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chronology 1971 - 2


1971/07/02 はっぴいえんど、リハーサル。音羽/キングスタジオ。

1971/07/03 or 04 はっぴいえんど、『日比谷ロックフェスティバル』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:サムライ、モップス、PYG、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー+1、ブラインド・バード、トゥー・マッチ、
   ザ・エム、スラッシュ、ブルース・クリエーション、成田賢、ガロ、スピード・グルー&陳信輝、1815ロックンロール・バンド 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/07/05 かねのぶさちこ「時にまかせて/ほしのでんせつ」発売。
時にまかせて:piano

1971/07 小坂忠のレコーディング。目黒/モウリスタジオ。

「ソロ活動の変形なのね。ぼくも、ほとんどソロのつもりだったから」(1)
「ソロで出来る部分を他人にあげちゃったりしてるわけだから」(1)

※編注:レコーディング中のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。


1971/07/16 はっぴいえんど、京都勤労会館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/07/17 はっぴいえんど、浜名湖/パルパルに出演。(?)
はっぴいえんど
 曲目不明
※編注:パルパルは恐らく浜名湖畔の遊園地。経営する遠鉄観光開発株式会社の沿革によると、翌18日に開業した模様であ り、17日には公演が行われなかった可能性もある(例えば単に移動日だったなど)が、この日の出演に関しては大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 (SFC音楽出版/1986年)をはじめとするはっぴいえんど関連各年表での記載にならった。

1971/07/19 はっぴいえんど、名古屋/ヤマハホールに出演。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧詠一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、告井延隆(pf)
 曲目不明
告井延隆の証言
「はっぴいえんどと一緒にステージに立ったことは一度あります。それは名古屋のヤマハホールに、はっぴいえんどが来た時に、僕はその時に名古屋に帰ってて、その時はピアノを弾いて……。1曲か2曲ぐらいだったと思います」(2)
「一応、練習は1回ぐらいしたかもわかりませんね」(2)

1971/07/22 21:00〜翌2:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
抱きしめたい

1971/07/25 13:00〜22:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
はいからはくち
空いろのくれよん

1971/07/27 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/07/28 はっぴいえんど、ニッポン放送『ビバ・ヤング  オールナイト・ニッポン』公開録音に出演。札幌/STVホール。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/07/29 鈴木茂とともに札幌から空路帰京。

※編注:この日14:02、札幌発東京行の全日空機と自衛隊の訓練機が岩手県雫石町付近上空で衝突し、全日空機の 乗員・乗客162名全員が死亡する大事故(いわゆる「雫石事故」)が起きた。細野と鈴木茂は、事故機となった全日空機よりも東京への到着がわずかに早いと いう理由から偶然にも日航機を選択し、難を逃れた。


1971/07 南正人『回帰線』発売。
Train Blue:bass
夜をくぐり抜けるまで:bass
こんなに遠くまで:bass
海と男と女のブルース:bass
It Can't Be Over:bass
愛の絆:bass
青い面影:bass
果てしない流れに咲く胸いっぱいの愛:bass

1971/07 ザ・ディランII「男らしいってわかるかい/プカプカ」発売。
男らしいってわかるかい:bass
プカプカ:bass

1971/08/03 はっぴいえんど、吉野金次とミーティング。原宿/アート音楽出版。

「東芝の吉野金次さんというエンジニアと知り合った。当時彼はランチャーズ喜多嶋修とビートルズみたいな音を作っているらしいと。それでたずねていって、聞かせてもらって、即、頼んだんだよね」(3)
「ビートルズが好きだとか、吉野さんのバック・ボーンは知っていましたけどね。僕らは、逆に、『ビートルズにかなり入れ込んでるくらいの人なら、何でもできるだろう』と思って、期待したんです」(4)
「自分は中域主義なので、合うかどうかわかりませんよと言われたけど、お願いしちゃったんだ。吉野さんは自分でピアノも弾くし、ディレクター的な面もあった」(3)
「音楽的な話ができるエンジニアでした」(4)
「すごく才能あるなと思いましたよ。エンジニアとしては初めて僕らとコミュニケーションできた人だったんですね」(4)

大瀧詠一の証言
「吉野金次と細野さんが、南正人さんと、レコーディングがいっしょだったらしいのね。それで吉野金次がいいってことでアート音でミーティングしましたね」(2)

岩井宏の証言
「2枚目をやる時に、アオイスタジオは、はっぴいがいやだっていうから、モウリスタジオで、ミキサーは吉野金次さんじゃないといやだっていうから」(2)

吉野金次の証言
「南正人さんの『回帰線』というアルバムを僕がミキシングを担当していまして、そのベーシストとして細野晴臣さんが参加していたんです。それがきっかけになったと思います。細野さんの紹介で入っていったんだと思います」(2)
「はっぴいえんどの1stを聴かせてもらって、『ぼくの音とずいぶん違うな』と思いましたね。当時のぼくは歌謡 曲の仕事もかなりやってたんだけど、彼らは歌謡曲をやってるような人間は好きじゃないだろうなと思ったし、彼らに3人か4人のエンジニアが次々とクビにさ れたって情報も得ていたんで、『じゃ、5人目はぼくだろうな』という感じで(笑)。戦々恐々としながら、目黒にあったモウリ・スタジオという当時としては 最先端のスタジオでやることになったんです。初めて彼らに会ったときに、ぼくは歌謡曲の仕事が終わって徹夜明けで行ったんですよ。先に着いたんだけど、へ ばっててソファーで寝てたんですよね。そこにメンバーのみんなが来て起こされたっていうのを後で松本隆さんが教えてくれました。そこで『ぼくの音はリミッ ターぎんぎんで、中音域をカットして作り込んだブリティッシュ・サウンド。西海岸の青い空のように乾いた感じでもないし、ストレートに響くわけじゃないか ら」って話をしたのを覚えてます」(5)


1971/08/07 0:00 はっぴいえんど、岐阜県/花ノ湖畔に出発。

大瀧詠一の証言
「夜の12時、この日にアート音、音楽舎に集合して、7、8、9のフォークジャンボリーに出かけました」(2)


1971/08/07 夜 はっぴいえんど、『第三回全日本フォークジャンボリー』サブ・ステージに出演。岐阜県/花ノ湖畔。
はっぴいえんど
 抱きしめたい
 朝
 12月の雨の日
 かくれんぼ
 はいからはくち
 春よ来い
吉野金次の証言
「セカンド・ステージでの演奏を僕が録っていた。当然、生ではっぴいえんどを聴いたのは、このときが初めてですね。印象は……地味(笑)。歌が全然聞こえなかったんですよ」(4)

※編注:この日の演奏の模様は、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 6(プライム・ディレクション/2004年)に全曲収録されている。


1971/08/08 夜 『第三回全日本フォークジャンボリー』メイン・ステージが客に占拠され、はっぴいえんどの出演が中止になる。

鈴木茂の証言
「暴動が起きたときは、はっきり覚えてます。あのときは、メイン・ステージの舞台のそでにいたんです。そしたらどうも様子がおかしくなってきた。ぼくたちの楽器は舞台の裏に置いてあったんで、それをあわてて取りに行ったりとか…」(6)

松本隆の証言
「暴動に関してはね、たしかに現場にいあわせた人間としては、もうほんとにあの群集につかまったら吊されるん じゃないか、みたいな危機感がありましたよ。赤軍なんかの時代だから、ありえなくない。そういうところで、だからドラムの一つや二つなくなったって、命が あってよかったっていうか……ね(笑)」(7)


1971/08/10 はっぴいえんど、アルバム・レコーディングのリハーサルのため、合宿に入る。三重県/合歓の郷。

大瀧詠一の証言
「『風街ろまん』のレコーディングの練習をした、ということですね」(2)

鈴木茂の証言
「練習らしい練習」(2)

石浦信三の証言
「行く前はうんと盛り上がってたけど、着いたらもう疲れきってて、たいしたことはできなかった」(6)

告井延隆の証言
「一時期ベースで入らないかっていう話もあって、はっぴいえんどが合歓の郷に合宿に来た時にも僕のところへ連絡したらしいんですけれど、僕はちょうど他へ旅行してて、あの時、家にいたら、そのまま一緒にやってたかもしれないですね」(2)


1971/08/11 はっぴいえんど、合宿の2日目。三重県/合歓の郷。

1971/08/12 はっぴいえんど、合宿の3日目。三重県/合歓の郷。

1971/08/13 はっぴいえんど、合宿の4日目。三重県/合歓の郷。

1971/08/14 はっぴいえんど、合宿を終えて福島県/いわき市へ移動。

1971/08/15 はっぴいえんど、『Iwaki Jazz Festival』出演。福島県/平市民会館。
出演:山下洋輔トリオ、ジョージ大塚クインテット、落合俊トリオ 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/08/21 はっぴいえんど、『ロック・アウト・ロック・コンサート』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:岡林信康、柳田ヒロ、加川良、遠藤賢司、DEW、ガロ、ザ・ディランII 他

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b,vo)、鈴木茂(g)、岩井宏(banjo)
 春らんまん
 空いろのくれよん
 ももんが
 かくれんぼ

大瀧詠一の証言
「『ロックアウトロック・コンサート』でのボーカルが生涯最高の出来だったと、自分では思っています。」(8)

松本隆の証言
 ももんが
「大瀧さんと細野さんで年中交換してんの、詩を」(9)
「この詩に自分はつけらんないから、どう?って言って」(9)
「最後はもうあれが誰の曲なのか分からなくなっちゃうぐらい二人で作ってた。往復して」(9)
「"ももんが"は、伊香保のお祖母ちゃんの口癖。『悪いことをすると、ももんががさらいにくるよ』って(笑)」(5)

※編注:この日の演奏の模様は、ライヴアルバム『'71 ロック・アウト・ロック・コンサート』(SMS/1979年)、『LIVE ON STAGE』(キティ/1989年)に全曲収録されている。


1971/08/22 13:00〜22:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
春らんまん
吉野金次の証言
「レコーディングスタジオに入る前に、練習スタジオで、音楽的な打ち合せは済んで、レコーディングに臨んでましたから、僕は、そのディスカッションに加わった記憶は今のところありません。レコーディングに入っての、手直しとか音決めには参加していますけど」(2)
「ですから、4人が決めてきたことに関して現場でケアするということですね」(2)
「5人目のバンドのメンバーとして、色々と聞いてもらったということはありますね」(2)
「リズムのコンビネーションが今イチ悪い場合とか、あるいは、各楽器の音色といったことに関してはコミュニケーションはよくとりました」(2)
「例えば、特に何かのレコードなり、曲を聴いて触発されて作ったっていう場合は、ある程度先入観がありますので、それと、実際に出している音とのギャップですね、そこをどうするかっていうことでは、かなり長時間ミーティングをしたような部分はあります」(2)
「そういう時は言葉で言う時もありますし、思ってた音と全然違うんだけど、『こういうのもあるね』っていう時も ありましたね。ですから、わりとスパンは広く考えていて、もちろんこだわりはあったんですけど、自分達のこだわり以外のものも、よければ受け入れるってい う、そういうニュアンスはありました」(2)
「細野さんから『リバーブは疲れるから好きじゃない』って言われまして。僕自身、せっせとビートルズやビージーズをコピーしていて、リバーブとコンプが自分の技だったから、それが使えないのは厳しかったですね」(4)
「ベースをラインで録るってのが流行り始めた時期」(5)
「でも細野さんの場合は、ベース・アンプからの出音がとても良かったんで、マイクで録ることを即決した記憶があります」(5)
「ELECTRO VOICEのRE-20」(4)
「それにFAIRCHILDのリミッターを通してますね。性能があまり良くなくて、アタックのところで『パコッ』と言ってしまう感じなんだけど、細野さんはそのベースの音をすごく気に入ってくれました」(5)
「メロ譜は全然ないです」(2)
「コード譜はあったんですけど、難しいコードの場合はCm7にプラスドの音とかファの音とか、自分達しかわからないような記号をチャンポンに使ってたみたいです」(2)
 春らんまん
「録音スタジオでの最初の出会いということで、お互いあまりリラックスしていなくて、ちょっと堅苦しい仕上がりになっていますね」(10)
「大胆な音の振り分けですね。これは完全にビートルズのある曲のパンポットをそのままだったはずです」(4)
「分離している音が個人的にも好きなんですけど、ちょっと分離が甚だしくて、触媒的なところが足りないんです」(10)
「アコギの音は、原音だけでなく、どうもヘッドフォンから一度アコギの音を出して、その音をマイクで録り、原音 にそれを混ぜているかもしれません。1曲そんなことをやった記憶があるんですよ。メンバーとは初顔合わせだったということもあって、何か変わったことを やってみようと思ったのかもしれない(笑)」(4)
「思えば『春らんまん』は僕のオーディションのようなものだったのかもしれませんね。よくこれでクビにならなかったな、と(笑)。ま、お互いに可能性を感じたのかもしれない」(10)

1971/08/23 22:00〜翌2:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
愛餓を
はいからはくち
空いろのくれよん
大瀧詠一の証言
「梅津さんで、『愛餓を』『空色』のヴォーカル、スチールとリードギター。『はいから』のイントロ」(2)

1971/08/25 17:00〜21:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/08/27 19:00〜23:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/08/29 13:00〜22:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
夏なんです
暗闇坂むささび変化
夏なんです
「事前に茂と打ち合わせたかもしれない。『こういうフレーズが出来たんだけど、ギターをどうやってつけようか』という相談を、茂の家に行ってやったと思いますね」(4)

暗闇坂むささび変化
「もう肩の力が抜けているよね」(4)

吉野金次の証言
「この2曲はすごく出来がいい」(10)
「当時のベストでしょう」(10)
「あまり声を張らないで歌う細野さんには、ストレート・ボイスに向いているELECTRO VOICEのRE-20もたまに使っていました」(5)
 夏なんです
「細野さんの多重録音がメインですね。ヴォーカル3本、アコギが2本、エレキ1本、リズム2系統の8chですね」(4)
「アコギはスタジオの中でもとってもいい音がしていた」(4)
「一日でこれを録ったからだと思いますが、一体感がありますよね」(4)
 暗闇坂むささび変化
「すごくいいテイク。この時点でエンジニアとミュージシャンの信頼関係ができている感じがします(笑)。ドラムとベースを最初に録って、アコギ、フラット・マンドリン、細野さんの歌がダブル、大瀧さんが1本、チャンネルひとつ余っています」(4)

鈴木茂の証言
 夏なんです
「アコースティックは、細野さん」(4)

松本隆の証言
 暗闇坂むささび変化
「麻布に実家があったから、三田(慶應大学キャンパス)の学校に通う寄り道コースに暗闇坂があった」(4)
「ガマ池っていうのがあった。江戸時代にガマの妖怪が出たという。だからちょっと一筋縄ではいかないような地域なんですよ」(4)


1971/08/30 21:00〜翌2:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
空いろのくれよん
抱きしめたい

1971/09/02 12:00〜16:30 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ。
あしたてんきになれ
あしたてんきになれ
スモーキー・ロビンソンというのは頭にあった。『アイ・セコンド・ザット・エモーション』は当時のフェイバリットだったな。それをやろうとした」(5)
「ゆっくり作れたんですよ。もう完全に家で作ってきて、時間があったので茂の家まで行って、最初に考えたフレー ズを教えて、これにギターをつけてくれと。そしたらあんな変なイントロがついたんです。それはだからあらかじめリハやってたの、二人で。そういう余裕が あったから」(9)
「このヴォーカルはジョークです。別に裏声が得意なわけじゃない。『SMOKEY-STYLE VOCALS』と歌詞カードに書いたのは、スモーキー・ロビンソンと似ても似つかないから、わざとそういう風に書いたんです(笑)。低い声の僕がファルセットで歌うということは、単なる思いつきですよ」(4)
「ファルセットのつもりなんだよ(笑)。高い声出したかったんじゃないかな。情けない声(笑)」(5)
「僕が作る曲で、音域の問題があって、僕が歌えない部分というのがあるのね。だからバンドの趣向としてロック系 になってくると、大瀧君に歌ってもらっていたんですよ。サビやコーラスを。だから僕の曲はよく大瀧詠一は参加してる。『あしたてんきになれ』も裏声は一緒 に歌ってるし」(9)

鈴木茂の証言
 あしたてんきになれ
「大滝さんにしても細野さんにしても、ギターがベースになった曲に関しては、かなり具体的なイメージを持ってる んですよね。細野さんなんか自分で(ギターを)弾けるんで「あしたてんきになあれ」とか、かなり自分で作ったんです。で、僕は、その時々で、ユニゾンで やったりとか、また違ったフレーズ出したりとかってやり方をしてたんですよね」(11)

松本隆の証言
 あしたてんきになれ
「『いい加減、戦争はうんざりだよね』っていうのは、あったかもしれない。でも、僕は反戦を主張するような人間ではないし、人間には闘争本能が備わっていると思ってるし。そういうことを全部ひっくるめてメルヘンにしちゃおう!という歌なのかな」(4)
「直接的な反戦歌を書くのは嫌だったので、"ときどき戦闘機が落ちてくる街に"っていうファンタジーみたいな詩にしたんだ。怖い童話みたいなね」(12)


1971/09/06 21:00〜翌2:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
風をあつめて
風をあつめて
「レコーディング当日まで完成してなかったんだよ」(9)
「メロディーが出来てなかったんです(笑)」(4)
「スタジオで、廊下で初めて出来たんだよ」(9)
「『風をあつめて』というフレーズがとっても気に入ってたんだよ、僕は」(9)
「だから迷ってたわけ、そこを活かすために、なんとか完成させたかったんだと思うな」(9)
「時間がなくて、とにかく自分の番がきて、順番にアルバムを埋めていかなくてはいけないから、僕も持ち分を埋めていかなくてはいけない。そのレコーディングの時間がきて」(9)
「みんな録音がスタートするのを待ちくたびれて、『もうやってくれ』と言われたんです。コードは出来ていたんで、先にオケを作った」(4)
「ホントまだ固まってないまんま僕はとりあえずギターを弾いて」(9)
「生ギターと松本のドラムだけで最初録って、それからベースも入れて、時間稼ぎでキーボードも入れたのかな」(4)
「ダビングに興味があったことは確かだね。でも『風をあつめて』は特殊で、本当に他にアイデアがなかったんだ。 メロディとコードと生ギター、リズム、ベース……あとはキーボード入れるしかないなっていう。リードギターどうやって入れたらいいか分からなくて、茂に相 談する時間がなかった」(9)
「で、次の歌入れの時に、パートパートを僕は考えながら、何小節分も歌って、溜めて、繋ぎ合わせた」(9)
「僕はプレッシャーに背中を押されながら、その場で作りながら、完成させちゃったというわけです」(4)
「一節ずつ歌いながらレコーディングして、作っていったんです」(4)
「いわゆるパンチインですね」(9)
「そのときそういうやり方をはじめて知った」(3)
「吉野さん、大変だったと思いますよ」(4)
「時間がないから吉野さんもいらだって、そうしたんだろうけど(笑)」(3)
「で、そこから先を考えながら歌ってるから、今聴くと、あそこは一音上げなきゃいけないところが下がってるんですよね」(9)
「別に音程がズレているわけじゃなくて、1音間違えてるんです」(4)
「"起き抜けの路面電車"というところのメロディー」(9)
「『ぬ』じゃまだ下がっちゃいけない。『け』で下がらなきゃ。メロディではよくあることなんだけど、『起き抜け』という言葉の問題で。2番、3番は正しく歌ってて、1番だけ下がってる」(4)
「"起き抜け"でしょ、平板な言葉に"起き抜けの"ってなんか変なアクセントがついてるから」(9)
「でも焦ってたから、そのまんまOKしちゃったんだ」(9)
「パンチイン・パンチアウトであわててやったからやり直す時間がないので、「いいや……」ってことで(笑)」(4)

松本隆の証言
 風をあつめて
「細野さんが古い詞に曲をつけ直した。それを聴いてまたぼくが詞をつけ直した」(12)
「あれはホントに、二人で戦争してたようなもので、僕が詩直すと、また曲変える。曲変わると、また僕が詩直すわけ」(9)
「外部から見た東京というか、都会を『引き』で見る、あの感覚かな。月島とか佃島へ行くと、隅田川越しに東京が ニューヨークの摩天楼のように見えるポイントがあるんですよ。あのあたりから東京を眺めていると、ふだんはあの中でチマチマ生きててつまんないんだけど、 ちょっと離れて見てみるときれいな街なんだなあ、と思えてくる。付け加えると、この詞は、ある時、渋谷の<マックスロード>という喫茶店のトイレで、安西 冬衛の詩の『てふてふが一匹韃靼海峡を渡って」という落書きを見つけて、それが原型になってるのね。ほら、昔は都内の至る所を都電が走っていたんだけど、 渋谷から日本橋の先の水天宮まで行く都電があって」(4)
「そのあたりの『都電が海を渡ってた』んだ、きっと(笑)」(4)
「蝶々が渡るくらいなんだから、都電も海を渡らせたい!っていう、僕流のフィクション(笑)」(4)
「"背伸びした路次"というのは、浜松町1丁目。大門とかその辺りに江戸の面影を残した狭い"路次"があって。その"路次"を抜けると、パッと海が広がる。その感じなんだ」(4)
「自分が体験した出来事が、頭や心の中に投影されて再構築されることで、よりリアルになるんだ」(4)
「そうやってできたのが『風をあつめて』なんだと思う。だから、"緋色の帆"というのは、おそらくスモッグに朝日が反射して空が緋色になったんだと思うけど、それを"緋色の帆を掲げた都市"ということで、とてもロマンチックに見えるし、よりリアルに感じるんだよね」(4)
「完成度は高いと思う。どこも直せないもの。でも、最初に作ったときは、『ものすごく難しい』と言われたんだ。 『意味がわからない』と。"摩天楼の衣擦れ"って言っても、(南佳孝くんの)『摩天楼のヒロイン』(73)も出てなかった時代だったから(笑)、それが歌 詞になるとは、想像できなかったのかもしれない」(4)
「最初二人でスタジオ入って、細野さんが生ギター弾いて、俺ドラムで、ベースなしだからすっごいやりにくいんだ よね。何にもなしでいきなりそれでやらされて、やりにくいなと思いながらリズム録って。それでさあやろうって時に細野さんはまだスタジオの壁にもたれて立 て膝してさ、膝も揃えちゃってさ」(9)
「ギターを弾いていた。『何してるの?』と訊いたら、『曲を変えようと思って』だって」(12)
「それで聴かされたんだ。『こういう曲なんだけど、どう?』って」(9)
「それが今の歌」(12)
「『風をあつめて』あたりで、もう彼はサウンドメーカーなんですよ。だってあれは僕がドラム叩いただけで、あと一人で全部の楽器をやってるわけ」(9)
「『これ以上被せないの?』って聞いたら、『もういらない』って言ってた」(9)
「はっぴいえんどじゃないの、あれはソロだよね」(9)

吉野金次の証言
 風をあつめて
「5時間で完パケした」(10)
「仕込みが万全だったんでしょうね」(10)
「細野さんは、パンチ・インを演奏の途中でやるという技術を、僕と一緒に作業する中で学習したと言ってくれましたね」(10)
「HAMMOND B-3は、スタジオにあったから使ったかもしれないですね。違ったかな?また、最初の1拍目のスネアは、想像でしかないですけれど、松本さんが最初にマイ クを軽くたたいたり、スティックでカウントを取っていたんじゃないかな。それでほんの少しだけ遅れているようにも思えますね」(4)


1971/09/07 はっぴいえんど、リハーサル。麻布/アオイスタジオ。

1971/09/08 はっぴいえんど、リハーサル。麻布/アオイスタジオ。

1971/09/10 18:00〜22:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/09/11 10:00〜16:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
花いちもんめ
颱風
鈴木茂の証言
 花いちもんめ
「細野さんから『今度のアルバムは、茂も書いたら』って言われて、それで作った」(4)
「ベース・ラインは細野さんが考えた」(4)

大瀧詠一の証言
 颱風
「最初のオケは、ものすごく長いの」(2)
「全然終わらないんだな。この頃は、ただ長く録ってたんだ」(2)

吉野金次の証言
 花いちもんめ
「6時間半かかっていますが、オルガンで何度もパンチ・インをした記憶があります。オルガンを弾いていたのは細野さんでした」(10)
 颱風
「時間がかかりました。大瀧さんのフィーリング一発という感じなので」(10)


1971/09/12 10:00〜17:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
春らんまん
颱風

1971/09/14 はっぴいえんど、名古屋/愛知文化会館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/09/17 10:00〜17:00 はっぴいえんど、「抱きしめたい」の編集。青山/ビクタースタジオ。

大瀧詠一の証言
「ジェットマシーンをかけるの。その頃、ビクターがジェットマシーンを開発して、そこにしかないって言うんで、行ったんですよ。ジェットマシーンを借りにいきましたな」(2)

梅津達男の証言
「ビクター・スタジオのメンテの人が作ったものです。これを使うためにミックスをビクター・スタジオが休日のときにこっそり作業をしていた記憶があります(笑)。この部分は、かけたものだけを作って後でテープで編集しているかもしれませんね」(4)


1971/09ごろ 大瀧詠一から、ソロ作の制作について相談を受ける。

「僕はよく覚えてないんですよ」(2)
「何が行われているのか全然判らないんです。ビジネスとして」(2)
「シングルの時と同じでね、よく判らない(笑)そこでだから、いつも三浦さんが出てくるでしょ。その裏にいるわけですから(笑)何か考えてる人ですから、そういう考えてる人がいて、何か、引っぱって行こうとする力があるわけですからね」(2)
「ただ一つね。心にひっかかってた事がありますけどね。あの、僕はその頃、スタジオ・ミュージシャンが段々仕事 が多くなってきて、茂もそうなんですけど、茂と僕は、日銭を稼ぐ事ができたわけです。ミュージシャンとして。ですからミュージシャンとしての技術的なも のっていうのは、どんどん認められていった時代です」(2)
「で、大滝くんと松本っていうのは、そういう意味では収入がないわけですね。作品でやってくよりないわけです。 それは、結構多分メンバーにとって、シリアスな問題だったんだなあと思うんですよ。当時僕は無頓着だったからね、そういう事考えなかったんですけど。何と なくできてたっていうか。そこら辺が結構、はっぴいえんどにとっては、現実の問題があった、という事なんじゃないですか」(2)
「そこで大滝君が、ソロを作る事になったんだろうし」(2)
「バンドだけだと、なかなか、それを手段として商売できないっていう」(2)

大瀧詠一の証言
「9月か10月ぐらいだったと思うんだけど、三浦光紀が、大滝さんソロやってみない?みたいなことをチラッと言われて」(2)
「<はっぴいえんど>はどうしてもURCが譲れないとなり、そこでキングとURC側は『ソロならばキングから出 してもいい』という新たなアイディアを持ち出し、当時スタジオで一番ヒマだった大瀧から出そう、と、まあこういうことだったようです。もちろんその後、細 野、鈴木茂という順番が予定されていた事は言うまでもありません。」(8)
「自分の方に話がくるなんて、想像もしてなくて、ニール・ヤングが単独でLP出してCSN&Yやったりって。結構そういうのに憧れたりしてたから、どうかなっていうことを、細野さんにはじめ聞きに行ったりしてたんだよね」(2)
「どこかのスタジオだったな、モウリのスタジオかな、ビクターのスタジオのような気がしたな。あの光の光線のぐあいからいくと。そこに細野さんが座ってて、三浦光紀から、ソロアルバムの話があるんだけど、どうしようかって、聞いたんだよね」(2)
「そしたら細野さんが、『話のある内にやっといた方がいいよ』って言ったんだよね。いや、グループでやろうよって言ったら、そういうのは、話があるうちにやっておけ、みたいなことを言うもんだから、まあ、面白そうだからやってみようか、みたいな感じでね」(2)

三浦光紀の証言
「レコーディングを見ていて大瀧さんとはっぴいえんどには商業的な差があるなと思ったんです。大瀧さんはビートルズで言えばポールじゃないですか。あの中から大瀧さんの要素だけ取り出したら爆発的に売れると思ったんですよ」(4)
「それと商業的に言えばはっぴいえんどは一般的なヒット曲は出せないと思ったんです。はっぴいえんどを売るには誰か一人スターにした方がいいと思ったんですね。それだったら大瀧さんかなと」(4)


1971 遠藤賢司のレコーディング。

遠藤賢司の証言
「バック誰がいいかな、って言った時に、『やっぱ細野くんがいいやぁ』ってなって。まず一番にいい音だってことと、俺もそのときはいろんな音楽聴いてるから、自分の耳の中では、しっかりしたいい音だし、温もりもあるし、いいよなぁ、なんて思ってたから」(13)
「ポリドールの地下でちょっと練習して。リハーサル・スタジオなんて無かった気がするね。ポリドールの隅っこの 空き部屋で、じゃあ、1、2、3、4なんてね。俺は、もう彼らとやるって決めてるからね。とにかく楽しく(笑)。彼らはわからないよ、楽しいかどうか。で も、若いからみんな楽しいと思うんだけど。どっちかって言うと、俺が勝手にやっちゃうから、みんながそれに合わせることになっちゃうからね。でも、いろん な部分で共通するものがあるから、みんな楽しくやってくれたと思うんだ」(13)


1971/09/25 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。(?)
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/10/02 はっぴいえんど、『ウディ・ガスリー追悼公演』出演。目黒/杉野講堂。
出演:乱魔堂、小坂忠、高田渡、加川良、岩井宏、友部正人、シバ、武蔵野たんぽぽ団

はっぴいえんど
 颱風
 春らんまん


1971/10/05 17:00〜翌16:00 はっぴいえんど、『風街ろまん』ミックスダウン。目黒/モウリスタジオ。

鈴木茂の証言
「ミックスダウンは立ち会ってますよ、全員で必ず」(4)


1971/10/08 はっぴいえんど、『風街ろまん』マスタリング。広尾/吉野金次の事務所。

大瀧詠一の証言
「はじめて、マスタリングって言葉を聞いて、その時にかなり新鮮だったなあ」(2)

吉野金次の証言
「広尾にあった事務所をスタジオ代わりにしていたときがあって、『風街ろまん』はそこでマスタリングしたんです よ。ラッキーなことに、マスタリングする際に、たまたまAMPEXの管球式のテープレコーダーを借りていて、それを使いました。2ミックスの録りはスタジ オのAMPEX AG440っていうトランジスタ式のだったんですけれど。管球式のAMPEXを再生に使うことができた。それでマスタリングのときにぶっとい音になった。 もしかしてオリジナルのマスターよりもマスタリングしたものの方がいい感じだったかもしれないです」(4)


1971/10/09 10:00〜21:00 大瀧詠一のレコーディング。
恋の汽車ポッポ
「次の日から入ったんだ?(笑)じゃ、もう、準備して待ってたわけだよね」(2)
「あっソロ作るんだなって思ったのは、スタジオに呼ばれてからだったかな、ひょっとすると」(2)
「だから、はっぴいえんどのメンバーで行って。あ、これははっぴいえんどなんだなと思っててね。で、よく判んな くて、ソロとはっぴいえんどと、どう違うのかって。ちょっとそこで混乱した事あったんです。で、も一つ、『風街』で、終わったという気持ちがあったんで、 まあ割と冷静に受けとめたんです」(2)

大瀧詠一の証言
「『アイウエオの歌』の続編で『伊呂波』という曲がありました。<イロハ>から<エヒモセス・ン>までを歌ったタワイモナイものでしたが、それを聞いた松本隆に『そんなんじゃ、売れないヨ』と言い切られてしまいました。」(8)
「『どういうものが<売れる>モンなのサ?」ということであがって来たのが『恋の汽車ポッポ』でした。」(8)
「丁度キャロル・キングとの再会の時期だったので、これを『ロコモーション』のパロディーにしようと思いつき、例の機関車の上でのジャケット写真となったのです。」(8)
「しかし『伊呂波』のサウンドはCCR調の軽いR&Rで、ポップスを意識したものではなかったのです。 そこでシャレ心を表すために思いついたのが<細野・ドラム、大瀧・ベース>です。少しオフ・ビート気味の細野の『ロコモーション』と同じスネア・フレーズ で始まるこの曲は<ドラマー・細野>の誕生でもありました。」(8)
「作曲は『はいからはくち』のアルバム・バージョンで登場していた<多羅尾判内>。これからグループでは<変名 ブーム>が起き、細野が<宇野主水>、鈴木茂が<ほしいも小僧>、『風街ろまん』で唯一別名を持っていなかった松本隆は、ここで初めて<江戸門弾鉄>なる 名前を考えて来るのです。」(8)
「またこれを<はっぴいえんど>のメンバーで録音したのは、飽くまでもこの時点では大瀧のソロは<グループ内ソ ロ>で、順番が最初なだけと本人には通知されていたからです。グループを飛び出して完全にソロになるつもりなら、当時いいメンバーが他にいなかったとは言 え、敢えてグループのメンバーを使ったりはしませんでした。」(8)
「1枚目のソロアルバムっていうのは、どう考えても、自分のソロっていう気があんまりしないんですね。半分はそんな感じはあるけど、半分はまだはっぴいえんど続いてるわけだから」(2)
「僕は、そういう種類の、はっぴいえんどのにおいを残したものの方が、まだ帰属意識みたいなものが、はっきり現れてていいのかなあ、と思ったんだよね。あんまり、こう、ヘソの緒切ったかたちではない方が良いんじゃないかなと思ったんだけど」(2)
「考えてやってないんだよ。でも、バンドでやってるわけだからさ、何かバンドの味は残したほうがいいんじゃな い。で、『恋の汽車ポッポ』っていうのは、ご存知の通り、細野さんがドラムで俺がベースでね、茂が一応ギター弾いてるけどもさ、そういうシャレのものを作 りたかったのよ」(2)
「メンバー全員が、全部その好きな事をさ、シャレで入れ替えたりしながら、できたら面白いんじゃないのかなと思ったし」(2)

鈴木茂の証言
「大滝さんの場合はリードヴォーカルって事もあるし、それから岡林さんとかで何か恵まれない立場に立ったでしょ(笑)。ああいうところもあって、ああ出したいのかなって。でもあまり、気持ちいいとはいえなかったね、正直言って。やっぱり何かさみしさを感じるんですよね」(2)


1971/10/13 はっぴいえんど、『風街ろまん』カッティング立ち会い。朝霞/東京電化。

1971/10/17 13:00 はっぴいえんど、マットルーム主催『第3回 日本語のふぉーくとろっくのコンサート』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:RCサクセション、遠藤賢司、小野和子、かまやつひろし、加橋かつみ、吉田拓郎、六文銭、加川良、頭脳警察、ザ・エム、DEW、南正人、
   成田賢、金延幸子、クリンカム・クランカム、ゲッセマネ、トップギャラン、町田義人、
MUTATION 9 BAND

はっぴいえんど
 曲目不明

大瀧詠一の証言
「きつかった。俺、すごくいい出来だったと思うんだよ。自分では。けど、なんか受けなかったんだよね。ちっとも 受けなかった。イメージ・チェンジのように受け取られたみたい。フォークとかカントリーに寄りすぎてる、みたいな。『春よ来い』のような、ぐっとくるもの がないとかさ。こっちは自信を持って、これがひとつの到達点だ、完成形だ、という思いでやってたんだけど、あの日比谷野音のかすり方がヌカに釘というか、 のれんに腕押しというか、あのガックリ感はいまだに残ってるね」(4)

1971/10/23 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。(?)
はっぴいえんど
 曲目不明

1971 友部正人のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。

1971/10 ミッキー・カーティスのレコーディング開始。青山/ビクタースタジオ。

1971/10 小坂忠『ありがとう』発売。
からす:bass, guitar
どろんこまつり:compose, words, arrangement, bass, piano
冬・春・夏:bass
機関車:bass, flat mandolin
ありがとう:compose, words, arrangement, vocal, bass, guitar, chorus
春が来た:compose, words, arrangement, guitar
夕暮れほたる:bass
みちくさ:bass
どろんこまつり
「よく憶えてないんです。あれは何がいいたかったんだろう(笑)。どこから『どろんこ』が出てきたんだろうね。いいかげんだなあ(笑)」(14)
「当時からちょっと問題になっていたみたいです。つんぼさじきという言葉があって、オンエアできなかったですね」(14)

ありがとう
「一緒に歌ってますね」(14)
「小坂忠のアルバムなのに、ぼくの声の方が強いよね(笑)。これはね、ぼくも迷ったんだよ、当時。小坂忠のアル バムのモデルをジェームス・テイラーにしていて、歌い方とかをよく2人でコピーしていた。同じようにやっていて、2人ともJ.Tになっちゃった(笑)。 どっちが歌っても同じようなものだろうと思っていたし、どっちでもいいじゃないって。でもミックスした後に、ぼくも気付いちゃって、ぼくの声の方が強いっ てことに(笑)」(5)
「この歌には思い出があって、日比谷の野音で、小坂忠があれをやったんです。生ギターとバンドでやったのかな。 舞台の袖で高田渡と加川良が見てて、なんちゅう歌だというようなことをいっててね(笑)。彼らのカンに触ったのか。とにかく何かを刺激したらしくて。要す るに同じフィールドのなかで言葉を受け取ったと思うんですよ。あの皮肉っぽい歌。それは当然であって、僕は高田渡を通して谷川俊太郎の詩のリズムが好きでね、それをイメージして作ったんですよ。だから彼らが反応するのも当然だなと思って、一緒に袖で見てたんです。彼らは僕が作ったって知らなかったんですけどね。小坂忠のオリジナルだと思って聴いて、なんちゅう歌だというようなことをいっていた」(14)
「『ありがとう』は谷川俊太郎とジェイムス・テイラーの、枝葉末節といっちゃ悪いけど(笑)。そうしたら、その 後、谷川さんが『ありがとう』という詞を評価していると風の噂で聞いてね、そうかあと思って(笑)。めぐりめぐって、当然のような気もするし、嬉しいよう な気もするし」(14)

春が来た
「カントリー仕立てですね」(14)


1971/11/02 15:00 はっぴいえんど、立正大学『橘花祭』出演。大崎/立正大学中庭。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/02 17:00 はっぴいえんど、早稲田大学『早稲田祭』出演。西早稲田/早稲田大学。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/03 はっぴいえんど、多摩美術大学『芸術祭』出演。上野毛/多摩美術大学。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/04 はっぴいえんど、神戸大学学園祭に出演。六甲台/神戸大学。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/05 はっぴいえんど、近畿大学学園祭に出演。東大阪/近畿大学。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/06 小坂忠の結婚式に出席。

野上眞宏の証言
「11月にしては、寒い朝だった。」(3)
「この日、小坂忠はエイプリル・フール時代に、松本隆を通じて知り合ったペンさんと結婚した。」(3)
「仲人はたしか村井邦彦だったと思う。川添象郎、ミッキー・カーチス、細野晴臣、ワークショップ"MU!"のメンバー、景山民夫、ペンさんが所属していた慶応大学の風林火山のメンバー等の顔ぶれが見えた。」(3)


1971/11/06 夜 はっぴいえんど、慶應義塾大学『三田祭』前夜祭に出演。三田/慶應義塾大学。
出演:はちみつぱい、頭脳警察、吉田拓郎 他

はっぴいえんど
 はいからはくち

野上眞宏の証言
「小坂忠の結婚式が終わった後、慶応の"三田祭"の前夜祭にはっぴいえんどが出演するというので、僕と奥村靫正は見学に行った。」(3)
「先に出演していた頭脳警察は、Tレックス風の扇情的なメロディーにのせた過激な歌詞で、学生たちの気持ちをしっかり掴んでいた。」(3)
「その夜の学生たちは異様に昂っていて、まるでその場の空気全体が渦を巻いているようであった。頭脳警察の演奏は、その渦に巻き込まれたかのように延々と鳴りやまず、時間をどんどんオーバーしていったのだった。」(3)
「はっぴいえんどは、初めのうちは楽屋としてあてがわれた教室で辛抱強く時間をつぶしていたが、だんだんとイライラの度合いが強まり、教室にいたり頭脳警察の様子を見に行ったりを繰り返していた。」(3)
「ひたすら待つうちに演奏への意欲はすっかりそがれてしまった」(15)
「細野晴臣は、政治と良い音楽は絶対に交わらないと僕に言っていたことがある。だけど当時の社会状況は、そのポ リシーを貫くことを困難なものにしていた。頭脳警察が盛り上げてしまったこのような状態は、彼らがなるだけ避けて通りたいというものだったと思う。その 上、頭脳警察の演奏は全然終わる様子もないし、この後の予定がある者もいるので、はっぴいえんどのメンバーはもう帰ろうとまで言っていた。」(3)
「結局、頭脳警察の演奏は終わり、ようやくはっぴいえんどの番になって、彼らはステージに上がった。大滝詠一が マイクの前に立つと、突然、『今日は時間が押してしまったので一曲しかやらない』というようなことを言って『はいからはくち』の演奏を始めたので、学生た ちは騒然となって、飛礫の嵐がはっぴいえんどを襲ったのだ。後で細野晴臣は、ステージで石を投げられて思わず涙が出てきたと言った。ボブ・ディランが石を 投げられた時(フォークからロックに変わってエレキ・ギターを使い始めた時)のことをフト連想して、彼の気持ちが実感できたとも言っていた。メンバーはと もかく一曲やり終えて、それぞれ慶応を後にした。」(3)

大瀧詠一の証言
「頭脳警察がおれらの出番になっても何時間たっても、終わらないんだよね。おれたちは、はやく帰りたくて、時間もすぎてるしさ」(2)
「別に頭脳警察もはっぴいえんどのジャマしようと思ってやったんじゃないと思うんだけどさ。だって30分どころ じゃない、一時間とかなんか押したんだよ。頼むよ、もうカンベンしてよー帰ろうよ、もういいよォ。あっちはあっちでやってりゃいいんだから。俺達はもう時 間もちゃんとやって来てんだから、帰ろうよ、みたいな事言って。よっぽど、よし、帰ろうとかって思った頃には、終わりましたみたいな感じだった」(2)
「出てって、約束がちがうって言って、それで1曲だけやって帰るって言って『はいからはくち』やって、それから 石がビンビン飛んできて、バカヤローなんて、それで『はいから』すごい勢いで1曲やって、じゃんじゃんじゃーん。ってやってさ。全部♪君ははいからって いって(笑)」(2)
「僕ははいからじゃないの。もう、頭に来てるから。二番とも、♪きーみははいから、君はーはいからー、ばかやろーとかさ(笑)」(2)
「1曲だよ1曲。話と全然違ってあんなとこ1曲で終わりにした。『もっとやれェーっ』って。どうしようもないん だよなあ、本当になあ。バーンとかいってそのままコードなんかウォーって引っこぬいてさ、もう最初っから帰る支度してるんだから。それですぐ帰ったんだ よ。何にも後の事知らない」(2)
「よしだたくろうに後で会ったら『お前らよお、三田祭のアレよォ、覚えてるかよ』なんて急に言われてさ、『お前 ら、あの後俺達大変だったぜ、あれ、静めるのによお。」なんて言われて。あの後吉田拓郎だったんだって。俺、そんな事全然知らなくて、もう野となれ山とな れでさ、ざまあみやがれ、なんて、帰って来ちゃったけど」(2)

PANTAの証言
「(編注:はっぴいえんどの)存在は知ってた。でも特に意識はしてなかった。俺は彼らとはまったく違うやり方で日本語をビートに乗せようとしていたから」(16)
「スタッフ同士が敵対していたところはあるけど、俺自身は彼らに対して何のこだわりも持っていないよ」(16)
「俺自身が"風都市"のシステムに対して反発していた。つまり俺と風都市の喧嘩だと思ってもらえばいいや。だから、はっぴいえんどのメンバーとの喧嘩じゃないんだよ」(16)
「三田祭の実行委員会のほうから頭脳警察に出演依頼があった。本当だったら風都市側は全部仕切りたかったんじゃ ないの?それでも実行委員会は頭脳警察に出て欲しいから、ダイレクトに連絡してきた。そういう前提があって、会場に着いたら風都市側のスタッフから"頭脳 警察やる時間ないよ"って言われてさ。俺たちが少し遅刻したんだ、前のライヴが押したせいで。"ああ、じゃあしょうがない、帰ろうか"って。俺はもうその まま駐車場のほうへ戻りかけたわけだ。でも、火をつけるだけつけて後はなんにもしないトシという男がそばにいるわけだよ(笑)。俺が車のキーを挿した時に "このまま帰るのかよ?"ってトシが言うんだ。で、"それもそうだな。やるか"って。それで俺がパッと踵を返したと同時にヘルメットおよび親衛隊がダーッ と散っていくわけだ。はちみつぱいがステージを降りた直後、はっぴいえんどが上がるはずだったステージを頭脳警察が占拠した。俺たちが演奏を始めると同時 に親衛隊がステージを取り囲んだんだ。妨害が入らないように。で、延々1時間やったわけだ」(16)

※編注:この日の公演の様子と楽屋などでのスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


1971/11/06 夜 小坂忠の結婚披露宴に出席。新宿/ヒルトンホテル・スイートルーム。

野上眞宏の証言
「その日はその後も小坂忠の結婚パーティがあったので、細野夫妻と奥村靫正と僕はヒルトン・ホテルに向かった。スイート・ルームには、結婚式に来ていた連中のほかにも、高橋幸宏、東郷昌和、フラワー・トラヴェリン・バンド、柳田ヒロ等々が来ていて賑わっていた。」(3)


1971/11/10 遠藤賢司『満足できるかな』発売。
満足できるかな:bass, piano
待ちすぎた僕はとても疲れてしまった:wood bass, guitar
寝図美よこれが太平洋だ:wood bass, chorus
雪見酒:bass, piano, electric piano

1971/11/11 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/14 はっぴいえんど、『全日本ロックフェア』出演。茂原市民会館。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/20 はっぴいえんど『風街ろまん』発売。
抱きしめたい:bass, piano, organ
空いろのくれよん:bass, piano
風をあつめて:produce, compose, guitar, bass, organ, vocal
暗闇坂むささび変化:produce, compose, guitar, bass, vocal, flat mandolin
はいからはくち:bass, clabe, chorus
はいからびゅーちふる:cow-bell, chorus
夏なんです:produce, compose, guitar, bass, vocal, chorus
花いちもんめ:bass, piano, organ
あしたてんきになれ:produce, compose, bass, piano, vocal
颱風:bass
春らんまん:guitar, bass, chorus
愛餓を
「これをぼくのデビュー作と考えてもらえればうれしいね(笑)」(5)
「歌を自分で歌えるようになったということが大きいし、このアルバムで『風をあつめて』と『夏なんです』ができたから、まっいいか、と。ぼくはロックが歌えなかったんだから」(5)
「一人ひとりのキャラクターを生かしていくということが非常に大事だと思っていたんです。例えばビートルズはレノン=マッカートニーで支えられてきたけど、後半ジョージ・ハリスンの曲が出てきたときに面白くなってきた。あるいはバッファロー・スプリングフィールドというグループは、メンバーのスティーブン・スティルス、ニール・ヤング、リッチー・フューレイと いう三つの色合いが重なって非常に豊かに聴こえる。それまでのロック・バンドは、だいたい誰か作曲家が作ったものをやったり、あるいはヴォーカルが前面に ひとりいて、あとは非常に無名性で、バンドもひとつのバンドの顔としてやっていた。でもそういうのはもう古い。一人ひとりのキャラクターがたまたま集まっ てやっているんだから、というような気持があったんです。どんなサウンドにするかは、暗黙の了解としてあって、それに向かってみんな精進する。人の音楽を 手伝うという気持じゃなくて、自分のサウンドを作っていくというバンドの意識はあるわけです」(14)
「ところがセカンド・アルバムを作ったら、今度は、やることがなくなっちゃった」(17)
「結局、最初にやろうとしていたことがある程度できちゃった」(14)
「そのころは、みんな純粋だったから、商売のことなんて考えていなかったし、儲けようなんてことも考えていな かった。もう、何か燃焼すればいいんだろうと思っていたから、いままでできなかったことを反省して作ったこのアルバムで、ほんとうに、みんな燃焼しつくし てしまったんだ」(17)
「そうすると、もういっしょにやってゆく必要がないんじゃないかって、暗黙のうちに、メンバー全員がなっとくしてしまった」(17)
「グループで出来ることっていうのはすごく凝縮された時間に出来てしまうんだけど、グループっていうのはやっぱ り個人の集まりだからね、個人から始まって個人に還るっていうスタイルがあるんだ。『風街ろまん』が出来ちゃったことで、はっぴいえんどにもその兆しが見 えてきたの」(1)
「大滝にとってみたら、『バッファローがわかった』って言う前は、ビージーズなんかのソフトでポップな音楽の世界が豊富だったから、はっぴいえんどっていうのは特殊な時期としてあったと思うの」(1)
「ぼくにしても、子供の頃のハリウッドの音とか、色々と幅のある経験からすると、はっぴいえんどでやってるってことは特殊な時期だったろうし」(1)
「それは松本にも言えて、文学青年だった彼が音楽に触れて、歌詞というところで表現してきたのが、『風街ろまん』でひとつ昇華しちゃったわけね。次に何を書いていいかわからなくなってた」(1)
「また、茂はまだ自分というものが見えてなくて、『花いちもんめ』でやっと曲を書き始めた頃だから」(1)
「そんな時に、大滝が、突然ソロ・レコードを作り出した。そういうのはけっこうメンバーの刺激になるんだよ。あ、これはなんか変わってきたんじゃないかっていう情報だからね。ソロをやるっていうことは、はっぴいえんどだけでは何かが足りないということだろうから」(1)
「はっぴいえんどのほうは、精神的な活動が活発じゃなくなっていったのね。有機的じゃなくなっていってしまった」(1)
「解散するんだという意識は無いわけです。ただ一仕事やったということがあるからね、さあ次何やろうかって事 は、その時は考えてなかった。明確な意識は無いんですけど、多分その、潜在意識の中には、そういうものは溶け込まれてるとは思うんです。長く続けちゃいけ ないっていう事で。新陳代謝をよくしていこうっていう」(2)

大瀧詠一の証言
「他の人たちにはまた違う思いもあったんだろうけど、少なくともぼくに関してはだんだん萎えてきましたね。どこ か到達すると集中力とポテンシャルが一気に萎える、というのが特徴で(笑)。ライヴもね、あまり気が進まなくなっていたね。俺にかかる負担が大きいから。 声の調子の悪い日とかもあるし。なんかだんだんライヴは憂鬱になってきましたね。アルバム2枚目でもう完成形が出て、完成・円熟・余裕・倦怠・退廃……だ ね」(4)
「結局まだ『抱きしめたい』とか『はいからはくち』とか細野さんの『風をあつめて』とか、そういう完成形に至らないバンドは長く続けるんじゃないの?」(4)
「確かに普通、ビートルズだとかちゃんとしたバンドなら違う。『抱きしめたい』『はいからはくち』『空いろのく れよん』をもって、これをさらに発展させていくのがスーパー・グループなのかもしれない。でも、ぼくはジョンとポールのような才能を持ち合わせていない し。『あ、いいところに来た』って声かけられただけの通りがかりの者だったし。これだけ出来ただけでもたいしたもんだと思ったんでしょうな」(4)

松本隆の証言
「できあがった時に、なんかもう、完成しちゃったという感じだよね。『サージェント・ペパーズ』までいっちゃったみたいな、二枚目で。早すぎるなとは思ったけど、もうこれ以上やることなくなっちゃったような気がしたね」(9)
「このアルバムは誰にもこれを超えられないだろうし、自分でも超えられないだろうなって、それが実感だった。あそこでもう解散モードだよね」(9)

鈴木茂の証言
「それぞれが自分のやりやすい場所、居心地のいい場所を理解したという感じ」(10)
「少しずつゲストが入ってきた。ソロ・プロジェクト化し始めちゃったんですよ。まだ2枚目なのに(笑)」(10)
「『風街』を作った時にかなり、大滝さんにしても細野さんにしても、自分の世界を作るのに夢中になっていた時期だと思うんですよ。で、バンドまとめていくっていうよりも、そういったものが先行しちゃってる部分があった」(2)


1971/11/20 はっぴいえんど、東京理科大学『理大祭』に出演。神楽坂/東京理科大学。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/20 はっぴいえんど、FM東京の公開録音に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/22 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど with 小坂忠
 曲目不明

1971/11/24 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/11/26 はっぴいえんど、NHKラジオ第一『若いこだま』収録。渋谷/NHK505スタジオ。
出演:吉見祐子、渡辺武信

1971/11/27 はっぴいえんど、京都体育館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/03 22:15 NHKラジオ第一『若いこだま』放送。

※編注:この日の放送は、CD『はっぴいえんどBOX』Disc 5(プライム・ディレクション/2004年)のCD-EXTRAコンテンツとして収録されている。


1971/12/05 はっぴいえんど、レコード店主催のコンサートに出演。青森。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/06 はっぴいえんど、レコード店主催のコンサートに出演。青森。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/09 はっぴいえんど、『全日本ロックフェア』出演。甲府市民会館。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/10 はっぴいえんど、「花いちもんめ/夏なんです」発売。

※編注:『風街ろまん』からのシングルカット。


1971/12/10 大瀧詠一「恋の汽車ポッポ/それはぼくじゃないよ」発売。
恋の汽車ポッポ:drums

1971/12/11 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/12 18:00 加川良バッキングのリハーサル。麻布/アオイスタジオ。

1971/12/13 18:00 加川良バッキングのリハーサル。麻布/アオイスタジオ。

1971/12/17 はっぴいえんど、風都市主催『風都市』出演。文京公会堂。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/18 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/19 はっぴいえんど、『全日本ロックフェア』出演。名古屋港湾会館。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/24 はっぴいえんど、岡山市民会館に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/12/26 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/12/27 加川良のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
ポケットの中の明日
その朝

1971/12/28 加川良のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。

1971/12/31 はっぴいえんど、『第1回全日本フォーク・フェスティバル 71-72』出演。両国/日大講堂。

野上眞宏の証言
「細野晴臣は風邪で悪寒がする、最悪の気分だと言いながら、僕の白のランチ・ジャケットを借りて演奏を終えた。」(3)

※編注:この日の公演の様子を収めたスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


<出典>
(1)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(2)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(3)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(4)CD『はっぴいえんどBOX』同梱ブックレット プライム・ディレクション/2004年
(5)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(6)北中正和責任編集『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』 音楽出版社/2004年
(7)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(8)CD 大瀧詠一『大瀧詠一』ライナー・ノーツ ダブルオー・レコード/1995年
(9)『SWITCH』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(10)『サウンド&レコーディング・マガジン』5月号 リットーミュージック/2004年
(11)『ロック画報』02 ブルース・インターアクションズ/2000年
(12)CD『風街図鑑』街編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(13)『ロック画報』15 ブルース・インターアクションズ/2004年
(14)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(15)野上眞宏写真集『HAPPY II  SNAPSHOT DIARY:1970-1973』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(16)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(17)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
update:2023/11/3

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