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chronology 1971 - 1


1971/01/06 はっぴいえんど、『音楽舎初場所 - はしだのりひことクライマックス結成コンサート』で岡林信康のバッキングを行う。大阪フェスティバルホール。
出演:はしだのりひことクライマックス、五つの赤い風船、遠藤賢司、アテンション・プリーズ、高田渡、加川良、岩井宏、斉藤哲夫、マヨネーズ

岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
 曲目不明


1971/01/14 はっぴいえんど、高田渡バッキングのリハーサル。
失業手当
自転車に乗って

1971/01/15 はっぴいえんど、フジテレビ『ナイトショー』出演。
はっぴいえんど
 春よ来い
大瀧詠一の証言
「TV初出演で、ひとり3千円のギャラ」
(1)

1971/01/16 はっぴいえんど、高田渡のレコーディング。音羽/キングスタジオ。
失業手当
自転車にのって

1971/01/17 はっぴいえんど、代々木区民会館に出演。

1971/01/21 はっぴいえんど、『岡林信康+浅川マキ+黒田征太郎+α ジョイントコンサート』で岡林のバッキングを行う。はっぴいえんどとしては岡林とのラストステージ。新宿/東京厚生年金会館。
出演:浅川マキ 他

岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
 自由への長い旅
 他

大瀧詠一の証言
「『はいから』とか、『抱きしめたい』とかできてたんですよね。もはや、70年の暮れに」(2)
「71年には、そういう曲を中心に、アルバムに向かおうってことは、暗黙の内に、もう出来てたんでしょう。だからそれには、岡林のレコーディングは、もうやめないと、レコーディングなんてできない、と。というようなこともあって」(2)
「年末には、もうそろそろやめるって話になってたんでしょ。じゃあ残ってた仕事だけをやってやめようって言うことで、どこかキリのいいとこってことで、この厚生年金大ホールで、浅川マキが一曲歌ったら岡林が歌うみたいな、両方バンドが出て」(2)
「最後はたしか『自由への長い旅』だったんですよ。で、最後に岡林が僕の顔ってわけでもないけど、みんなをふりかえって見て、『これで最後やでエーッ』て言ったんですよ」(2)
「岡林さんは未練があったんじゃないですか、かなり。これが、まあ、最後のコンサートでした」(2)

1971/01/23 はっぴいえんど、三浦光紀らキング・レコードのスタッフと、シングル・レコーディング及び販売権の打合せ。音羽/キング・レコード。

大瀧詠一の証言
「はっぴいえんどを売り出そうってことになったんじゃないですか。そういうようなことも含めて、1月23日キングレコードから、2月4日で、キングの人達とキングで打ち合わせしたって書いてあるから、これ『12月』のシングルなんですよね」(2)
「キングから正式に出るみたいなことをちょうどここからピンに、単独になったっていうことで、売り出そうという ことで、この辺のシングルを出していこうみたいなメジャーなキングからっていうことじゃないかな。まあ、みんながそうだったかもしれないけど俺もそうだっ たんだけども、具体的にどういうことが行われて具体的にどうなって具体的な意図がどうなっていたかという、はっきりした把握はないんだよね」(2)

鈴木茂の証言
「やっぱり、売れたいっていうのがあったんだろうね。先ずURCで作り終わって、それで高田渡だとか、ああいう 連中と仲良くなって、確か連中が最初に、もうベルウッドに行ってたんですよ。その関係で僕達は、こっちに来ないかって言われてて、で、URCが何かいまい ちマイナーなんで、向こうのほうがいいんじゃないかって」(2)

三浦光紀の証言
「結局ね、はっぴいえんどってのはね、メジャーでやりたかったんですよね。特に大滝くんなんかはなんかはヒットしたい。さかんに、あの頃からポップス研究してたから、そういう意識があったから」(2)
「で、シングル出すんだったらメジャーから出したい、という事じゃなかったかと思うんだけど」(2)
「大滝くんがシングル出したがってた記憶が結構あるんですよね。だからこれも大滝くんじゃないのかな」(2)


1971/01/31 はっぴいえんど、『聖ロックコンサート』出演。新宿/東京厚生年金会館小ホール。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971ごろ ジェームス・テイラー『スウィート・ベイビー・ジェームス』を聴く。

「当時の日本のロックには、歌うスタイルのモデルが必要だったんだよ。大瀧君はスティーヴ・スティルスニール・ヤングのような声も出せる声帯を持っていた」(3)
「僕は高い声に憧れているんですよね」(2)
「ニール・ヤングの様にも、スティーブン・スティルスの様にも歌えないんです。どうしても」(2)
「僕がそれまで大好きだったちょっとハードなロックは自分では歌えない。で、歌えない曲は作れないっていうことね」(4)
「自分で歌う曲っていうのは、自分の歌の表現がないと、いい曲ができないんです。ですから、まず歌が歌える事になると、曲ができるんです」(2)
「人に書く曲っていうのは、又違うんです。曲として完成させちゃえばいいんです。自分で歌うとなると、ズレがあるんですよね。完成された音楽の世界と自分の表現力と、ずいぶん違うわけです」(2)
「そういうことを改めて知って葛藤したわけですよ。どうやったら歌えるかということをずっと考えてたんですね」(4)
「そんなときにジェイムス・テイラーを聴いたんだ」(5)
「たしか小倉エージに"こんなのはどう?"って紹介された」(3)
「聴きこんでゆくうちに、すごく波長があって、好きになった」(5)
「ギターの魅力と声の質、そして発声法と、いいメロディー、コード・ワークとバッキングで、トータルに没頭できるものだったの。しかもポップスで、アヴァンギャルドではなくて」(3)
「彼の歌は万人に受け入れられる素朴さを持ち、もはや特殊なロック(またはフォーク)から脱しているし、それはまるでフォスターの後を追っている様だ。」(6)
「僕にもぴったりとくる音域だったんだ。しかもノン・ヴィブラートのストレートな発声法っていうのは初めてだった。ロックにもフォークにもなかったのね」(3)
「考えてみると、音域とか歌いまわしとか、すごく似ているんだ。そうか、こういう歌い方があったのか、と気がついて、マネしてみた。そしたら、うまく歌えるようになった」(5)
「自分が歌えるのはロックではないんだっていうこと」(4)
「フォークとは言えないけどそういう、自分はジェームス・テイラーみたいなサウンドでは歌えるということが分かった」(4)
「僕はJTといえば『スウィート…』が一枚あればいいんだ。とにかくこのアルバムにはトータルに影響されたね。特に生ギターの奏法をね」(3)
「ギブソンのJ50、あのギターにあこがれたんだよ。あの地味な音がね、なかなか出ないの。他の人はだいたいマーチン系の派手な音でやってたの」(3)
「大事なことだったの。あのギブソンがないとJTの魅力が半分ぐらいなくなっちゃうからね」(3)
「『スウィート…』を聞いて、"JTは僕と同じような体験をしている人だ"という気がしたことが影響を受けた理 由にあるの。JTはおそらくサイケのダーク・サイドに触れて、精神的な危機を体験しているわけ。そういう中からあの、癒されるようなサウンドが出てきたん じゃないかな?そこがひょっとすると一番本質的に影響が強かった点かもしれない」(3)
「その一番最初に飛び込んでくる感覚っていうのが、語りにくいことなんだけど、一番大事。実は音楽ってのはそういうもんでね」(3)
「私 は衝動的なサイケデリックから始まって、ブルースのインプロビゼーション、ハードロックのビートに没頭した頃があった。ロックが好きな者ならこれは当然体 験することであるが、しかし、こういった音楽がなければ、或いはこういった時機を経験しなければジェームス・テイラーの様な音楽の必要性がわからないとい うことがいいたい。」(6)
「つまり、テイラーの音楽は、ハードロックに疲労した頃を見はからって聞くと絶大な効果がある。彼の音楽には疲労し た心のすき間に知らないうちに入ってきて、それがいつの間にか身体いっぱいに広がってゆくものがある。不思議な事だが私は耳には聞こえない強烈なる『安ら ぎのビート』を感じる。ツェッペリンの好きな元気いっぱいの人が聞けばそれは余りにも地味に聞えるだろう。しかし、ジェームス・テイラーを必要とし受け入 れる要素はボサノバやバカラックを聞いている人ではなく、まさにツェッペリンやシカゴな どに熱中している人にこそあるのだ。Taylor, そしてBaffalo, The Bandなどはロックを煮つめれば必然的に生れてくる音楽であり、そのやすらぎはボサノバのそれではなく、ロックなのである。これらの煮つまったロックは 一方に必ずツェッペリン、シカゴの様な音楽があってこそ生れるものであり常に両者が対比されながら共存していかなければ両者の意味が半減されると思う。」(6)
「JTはなんか不思議な存在なんだよ(笑)。何かが自分の中で融合してるんだと思う。…たぶんカントリー・ ミュージックだと思う。それからクラシックとか。(3)
「私の音楽はカントリーミュージックから始まった。童謡や小学唱歌と共に、それが私の根本に脈打っていることを思い出させたのはPocoよりもFlying Burrito BrosよりもTaylorのアルバムなのだ。」(6)
「ただ、そこに謎の部分があって。この人独自の文脈持ってるから。兄弟の音聞くとみんな同じような文脈持っ てるでしょ?この家族がみんな持ってる何かがあるんじゃないの?(笑)」(3)


1971/02/01 はっぴいえんど、ミーティング。


1971/02/02 はっぴいえんど、ミーティング。音羽/キングスタジオ。

1971/02/03 17:00〜翌1:00 はっぴいえんど、レコーディング。音羽/キングスタジオ。
12月の雨の日
「キングのスタジオです。それは覚えてます」(2)

大瀧詠一の証言
「シングルになったやつですね。この時のミキサーは山崎(編注:聖次)さんって人。うん、この時はキングのハウ スミキサー。この時8chだったと思う。それでやたら生ギター重ねたの覚えてる。エージが来て、『もっとかさねようよ、もっとかさねようよ』なんて、あお られたのは覚えている」(2)

三浦光紀の証言
「ジョージ・ハリスンの『マイ・スウィート・ロード』か何か出た時に、大滝くんだったか誰だったか忘れたんだけど、あれと同じアレンジでやろうって言って『12月の雨の日』やってたから。だから、あのアレンジの下地はジョージ・ハリスンですね」(2)


1971/02 岡林信康『岡林信康コンサート』発売。
岡林信康
 性と文化の革命:bass
 それで自由になったのかい:bass

はっぴいえんど
 かくれんぼ:bass
 はいからはくち:bass

岡林信康
 おまわりさんに捧げる唄:bass
 君を待っている:bass
 だからここに来た:bass
 自由への長い旅:bass
 私たちの望むものは:bass
 今日をこえて:bass

※1970/12/01@神田/共立講堂


1971/02 岡林信康「家は出たけれど/君を待っている」発売。
家は出たけれど:bass
君を待っている:bass

1971/02/15 18:00〜22:00 はっぴいえんど、高田渡バッキングのリハーサル。岩井宏、加川良、中川五郎が見学。新宿/御苑スタジオ。

1971/02/16 11:00〜17:00 はっぴいえんど、高田渡のレコーディング。音羽/キングスタジオ。
しらみの旅
銭がなけりゃ

1971/02/18 予定されていたはっぴいえんどのレコーディングが、松本隆の欠席により延期になる。

1971/02/28 12:00 はっぴいえんど、レコーディング。音羽/キングスタジオ。
はいからはくち

1971/02ごろ シローとブレッド&バターのレコーディング。
野生の馬

1971/03ごろ 小坂忠のソロ作の制作開始。村井邦彦と知り合う。

「『ヘアー』が終わって、小坂忠が今度はひとりで、村井さんが持っていたマッシュルーム・レコードと契約した。アルバムを作るから、手伝ってくれ。曲も作ってくれって頼まれたの」(7)
「何も考えずに始めたの」(3)
「同時に作っていったんです。詞と曲と」(8)
「『ありがとう』って曲と、『なんとか祭り』(編注:どろんこまつり)って曲が出来てね」(2)
「小坂忠がJ50を手に入れてね。それで『ありがとう』を作った」(3)
「これは作った時に、しまったと思ったんですね(笑)。あ、これは、はっぴいえんどでやる曲だなって思って、そういう曲ができちゃったんで。で歌い方が、その時僕は、自分で発見できたんですよね」(2)
「自分の声を出すことをやっているうちにできた曲が『ありがとう』で、自分でも歌いたかった曲なんです」(8)
「あの曲で僕は自分の一番ベストな表現というのの片鱗をつかめたような気がしたんです」(8)
「やっと自分の方法論が分かってきて、初めて"できた!"と思った記念的なものなんだよ」(9)
「歌うということについて、ここで何かつかんだ部分はある。だから、これ(『ありがとう』)がなくちゃ、『風街ろまん』ができない」(9)
「当時『ありがとう』をメンバーのみんなに聴かせたら、これははっぴいえんどの曲だって言われたんですよ」(4)
「だからひょっとすると、はっぴいえんどがやっていた曲かもしれないんです」(8)
「しかし既に遅くて、それはもう小坂忠の為に作っちゃったんで、小坂忠が気に入っちゃったんで」(2)
「小坂忠は親友だったんで、彼のデビューを飾るためにと提供したんです」(8)
「忠に頼まれたら、持ち駒を出さなくちゃいけないんだ」(9)
「後悔したけどね」(9)
「よりフォーク的な方法論に接近していったんだと思いますね。ロックじゃなくて。当時、ジェイムス・テイラーやトム・ラッシュに影響されていたせいもある。フォークで、しかも非常にエレクトリカルな新鮮なサウンドというのが出てきたときで」(8)
「小坂忠の唱法をいろいろ考えていてね。その前に彼と組んでいたフローラルからエイプリル・フールまでが、ジム・モリソンロバート・プラントみたいなシャウト唱法だったでしょ。で、そういう時代がそのころ変わろうとしていて。いわゆるシンガー・ソングライターが出てきた」(3)

村井邦彦の証言
「細野との最初の出会いは、マッシュルーム・レコードのときの小坂忠の『ありがとう』(71年)だね」(10)
「そのころ知り合って、2人とも温泉が好きでさ。なんか気も合うし、休みにいっしょに温泉に行ったりして、温泉仲間みたいな感じだったな」(10)

※編注:小坂忠『ありがとう』の詳細な録音時期は不明だが、「レコーディングにて。71年3月頃」とのキャプションが付されたスナップが、小坂忠& Friends『Concert 2001』パンフレットに掲載されている。


1971/03/08 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/03/11 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/03/12 12:30 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。ビクタースタジオ。
自由への長い旅

1971/03/13 はっぴいえんど、加川良バッキングのリハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/03/14 はっぴいえんど、シングル「12月の雨の日/はいからはくち」のためのポスター用写真撮影。

1971/03/21 はっぴいえんど、プロモーション・フィルムの撮影。富津/マザー牧場。

鈴木茂の証言
「マザー牧場かどっか行って、歌唄って」(2)


1971/03/22 はっぴいえんど、プロモーション・フィルムの撮影。富津/マザー牧場。

1971/03/23 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。
出演:DEW、ぱふ

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/03 立教大学社会学部産業関係学科を卒業。

「卒業までに5年かかってるの。べつに5年目になって勉強したわけじゃなくて、紛争で学校側が何がなんだかわからなくなって、みんな出しちゃったのね」(7)
「卒業論文というのもいちおうあって、社会学かなんかのレポートだったけど、ぼくははっぴいえんどの詩を書いて 出した。原稿枚数なんか、指定よりまるで少なかったけど、『ぼくははっぴいえんどというグループをやらなくちゃいけない。こんなところにはいられないから 卒業させてください』って書いたら、卒業させてくれたの」(7)


1971/03/29 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
私たちの望むものは

1971/03/30 はっぴいえんど、加川良のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
ゼニの効用力について
他3曲

1971/04/01 はっぴいえんど「12月の雨の日/はいからはくち」発売。初回プレス1万枚。
12月の雨の日:bass, guitar
はいからはくち:bass, chorus
三浦光紀の証言
「当時としてはものすごい数字なんだよね。だからそうとう僕はがんばったんだよね(笑)。とにかくもう、音楽的 にははっぴいえんどが一番好きだったからね。何が何でも好きだったから、そうとう気合いが入ったんだろうね(笑)。会社でも。僕としては、会社を説得した のは、とにかくこれを売ってアルバムを出してヒットさせるからって事で、多分説得したんだと思うんですよね」(2)
「キングレコードはね僕のやってるものが解らなかったんで、もう初回の枚数からね、発売のひにちから全部、僕に任せてたんですよ。解らないって、これ聞いて何枚売れるか。だから、僕の言う通りに出したんです」(2)
「あのシングル盤を当ててアルバムを売るから、このシングル盤の頭を多くしてくれって言ったんじゃないかなと思うんだよね、多分、一万枚って事はね」(2)
「でも、まあ売れなかったんだと思う」(2)

1971/04/01 岡林信康のレコーディングで大瀧詠一とともにディレクション。ビクタースタジオ。
もずが枯木で

1971/04/05 はっぴいえんど、リハーサル。

1971/04/06 はっぴいえんど、代々木/山野ホールに出演。
出演:遠藤賢司

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/04/09 12:00/17:00 はっぴいえんど、『BE-INN』出演。渋谷/西武百貨店。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/04/09 夜 はっぴいえんど、加川良バッキングのリハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/04/10 シローとブレッド&バター「野生の馬/雨の日のあなたは」発売。
野生の馬:arrangement, bass

1971/04/10 12:00/17:00 はっぴいえんど、『BE-INN』出演。渋谷/西武百貨店。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/04/10 夜 はっぴいえんど、加川良のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。

1971/04/11 13:00/16:30 はっぴいえんど、『BE-INN』出演。渋谷/西武百貨店。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/04/12 18:00〜22:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。
抱きしめたい
北中正和の証言
「御苑スタジオに着く。はっぴいえんどのメンバーは、ちょうど練習を終えたところらしく、楽器をつまびいたり、音楽舎の人を相手に盛んにギャラ・アップの交渉などしたりしていた。4月12日の夜10時。(1)
「そこから全員、松本君の運転する車で、彼のアパートへ。」(1)

1971/04/12 はっぴいえんど、北中正和のインタビュー取材を受ける。松本隆宅。

北中正和の証言
「コーラを飲み、おつまみを食べ、都知事選を振りかえるTVの番組を見て、ハタノ候補は左手の振 り方が冴えないから落選したんだよ、きっと、なんて話しているうちに、細野、鈴木両君がメンコに打ち興じはじめた。そのうち、ブリジッド・バルドーの出演 するなつかしの映画が放映されるというので、みんながTVの回りに座ったところで、なんとなく昔噺をはじめることになった。」(1)
「メンバーの華やかな女性関係の噂などあった」(1)
「メンバー全員メンコやローメン飛ばしが好きで、話が終るとまたやりはじめた。」(1)

※編注:『ニューミュージック・マガジン』5月号(5月1日発売)に掲載。

1971/04/13 18:00〜22:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

夏なんです
「サイケデリックっていうのは、頭の中には無くなっていて、ソロの、シンガー・ソング・ライターの、ああいう地道な音楽づくりっていうのに又もどっていて」(2)
「はっぴいえんどって形がね、まあ、ある程度できてきて、2枚目のレコード作る段階で、今度問題になって来るの は、コンセプトじゃ無くてね。僕の個人的な、歌だったり、曲だったりするわけですね。ですから、それで非常にまあ、パーソナルな路線に、なってるんですけ ども。自分の歌い方を発見したりとか」(2)
「シンガー・ソング・ライターっていう人達が台頭して来てね。バンド・サウンドっていうのは、なかなか、衰退していった時期なんです。ですから、はっぴいえんども非常に、個人的な色が強くなってきたという事ですね」(2)
「バッファロー・スプリングフィールドも解散しちゃってて、それぞれがソロ・アルバム出してた時期。そのソロアルバム聴いてたんですから。という事は、ソロの傾向も強くなってきてるんですね。一人一人、スタイルができてきてますね」(2)
「『夏なんです』が最初ですね。その時は、明確な意識があったと思っているんですよ、曲の方は」(2)


1971/04/14 はっぴいえんど、『加橋かつみコンサート』出演。大手町/サンケイホール。
出演:加橋かつみ、斉藤哲夫、高田渡、加川良、岩井宏、アテンション・プリーズ

はっぴいえんど
 いらいら
 しんしんしん
 12月の雨の日
 抱きしめたい
 はいからはくち

※編注:この日の演奏の模様は、ライヴアルバム『GREEEATEST LIVE! ON STAGE』(ソリッド/1986年)に収録されている。

1971 かねのぶさちこのレコーディング。
時にまかせて
大瀧詠一の証言
「バックのメンバーは松本隆・ドラム、大瀧・ベース、細野・ピアノという、変則パターンの<はっぴいえんど>です」(11)
「ステージではジョニ・ミッチェルのように生ギター一本で歌う彼女でしたが、このレコーディングでは[はっぴいえんど]のメンバーと彼女自身のダビングによる多重コーラスを加え、フォーク色が濃い原曲よりもポップな感じに仕上げました。」(12)

金延幸子の証言
「あのアレンジの感覚は全く大滝君で、全然私の感覚と違ったわけ。私としては自分の感覚でアレンジしたかったん だけど……。大滝君の場合は歌い方からもう全部変えたからね。万事がそんな感じだった。私はもっとシンプルに、もっと感情を入れた感じでやりたかったんだ けど、それが何か妙にポップになっちゃったような。そんなこんなで、プロデューサーとしての大滝君とは音楽的な面でかち合うところが出てきたわけ」(13)
「あのテンポじゃなくて、もっと泥臭くやりたかったのよ。アーシーな感じで。だから、私があの頃ライヴで歌って た<時にまかせて>の、あの感じでバックにリズムを付けたかったの。もっとディラン的な、始めに歌ありきみたいな感じ。まず歌があって、それに合った形で リズムをつけるような感じでやりたかった。ヴォーカルを最初に録って後でリズムをつけるっていう感じでね」(13)
「当時大滝君は、細野さんに対してすごく尊敬心があって、お兄さんのように慕ってた。それと同時にライヴァル的 な意識もあったんじゃないかな。あくまで個人的な意見だけれども、<時にまかせて>を自分流にアレンジして見せたのも、そういう部分があったからなんじゃ ないかしら」(13)


1971/04/21 17:00〜21:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/04/22 18:00〜22:00 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/04/24 はっぴいえんど、『'71フォーク・ジャンボリー プレ・コンサート』出演。目黒/杉野講堂。
出演:六文銭、吉田拓郎、遠藤賢司、斉藤哲夫、なぎらけんいち、あがた森魚、のこいのこ、森田洋子 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/04/26 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971 南正人のレコーディング。エンジニアとして参加していた吉野金次と知り合う。グラスによるバッド・トリップを経験。

「あるミュージシャンの周辺の連中のセッションに参加し出して、いわゆるグラスというのを、セッション中にまわっ てくるのを吸いはじめたんです。その前、エイプリル・フールのころから、ヒッピーのアメリカ人がインド経由で日本に寄るというケースが多くて、退役した兵 隊だったか何だか知らないけど、放浪者がいわゆるハシシとかそういうものを持ち歩いていた。バンドというと必ずそういうやつが寄ってきた。僕の実家に泊 まったこともあるんです、どこの何者か知らないやつが。ただ、ほんとにおとなしくて聖者のような顔してね。インド帰りの瞑想しているような連中がうちに泊 まっちゃ、そのお礼にって、くれたりするんですよ。一九六〇年代のサイケデリック・ブームのときは日本にはファッションと音楽が入ってきて、中心のものが なかったわけです。何がトリップなんだかさっぱりわからないけど、とにかく音楽はサイケデリックだと(笑)」(8)
「サイケデリック・ミュージックがすごい好きで、連中はみんなそういうことやってああいう音楽をやってんだと思うとね、これはやらずにはいられないという気持ちで」(14)
「実際本当にそういう風に思っちゃったのね、僕も」(14)
「遅れて そういうものが入ってきて、やっと体験できるという期待もあったんです」
(8)
「あの頃の人はみんなそうだったんじゃないかな」(14)
「周りの人たちも一緒になってやって、子供だったから、はしゃいじゃうだけで単なる 遊びで終わっちゃってて、文化にも何にもならなかったですけどね」
(8)
「そんなにショックじゃないですよ。遊びでしたし、真剣な態度じゃなかったから(笑)」(14)
「そういうエイプリル・フール時代があって、はっぴいえんどのときはあんまりやらなかった んですけど、たまたまその時はセッションの人がそういうことが好きでね」
(8)
「セッション中にまわってきたのが、何か知らないけど農薬が入っていたのか何かだった(笑)。僕は人一倍快楽が 好きだったから、人一倍深く深く、煙を吸っちゃったんですね。そうしたら、パニックになっちゃったんです。死ぬかと思ったぐらいなんです。そのときの体験 は僕にとって致命的でね、その日が自分を変えちゃったと」(8)
「幻覚ではないんです。肉体的なところに出てきて、いわゆる神経症みたいなものですね。幻覚が出てくればまだい いんだけど、生理的な、循環器系に作用しちゃって。具体的にいうと、急性中毒みたいになるんです。心臓が早鐘のようになって、呼吸が追いつかないんです。 それが安定したり不安定だったりして、夜のレコーディングで、葵スタジオでそれがあったんですけど、地下の鬱蒼としたところでね、閉じ込められた空間でそ ういうことになっちゃって、夜中じゅう七転八倒して、周りの人に救急車を呼んでくれっていっても誰も信じてくれないんですよ(笑)。ほんとに死ぬと思って パニックだったんだけど、みんなは大丈夫だというの。つまり日本にはそういう文化がないから、誰もそんな目にあわないと思っているし、そういうときのリー ダーというのもいないし。お酒を飲んで酔っぱらっているのと同じような感覚でやっていたから、僕だけへんな目にあっちゃっているわけですね、その体験が強 烈で」(8)
「六時間続いた悪い旅は、自分の恐怖心との戦いであった。心理的というよりも、むしろ生理的な恐怖に襲われつづけたのだった。」(15)
「僕はソファーから一歩も動くことができなかった。悪魔的な圧力が腹から脳天へ押し上げられた時、僕は脳が爆発 するのではないだろうか、このまま一生、表裏の区別もつかない廃人になってしまうのではないかとさえ思った。だが六時間後−待ちに待ったといえるような時 間がやってきた。」(15)
「絶対こういうのは指導者が必要だ、非常に危険なものだ、というのがよく分かった」(14)
「痛い目にあった時のショックが強くて、そこで逆に教えられたことがあった。遊びでやっちゃいけないという(笑)」(14)
「それは物凄いショックで、一時立ち直れなくなっちゃったくらい。なんか精神的に傷がついて。本当に精神病院行こうかと思った。で、そういうきっかけがあって、心理的療法みたいなものを自分なりに研究するようになったんです。…一番手ごわかったのが自分の心ですよ。まったく見当がつかない、こんなわけのわかんないものはない。自分で意識しない処で何かが起っている、そんな体験したんですよ」(14)
「ちょっとしたきっかけでバッドトリップと同じ状態が来ちゃうわけですよ。それがダブルのショックでね。それは実際 バッドトリップした以上にショックだった。これが一生続いたら僕はどうなるんだろうって絶望のどん底に陥っちゃって。そういう傷の中にひたってた時期って 割と長かったんですよ」(14)


1971/05/01 『ニューミュージック・マガジン』5月号(蝸牛社)発売。
はっぴいえんどインタビュー:PEOPLE

1971/05/06 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/05/07 はっぴいえんど、レコーディング。音羽/キングスタジオ(1スタ)。
抱きしめたい
はいからはくち
※編注:この日録音されたテイクのマスターテープは、のちに紛失された。

1971/05/08 10:00〜16:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
抱きしめたい

1971/05/09 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/05/11 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1971/05/11 ザ・ディランIIのレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
プカプカ

1971/05/12 10:00〜14:00 はっぴいえんど、レコーディング。音羽/キングスタジオ。
はいからびゅーちふる

1971/05/12 16:00〜21:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(1スタ)。
空いろのくれよん

1971/05/14 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。
はいからはくち
夏なんです

1971/05/14 ぱふのライヴで、提供曲「わたしの扉」が演奏される。渋谷/BYG。

1971/05/15 16:00〜21:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ(2スタ)。
空いろのくれよん
はいからはくち

1971/05/16 はっぴいえんど、後楽園/文京公会堂に出演。

1971/05/19 はっぴいえんど、『ウッドスモッグ・コンサート』出演。日比谷野外音楽堂。

1971/05/20 高田渡「自転車にのって/コーヒーブルース」発売。
自転車にのって:side guitar, keyboard, chorus

1971/05/22 はっぴいえんど、ワーナー・パイオニア・レコード主催『ロックエイジ '71 イン日比谷』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:サムライ、PYG、ファーラウト、エスケープ、タジマハール旅行団、成毛滋、ゴールデン・カップス 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/05/22 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/05/25 松本隆の結婚式に出席。

「ぼくの同級生と結婚したんだけどね」(7)
「小学校のときの同級生で、5年生のときに、ぼくのとなりの席に女の子がいたのね。そのころから胸が発達してて、運動会のリレーなんかに出ると、みんなで見に行くっていう子だったんだ」(7)
「その子とぼくは仲がよかったの。だけど、やっぱり卒業しちゃうと、もうまったく会わなくなっちゃうわけ。それで、ぼくのほうもほとんど忘れちゃってたわけ」(7)
「ところが、ぼくが大学生のときに松本隆と知りあって、彼のバンドのステージをどこかの店に見に行ったことがあるんだけど、その店にいるんだよ、その子が。すごく大人になっちゃってて、ワーッと思ったら、なんと松本の彼女だったの。もう、クラクラッときちゃった」(7)


1971/05/29 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。(?)
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/05/31 はっぴいえんど、『雑誌ZINTA創刊記念コンサート』出演。京都会館。
はっぴいえんど
 空いろのくれよん
 他

1971/06/01 高田渡『ごあいさつ』発売。
失業手当:bass, piano
しらみの旅:bass
銭がなけりゃ:bass
※編注:先行シングル曲、「自転車にのって」も収録。

1971/06/01 加川良『教訓』発売。
できることなら
悲しい気持で
働らくな
求めます
ゼニの効用力について:bass
伝道
※編注:「ゼニの効用力について」以外の参加曲は推測であり、担当楽器も特定不能。

1971/06/01 はっぴいえんど、大阪のライヴ喫茶SSに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/06/03 はっぴいえんど、マットルーム主催『第2回 日本語のろっくとふぉーくのコンサート』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:モップス、遠藤賢司、頭脳警察、DEW、町田義人、吉田拓郎、長谷川きよし 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/06/05 岡林信康『岡林信康の世界<第2集>』発売。
自由への長い旅:bass
私たちの望むものは:bass
もずが枯木で:direction

1971/06/05 はっぴいえんど、風都市主催『DANCING古事記−東風』出演。京都大学西部講堂。
出演:山下洋輔トリオ、DEW、ブルース・クリエーション

はっぴいえんど
 曲目不明

石浦信三の証言
「音楽舎から別れて、風都市っていう事務所になったんです」(2)
「はっぴいえんどを売らなきゃいけないとかそういう感じじゃなかった。友達同志でマネージメントを僕が受け持とう。それから、松本が作詞する時の手助けをするっていうそういうことをやってました」(2)

1971/06/06 はっぴいえんど、風都市主催『風都市』出演。京都/円山公園野外音楽堂。
出演:山下洋輔トリオ、村八分、ジプシー・ブラッド、田舎五郎と魚、ヘビーフレンド

はっぴいえんど
 曲目不明

松本隆の証言
「石浦と大ゲンカになったんだ。僕が次のアルバムのタイトルは『風都市』にするって言ってたの。そしたら石浦 が、それをコンサートと事務所のタイトルっていうか、名前にしようとしたわけ。京都だか大阪だかでコンサートがあってね、それが、風都市って事務所の発足 のコンサートで、自分の仕切りでやったの」(2)
「で、風都市をコンサートの名前に使っちゃったから、事務所の名前も風都市にしたいとか言ってさ。『だって、そ れは2枚目のLPのタイトルにするんだぜ』とか言って。そう言ったじゃないかとか言ってぼくが。勝手にそんな事、誰が決めたんだとか言ってね。タイトルに 著作権はない(笑)とか彼も言っちゃってさ。それがマネージャーの言うことか!!(笑)もう大ゲンカだよ、それは。本当に(笑)それで、しょうがなく。コ ンサートはゴーしちゃってるし、切符も刷っちゃったし、チラシも刷っちゃったから、今さら変えらんないとかぼやくから。ぐしょぐしょになってね。それでぼ くが泣いた訳」(2)

1971/06/12 10:00〜16:00 はっぴいえんど、レコーディング。目黒/モウリスタジオ。
夏なんです
愛餓を

1971/06/13 はっぴいえんど、青山タワーホールに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971 ジェームス・テイラー『マッド・スライド・スリム』を聴く。

「変化が見られる。人は常に変ってゆくが、音楽をやっているとそれが明瞭に感じられる。」(6)
ジョニ・ミッチェル女 史のおかげで、ブルースはもはや唄えなくなったと唄っておられる。ミッチェル女史と同じ様に彼もまた放浪をやめ、恐らくミッチェル女史の家のピアノに向 かって作曲したらしい。金も入り、愛する人も出来た男をひがむのではないが、スティーヴ・スティルス氏のソロ・アルバムの二の舞いを踏んで私達音楽仲間の 如く熱心な支持者を失わぬ様にオネガイする。」(6)


1971/06/16 18:30 シカゴ来日公演を観覧。九段下/日本武道館。

「彼等の音は武道館の大きさに負けていなかった。アンコールのシーンに武道館の天井が崩れ落ちてくれば更に劇的であったろうと思われる。」
(6)

1971/06/19 はっぴいえんど、渋谷/BYGに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/06/20 14:00 はっぴいえんど、『ストッピング No.1』出演。日比谷野外音楽堂。
出演:陳信輝、ハプニングス・フォー+1、シローとブレッド&バター、ガロ、村八分、遠藤賢司、頭脳警察 他

はっぴいえんど
 曲目不明


1971/06/22 はっぴいえんど、京都/同志社大学に出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

1971/06/26 はっぴいえんど、銀座/ヤマハホールに出演。
はっぴいえんど
 曲目不明

<出典>
(1)『ニューミュージック・マガジン』5月号 蝸牛社/1971年
(2)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(3)『レコード・コレクターズ』4月号 ミュージックマガジン/1995年
(4)『SWITCH』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(5)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(6)『ライトミュージック』8月号 ヤマハ音楽振興会/1971年
(7)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(8)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(9)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(10)田中雄二『電子音楽イン・ジャパン 1955〜1981』 アスペクト/1998年
(11)CD『大瀧詠一作品集 VOL.2(1971-1988)』ライナーノーツ ビクター/1988年
(12)CD 金延幸子『み空』ライナーノーツ 東芝EMI/1995年
(13)『はっぴいえんどBOOK』 シンコー・ミュージック/2004年
(14)『ロッキング・オン』9月号 ロッキング・オン/1985年
(15)細野晴臣『地平線の階段』 八曜社/1979年
update:2023/11/02

1970 - 2<>1971 - 2
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