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chronology 1970 - 1


1970/01/12 ヴァレンタイン・ブルーの練習。自宅。

「曲作ってる最中ですよ」(1)
「自分たちの方法論によって作らなきゃいけないんだというところがあって、はたしてそこで自分たちのオリジナルができるだろうか、つまり、一からメロディを作って、楽器編成を考えて、歌詞を考えて、聴くに耐えるような音楽ができるのかどうかというところを楽しんでいたのかもしれないですね」(2)
「エイプリル・フールみたいに、歌手がいて僕は曲を作ってアレンジしてとか、そういう役割を考えてた。ところがいざやってみると曲が足りないから、分担制になって、自分が歌うことになっちゃった」(2)
「結局、詞ができた数ですよね。LP分の詞を作って、じゃあ、曲は大瀧くんと僕で、半分ずつ位で、曲を作ってって」(1)
「この頃の僕は何もわからない時期ですよ。作曲なんてあまり興味なかったんです、僕は。プレイヤーだったんですよ」(3)
「何か責任持ってたですね、そういう意味で。音楽やるんだったら、演奏っていうことを。表現力っていうのかな。それの、まあ責任者っていうのを」(1)
「で、しょうがないから曲を作って。ずっと暗中模索で作っていた時代ですね。大滝は作曲の能力があって、でも僕はどうもないなって思ってたんですよ」(3)
「作品として定着するっていうのは、自分ではね、なんかこう、嫌だったんですね。自信がなかった。ただしレコードは作らなきゃならないし、そんなに豊かにね、曲が僕には出てこなくって、かなり辛かったと思うんですよね。曲がいっぱいできなくて。まだ慣れてなかったし。これだという曲は無かったし」(1)
「当時は、曲の作り方がわからなかったんです。自分が作曲するということがよくわからなかった」(2)
「バンド作るっていう事のコンセプトとかね、非常にそういう所では自信があったんですけどね、こと個人的な音楽を作ってくという、具体的なね、音楽のモチーフっていうのを、どういうわけだか、サイケデリックでゆがめられたっていうか(笑)前衛ですよ」(1)
「これは大滝くんから言われたんですけど、僕は前衛が好きだという。そういう意味ではそうなんですけど、アバンギャルドをやろうと思ってて、皆目こう、手段が判らなくなっちゃってたんですよね。アバンギャルドっていう」(1)
「結局ね、どうやって作っていいか判らなくなって」(1)
「根も葉もない作り方してましたね」(1)
「ギターで」(1)
「音符を並べていって、コードをつけて、言葉をつければ曲になるんだけど、それがいい曲なのか悪い曲なのか、自分でわからないんです。その前に僕はエイプリル・フールで何曲か作ってて、なんとなく曲らしくできる自信はあったけど。ところが自分では歌ってなかったので、まず歌が歌えないと歌はできないんじゃないかなと思ってた」(2)
「まだ自分の中では、歌が十分歌えるようなカヴァーも出来ていなかったですしね。バッファローとかもあまりうまく歌えなかったし。歌えないとやはり曲ができない、っていうことがありましたね」(3)
「埋めてく作業に近かったような気がするな、自分では。だから僕は大瀧くんの作曲の作業にすごい、ほれてて。最初にできた曲がすごくよかったから、それで、『12月の雨の日』と『春よ来い』さえあれば、このLPは大丈夫だと思ってたんですね」(1)

大瀧詠一の証言
「バンドとしては練習してた。12日もちゃんと細野宅にて練習って書いてある」(1)
「音出したりして練習したことはないんだよね、まだ(笑)。リハーサルって言って、ヒザ叩いてて、何とかって、音出して練習しなかったように思ったな」(1)
「曲を作ったから作った人が歌うんだっていうようなことでしょ」(4)
「細野さんにしても僕にしても曲を作ってギター回し合う仲だったから、誰がヴォーカルで誰が何とかっていう具体的なものはなかったわけだよ。サウンドと曲と、こういうものがやりたいっていうか、みんな総合的に向かっていくみたいな、分担制度じゃなかったんだよ最初の頃は。はっきりした境い目みたいのはあまりなかったから」(1)
「歌う前にまず曲作りがあったでしょ。で、曲作りのあとはサウンド作り。曲作りもサウンド作りも暗中模索なんだよね」(4)
「もちろん細野さんや松本も『僕たちだって試行錯誤だった』って言うんだけど、もっと真っ暗だったよね、俺は」(4)
「歌に関して、例えばどう歌いましょうかって相談したこともなければ、こういう歌い方はおかしいと言われたこともない。詞がどうのっていうのもなかったし」(4)
「ただサウンドとか曲に関してだけ、ちょっとこのコード進行はまずいんじゃないかとかさ。『十二月の雨の日』のあそこにSUS4入れるのはやばいなとかね。美感があるからね、それぞれの。ママス&パパスみたいになるのはイヤだから、とか。そういう技術論だね、お互い交わしたものがあったとしたら」(4)
「なんかみんなバンドっぽくないしね。楽器持ってないしさ。練習はあんまりやらないし。だから、歌だってそうだね。要するに曲作りっていうかサウンド作りっていうか、そういうものに向かう意識だけだったね」(4)

鈴木茂の証言
「細野さんの家の広間でいろいろ合わせたりとか」(1)

松本隆の証言
「だいたい細野さんのところと僕のところとどっちかだった。で細野さんのところでうるさいとかいわれた」(1)
「たぶんはっぴいえんどのときからぼくは作詞家なんだよね。ボーカリストによって書き分けているような気がする」(2)
「半分くらいは好きに書いてたと思う。出来上がってからこれは細野さん向けとか選んでた」(2)
「渋谷のヤマハの向かいにあったいまはもうない喫茶店で2つか3つくらいずつ渡したような気がする」(2)


1970/01/13 ヴァレンタイン・ブルー、『IFC前夜祭』に出演。都市センターホール。
出演:あがた森魚、愚、中川五郎 他

遠藤賢司+ヴァレンタイン・ブルー 遠藤賢司(vo,g)、松本隆(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、大瀧栄一(g)
夜汽車のブルース

ヴァレンタイン・ブルー 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b,vo)、鈴木茂(g)
雨上がり
春よ来い
ブルーバード
雨上がりのビル街

野上眞宏の証言
「寒い日だった。客の入りもいまいちだった。」(6)
「たしかギャラは、一人あたり5000円だったと思う。」(5)

※編注:この日の公演をはじめ、リハーサル風景、楽屋でのスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。なお、1977年に無料配布された大滝詠一のリーフレット『GRAPH NIAGARA』によると、このステージの模様はひゅーまん愚連隊製作の映画『はっぴいえんど』で観られるらしいが、詳細は不明。


1970/01/14 原宿/URCレコードを訪問。岡林信康のバッキングをオファーされる。

「1月には事務所に出入りしてたんですね」(1)
「『これこれこういう、岡林信康っていうのがいるの知ってるだろ、彼がバンドでまわりたいと、ひと月、30日間で、お金が出ると、どうだ』って、リクエストがあって」(1)
「音楽舎の高木さんからきたんです」(1)
「その時は一度は断ったんですね。岡林信康は、みんな好きじゃなかったから(笑)」(1)
「今日の仕事はつらかったっていう歌がヒットしてそれが好きじゃなかったんです」(1)

高木照元の証言
「小倉エージが紹介して」(1)
「岡林がロックぽくやりたいっていうことで、あの頃ヴァレンタインブルーって言ってたのかな、それをエージが見つけてきて」(1)

小倉エージの証言
「岡林はすでにその時に色々と制作に入ってて、レコーディングにふさわしい、メンバーがね、集まらなくてね」(1)
「こじつけとしては、バックバンドとしてはどうかみたいなことを理由にして本当ははっぴいえんどのレコードを作りたかったんですよね。ええ、だしにして」(1)
「それしか方法がなかったし、それと、はっぴいえんどとしてもほかのレコード会社とかね、例えば、その契約話が来ていればね、行ったんじゃないですか」(1)

鈴木茂の証言
「なぜか大手の東芝だとかそういったのは、見向きもされなかったんじゃないのかな。交流がなかったっていうか。でも、あのエイプリル・フールの頃からCBSソニーが、あのディレクターの堤(光生)さんなんていうのは、細野さんが同世代で仲良かったみたいだし。だから、そういった意味では話が来てもおかしくはない筈だったのにね。たまたま、メイジャーの会社からは」(1)

松本隆の証言
「困ったねって言ってたんだよ。レコード会社探さなきゃって、細野さんたちとね。メンバーは集まってるのに、レコード会社が決まっていないからどうしようって。当時、そんな、酔狂なレコード会社ってなくってさ」(1)
「本当、大歌謡界だから。GSが、落ち目になって、どこのレコード会社も、バンドはもともと金がかかるから、そんな、むずかしい音楽やってる連中のレコード出したがらないわけ」(1)
「どっちかっていうと、しょうがなくURCだったんだよね。他になかったものね」(1)
「原宿にあるから、家から近くていいやと思って」(1)


1970/01/16 大瀧栄一にURCレコードでのレコーディング決定を告げる。恵比寿/大瀧栄一宅。

大瀧詠一の証言
「URCで4月にLPの吹き込みの予定だよって、細野さんが来て、私の部屋で言った」(1)
「細野さんが事務所行って聴いて来たんじゃないの。細野さんが一番、そういう面では、やりたくもなかったんだろうけど、マネージャー代りで、やってたっていう」(1)

松本隆の証言
「エージさんが口きいてくれて決まったんだ」(1)


1970/01/18 ヴァレンタイン・ブルー、ミーティング。

大瀧詠一の証言
「LPの吹き込みの練習を週1回やろうということを決めたみたい。録音が4月頃で発売が6月頃を予定しているっていうことで」(1)
「毎週水曜の3時から7時まで御スタで練習しようって」(1)
「この頃はね、まだ揺れてたんだよ。揺れてたんだけども、先ずオリジナル中心とは言ってたわけ。だから、『春よ来い』と『12月……』は一応できてたからそれを中心に先ず考えようという事で」(1)

小倉エージの証言
「樋口さんとか、そう、秦(編注:政明=URCレコード社長)さんにも」(1)
「もう積極的に話をして、やりたいみたいなのを持っていって」(1)
「で向こう(編注:URCサイド)は信用しなかったのかな」(1)
「URCのアーティストになるのには、あそこの例のスタジオでオーディションをとるということで、御苑スタジオ」(1)


1970/01/20 大瀧栄一・松本隆・鈴木茂と、映画『イージー・ライダー』の試写を観る。

1970/01/21 15:00〜19:00 ヴァレンタイン・ブルー、リハーサル(鈴木茂は欠席)。新宿/御苑スタジオ。

「小倉エージに呼ばれてオーディションに行ったんです」(4)
「野地君がフェンダーベース持ってたのかな。それ借りたのかな。自分のは無かったです。借り物です」(1)
「小倉エージは不安そうにしてるんだ」(7)
「覚えてるのはモビー・グレイプの『ヘイ・グランマ』かなんかやったのかな?コピーをやったの、小倉エージのために。バッファローのコピーもやったんだよ、確か。コピーはすごい巧かったんだよね。小倉エージがそれで騒いでたのは覚えてる」(8)
「『それ(巧いコピー)を聴いて安心した』とか言ってるんだよ、小倉エージ」(8)
「『これなら、だいじょうぶ』ってことで安心して、それでレコーディングがほんとうに決まった」(7)
「そのテープが絶対残っているはずです」(3)

大瀧詠一の証言
「細野さんはベースを持ってなかったから、野地義行からフェンダー・ベース借りてたの」(1)
「オリジナルを始めたんだよ」(1)
「リードギターがいなかったんだけれども、で、『12月……』と『春よ来い』を始めたんだけども、早川義夫も小倉エージも、何か俯いたまんまだったんだよ。何にも言わなかったんだよね」(1)
「それで、たまたまっていうか、何かの拍子で、『ブルーバード』をやったの。そしたら小倉エージが飛び上がって、『これだよ、君達は!!』って言ったんだよね。それを覚えてる。オリジナルでうんともすんとも言わなかったのがね」(1)
「なんだ、こういう風なやり方でもっとやれるんじゃないかみたいな、本当はもっとこういう事もやれるし、ああいう事もやれるんじゃないのかみたいな可能性みたいなものに反応したんじゃないのかなと思うんだけどね」(1)
「自分たちの中ではこういう事をやりたいみたいな事が、ストレートにオリジナルでは伝わりにくいっていうのは、あの頃は特にみんな思ってたよね、そういう風に。オリジナルよりカヴァーやった時の方がいいみたいな、そういう傾向って、やっぱりあったと思うんだけども」(1)

小倉エージの証言
「デモテープの収録を兼ねたリハーサル」(5)
「彼らの作品を初めて耳にしたのは、確かその時のことだったと思う。」(5)
「日本語のオリジナルでやるということは、すでに了承済みのことだった。しかし、作品はともかく、その最初の日の演奏に関してはひ弱さを否めなかった。それとは対照的に、演奏も充実し、力強さにあふれ、説得力をもっていたのはバッファロー・スプリングフィールドのカバー、確か『ブルーバード』だったと思う。それを耳にし、狂喜するとともに、安堵を覚えた。その時、ボクが必要としていたのは、会社を説得し、納得させるための材料だったからである。」(5)


1970/01/24 モーニング・デューの名で、大瀧栄一とともに『音楽会』に出演。大橋/ポリドール・レコード。
出演:遠藤賢司 他

モーニング・デュー 細野晴臣(g)、大瀧栄一(vo)
曲目不明

大瀧詠一の証言
「フォーク・ロックを守る会の人達がやらせたのかもね。これも細野さんと2人でやってるみたいよ」(1)
「グループの名前の候補のひとつだったからさ。そろそろヴァレンタインブルーから変えようとかって言ってたんじゃないのかな。遠藤賢司もこの日来てて、何かやったみたい。私はこの時にディスク・ジョッキーをやったの」(1)

1970/01/25 野上眞宏と、横浜〜横須賀方面へドライブ。

野上眞宏の証言
「細野に電話して、面白いことがないからアメリカっぽい国道16号線を通って横浜の方へ行こうよと言った。細野はドライヴが好きだったし、ぼくは森山大道が『カメラ毎日』に当時発表していた国道16号線の写真を見ていたので、自動車の中から写真でも撮って遊ぼうと思った。」(6)
「ぼくは撮影し、運転は細野だった。」(6)

※編注:この日のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。


1970/01/28 15:00〜19:00 ヴァレンタイン・ブルー、リハーサル。小倉栄司に「めざめ」を否定される。新宿/御苑スタジオ。

めざめ
「僕はね、その頃の記憶をどこかに抹殺しちゃったから」(9)
「コピーに比べるとオリジナルがね、その頃はまだ貧困だった。習作の時代だったんだよ」(8)
「自信がなくなってしまったんだよね」(8)
「でももっともだと思うんだよ。当時は僕は暗中模索の時代だし。自分では全然頓着してないから、きっと習作だよ、つまりはね」(9)
「いや、あれが良かったんだよ、あれで。あそこで自信がなくなったのが今に響いてる」(8)
「僕にはそれが良かったんだよ」(8)

しんしんしん
「これはまだ歌えない時期のもの。だから、曲は好きでも嫌いでもない。人が歌ったものを聴くと、いいとは思うんだけどね(笑)」(10)

小倉エージの証言
「彼らがやりたいことを、やらせてあげるのが最大のいいことであって、だから余計なことだけは、やるまいと思ったから、誰の歌詞とか、曲とかメロディーに関しては、よほどのことがない限り、口を出さない、それが一番いい事だと思ったんですよ。本当に」(1)
「でも実際に、聴いてみると音が悪すぎる、とか、なるでしょう。その程度のものなんですよ、僕の立場は」(1)
「いいとか悪いとかっていうのは、やっぱり、けっこうそのころ僕は、僕で主義主張がはげしかったから」(1)

大瀧詠一の証言
「28日に練習したのは、『雨上がり』『足跡』」(1)
「『めざめ』っていうのがあってそれも練習してた」(1)
「細野さん、唄ってます。それから『はっぴいえんど』、あのLPの中に入ってる、それで細野さんが唄ってました、細野さんの曲だから。それから『しんしんしん』ね。それからね、『旅』っていうのあったな。これは細野さんの詞・曲でね、これはプロコル・ハルムみたいな曲で、これはデモテープにも入ってる。御苑で録ったデモテープに入ってます。君が誰なのか〜〜〜〜っていう歌で」(1)
「既に次なる細野の傾向の予兆があり、内省的で個人的な特徴のある曲です。まさにキングストン・トリオで産湯を漬かり、一度はフォーク・シンガーを志したこともある細野ならではの作品で、次の『夏なんです』や『風をあつめて』に繋がるものを感じさせる曲です。(『飛べない空』はその『旅』のサウンドを、後の『恋は桃色』はその詞の内容を継承したものである、と私は捉えています)」(11)
「それからあとは、『朝』を練習したかな」(1)

松本隆の証言
「曲を作った人がアレンジのアウトラインを決めてきて、コード進行を書いた紙をみんなに渡して、それを土台にしてヘッド・アレンジでみんなで決めていった。最初からセーノで演奏してた」(12)
「『めざめ』はね、永遠に紛失してるんです。細野さんが忘れちゃった、曲を。細野さんはその曲をメインにはっぴいえんどを組み立てたんだけど、小倉エージに否定されてね」(9)
「それを録ったら、小倉栄司がね、『この曲は地味で良くない』って言った」(8)
「僕は横で見てて、細野さんがすごく傷ついていたのがわかった。一番これがいいと思ってる曲を、ある種、横から否定されちゃったわけだからすごく怒ってた。あんなに怒ったの見たことないぐらい」(9)
「細野メロディーを否定されたと思ったんだと思う。エージが言ったのは、『もっとはっきりしたメロディーが欲しい』っていうことだったから」(9)
「余計なこと言うなと思ってた」(8)
「それで細野さんがすごいショックを受けちゃって、その後、ファースト・アルバムで2〜3歩引いたんだよね」(8)
「『風をあつめて』を作るまで、けっこう引きっぱなしになって、バンド内のバランスで大瀧詠一色が濃くなったんだよね。あのエージの一言がなければ、もっと全然違うバンドになってたと思うんだ、はっぴいえんどは」(8)


1970/02/04 15:00〜19:00 ヴァレンタイン・ブルー、リハーサル。岡林信康・遠藤賢司・秦政明が見学に訪れる。新宿/御苑スタジオ。

大瀧詠一の証言
「練習してた時にサングラスかけた男が秦さんといっしょに入って来て、何か遠くの方で、『これやでえっ、わいの求めてるものはこれやっ』とか何か向こうで言ってて、何言ってんのかな、何だこいつは?みたいなさ、サングラスかけて、何にも言わずドヤドヤ入ってきて、何なんだコイツは?みたいな感じでさ」(1)
「遠藤賢司は知ってたけど、何か『これやでえっ、何とかやでえっ』とか言って大阪弁がとび交ってて」(1)
「『こいつらや、こいつらしかおらへん』とか。それが岡林だった(笑)」(12)
「岡林がバックはどうのとか探し歩いてたと。で、前に『見るまえに跳べ』のレコーディングを途中までやってて、前のバンドに飽き足らなかったところで、だからこのバンドでやるのはええんちゃうかって感じで思ったらしいんだけど」(1)
「『これでやっとディランとザ・バンドの関係ができた』なんて言ってたね」(12)
「細野さんとかは解ってたかもしれないけど、俺はそのどこの誰だか、岡林って聞かされてもそのオッサンが何やる人なんだか全然、もう何なんだかな、この人はって」(1)

岡林信康の証言
「彼らの音楽的センスは他を圧倒していたが、何よりも僕が彼らに惹かれたのは、日本語で歌うのにこだわっていたからだ。」(13)


1970/02/10 『guts』no.12(集英社)発売。
座談会/ボブ・ディランを調査する 司会:室矢憲司 出席者:遠藤賢司、加藤和彦、細野晴臣、松本隆

1970/02/12 ヴァレンタイン・ブルー、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

大瀧詠一の証言
「この時に『春よ来い』を初めて録音したんだ」(1)
「『春よ来い』と『12月』と『旅』と、もうひとつ」(1)
「4曲のデモ。これがもう、ひどいもんだったなあ。あの頃二度と聴きたくないやつっていうのは、唯一これの時だったからなあ。声は裏返ってるし、本当に始めようとしたハードロックバンドが必死で燃えてるって感じの、演奏はよかったのかもしれないけど、歌がひどかったあ。何かこう、めいっぱい意図はあふれてるんだけど、体がついてってないみたいな感じでね。最悪だったね、これ」(1)


1970/02/20 ヴァレンタイン・ブルー、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/03/05 ヴァレンタイン・ブルー、『第一回東京ロックンロール・アンサンブル』に出演。六本木/自由劇場。
出演:ブルース・クリエイション、遠藤賢司

遠藤賢司+ヴァレンタイン・ブルー 遠藤賢司(vo,g)、松本隆(ds)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、大瀧栄一(g)
夜汽車のブルース
雨あがりのビル街

ヴァレンタイン・ブルー 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)
曲目不明

北中正和の証言
「百人ほどの観客を前に、ブルース・クリエイションと遠藤賢司とヴァレンタイン・ブルーが演奏した。」(5)
「ヴァレンタイン・ブルーだけの演奏があったのかどうかわからないが、遠藤賢司の『夜汽車のブルース』と『雨あがりのビル街』のバックを彼らがつとめ、鈴木茂がファズのかかったリード・ギターを弾いていたことは印象に残っている。」(5)
「伏目がちにベースを弾いていたのが細野さんだった。長髪でヒゲを生やした細野さんは旅の修行僧のようだった。」(5)

1970/03/06 遠藤賢司のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。

「『夜汽車のブルース』と『雨あがりのビル街』の2曲一緒にやった」(5)

小倉エージの証言
「遠藤賢司の希望から、彼のレコーディングに参加することになった。」(5)

遠藤賢司の証言
「一緒にやることは俺が決めた。細野氏と知り合いだったし、他のメンバーとも話が合ったんだ。細野氏のベースが低音にあって、鈴木君の深くて鋭い川の流れのようなギターがあって、松本君のバッタバッタとそこらじゅうをひっぱたくようなドラムがあって、あ、いいなと思ってたんで、やろうよと言うと、むこうもいいねって」(14)
「俺、心の中では、どっかでLPとか録音するんだったら細野くんに手伝ってもらいたいな、って気持ちはあったんだろうね。話もしやすいし」(15)
「それに、音もしっかりしてるし。どっかで頭に残ってたんだよね。それで細野くんに、『niyago』をやるときに手伝ってよ、と頼んだ」(15)
「松本隆くんの家に遊びにいった時だったかな。松本くんの車でぎゅうぎゅう詰めで、5〜6人小さい車に乗って遊びに行って、松本くんの勉強部屋開けたら、バッファロー・スプリングフィールドのレコードがあったの。俺、そのときにバッファロー初めて聴いたの。これ、いいねえ、ってみんな言って。それもあって、『niyago』を一緒に、このメンバーだったらできるかなぁ、って思って入ってもらった気がする」(15)
「『遠藤くん、やるの? じゃあ一緒にやろうやろう』みたいなさ。そういう感じで手伝ってくれた」(15)

大瀧詠一の証言
「僕抜き」(1)
「俺は見に行ってるの」(1)


1970/03/07 遠藤賢司のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。

北中正和の証言
「細野さんはあらかた演奏の入ったテープに合わせて『夜汽車のブルース』のエンディングのピアノを録音していた。リズミックな演奏がローリング・ストーンズのイアン・スチュアートのようだと思った。物静かな人だったが、口を開くたびにスタジオになごやかな笑いの花を咲かせていた。」(3)


1970/03/08 遠藤賢司のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。

1970/03 ヴァレンタイン・ブルー、はっぴいえんどと改称。

「それ以前までの名前を付けるくせっていうのがありまして、スージークリームチーズとかドライアイスセンセーションとか、そんな長ったらしいサイケデリックの影響があったわけです。わけのわからない」(1)
「それだと、どうしても、はっぴいえんど(編注:の表現)と合わなくなってきちゃったんです。すごい日本的なニュアンスが強くなってきて、松本が日本の文学のルーツの方に入ってったり、まあ漫画を通してですけど。そういう所で、バタくさい物っていうのは、段々合わなくなってきちゃったんですよね」(1)
「そのバタくささがどうしてもヴァレンタインブルーてのはあるから」(1)
「『はっぴいえんど』という詞ができたのが最初なのか、或いは、はっぴいえんどという名前をつけたのが最初なのか、ちょっと覚えてないんですよね。でも、はっぴいえんどっていう名前が先だったんだと思うんですけど。あの時は、だから、エイプリル・フールもそうですけど、日本語になってる英語を捜してたんですね」(1)
「日本語にあるような英語をという考え方で、ハッピーエンド」(5)
「そんなに一杯無いわけですから。パッとつけて」(1)
「平仮名にしたのは松本です」(5)

松本隆の証言
「『はっぴいえんど』という詞をぼくが書いて、細野さんが曲を作って、バンド名はこっちのほうがいいということになったんだと思う」(12)
「細野さんとぼくと、車に乗ってる時に急に『松本、はっぴいえんどの方がいい』ということになってグループ名が決まったんだよね」(1)
「『はっぴい』でも『えんど』でもない『はっぴ「いいえ」んど』」(16)


1970/03/12 はっぴいえんど、レコーディングの予定が延期になる。

1970/03/15 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/03/16 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/03/17 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/03/17 はっぴいえんど、URCレコードと契約。

大瀧詠一の証言
「契約書をもらってるね。シングルが1曲2円、LP1曲1円50銭って書いてある。バンドとしてって(笑)、バンドだから、これから4人で割ったんだ(笑)」(1)

松本隆の証言
「きちっとした契約だったよ」(2)
「著作権印税もきちっとあった」(2)


1970/03/18 23:00〜翌3:00 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。

「うまくいかなかったんです」(1)
「エンジニアは最初は吉田保さん」(5)
「わざわざエンジニアをね、試してみたんです。それは吉田美奈子のお兄さんだったんで。『私のお兄さん東芝でエンジニアやってるのよ』って言うから、紹介してって。で決まったわけですから。それはねえ、どんな音作るか知らないけど(笑)なにしろやってみようという。で、エンジニアが大事だっていう事だけは、大前提だったんで。で僕達は、当時、あまり意識してなかったけど、かなり音に関してはうるさいっていうのはある、かなり好みが厳しかった」(1)
「ところが吉田さんは東芝でクラシック担当だったから、ボワーッとした音で、ロックじゃない」(5)
「すげぇ音になった(笑)。モッコモコですっごくガッカリした。落ち込んじゃってね」(10)
「エンジニアから言わせると、演奏技術が未熟だから。リハーサルしてもう一回来いと、出直して来い(笑)と言って席を立って帰った」(1)
「『音になってないから、練習してきてください』と言ったんだ(笑)」(5)
「『そんなハズはない』って反発した」(7)
「こっちから言わせると、エンジニアがひどかったと(笑)音にならないと。だからまあ、上手くかみ合わなかったっていうとこですかね。エンジニア替える、云々っていうのは、その場で決まっちゃったんだから(笑)覚えてます。いやあな気持ちだったですよ、あの時は」(1)

小倉エージの証言
「当初、はっぴいえんどのアルバムは、岡林のバックを務めた作品よりも先に発売される予定だった。それが実現しなかったのは、3月18日、アオイ・スタジオで行われた最初のレコーディングの成果が、かんばしくなかったからである。」(5)
「吉田保さんがやったんだけれども、早川君がメインディレクターで僕がいたんですよ、それでやったんだけれども、うまくいかなかったんですね。4曲録って」(1)
「まるっきりの2チャンで」(1)
「当時吉田保さんが東芝にいてランチャーズかなんかやってたんです。ランチャーズの音がいいっていうんでああいうふうにしたいっていうんで細野君の意図で、吉田保さんを使ってみないかっていう話がメンバー間であって、そういうハウスのエンジニア以外を使うのがこちらとしては、僕はいいと思ったんだけれど、上の方としてはさ、実際にはその、ギャランティのこととか印税のことがからんでくるので、わからないって云っていたんだけれど、それを、やらせてくれということで、ためしでいいから、で、吉田保さんの方も外部的なそういう仕事がしたかったんで、やってみようということに」(1)
「ところがその時のレコーディングがあまりシックリこなくて、彼らも音楽的に、はずれたし、実際出てくる音がですね、ちょっとこう、しょぼいというかそういう感じに聞えたんですね」(1)
「その理由の一つは、吉田保さんが徹夜で来ちゃったからと、それからもう一つは、2チャンでね、ヴォリューム下げてプレイバックしてたりしてたんでね」(1)
「演奏もサウンドも、生気に欠けていた。後に彼ら、とりわけ、細野晴臣は様々なインタビューで、エンジニアを務めた吉田保氏から演奏の非力を叱責された、といった風にふれている。が、エンジニア・ブースにいたボクを含めたスタッフの間では、演奏がいまひとつ物足りなかったことも事実だが、エンジニアリングに問題があるのでは、という意見も出ていた。その点を最も重要視、指摘したのは他ならぬボクだったのだが、吉田保氏の起用は彼らの要望によるものだったことから、いかんともしがたく、ボクとしては複雑な思いにかられたものである。」(5)
「その日はもう注目のレコーディングでしたからね。早川君が一応、Dをやって、それで僕がそばにいて秦さんも来てたし」(1)
「それがやってみて3曲か4曲録ってみて、全然うまくいかないっていうんで、その日はやめて、それをキャンセルにするかしないかとかそういう話が内部的にあったのと、メンバー同志のあれを、もう一度やり直したいということを、こちらの方に言いたいんだけども、まだ内気な彼らは言えないという」(1)
「さらに、制作としては早川義夫も立会い、彼が一応ヘッドの立場にあったが、もとより彼らの音楽については理解できないともらし、決断を放棄したも同然だったことが、話を複雑なものにしてしまったのである。」(5)
「その後、すぐさまスタッフで善後策を協議し、結果、すべてをキャンセルして新たに取り組むことにした。」(5)

大瀧詠一の証言
「これが初レコーディングで、『12月‥‥』と『春よ来い』と『しんしんしん』と3曲」(1)
「この時のベースも野地くんのベース(笑)。細野さんまだベース買ってないんだよ」(1)
「美奈子のお兄さんだから、何かやってくれるんじゃないかみたいな事で。何だって言うことなしに始めたんだよ」(1)
「回す前に帰っちゃったんじゃないの。笑ったよ、うん」(1)


1970/03/19 17:00〜23:00 はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル。新宿/御苑スタジオ。

「こっちからは、やりません。強い、リクエストがあったから」(1)
「岡林はディランのあとを辿っていくわけですから、エレキを持って、じゃあザ・バンドを探さないと、という事です。どういうのがザ・バンドの役割かっていうのは、あらかじめ判ってる訳ですから、バンドに成りきらなきゃという事です」(1)
「最初は、お金につられてやったんだと思う」(17)
「全くビジネスだなと、割切ったんですね。そこで初めてビジネスの心が生れたという。(笑)」(1)
「(編注:演奏は)もちろんおまかせです(笑)。黙々とやってました、一応」(1)

大瀧詠一の証言
「『ラヴ・ジェネレーション』と『ロールオーヴァーゆらのすけ』と『堕天使ロック』」(1)
「岡林のこういうバックやるかやらないかみたいな話、会話あったと思うよ」(1)
「岡林のレコーディングをするにあたって、どうのこうのって、やっぱり経済的にも苦しいしみたいな事を、全部細野さんが考えてたように思うよ」(1)
「むこうとしては別にサイドギターはいらなかったんだけれども、制作上はっぴいえんども一人だけ抜かすのはアレだからって入れちゃったんじゃないの。そんな気がするけどね。まあ、岡林のギターよりは多少はうまかったっていう(笑)、程度なんじゃないのかあ」(1)

鈴木茂の証言
「御苑でやりましたよ。いきなり」(1)
「(編注:アレンジは)大体、細野さんが決めてたみたい。ドラムはこうしてくれとか。で、ドラムとベース決まると、だいたい、こっちも決まってきて」(1)

松本隆の証言
「(編注:アレンジは)はっぴいえんどがやってた」(12)

高木照元の証言
「(編注:岡林は)アレンジに関しては、結構、はっぴいえんどの言うことを聞いてましたね。正直いって、そういう音楽的な部分では、岡林は、はっぴいえんどにかなわないと思ってた、と思うんですよ」(1)


1970/03/21 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/03/22 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/03/23 10:00〜16:00 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
堕天使ロック
ロールオーバー庫之助
ラブ・ゼネレーション

1970/03 小倉栄司と、はっぴいえんどレコーディングの善後策を協議。原宿/URCレコード。

小倉エージの証言
「細野君から電話かかってきて何かっていったら、こちらの方も、吉田保さんていう人、外さないといけない、外した方がいいんじゃないかっていうことで」(1)
「じゃあ、四家さんっていう人がいるから、ハウスのね。あの人に頼んだ方がいいんじゃないか」(1)
「まずそういう話もしなきゃいけなかったっていうんで、細野君に呼び出されて」(1)
「細野晴臣がグループを代表して事務所を訪れ、ボクと協議した」(5)
「エンジニアをどうするっていうこととテープをキャンセルするかっていうことと、僕はキャンセルしたいっていう意向が個人的にね」(1)
「そして、むこうが持って来た条件っていうのは、やっぱり向こうが言って来たことなんだけれど、吉田保さんをおろそうと」(1)
「替わりに、ディレクターをひとりに絞って欲しいという彼らの要望から、ボクが制作の担当にあたることになった。」(5)
「2人ディレクターは困るから、どっちかにしてくれと」(1)
「じゃあ、僕がやるっていうんで、僕としては意地というか、まあ最初からやりたかったというんでやったんですよね」(1)
「それと観客席をできるだけ少なくしてほしいということかな」(1)


1970/03/27 はっぴいえんど、雑誌『guts』主催のコンサートに出演。新宿/こだま。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)
曲目不明
大瀧詠一の証言
「はっぴいえんどでやったと思うよ」(1)
「この頃はもう、ヴァレンタイン・ブルーとは言ってなかったからね、レコーディング始まった時、3月18日の時点ではさ」(1)

1970/04/01 15:00 四家秀次郎・島雄一と、はっぴいえんどレコーディングの打ち合わせ。麻布/アオイスタジオ。

「急遽、アオイ・スタジオのハウス・エンジニアのオジサンにやってもらうことになった」(10)
「四家さんていうおじさん」(1)
「何でも言うことを聞いてくれるエンジニアは、まあかえって良かったのかな」(1)
「何かを聴かせたかも知れない。或いは、出し惜しみして聴かせなかったのかも知れない」(1)
「当然、バッファロー・スプリングフィールド聴かせたと思うけど。でも、そこにはね、あの、ポップスの伝統的なね、リミッターのかかったね、ああいうサウンド固めをやったんですよ。で、それはバッファローが特別なわけじゃ無くて要するにレコードっていうのは、そういう音だと思っていたわけです。ただ、バンドとしてのサウンドってのは、よりバッファローに近いものを想定してましたけど」(1)

小倉エージの証言
「彼らの要望を満たすべくミキシングについて事前に協議するために」(5)
「重箱のスミつつくみたいにね、レコードみんな聞いてた人達でしょ」(1)
「基本的に録音の音質にうるさかったんですよね。自分達がそういうふうに理想的にやれないっていうことをエイプリルフールでこりてるから」(1)
「まずレコード聞いて見て、音を理解してって言うか、これに近い音あれに近い音って」(1)
「ミュージシャンとしては、いやだろうけど、こっちはもう時間がかかるのはイヤだし、てっとり早くする方法はないかと、エンジニアとしても勉強したいんだけど、そういうレコード知らないし、ましてや輸入盤とかそういうのが多かったのでともかく持ってって、ミックスダウンの前じゃなくてレコーディングが始まる前に聞いてもらって」(1)

大瀧詠一の証言
「バッファローとかモビー・グレープを聴いて、当時やっぱりステレオ録音でドラムが右にあったりとか、ベースが左にあったりとか、いろいろ、曲によって、みんな違った配置をしてたでしょ。で、細野さん考えて、俺達の場合、曲によってこうやってドラムをこっちに置いたりとか、そういう事とかいろんな事やろうみたいな事考えて、それを四家さんに話をしに行ったの」(1)
「レコードは『ラストタイム・アラウンド』とニール・ヤングの『ローナー』が入ってるアルバムと、クロスビー・スティルス・ナッシュそれくらい持ってったかな。こういう音にしてくれって言って。で、まあ『ちょっとできるかどうかわからないけれどもやってみる』みたいな話で」(1)

島雄一の証言
「僕はその頃は、完全なアシスタントだったんです。アオイスタジオのエンジニアは四家さんで、四家さんと僕の2人だけです」(1)
「こういう音にしたい、ということで試聴室を用意しまして、こういう音を録るには、どういう風にしようか、とか、そういうシチェーションを話しまして」(1)
「僕は、一番最初は、音はこういう風にしましょう、その為にマイクはこういう風にしましょう、ということで参加していたんです」(1)


1970/04/02 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/04/03 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/04/04 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/04/06 はっぴいえんど、リハーサル。イベント集団・マットルームによる8mm撮影が行われる。新宿/御苑スタジオ。

大瀧詠一の証言
「マットルームの人達が来て、フィルムを撮影してるね」(1)
「チーフがナポレオンていう人で、副チーフが田代っていう人だけれども、彼らが来て、4月6日練習風景も回してるよ」(1)

鈴木茂の証言
「西麻布のどっか裏の方に事務所をかまえてて、ナポレオンていう人が企画してた処」(1)


1970/04/07 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/04/08 遠藤賢司『NIYAGO』発売。
夜汽車のブルース:bass, piano
君がほしい:lead guitar
雨あがりのビル街:bass

1970/04/09 19:00〜24:00 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。
12月の雨の日
春よ来い
「アオイスタジオの4トラックでマルチトラックでやることになる」(10)
四家秀次郎さんが乗り出してきて、音がしまるようになった。そういう段階があって、若い島雄一さんに移って、さらによくなった」(5)
「EQの問題なんだろうけど、ドラムがドラムの音している」(10)
「ドラムスの音とか、ベースの音の決めかたみたいなものをはじめて知って、いい音だなあと思ったんだ。レコーディングっておもしろいもんだなってね。」(7)
「フォー・トゥ・フォーって4chの事で」(1)
「一回一回は2chだったんです。それが倍になったんです。四家さんが、それをよく知ってたから」(1)
「それは当時のレコーディング界では、まあやってたわけですよ、常識的だったんです」(1)
「まだ当時はね、バンドサウンドから抜けてないんですよね。メンバー分の音しか考えてないんです。ドラム、ベース、エレキギター、ヴォーカルって、その位がけっこう、満足できれば良いわけですからあまりダビングとか考えてなかったです」(1)
「精一杯だったんですね。色々な意味で余裕が無くて、時間も無いしね。あと、基本的な音がね、スタジオで作る、コンソールを通して出てくる音が、基本的な所で何か決定的に、どうしても違うからね。それ以上重ねていく事は出来ないっていう、基本が無いっていう」(1)
「そういうあやふやな所で、ボーッとやってたような感じがするね」(1)
「これはうまくいくだろうかとか、失敗するんじゃないかとか、そんなことはなにも考えなかった。ただやってたんだ。そういうときっていうのは、思うようにいってね、バカバカとできちゃうものなんだ。不思議だけどね。」(7)
「小倉エージの立場は明確だった」(1)
「かなりプロデューサー的なことをやった。その曲がどうのとか、かなり細かい感想を述べてたんだ。」(7)
「かなりサジェスチョンとか受けました」(1)
ボブ・ジョンストンのまねをして、ストップ・ウオッチを首から下げたりしてね。」(7)
「有名なプロデューサーの真似をしてたんです」(1)

小倉エージの証言
「当初は3日間の予定で、新たにレコーディングに取りかかった。」(5)
「音の資料となるレコードを山積みにし、スネア、タム、キックなど、ひとつひとつの音をレコードに照らし合わせていった。音決めだけでもかなりの時間を要した。」(5)
「僕は僕で、監視役ですね、とりあえず。つまり、会社じゃなくて、エンジニアの人が、レコードに忠実な音に作ってくれるかどうか(笑)。連中としては不安なわけでしょ、同じ様な音になるかどうか、演奏もそうだけれど、それと同じになっているかどうか」(1)
「エンジニアは、チーフだった四家秀次郎氏がサポートに入る形で若い島雄一氏がメインで務める、ということになった。」(5)
「最初アシスタントに島さんがついたかな、順番にどんどん替っていく様な。四家さんとしては、島さんにそういう新しい仕事としてまあバンドの仕事だしやらせたかったということもあるんで、それで2人のコンビでね」(1)
「ダビングの多いレコーディングでもあった。4トラックのレコーダーでは到底間に合わず、2トラックを併用し、4トラックでベーシック・トラックをとってのち、ダビングをしながら2トラックにおとし、さらに、ダビングをしながら、4トラックの2トラックにいれ、残る2トラックにダビングし、さらにダビングをしながら、ファイナルの2トラックにミックス・ダウン、という方法でレコーディングされていた。」(5)
「全部足すと16トラックとか12トラックとかいう形でほとんどの曲をやったんです」(1)
「いくつ楽器を入れたいっていうコンセプトがすでに連中にはありましたからね」(1)
「僕はたぶん現場で相談してたと思うんですよね。それで、島さんと四家さんとで2チャンネルでは絶対に無理だから、チャンネル使ってどういう風にすればいいかっていう」(1)
「山積みにしたレコードを録音のお手本としながらも、最後の音の整いに関して、一番の拠り所となったのは、やはりビートルズだった。」(5)

大瀧詠一の証言
「『12月』と『春よ来い』のオケ録り」(1)
「島さんが実質、卓に付いて録ってくれたわけですよね」(1)
「後にワーナーに行ってミキサーになる人なんだけど、あのワイルドワンズの島英二のお兄さん」(1)
「四家さんて名物ミキサーだから、自分の卓に、昔のミキサーの人ってさわらせないからね、アシスタントで横にいるわけだけど、やっぱりさわらせた事なかったらしいんだけれども、でも『ちょっとこれ、島君もやってみろよ』みたいな事で、録音してた時やプレイバックの時に、四家さんが、『これからは、島君の時代だなあ』って言ってたから、それはよく覚えてるなあ」(1)
「四家さんがチーフでミキサーだけど、実質的には島さんがね。僕らが島さんのミキサー第一号だったんじゃないのかね」(1)

鈴木茂の証言
「同録です。ついたてを立てて、4人一緒に演奏したと思う。大滝さんもサイド・ギターを弾きながら仮歌をうたっていた。ダビングはぼくがソロを入れるか、細野さんが生ピアノかオルガンを入れる程度」(5)
「バンドでせーのでやった音がもうすでにある程度オーケストレーションできてるんですよ。だから、あまりダビングの必要性ってないんです」(1)
「ドラムで1トラか2トラか忘れちゃったけど、ベースとギターでしょ。それで、あともう一個の機械にコーラス、それからピアノ、生ギター、だいたいそんなもんで合わせて出来上り。だから、意外と苦労しなかったし、それにその時のミキサーが、ビートルズのああいったスタイルをある程度、何か理解してて、そのやり方ってのは心得てたみたいですね」(1)
「(編注:四家秀次郎は)当時もう50いくつかだったと思うんだけど、詳しいんですよ、ビートルズはこうやってやってたんだよ、とか」(18)

島雄一の証言
「合議的な感じですね。あんまり強引にはめ込まないで、みんなで、ああしよう、こうしようっていう感じだった」(1)
「サウンドコンセプトはもう、ほぼ固まってました。ですから、音だけで、演奏的なものは、もうみなさんほとんど頭の中に入ってまして、むしろこっちの方が追いまくられる感じでしたね」(1)
「自分がドラムをやっていたのでね、今の録音の方法だと、ドラムの音がドラムじゃない、なんて、あの頃息まいてまして、いわゆるスタジオで、スネアとかタムとかにマイクを立てたのは、僕は初めてだったんじゃないかと思うんですね」(1)
「僕も非常に燃えてましたね、小倉さんもすごく熱心だったし、逆に当時それだけ音作りをさせてくれる、そんなに時間をくれるプログラムってなかったんですよ」(1)


1970/04/10 19:00〜翌5:00 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。

飛べない空
「わりと苦労して悩みながら作ったんで、まあ、習作みたいなものかもしれないね。あのころは、お手本の素材の影響が非常に強くて、聴いていた音楽がすぐに出てきちゃうんだけど、それが自分のなかを通過していくと東京臭くなってくるというか、青くさいというか」(3)
「音楽的にはプロコル・ハルムの影響が強いですね」(3)
「歌うことに気を取られて全体がわからなくなっちゃう。とたんに無力感に襲われて、非常に不安な状態になったんです。そういう不安定な気持ちをそのまま詞にしちゃったんだと思うのね」(3)
「当時、こういう詞しか書けなかったんだよ。難しいことを書いたら詞になると思っていたのかもしれない(笑)」(10)
「でも、これは歌いたいことがあったんだけどな、実は。アメリカから遠く離れて、はっぴいえんどという暗いバンドで日本語でこういう曲を作っている悲しさをね、歌っているね(笑)。情けない気持ちがあるわけだよ。極東の片隅なんだな、力出てこねぇなって(笑)」(10)
「アメリカの音楽とのギャップを感じていたんです。アメリカの音楽ばっかり聴いていたでしょう。もちろんイギリスの音楽も入ってたけど。ともかくアメリカ文化で育ったという意識があった。はっぴいえんどをやりはじめて、日本語のオリジナルを作ろうと思ったときから悩みがはじまってて、ずいぶんアメリカって遠いなと」(3)
「自分では嫌い」(3)
「『しんしんしん』より聴きたくない曲だな(笑)」(10)
「習作の域を出てないし。しようがないかなとは思うけど、体裁は整っているけど、自分では許していないんだ」(3)

かくれんぼ
「その場に鈴があったりとかね。その場で決めていくわけね」(3)

しんしんしん
「このリズムはね、トム・ラッシュの影響」(3)

小倉エージの証言
「知っている曲っていうのは4曲ぐらいしかなくって、あとはどんどん、持ってくるわけでしょ。だからメンバーが今日は何をやるって。行って、現場で初めて聴く曲も確かあった気がするんです」(1)
「選曲はしてきたし、曲順も考えてあった。アレンジもほとんど、考えてて、でも現場で、これ入れるとか入れないっていうのは、こちらがけっこう言った覚えはありますけどね」(1)

松本隆の証言
 飛べない空
「最初『フィルモアから遠くはなれて』ってタイトルだったんだ、"フィルモアから遠くはなれて"って単語が、固有名詞だからつまらないとかって、それもケンケンガクガク、じゃあ『飛べない空』ってタイトルに」(1)

※編注:大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』(SFC音楽出版/1986年)によれば、この日のその他のレコーディング曲は、「はっぴいえんど」「あやか市の動物園」「春よ来い」「12月の雨の日」。この日のレコーディング中のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


1970/04/11 19:00〜翌12:00 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。

しんしんしん
「ぼく、真面目だから、歌わなくちゃいけないんだぁと思って、一生懸命歌っているんだよ。(編注:詞を)直しちゃいけないと思っているし」(10)

手紙
「松本隆の作詞はまだ初期のころで、熟れてはいない。」(10)
「最も泥臭い、日本的な感じだった」(9)
「ぼくは近所に住んでるから、お袋から手紙をもらったことなど無いし、だいいちお袋とも呼ばない。お母さんだよ」(10)
「実感がないまんまで」(9)
「これは、きっと松本隆の思い出かな(笑)」(10)
「曲自体もダメなわけ」(9)
「声も嫌だったんだよ」(9)
「曲が半端だし、なにより歌が全然歌えていない。このレコーディングの後、A&R担当の小倉栄司氏から『歌が歌えていない』と単刀直入に言われたので、間違いはない。」(10)

大瀧詠一の証言
「12日はね、『敵』『朝』『いらいら』、を完成させて、『かくれんぼ』を練習したんですよ」(1)
手紙:「細野さんがさ、おふくろの手紙を読むっていうの全然合わないわけ。おふくろの手紙を読むっていうのは例えば、やっぱり田舎から出て来て、そういうある種、望郷の思いでとか、そういうことであると思うんだけどさ。細野さん、ずうっと東京で育ってさ、東京で、おふくろの手紙なんて貰った事ないわけじゃない。だから、細野さんがおふくろの手紙を読むっていうのがさ、すごく、実際にその曲に合ってないような気がしてさ、そういう事かな、奇妙に聴こえたのだけ覚えてる」(1)

松本隆の証言
 手紙
「駄作でしょう。あれはある種『春よ来い』の延長みたいな」(9)

※編注:大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』(SFC音楽出版/1986年)によれば、11日のその他のレコーディング曲は、「あやか市の動物園」「いらいら」。「敵」「朝」については12日の『ロック叛乱祭』終演後、13日未明の録音とする説が多いが、ここでは、上記の大滝詠一の証言にある「かくれんぼ」の練習が『ロック叛乱祭』のためのリハーサルではないかという推測のもと、『ロック叛乱祭』前の録音として扱うこととする。


1970/04/12 16:30〜20:00 はっぴいえんど、『ロック叛乱祭』に出演。マットルームが8mmで撮影。文京公会堂。
出演:愚、休みの国、遠藤賢司、中川五郎、岡林信康、五つの赤い風船、越智友嗣 他

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)
12月の雨の日
かくれんぼ
春よ来い

「そこで、はっぴいえんど宣言をした」(1)
エイプリル・フールっていうバンドは自己主張が強かったし、それまでの大滝も自己主張をするのが好きだった。でも、はっぴいえんどというバンドの場合、アンサンブルの要素で聞かせるサウンドだから、その表現がむつかしいんだ。とくにライブの場合、バンドとして未完成だったし、みんなもどう聞いていいかわからない。踊るわけにもいかないし、かといってその時代のフォークみたいでも、グループ・サウンズみたいでもなかったし。ちょうど、ジャンルの狭間みたいなところにいたから、聞くほうもやるほうもとまどっちゃうの」(19)
「エイプリル・フールの時には、毎日ライブやっててあんなに楽しかったのに、どうしてはっぴいえんどはむつかしいんだろうと思ったね。というのも、はっぴいえんどは目標を違うところに置いていた。レコードでいかに表現するかってことだったから、そのことしか考えてなかったの」(19)

大瀧詠一の証言
「大体のものを仕上げて、12日にコンサートになだれ込んだわけだね、これは。文化放送でオンエアされたっていうんだけど、文化放送ではひょっとしたら、これをライヴのレコードにするんではないか(笑)とか言ってたみたい」(1)
「いつ変わった、何だそれは、目一杯怒っちゃっておかしくてさあ。『今変えたんです』なんて言って、うけてやんの(笑)。何か知らないけどなあ、メジャーなんとかってのはみんな、何かバカにしてやろうとか思ったんだな」(1)

鈴木茂の証言
「おちさん(編注:越智友嗣。この日の司会者)が大滝さんの方へ行って、大滝さんがいつものこんな感じでいるから、これはもう話してくれないなと思ったらしくて、僕の方へ来て、『名前が変わったそうで。』『ええ、はっぴいえんどです。』『どういう理由で?』『あんまり深く訊かないで下さい。』ってな事を言ったかも知れない(笑)」(1)

北中正和の証言
「何組かの出演者にまじって彼らが演奏するのを聞いた。彼らが公式にはっぴいえんどと名乗ったのは、このときがはじめてだった。会場は1階の後ろのほうがけっこう空いているくらいの入りで、終演後、ロビーで小倉エージにぱったり会ったら、カセット・レコーダーで『はっぴいえんど』という曲を聞かせてくれた。彼が頬を紅潮させながら『しあわせなんて何を持ってるかじゃない…』という歌詞を『ロックでしょ』と語っていたのを思い出す。」(5)

※編注:「はっぴいえんど宣言」を含むこの日の演奏の模様は、ライヴアルバム『GREEEATEST LIVE! ON STAGE』(ソリッド/1986年)に収録されている。


1970/04/13 0:00〜7:00 はっぴいえんど、レコーディング。麻布/アオイスタジオ。

大瀧詠一の証言
「まず、全部できてなかったから『敵』とか『朝』とか入れるとこ全部、カウベル入れたりとか、そういったダビングを、朝まで、7時までかかったの。寝ずにやったの」(1)
「それでレコーディングが終わって、やったあ!っていう気分になって外に出た時に、茂が『やあ、すがやかな天気だなあ』って言ったんだよ。すがすがしいとね、さわやかがいっしょになってたんだと思うんだけど、本当にあのすがやかってのが言い得て妙だったんだよね、全員が。で、ものすごくいい天気だったんだよ。すごくいい天気で」(1)

松本隆の証言
 続はっぴ−いいえ−んど
「レコーディングの最終日の前の晩にさ、もう1曲作ろうということになって(笑)、細野さんが(笑)無理矢理パート2になっちゃったんです」(1)

編注:大滝詠一『All About Niagara』(白夜書房/2001年)によれば、この日のその他のレコーディング曲は、「かくれんぼ」。


1970/04/13 7:00〜16:00 はっぴいえんど、プロモーション・フィルムの撮影。新宿西口〜瀬田/貯水場跡〜横浜/外人墓地。

大瀧詠一の証言
「新宿の西口の、あの貯水場の跡、まだ高層ビル建ってないの、あの処を走ったりとか、その後車に乗って横浜行って、外人墓地のあたり行って、撮影したのね」(1)
「車に乗ってた時にエージも乗ってたし、みんな乗ってたけど、すごくこう、寝てないわけだよね、でも、ずーっと興奮状態で、みんな興奮を隠せない。何か俺達はすごいことをやったんじゃないだろうか、みたいな、みんな喜んでね」(1)

鈴木茂の証言
「瀬田のゴミ処理場とか新宿の広場で撮った」(1)
「メンバーもかなり体力的に盛り上がってる時期だったし、だから瀬田を本当に走り回ってたんだけど、平気であの頃。面白かったと思いますよ」(1)
「コンクリートだけの骨組み、団地の骨組みみたいな所でフッと出てきたり、いなくなったりとか」(1)
「割と『ヤア!ヤア!ヤア!』とかね、そういう感じで作ってたんです」(1)


1970/04/18 はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル。あがた森魚と鈴木慶一が見学。新宿/御苑スタジオ。 

鈴木慶一の証言
「あがたに連れられて御苑スタジオ行ったわけ。あがたが早川(義夫)さんに会うために。したら岡林信康のリハーサルにはっぴいえんどが来てて、岡林はいなくて早川さんがヴォーカルやってた」(20)
「早川さんが仮歌を歌っていたんだな。はっぴいえんどの前身、ヴァレンタイン・ブルーはテープで聴いたことがあった。しかし、そこにいるはっぴいえんどというバンドが、リハーサルの合間に日本語のロックを目の前でやってるのを見たとき、本当にびっくりしたんだ。僕もそのころ、日本語をロックのリズムに乗せるのに努力してたから、驚いた」(21)
「4月の18日ですね。その時にはメンバーと話しはしていないんですね、ただ見てただけです」(1)

※編注:あがた森魚と鈴木慶一がリハーサルを見学したのは同年3月19日とする説もあるが、ここでは鈴木慶一の証言を尊重した。ちなみに鈴木慶一は、1970年の1年間だけは日記をつけていたという。


1970/04/19 はっぴいえんど、当時野上眞宏や小坂忠が運営していた六本木/スピードに出演。プロモーション・フィルム『ラヴ・フェスティバル・ラヴ』が上映される。

野上眞宏の証言
「レコーディングが終わったばかりのはっぴいえんどに出演してもらった。そしてマットルーム製作の、今となっては幻のはっぴいえんど8ミリ映画も上映した。僕の記憶では、その8ミリはビートルズの映画のようにメンバーがただ駆け回ったりする結構アマチュアぽいもの」(5)

大瀧詠一の証言
「フィルムを上映したの初めて上映したの」(1)
「『ラヴ・フェスティバル・ラヴ』っていう、ダサーイタイトル」(1)
「はっぴいえんどで始まって、で、最後にはっぴいえんどって字で出るの、で、お終いだったの」(1)
「12日の模様もね、8mmに写ってたよ。『12月』を唄ってる、俺しか映ってなくて、他の人は気の毒だったけどさ。一瞬『12月』を唄ってたところのフィルムが、サーッとインサートされてんだよ」(1)
「『12月‥‥』だなあっていうのは解るんだけど、音はいっしょになってない」(1)


1970/04/20 15:00〜18:00 はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/04/21 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。麻布/アオイスタジオ。
愛する人へ
おまわりさんに捧げる唄
今日をこえて

1970/04/21 はっぴいえんど、岡林信康のレコーディング。ビクタースタジオ。
性と文化の革命

1970/04/24 はっぴいえんど、『岡林信康壮行会/わたしを断罪せよ』に出演。ライヴで初めて岡林のバッキングを行う。東京12チャンネルが撮影。渋谷公会堂。
出演:吉田日出子

岡林信康 岡林信康(vo, g)、大滝栄一(g)、鈴木茂(g)、細野晴臣(b)、松本隆(ds)
今日をこえて
おまわりさんに捧げる唄
ロールオーバー庫之助
性と文化の革命
それで自由になったのかい
ラブ・ゼネレーション
堕天使ロック
私たちの望むものは

「岡林とやることになった時、前にクラブで連日演奏してたような感覚が身につけば、演奏が上手くなると思って、いいチャンスじゃないかなっていう気持ちもあったんだ」(19)
「あんまり意欲的にどうのこうのとか、考えてなかったですね、やってて、ノル曲っていうのはやっぱりね、楽しいですからね」(1)

それで自由になったのかい
「テンポのあるものは、レコーディングの時にすごくよかったんで、なかなか、テンポが出たんですけど」(1)

私たちの望むものは
「印象的でしたね。それをどうやってやろうかって、僕達は『プロコルハルムだね、これも』って。冷ややかにしようって、やってたんです」(1)

※編注:この日の演奏の模様は、岡林信康のライヴアルバム『'70 岡林信康ロックコンサート PART II』(SMS/1979年)に収録されている。


1970/04/25 岡林信康『見るまえに跳べ』とはっぴいえんど『はっぴいえんど』の編集。麻布/アオイスタジオ。

1970/05ごろ 『はっぴいえんど』のマスターテープから「手紙」をカットする。

「自分でマスターからカットしたな」(10)

小倉エージの証言
「僕は、個人的に体こわして寝こんじゃったんですよ」(1)
「レコーディング終って、マスターテープ作った段階で神戸に帰っちゃったんですよ」(1)
「その間に電話がかかって来て、メンバーが『風を集めて』をはずしたいっていうので」(1)

大瀧詠一の証言
「カッティング数日前まではマスターに入っていたのですが、細野の意向で削除されました。」(11)
「習作の感が否めなかったという側面はあり、結果的にはオクラ入りは成功でしたが。」(11)

松本隆の証言
「これはやっぱりみんなが、みんなと言っても二人だけど、気恥ずかしかったんだよ」(9)


1970/05/11 はっぴいえんど、渋谷/ジァンジァンに出演。

大瀧詠一の証言
「松本くんが詩の朗読をしてたなあ」(22)
「レパートリーが少ないからすぐ終わっちゃって、何かやんなきゃってことになって、詩の朗読やることになったんだよね。そのとき、茂がギターの教則本で昨日覚えてきたばかりみたいな曲を、何度もひっかかりながら弾いてね」(22)

松本隆の証言
「バッハとか」(22)


1970/05/15 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/05/16 13:00/15:00 はっぴいえんど、『シブヤ西武MAYカーニバル』に出演。渋谷/西武百貨店屋上。
出演:加藤和彦、小野和子、三上寛、若林美宏

はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)
ブルーバード
かくれんぼ
12月の雨の日
ローナー
あやか市の動物園

野上眞宏の証言
「Tシャツ一枚でもOKな、良い天気だった。」(5)
「若林みひろは、はっぴいえんどをバックに天女の舞のようなダンスを披露した。」(5)

※編注:はっぴいえんどの演奏をバックに踊った若林美宏は、大島渚監督『新宿泥棒日記』(1969年)や実相寺昭雄監督『曼陀羅』(1971年)といった映画に出演していた女優。1974年6月3日、投身自殺により死去。なお、この日のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)で見ることができる。


1970/05/17 13:00/15:00 モーニング・デュー、『シブヤ西武MAYカーニバル』に出演。渋谷/西武百貨店屋上。
出演:加藤和彦、小野和子、三上寛

モーニング・デュー 大瀧栄一(vo)、細野晴臣(g)
曲目不明


1970/05 岡林信康「愛する人へ/ラブ・ゼネレーション」発売。
愛する人へ:bass
ラブ・ゼネレーション:bass

1970/05/29 東京12チャンネル『ドキュメンタリー青春』で「ロック!ニューロック−岡林信康の愛と別れ」放送。
今日をこえて
※1970/04/24@渋谷公会堂

1970/06/05 大瀧栄一・松本隆・鈴木茂と、映画『ウッドストック』の試写を観る。東商ホール。

1970/06/06 はっぴいえんど、リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1970/06/07 はっぴいえんど、TBSラジオの公開番組に出演。有楽町ビデオホールまたはイイノホール。
はっぴいえんど 松本隆(ds)、大瀧栄一(vo,g)、細野晴臣(b)、鈴木茂(g)、松本裕(ds)、中田佳彦(cho)
シナモン・ガール
クエスチョンズ
ローナー
かくれんぼ
大瀧詠一の証言
「6月7日に有楽町のビデオホールに出た時は、ダブルドラムでやったみたいだね。中田君のコーラスと松本の弟が入ってダブルドラムでやったんだね」(1)

松本裕の証言
「ツインドラムでやったのは、イイノホールというところで、それ1回だけです。うーん、あの時は、はっぴいえんどの4人と僕との5人だけですね。他の人が入ってやったことはないです」(1)


1970/06/09 はっぴいえんどのメンバーを自宅に集め、岡林信康『見るまえに跳べ』試聴会を行う。

1970/06ごろ あがた森魚と鈴木慶一が自宅に来訪。

鈴木慶一の証言
「あがたの『蓄音盤』のベース頼みに行って」(20)
「1曲聴かせてくれ、というんで」(1)
「その場で私がギターを弾いて、あがたさんが歌ったの。ダイレクトだからね、デモ・テープどころじゃないですよね。目の前で歌われちゃ…(笑)」(23)
「こういう曲あるんですけど、ベース弾いてくれませんかって頼むわけだ」(23)
「ギャラの話は触れないんだ(笑)。『細野さん、やってください』『ああ、いいよ』って」(20)
「木が生えたお宅でね、レコード聞かせてもらったり。どのくらいいたかな、2時間ぐらいかな」(23)


1970/06/23 岡林信康『見るまえに跳べ』発売。
おまわりさんに捧げる唄:bass
性と文化の革命:bass
堕天使ロック:bass
ロールオーバー庫之助:bass
今日をこえて:bass
※編注:先行シングル曲、「愛する人へ」「ラブ・ゼネレーション」も収録。

<出典>
(1)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(2)『ロック画報』01 ブルース・インターアクションズ/2000年
(3)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(4)すみやHP『MEDIA MAX』 2000年
(5)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(6)野上眞宏写真集『HAPPY I  SNAPSHOT DIARY:1968-1970』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(7)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(8)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 1999年
(9)『SWITCH』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(10)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(11)CD 大瀧詠一『大瀧詠一』ライナー・ノーツ ダブルオー・レコード/1995年
(12)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(13)岡林信康『伝説  信康』 小学館/1991年
(14)『レコードコレクターズ』2月号 ミュージックマガジン/1997年
(15)『ロック画報』15 ブルース・インターアクションズ/2004年
(16)『ミュージック・ライフ』8月号 シンコー・ミュージック/1970年 
(17)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(18)『ロック画報』02  ブルース・インターアクションズ/2000年
(19)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(20)ムーンライダーズ+アストロ・チンプス『フライト・レコーダー』 JICC出版局/1990年
(21)鈴木慶一『火の玉ボーイとコモンマン』 新宿書房/1989年
(22)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 2000年
(23)レコードコレクターズ増刊『グレイトフル・カフェ』 ミュージック・マガジン/2001年
update:2004/03/30

1969<>1970 - 2
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