chronology 1970
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1970/07/02 あがた森魚のレコーディング。新宿/御苑スタジオ。鈴木慶一の証言
「スタジオ来て、そのまま帰っていく」(1)
冬が来る〜冬の祈り
「オレギター、小野ドラムス、渡辺ピアノ、細野ベース、あがたヴォーカル」(2)
1970/07/08 はっぴいえんど、ミーティング。大瀧詠一の証言
「はっぴいえんどの転機だって書いてあるね。これは、よく覚えてる、石浦(編注:信三)もいたね。松本がえらい勢いで、みんなを説得したっていうのが、この日なんだよ」(3)
「ステージでは日本語以外を絶対にやらないって決めた日なんだ。それまではカヴァー物をやってたでしょ。もうステージでは、カヴァーは一切やらないっていうことを決めたんだ」(3)
「おれは『日本語なんかロックに乗るわけがない』って反対してたんだけど」(4)
「とにかく松本が日本語だ、それじゃなきゃダメだって力説するからさ。ほとんど駄々をこねるに等しい感じだよね(笑)。細野さんも最初は俺と一緒に反対してたのに、あの人調和型だから早めに折れるんだよ。で、俺が残っちゃってさ。残ったらもう意地を張るしかないもんな」(4)松本隆の証言
「僕が急に言い出したのね、英語じゃだめだって」(5)
「"場"とか、そういう言葉がはやった時期なんです。"自分の生きてる場"とか」(5)
「"存在"とかさ。ちょっと実存風なんだけど。なんか、"場"っていうのを覚えてるな。そういうことを言い出したんですよね、ぼくが」(5)
「アメリカを追いかけてるんだけど、でもここは日本なんだから"場"が違うんだ、みたいなことでね、理屈コネだしたんですよ」(4)
「それで、あのころは会えば毎晩その討論ですよね。討論会になって」(5)
「茂が『これじゃ会議バンドだ、練習しよう』って(笑)」(4)
「で、結局ね、口で言い負かしたんだと思う、たしか(笑)」(5)
「細野さんがすっごい頑強でね。だから、まずあの人から切りくずしていったのね」(5)
「とりあえず、いろんな反論があったよ。"オレたちはインターナショナルになるんだから英語でなきゃだめだ"とか。最初からでかい話があってね(笑)。でも、日本で何でもないのに、どうやってインターナショナルになれるんだって気持がぼくには強くて」(5)
「ちょうど、つげ義春とか永嶋慎二とかはやってるころで、しきりに漫画っていうのがすごい先端を行ってるような 気がしてたのね。音楽がすごく遅れてるんだってイメージがあって。いまだにコピーばっかりしてるじゃないか、と。英語でやってる限り、人のマネするしかな いじゃないか、みたいなことからね」(5)
「だから、ぼくが考えていたのは、とりあえず漫画という表現手段を通じてやってるぐらいのことを、ロックを使ってできないかなってこと。それがひとつの基本テーマだった」(5)
1970/07/14 はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル。新宿/御苑スタジオ。私たちの望むものは
自由への長い旅
1970/07/15 はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル。新宿/御苑スタジオ。私たちの望むものは
自由への長い旅
1970/07 原宿/マットルームで打ち合わせ。松本隆・野上眞宏が同行。※編注:このときの写真は野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。
1970/07/21 はっぴいえんど、初の単独ステージ。渋谷/ヘアー。はっぴいえんど前島邦明の証言
曲目不明
「生演奏およびヒューマン愚連隊作の彼らのフィルム実写」(6)
「聴衆の数、わずか40名ほど」(6)
1970/08/05 はっぴいえんど『はっぴいえんど』発売。春よ来い:bass「レコードになって、家に帰って聴いてみると、すごくいいんだ。家の人に聴かせたい。これはホンモノのレコードだって思うと、うれしくてね」(7)
かくれんぼ:bass
しんしんしん:compose, bass, guitar, vocal
飛べない空:compose, words, bass, keyboards, vocal
敵 タナトスを想起せよ!:compose, bass, guitar, vocal
あやか市の動物園:compose, bass, vocal
12月の雨の日:bass, guitar
いらいら:bass, keyboards
朝:keyboards, guitar
はっぴいえんど:compose, bass, keyboards, guitar
続はっぴーいいえーんど:compose, guitar, voice
「80パーセント位で、満足しましたね」(3)
「やっぱり大瀧の曲がすごくて、詞と相乗効果を生み出してるんだ。それに、詞は絶対だった。音楽は、ロックだから、なんとかごまかせる。ごまかせるっていうか、とにかく自信があった」(7)
「でも、詞はごまかせない。すぐボロが出ちゃうものだ。そういう意味で、いちばんがんばったのは松本なんじゃないかな」(7)
「詩を作ってく段階でね、LPで、どんどん日本的な文学的な世界に入ってく段階で、松本隆と石浦信三が、ディスカッションしながら趣味の世界に入ってったんですよ」(3)
「(編注:石浦信三との面識は)ありました。松本の友達という紹介で。僕達はその頃色んなね、その武装法を考え てたんですよね。音楽的なんですけど、音楽と、ことばの意味で、誰からもこう、文句の出ないもの作らなくちゃいけない。ボロが出ちゃいけないんですね。そ の為に、かなり深く掘り下げてったんですよ。で、音楽はもう、これは文句が出ようがないから。バッファローもモビーグレープも、みんな知らないからね。わ かんないだろうし。なんか言葉っていうのは、非常にそういう意味では、大事だったんですよね。つっつかれる要素で、そこで、石浦君とか石浦君の知恵で、色 んな、まあ理論武装みたいな事をやってたんですよね、当時」(3)
「はっぴいえんどはノンポリシーの人間の集まりで、学生運動は嫌いだったんです。石を投げたりとか、火炎びんと か怖いことが嫌いだったんです。僕らのような人間は、当時、落ちこぼれですよ、どっちかというと。少数派。ですから、そういう人間たちが何かを表現しよう とする時に、彼らに対して、おおげさに言えば理論武装をしないとやっつけられちゃうという恐怖感があったわけです(笑)。そこで、当時の文化と共通の言語 を持とうとか、一見、打ち込まれそうにないような謎を持つべきだとか、隙をつくってはいけないとか、そういうことに非常に神経を尖らしていたと思う」(8)
「とにかく、これはだれも文句つけられない、というレコードができてきた。みんな自信があったね」(7)
「今は、ベストだと、その時は思って、満足しました」(3)
「非常に喜ばしかったんです。でもすぐに物足りなくなって、次を作りたくて」(8)
「ぼくも曲を作ったんだけど、自分じゃ気に入らない」(7)
「曲をプレイバックした時にガッカリしたんですよ。そういう意味では1枚目の自分の曲は全部同じ印象なんです」(9)
「『はっぴいえんど』の中での自分の音楽は試行錯誤のまま、何のアイディアもないまま終わった作品だね。試行錯誤と日本語のロックを作るために、頭で作ったような気がするんだ」(10)
「習作の時代が一枚目なの、僕にとって。自分の中で確立してないんだ」(11)
「それでも余裕がない状況だったから入っちゃっていますけど、人がなんと言おうと自分の中ではダメなんです」(9)
「方法論が、なかったわけです。松本隆にしろ。うーん……なんだろう…ほんとにこう、読む詩を、書きなぐってそれをむりやり歌に、してくれみたいな (笑)、とこがあったんで(笑)、こーれは音楽になんないだろうと(笑)。朗読になっちゃう。(笑)。ですからーあのー、はっぴいえんどの1枚目なんか は、多少そういう、言葉の羅列が、あーあったりしますね。ええ。むりやり歌ってますから(笑)」(12)
「余裕がないんですよ。大瀧も僕も、多分、字面を追って、それをメロディーにはめてくって作業が精一杯だったん ですよ。それほど難しい詩だった。だから、曲作る本人達は詩のことを考えずに作っていたから、ああいうことが逆に出てきたのかもしれない。だからわりと数 学的な作業だったんです。理論的というよりも、なんて言うんだろう、字数をメロディーに置き換えていくというね。決して詩の意味を置き換えてるわけじゃな いからね。記号として、音として置き換えていく。その作業でもう精一杯だったんですよ。詩の雰囲気とかを考えたらそういう曲はできないはずなんだ。『春よ 来い』もそうだし、とにかく、音楽と詩は分裂してるわけですよ。そこが特徴だったし、面白かった」(11)
「掴み取ったことは……歌えないということだった」(11)
「あまりにも『あやか市の動物園』や『敵タナトスを想起せよ』が課題として難しかった」(9)
「アジテーション風じゃないと歌えなかったし、自分のキャラクターに合ってなかった」(9)
「自分の歌のひどさにダメージをくらって、その後の1年間、つまり2枚目を作るまで、かなり落ち込んで、いじけていた」(7)
「出来上がった自分の曲は聴いてませんもん」(9)
「それがいつか自分の耳によく聴こえるということはないでしょう。自信もないし自分の中でモデルも作れなかった。その極端な例が最初のレコーディングに出ちゃっただけなんです」(9)
飛べない空
「これはプロコル・ハルム。イントロの逆回転はコケおどしですね、僕の。エイプリル・フールの頃から使っていたような。余計なことをやってしまいました (笑)。逆回転は、いまだに魅力的な手段ですけどね。当時はあまり方法がなかったので、ただひっくり返しただけ」(9)
大瀧詠一の証言
「やっぱり日本語のロックっていうことで、なんか歌が不快だとか、歌詞が聞きとれないとか、変な歌だとか、そういうようなことしか言われなかったからねぇ。新しいとか、面白いって言ってくれる人もいるにはいたけど。3人ぐらい。まあ、そんなもんだろ」(13)
「周りと比べて異質だったってだけでしょ。だって、音楽的にも別にそんなに変な進行の曲じゃないしさ。歌い方にしても、自分ではそんなに変だったとは思わないしね」(13)
「松本が"ですます"を発見したんじゃないんだから。何ひとつ変じゃないんだよね」(13)
「確かに"ですます"はあの時代でなければならなかったっていうか、カウンター的なところはあったかもしれない けどね。70年代ならではのカウンター、かつタイムリーな…。でも、それにしてもやっぱり基本…土台には普遍性があるわけだよ。細野さんがビートルズやっ てたり、僕がプレスリーだったりっていうような。あれは非常に普遍的なものだから。その部分じゃないですかねぇ」(13)
「まあ、図らずも出てしまったというか。結局、出るもんなんでしょ。出るから土台なんじゃないかな」(13)
「はっぴいえんどの歌詞の場合、あれだけ難解な、目新しい、新奇な、ある種アナクロ的でカウンター的な歌詞だっ たわけで。そういうのはむしろやりやすいからね、料理が。で、そういう新奇な面の方がどうしたって表に出るから。特に時代のカウンターだったからさ。だけ ど、松本の中にも当然普遍性があるわけで。単なるカウンターとしてだけじゃなく、曲としてももし生き続けているんであれば、それは松本、大滝っていう両者 の土台のせいと言うか。その辺の普遍性があったからなんだと思う」(13)松本隆の証言
「最後の曲だけ何かひっかかってる(笑)。とりあえずその前で終わってたらさ、百点満点の内、80点ぐらいいってたんじゃないかな」(3)
「全部含めて。ジャケットは気に入ってた、僕はね」(3)
「ジャケットの歌詞カードは石浦が、書いた」(3)
「(編注:初回プレスは)3千ぐらいだったと思う。出てちょっとして1万超えたと言ってたから、細野さんと、すごいねという話をした記憶がある」(14)
「『ゆでめん』は四方八方に拡散してる。誰も日本語でやってないから、すべてが実験なんです」(14)
「外に向かって放射する力」(13)
「あらゆる可能性をためしてみた。字余りにしたり、字足らずにしたり、詰めたり、伸ばしたり」(14)
「全然確立されてない。メチャクチャ書いてたもの」(3)
「本当に表現の事しか考えてない。新しいことはどうやって出来るかっていう事だけ。それが受け入れられるか、入れられないかなんて全く考えてない」(3)
「あの人たちは天才的にうまいから、たいてい曲がぴったりついて来る」(14)鈴木茂の証言
「やったって感じですよね。でも、僕よりも僕以外の3人の準備してた部分がほとんど。だから僕はそれにギターをのせただけなんで、感激っていうのは彼らに比べて薄いっていう。だけど、1枚目を作った時に、かなりいろんな意味で自信ができたって気がしましたね」(3)
1970/08/05 はっぴいえんど、文化放送『OH ! フリー』に出演。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
12月の雨の日
1970/08/09 未明 はっぴいえんど、『第二回全日本フォークジャンボリー』で岡林信康のバッキングを行う。岐阜県/花ノ湖畔。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)※編注:この日の演奏の一部は、ライヴアルバム『第2回全日本フォーク・ジャンボリー』(ビクター/1970年)と『自然と音楽の48時間 1970年全日本フォーク・ジャンボリー実況盤』(キング/1970年)などに収録されている。
今日をこえて
おまわりさんに捧げる唄
コペルニクス的転回のすすめ
愛する人へ
君を待っている
絶望的前衛
性と文化の革命
それで自由になったのかい
私たちの望むものは
他
1970/08/09 9:00ごろ はっぴいえんど、『第二回全日本フォークジャンボリー』出演。岐阜県/花ノ湖畔。はっぴいえんど大瀧詠一の証言
朝
12月の雨の日
春よ来い
あやか市の動物園
いらいら
雨あがりのビル街
しんしんしん
かくれんぼ
「もう眠くて。それで、カンカン照りのところで♪曇った空の、って歌って(笑)」(3)※編注:この日の演奏は、一部がライヴアルバム『第2回全日本フォーク・ジャンボリー』(ビクター/1970年)、『自然と音楽の48時間 1970年全日本フォーク・ジャンボリー実況盤』(キング/1970年)、『J-ROCK EARLY DAYS STRONG SELECTION』(キティ/1989年)、『1970フォークジャンボリー』(東芝/1998年)などに収録されたのち、全曲が『はっぴいえんどBOX』(エイベックス・イオ, プライム・ディレクション/2004年)にまとめられた。
1970/08/09 11:00 はっぴいえんど、『第2回全日本フォークジャンボリー』で岡林信康のバッキングを行う。岐阜県/花ノ湖畔。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)※編注:この日の演奏の一部は、ライヴアルバム『第2回全日本フォーク・ジャンボリー』(ビクター/1970年)と『'岡林信康ライブ中津川フォークジャンボリー』(SMS/1979年)などに収録されている他、記録映画『だからここに来た−全日本フォーク・ジャンボリーの記録』(音楽舎/1970年)で観ることができる。
今日をこえて
おまわりさんに捧げる唄
コペルニクス的転回のすすめ
愛する人へ
君を待っている
絶望的前衛
性と文化の革命
それで自由になったのかい
私たちの望むものは
他
1970/08ごろ 鈴木慶一にはっぴいえんどのサポートを依頼。「今度、日比谷に出てみるかと」(3)
「セッションですね」(3)鈴木慶一の証言
「連絡があって」(3)
「細野さんの家に集まるわけです。はっぴいえんどの4人と僕ですね。それがいつかは、よくわからないんですけ ど、トンカツを食べに行ったんです。隆さんと茂は帰っちゃって細野さんと大滝さんと僕とでトンカツを食べに行って、そこでギターをやってくれ、と言われた わけです。ギターとコーラスをやってくれないかって」(3)
「その頃ね、はっぴいえんどはメンバーを探してたんです、確かに。4人じゃちょっと弱いということで、要する に、バッファロースプリングフィールドとかモビー・グレープが目標だったから、3人ギターのドラム、ベースという編成にしたかったんじゃないですか。だか ら、もう1人ギターを入れてやりたいということで。まあ、細野さんが多分、推薦したんでしょう、おそらく」(3)
「はっぴいえんどというバンドは、ライヴに関してはどうしても今ひとつうまくいかないバンドだった。細野さんは なんとかしなくてはいけないと思ってたんだろうな。それでいろいろなミュージシャンをいれるライヴの試みをしていたんだよ。その試みのひとつとして僕も声 をかけられたんだね」(15)鈴木茂の証言
「大滝さんが、細野さんにも唄って欲しいってところから出てきた。もう1人とにかく入れば、慶一君がベースは、‥‥できないのかな。まあ、とにかくピアノを弾いてくれるとか」(3)
「とにかく細野さんがステージで唄えないっていうのがきっかけで」(3)
1970/08/29 はっぴいえんどのプロモーション・フィルム『ラヴ・フェスティバル・ラヴ』上映会。渋谷/ヘアー。
1970/08 あがた森魚『蓄音盤』発売。冬が来る〜冬の祈り:bass※編注:その他の参加曲は特定不能。
1970/09/01 はっぴいえんど、リハーサル。鈴木慶一も参加。渋谷/ヘアー。鈴木慶一の証言
「フレーズとかを口伝えで、茂のフレーズを僕がやったり、とか」(3)
「5人で練習しました。僕はパートでいうと、セカンドギターですね。楽器は、種類はセミアコのエレキです」(3)
「僕が関わり出してからは石浦君は、ええ、もういました。最初リードギターの人かな、と思ったくらいで」(3)
1970/09/02 はっぴいえんど、リハーサル。鈴木慶一も参加。新宿/御苑スタジオ。
1970/09/03 はっぴいえんど、リハーサル。鈴木慶一も参加。渋谷/ヘアー。
1970/09/05 はっぴいえんど、リハーサル。鈴木慶一も参加。渋谷/ヘアー。
1970/09/10 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。コペルニクス的転回のすすめ
だからここに来た
君を待っている
1970/09/11 はっぴいえんどのメンバーと大阪/ディランを訪問。大塚まさじらと会う。大瀧詠一の証言
「大阪にディランっていう喫茶店があったんですよ」(3)
「何でディランかっていうと、大塚まさじっていうのがそこで店長やってたんですよ」(3)
「そこで、『はっぴいえんど』のレコードがすりきれて、もう2枚目だっていう事を聞いたのね。外人なんかよく多 くて京都なんかによく外人さんいるでしょ、一番日本でリクエストの多いバンドだっていうんで、大阪行った時に、ディランの人達が俺らが行った時、オーみた いな感じで、大阪の人にすごくうけたっていうか、大阪の人にすごく認めてもらったっていうか。『2枚目で、1枚目なんかもうすり切れてますよ』なんて、言 われた時はうれしかったねえ!!」(3)
1970/09/16 はっぴいえんど、マットルーム主催『日本語のろっくとふぉーくのコンサート』出演。日比谷野外音楽堂。出演:遠藤賢司、フード・ブレイン、ブレッド&バター、ザ・エム、頭脳警察、麻田浩 他「騒がれ出したわけです。日本語でやってるロックバンドって云って。日本語によるロックと。このレッテルがはられ出した。それを利用して『日本語によるろっくふぉーくのコンサート』とかでてきて、そういう事にすごい抵抗感があった」(3)岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど 松本隆(ds)、大滝詠一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、鈴木慶一(g, cho)
12月の雨の日
いらいら
敵 タナトスを想起せよ
他
「何で日本語でやるのかって質問責めに会う」(3)
「実を言うと、その、これは、やっぱりその時の日本の文化の転換期だったと思うんですけど、言葉っていうのは、 テーマだったと思うんです、人々にとっての。無意味ではないですけど、無意味にしたい気持ちはあるわけですよね。当たり前なんだという事を言いたいんです よね。ま、そういう質問が出てくるからこそはっぴいえんどだったと思うんだけど」(3)
「一緒にやったんですね。鈴木慶一とは。ギターで」(3)
「その後別に連絡しなかった。本人は入るつもりだったらしいんですけど」(3)大瀧詠一の証言
「鈴木慶一が『12月の雨の日』のハーモニーを付けた日ですね」(3)
「慶一の話だとメンバーに入れるものだと思ってたっていう」(3)
「『12月の雨の日』のコーラスやるんだけど、何か、変なゆがんだ日本語で歌うんだよ。それで、『そんな気持ち悪い歌い方、よせよ』って言ったら、『だって、あんたがそういう風に歌ってるよ」って言われたのは覚えてるよ(笑)」(3)鈴木慶一の証言
「やったのは『いらいら』と『敵タナトスを想起せよ』。それと、あと何やったかなあ、その2つはよく覚えてるんだけど。そうですねハモをつけるわけです」(3)
「大滝さんがゆがんでいるから(笑)。そうそう、僕は大滝さんの歌い方にそろえようとして。(笑)」(3)
1970/09/19 はっぴいえんど、ニッポン放送『ビバ・ロック オールナイト・ニッポン』公開録音に出演。日比谷野外音楽堂。出演:フラワー・トラベリング・バンド、モップス、ゴールデンカップス 他岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/09/22 はっぴいえんど、TBSラジオ『夜のバラード』収録。岡林信康のバッキングを行う。赤坂/TBS。
1970/09/25 映画『だからここに来た 全日本フォークジャンボリーの記録』完成有料試写会が行われる。お茶の水/日仏会館。※編注:はっぴいえんどは岡林信康の演奏場面で出演している。
1970/09/29 TBSラジオ『夜のバラード』放送。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明
※1970/09/22@TBS
1970/10/03 はっぴいえんど、岡林信康のコンサートに出演。岡林との全国ツアーの実質的なスタート。九段/千代田公会堂。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)※編注:以下、年内にはっぴいえんどが出演した地方公演の多くは、岡林信康のツアーと考えられる。
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/10/05 ライヴアルバム『第2回全日本フォーク・ジャンボリー』発売。はっぴいえんど
12月の雨の日:bass
※1970/08/09@岐阜県花ノ湖畔岡林信康
おまわりさんに捧げる唄:bass
コペルニクス的転回のすすめ:bass
それで自由になったのかい:bass
君を待っている:bass
絶望的前衛:bass
私たちの望むものは:bass
※1970/08/08〜09@岐阜県花ノ湖畔
1970/10/09 はっぴいえんど、『岡林信康ろっくコンサート』出演。日比谷野外音楽堂。出演:遠藤賢司※編注:この日の演奏の一部は、岡林信康のライヴアルバム『'70 岡林信康ロックコンサート』(SMS/1979年)に収録されている。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
おまわりさんに捧げる唄
性と文化の革命
それで自由になったのかい
他はっぴいえんど
12月の雨の日
かくれんぼ岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
コペルニクス的転回のすすめ
自由への長い旅
私たちの望むものは
今日をこえて
他
1970/10/10 ライヴアルバム『自然と音楽の48時間 1970年全日本フォーク・ジャンボリー実況盤』発売。はっぴいえんど※編注:岡林信康「私たちの望むものは」(ライヴアルバム『第2回全日本フォーク・ジャンボリー』と同音源)も収録。
春よ来い:bass
※1970/08/09@岐阜県花ノ湖畔
1970/10/10 岡林信康「だからここに来た/コペルニクス的転回のすすめ」発売。だからここに来た:bass
コペルニクス的転回のすすめ:bass
1970/10/10 映画『だからここに来た 全日本フォークジャンボリーの記録』の上映が全国で始まる。
1970/10/11 はっぴいえんど、文化放送の番組に生出演。渋谷/東急百貨店。
1970/10/12 はっぴいえんど、文化放送『フォーク・タウン』公開録音に出演。神田/共立講堂。
1970/10/18 はっぴいえんど、サン・ラザールに出演。
1970/10/19 はっぴいえんど、『岡林信康ろっくコンサート』出演。大阪フェスティバルホール。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/10/20 はっぴいえんど、同志社大学学園祭に出演。京都新聞会館。
1970/10/23 はっぴいえんど、『岡林信康ろっくコンサート』出演。名古屋市公会堂。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/10/25 はっぴいえんど、CBCラジオ『オー・サンデー』に生出演。
1970/10/28 はっぴいえんど、霞ヶ関/虎ノ門ホールに出演。
1970/11/01 はっぴいえんど、学習院女子短期大学学園祭に出演。九段/千代田公会堂。
1970/11/03 はっぴいえんど、ニッポン放送『パンチ・パンチ・パンチ』公開録音に出演。三重県/鈴鹿サーキット。
1970/11/04 はっぴいえんど、尾道女子短期大学学園祭に出演。広島/尾道公会堂。
1970/11/05 はっぴいえんど、大阪府立大学学園祭に出演。
1970/11/07 はっぴいえんど、愛知学園大学学園祭に出演。
1970/11/09 はっぴいえんど、大阪商科大学学園祭に出演。
1970/11/10 はっぴいえんど、演劇センター六八移動劇場『翼を燃やす天使たちの舞踏』公演に併せたフリー・コンサートに出演。大阪城公園/黒テント。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)鎌田東二の証言
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
「見に行きました」(16)
1970/11/12 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。同時にはっぴいえんどの新曲「はいからはくち」のカラオケ録りも行う。麻布/アオイスタジオ。家は出たけれどはいからはくち
はいからはくち
「何の為に、どういう意味があってやってんだか全然わからなかった」(3)大瀧詠一の証言
はいからはくち
「最初からキングでシングルを出すということでこうなったんだ。この11月頃にアート音で三浦光紀と会ってるん だよね、うろうろしてたんだよ。はっぴいえんどをキングでということで、がんばってたんじゃないの。じゃ、まずは、シングルからみたいなさあ、そういうこ とだと思うよ」(3)
「保さんが、クラッシックじゃなくて、このころロックも聞き始めたから、保さんがもう一回使ってくれっていう話 があったんだよ。それで2度目にまた、ここで録ったんだよ。録ったんだけども、やっぱり気に入られなかったんだよ、細野さんにも茂にも。またダメっていう 事になって。違う音になるんだよ、それでだからバツ印つけたんだね」(3)
「保さんが言ったの思い出した。『いやあ、茂ちゃんにねえ、違うんだよなって言われてぼくはどうしたらいいのか全然わからなかった』って、それしか覚えてないって、それが11月12日の事だと思うんだ」(3)三浦光紀の証言
「ヨっちゃん(早川義夫)か岩井(編注:宏)さんか忘れたけど、最初頼まれたんですよ、僕が。はっぴいえんどを やってくれるレコード会社を探してくれって言われたんですよ。それで、URCでは本人達やりたくないって言ってた、らしいのね。それで、僕がいたんだけ ど。持ってったんだけど、ダメだったんですよ。で、どこの会社がどう言ったかよく覚えてなかったんだけど、だいたい言ってんのがね、顔が悪い。それと、無 愛想だ、詞が難かしい」(3)
「いろんなとこへ持ってって断られて、もう自分でやろうと思ったんだ、その時。それで、シングル先にやったんだ、多分」(3)岩井宏の証言
「URCのやり方としてはシングル盤はURCの組織だと、あまり売れないから、URCとしてはLPを売る為に、メジャーの会社のシングルで売り込みをやろうとしてたんだね」(3)
1970/11/16 はっぴいえんど、小田原反戦市民の会主催のコンサートに出演。神奈川県/小田原市民会館。
1970/11/18 はっぴいえんど、ラジオ大阪主催のコンサートに出演。京都シルクホール。出演:高田渡、岩井宏、加川良、中川五郎はっぴいえんど
曲目不明
1970/11/19 はっぴいえんど、東京薬科大学学園祭に出演。池袋/豊島公会堂。
1970/11/20 はっぴいえんど、早稲田企画構成委員会主催のコンサートに出演。目黒/杉野講堂。
1970/11/21 はっぴいえんど、文化放送『フォーク '70』出演。
1970/11/28 はっぴいえんど、同志社大学に出演。高田渡から、レコーディングへの協力を要請される。出演:高田渡 他「高田渡と加川良と遠藤賢司は非常に好きだったんです。アメリカで起こっている流れを見つつ、日本の流れを見ると、たとえば遠藤賢司はティム・ハーディンに見えたり、高田渡がウディ・ガスリーかなとか、存在感があったわけですよ、それなりに」(8)はっぴいえんど
曲目不明
1970/11 吐痙唾舐汰伽藍沙箱『溶け出したガラス箱』発売。小さな花が道ばたに……:bass※編注:発売日不明。
1970/12/01 はっぴいえんど、『岡林信康コンサート 「山谷ブルース」から「私たちの望むものは」まで』出演。神田/共立講堂。出演:高田渡、加川良。岩井宏※編注:この日の演奏の一部は、岡林信康のライヴアルバム『岡林信康コンサート』(URC/1971年)に収録されている。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝栄一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
性と文化の革命
それで自由になったのかい
他はっぴいえんど
かくれんぼ
はいからはくち岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝栄一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
おまわりさんに捧げる唄
君を待っている
だからここに来た
自由への長い旅
私たちの望むものは
今日をこえて
他
1970/12/03 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。はいからはくち大瀧詠一の証言
12月の雨の日
「全部とったまではよかったんだけど、テンポも遅すぎたしね、今一つだという事になったんだよ」(3)
はいからはくち
「これはおクラにはしなかったの、えーと、作るには作ったんだよ。ベストに入れたやつでね」(3)鈴木茂の証言
12月の雨の日
「ゆでめんのLPの中でシングル候補っていう風に考えると、やっぱあの曲になるんじゃないかな。これはみんな一致してた」(3)
「メロディ・ラインも綺麗だし、歌も上手く唄っているし、そういった意味では、細野さんにしても僕にしても、大滝さん程上手いヴォーカリストでないっていうのはちゃんと解っていると思うし」(3)
1970/12/05 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。はいからはくち
1970/12/09 はっぴいえんど、資生堂・MG5のCM用に岡林信康のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。自由への長い旅
1970/12/12 はっぴいえんど、法政大学主催『ビバ・コンサート』出演。小金井市民会館。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/12/13 はっぴいえんど、『はしだのりひことクライマックス結成コンサート』出演。神田/共立講堂。出演:吉田拓郎、六文銭、ソルティー・シュガー、五つの赤い風船岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/12/15 はっぴいえんど、演劇センター六八移動劇場『翼を燃やす天使たちの舞踏』公演に併せたフリー・コンサートに出演。水道橋/黒テント。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/12/18 はっぴいえんど、NHKラジオの番組収録。渋谷/NHK。春よ来い
かくれんぼ
1970/12/19 はっぴいえんど、早稲田稲門会主催のコンサートに出演。横須賀市民会館。
1970/12/20 はっぴいえんど、渋谷公会堂に出演。
1970/12/21 はっぴいえんど、『はしだのりひことクライマックス結成コンサート』出演。京都勤労会館。岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)大瀧詠一の証言
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
「はしだのりひこ達は、すごいうけてたのよ。おれ達が出てからはさ、何、この人達みたいに、1曲やっても2曲 やっても拍手一つもないんだよ(笑)。人いるのに珍しいなぁ、あれだけしらけたのは初めてだったよ(笑)。みんな、なんだろうこんな歌、と思ったんだろう なぁ、きっと(笑)」(3)
1970/12/22 はっぴいえんど、『ニュー・ロック&ニュー・フォーク 魂にふれるコンサート』出演。池袋/立教大学タッカーホール。出演:遠藤賢司、頭脳警察、ブルース・クリエーション岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明はっぴいえんど
曲目不明
1970/12/23 はっぴいえんど、ニッポン放送主催『ロック・カーニバル #1』のオープニング・アクトで岡林信康のバッキングを行う。有楽町/日劇。出演:ジョン・メイオール・トリオ、モップス、ブラインド・バード、ソウルフル・プラッツ、イコナックス岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明中村とうようの証言
「第一部が日本側ほぼ6バンドずつ、全部で約2時間半。休憩があって第二部メイオールたちの演奏」(MM7102)
1970/12/24 はっぴいえんど、ニッポン放送主催『ロック・カーニバル #1』のオープニング・アクトで岡林信康のバッキングを行う。有楽町/日劇。出演:ジョン・メイオール・トリオ、ゴールデンカップス、ザ・エム、ミッキーカーティスとサムライ、カルメンマキミッキー・カーティスの証言岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝詠一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
曲目不明
「ジョン・メイオールのとき日劇で一週間聞いて一番乗ったのが岡林。お客さんのリアクションも一番あったしね」(18)※編注:『ロック・カーニバル #1』は、12月19日から25日まで、一週間にわたって開催された。
1970/12/26 『遠藤賢司リサイタル -遠藤賢司その世界-』昼の部でバッキングを行う。お茶の水/日仏会館。遠藤賢司 遠藤賢司(vo, g, harmonica)、鈴木茂(g)、細野晴臣(g, pf)※編注:この日の公演の一部は、遠藤賢司のライヴアルバム『'70遠藤賢司リサイタル』(SMS/1979年)に収録されているが、昼夜どちらの公演かは不明。
満足できるかな
待ちすぎた僕はとても疲れてしまった
雨上がりのビル街
1970/12/26 『遠藤賢司リサイタル -遠藤賢司その世界-』夜の部でバッキングを行う。お茶の水/日仏会館。遠藤賢司 遠藤賢司(vo, g, harmonica)、鈴木茂(g)、細野晴臣(g, pf)
満足できるかな
待ちすぎた僕はとても疲れてしまった
雨上がりのビル街
1970/12/27 はっぴいえんど、福島文化センターに出演。
1970/12/28 はっぴいえんど、青森市民会館に出演。
1970/12/29 帰京。岡林信康との全国ツアーが終了。「きつさはありましたね。そうですね、ハコで入るっていう経験とは、又ちょっと違うけど、まあ同じようなつらさですけどもね」(3)
「自分で楽器持ってね(笑)ドラムセットまで持ってくっていうんだから、これは過酷ですよ」(3)
「ドラムまでかついで電車で30か所をまわった」(19)
「新幹線に座ったことがない」(3)
「鍛えられたね」(19)
「演奏のカンを取り戻せたという意味ではいい経験だった」(13)
「わりとステージの演奏もまとまってきたし、だいいち気楽で良かったね。スポットを浴びる人が他にいるわけだから」(20)
「おかげで名前が売れたよ」(19)
「演奏能力が慣れてきたっていう事と、コンビネーションができてきたこと。それから、そのツアーのおかげで、ファンが出てきたんです。それは、結構大きなことです。期待される様になってきて、面白かったです」(3)
「岡林はいい人で、気をつかってくれましたよ。こっちはブスッとしてたから、むこうはいやだったかもしれないけど」(13)大瀧詠一の証言
「旅ばっかりだったねえ」(3)
「とてもじゃないけどね、音楽のことなんか考えてるひまなかったよ。移動と、ステージとリハのみ」(3)松本隆の証言
「あの期間はね、インパクトあったから、みんなすごく長かったような気がしてるんだけれど、意外と短いんだよね。ワンツアーだけだから」(3)
「彼の詞の中のストレートな政治的なメッセージにはあまり共感していなかった。音楽は音楽として完成するべきで、音楽を別な何かの手段に使うことには、どちらかというと批判的だった。それはほかのメンバーも同じだったと思う。」(21)鈴木茂の証言
「まず人間臭いっていうかな、終わってから飲んでいろんな話したりとか、そういった経験って余りなかったしね」(3)
「はっぴいえんどのメンバー自体も余り飲まないし、そういった意味では、仲はいいんだけど礼儀正しい部分てかなりあるんですよ。どこまで行ってもよそ行きの部分ていうのを持ってるような。ただ、岡林さんの場合はもっとフランクな人だから」(3)
「そういったところで、音楽っていうひとつの職業と、そういったものをやりこなしている人間のいい面・悪い面両 方だけど、いろんな経験したかなあ。それは、岡林さんとやり始めた頃に一番、そういった意味で強かったかも知れないですね。初めてストリップ劇場行ったり とかね(笑)。いわゆるそういった音楽とのいろんな事、初めてそこで経験してるもんねえ」(3)
<出典>
(1)ムーンライダーズ+アストロ・チンプス『フライト・レコーダー』 JICC出版局/1990年
(2)CD あがた森魚『日本少年2000系』同梱ブックレット キティ・エンタープライズ/1999年
(3)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(4)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 2000年
(5)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(6)『ニューミュージック・マガジン』9月号 蝸牛社/1970年
(7)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(8)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(9)CD『はっぴいえんどBOX』同梱ブックレット エイベックス・イオ, プライム・ディレクション/2004年
(10)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(11)『SWITCH』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(12)NHK-FM『細野晴臣2001年音楽の旅』 2001年1月2日
(13)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(14)『ロック画報』01 ブルース・インターアクションズ/2000年
(15)鈴木慶一『火の玉ボーイとコモンマン』 新宿書房/1989年
(16)鎌田東二編著『隠された神 サルタヒコ』 大和書房/1999年
(17)『ニューミュージック・マガジン』2月号 蝸牛社/1971年
(18)『ニューミュージック・マガジン』5月号 蝸牛社/1971年
(19)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(20)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(21)『宇宙百景』 小学館/2008年