が合ったんですよね。もう毎日、子供のように一緒に遊んでいましたから。お互いの家のキッチンが見えるような距離で、まさに隣同士でしたし。どこから手 に入れたんだか、ビリヤード台を買ってきたりしてね。楽しかったですよ、いつも。それからは仕事の仲間というよりも、家族ぐるみの付き合いで、ただの近所 の友達になったんです(笑)」(18)

小坂忠の証言
「当時、ジョンソン・エアベースという米軍基地だった場所が、基地返還にともなって、周辺のいわゆる米軍ハウスも含めて日本人に開放されることになった。 WORKSHOP MU!!の眞鍋君の奥さんのミーコが飯能市出身だったことから、その情報がいち早く僕たちにもたらされた。僕たちが移り住んだのは50軒程の家が集まって 構成されていた、アメリカ村と呼ばれる地域だった。」
(15)
「みんな一軒家で、全部、洋室。リビングは16畳ぐらいあったよね。キッチンがあって、寝室が二部屋、8畳と6畳」(15)
「次第にアメリカ村には、多くのミュージシャンが移住してきて、ウッドストックのようなアーティスト村になっていった。乱魔堂の洪栄龍、麻田浩、吉田美奈子(数ヶ月の間、我が家に居候していた)、はちみつぱいの和田博巳。そして細野君も隣に移り住んだ。」(15)
「最初は細野君の家と隣だったから、台所が対面していて、そこに糸電話をつないだり」(15)
「いつもどこかの家に集まって食事をしたり…バーベキューもよくやったね。毎日そんな感じだった(15)

※編注:同年7月に狭山/細野晴臣宅で撮影された寝図美(猫)と松本洋子の写真がiPadアプリ『野上眞宏のSNAPSHOT DIARY』(2014年)に収録されていることから、アメリカ村への転居は少なくともそれ以前の時期と推測される。


1972 ソロ・アルバム制作を構想。曲作りを開始。

「ソロ・アルバムを出そうという話は、ずいぶん前から、大滝君がソロ・アルバムを作ってた頃、ぼくらがアメリカに行く前からあったんです」(19)
「スタッフの薦めもあったので」(14)
「自宅で録音してたんですよ。曲を」(7)
「デモじゃなくて、自分で、作って、聴いてたわけです」(7)
「石浦君が結構動いてたと思うんだよね」(7)
「石浦君が、大滝の将来とか松本の将来僕の将来を、割と見てた立場ですよね、心配してたっていうか。彼がバランス感覚とって、バランスとってたと思うんです。ですから、そこで決められた事はあると思うんです。僕がソロ作っていくべきだとか」(7)

吉野金次の証言
「はっぴいえんどの最後の頃にはもうソロ・アルバムを作りたいという話をしていたような気がするんですね」(1)
「細野さんは『自分のソロ・アルバムは今までのスタジオでは録りたくない』といっていた。これまでスタジオで録音したサウンドも自分の求めるものとは違うことが多かったらしい。」(20)
「打 ち合わせとかスタジオにいる時、何度か細野さんにリハのテープを聴かせてもらったが、それを聴くとたしかに『ソロは今までのスタジオでは録りたくない』と いうネライはわかってくる。そのプレイはとても生き生きとしていたし、リラックスして、とても新鮮な音だった。詩もスーっと入ってくる。」(20)

松本隆の証言
「細野さんなんかにしてみると、やっぱり、あせりみたいなもの、『自分もやんなきゃ』って思ったんじゃない。も う一つは、目標にして作ったバンドで、好きだったバッファローがCSNYになって、ソロになっていくんだよね。バンドからソロへみたいな、時代の流れが あったわけ。背景として」(7)
「それで、みんなソロを出したくなったっていうか、いつまでもバンドやっててもしょうがないみたいな意識ってあったよね」(7)


<出典>
(1)北中正和責任編集『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 音楽出版社/2004年
(2)野上眞宏写真集『HAPPY II  SNAPSHOT DIARY:1970-1973』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(3)『はっぴいえんどBOOK』 シンコー・ミュージック/2004年
(4)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(5)細野晴臣・羽仁未央・遠藤賢司『ネコの日』 八曜社/1985年
(6)『guts』1月号 集英社/1973年
(7)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年

(8)CD『はっぴいえんどBOX』同梱ブックレット プライム・ディレクション/2004年
(9)CD 大瀧詠一『大瀧詠一』ライナー・ノーツ ダブルオー・レコード/1995年
(10)CD『風街図鑑』街編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(11)CDジャーナル別冊『ストレンジ・デイズ』No.5 音楽出版社,ストレンジ・デイズ/1999年
(12)細野晴臣&東京シャイネス『東京シャイネス』公演パンフレット ミディアム, チェス/2005年
(13)篠原章『J-ROCK ベスト123 1968-1996』 講談社文庫/1996年
(14)CD 細野晴臣『HOSONO HOUSE』ブックレット キング・レコード/2005年
(15)小坂忠『まだ夢の続き』 河出書房新社/2006年
(16)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(17)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(18)CD 小坂忠『Chu's Garden』同梱ブックレット ソニー・ミュージックダイレクト/2009年
(19)『ニューミュージック・マガジン』6月号 蝸牛社/1973年

(20)『ベルウッド』No.4 ベルウッド・レコード/1973年
update:2024/03/05

1971 - 2<>1972 - 2
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