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chronology 1969


1969/01/01 前夜から引き続き、野上眞宏宅でのセッション・パーティ。文京区関口町。

1969 フローラルのライブを観覧。終演後、霞町/マリーズ・プレイスで、フローラルのベーシストとして加入を要請される。

柳田博義(柳田ヒロ)がキーボードをやっていて」(1)
フローラルっていうバンドをやってるから見に来ないかっていうんで行った」(1)
「フローラルっていうのは、あのころすごい人気者だったイラストレイターの宇野亜紀良がデザインしたコスチュームを着て、グループ・サウンズとしてデビューしたバンドだったのね。でも、シングルを2枚くらい出したけどうまくいかなくて、そのころはサイケデリックのバンドに路線を変えてたんだよね」(1)
「ぼくが見に行ったときにはドアーズの曲なんかをやってた」(1)
「うまいと思いました。しっかりしたいい音出してましたよ」(2)
「で、そのステージが終った後で」(1)
小坂忠が給料袋をね、5万円くらい入ってるの、それを、いいだろうって見せるワケ」(3)
「霞町にあったマリーズ・プレイスっていう絨毯クラブで。あそこにみんなたむろしてたから」(4)
「テレ朝通りに近い六本木通りの、今の中國飯店があるとこ」(5)
「マリーズ・プレイスには黒人も遊びに来てて、踊りを教えてくれてた」(4)
「ブガルーっていう踊りが大流行りで、それを習った覚えがある。そこにフローラルの連中もいた」(4)
「給料袋を手に持ってブラブラさせて、『やんない?』って言うわけ」(4)
「『入れば、月に5万円もらえるよ』って」(1)
「そのころの5万円っていったらたいしたものだったよね。それでぼくがその気になったっていうことになってるし、ぼくもそういう説明をしてきたんだけど、ほんとうはもっと他にも大きな理由があるんだよ」(1)
「もちろん、5万円も大きな魅力だったけど、いちばん魅力的だったのは、新しいバンドにしてレコーディングすることがもう決まってるっていう話だったんだ。『アルバムを1枚レコーディングしたい。そのためには新しいメンバーが必要だ』ってヒロに言われたの」(1)
「もっとアーティスティックな、新しいことをやりたいし、レコードを作りたいってことで」(2)
「それまでは、ドラムとベースにすごくかわいい子がいて、けっこう人気があったんだけど、その子たちをクビにして、もっとムサイのを入れようってことだったらしいんだよ」(1)
「で、ベースは僕がやることになった」(1)
「その場で決めた」(3)
「デビューが決まったときにオリジナル作らなくちゃいけないという義務感を初めて持ったんだ」(6)

柳田ヒロの証言
「メンバーを首にして」(7)

小坂忠の証言
「結局は事務所の思惑に僕らが乗れなかったんです。元々バンドの中でも、いわゆるポップ・サウンズが好きなメン バーと、それが居心地悪いと感じるメンバーがいたし。それで、僕とヒロとギタリストの菊池が残って、新たに自分たちがやりたいメンバーを探してやろうって ことになって」(8)


1969 松本隆をフローラルに誘う。

「次にドラムスを誰にしようということになって、ぼくは松本か林のどちらかにしようと思ってたんだ。でも、林はちょうど、茂や小原礼とスカイっていうグループをはじめたりしてノッてるときだったから、声をかけなかった。高校生同士で意気投合して熱中してたからね、かわいそうだと思って」(1)
「だから松本に話したんだけど、最初は、大学で勉強しなきゃ、とかウダウダ言ってたのね。だけど、じきに話にのってきたんだ」(1)
「金で釣ったわけだな」(9)
「松本くんのお母さんに呼び出されちゃったんだから。『うちの息子を悪の道に、引きずり込むな』と。『本人次第です』と(笑)」(9)

松本隆の証言
「野上さんの友達でさ、アサダ……ってのがいたと思うんだけど。その人の家に細野さんと二人で遊びに行って、帰りの車の中で「松本、プロにならないか」って(笑)」(4)
「バーンズを解散して」(4)
「誘われたわけ。『これやると給料が5万もらえて(笑)、金が儲かるぞ』っつってさ(笑)」(9)
「サラリーマンの給料3万の時代です」(10)
「で、僕はちょっと学校行きたいし、大学も、卒業したいしどうしようかなと、言ってたわけ。そしたら、『学校なんか出なくていいんだ』っつってさ」(9)
「2年には、なったんだ。ちゃんと進級したの。友達が、10数名落第して、友だちがいなくなっちゃってその時 に、エイプリルフールに誘われたんだ。学校行ってもおもしろくないなあと思っている時だったので、誘われたんだよね。ついふらふらーっとその気になって、 しかも、大学は、ロックアウトしてたから」(2)


1969 松本隆のフローラル加入オーディションに立ち会う。

「最初の時の仕返しをしたみたいだね」(11)
「オドオドしてたよな」(4)

松本隆の証言
「今度は僕が細野さんにオーディションさせられた」(11)
「柳田ヒロと細野さんで。僕にドラムができるかどうか」(11)
「オーディションにはトラウマがあってさ。エイプリル・フールの前に、フィンガーズがプロになるときに…フィンガーズというのは風林火山に所属していたグループ・サウンズなんだけど…そのときもオーディションさせられて、それは落ちてる」(4)
「『また落ちるだろうな』と思いながら受けたのを覚えてる」(4)
「そのオーディションではドアーズをやったんだよね。ドアーズを何曲か、課題曲みたいな感じでやって、これなら使えるとか言われて」(11)


1969 ランプポストのミーティングで解散が決定。新宿。

「新宿で、ランプ・ポストを解散するというミーティングがあったとき、実はもうぼくはエイプリル・フールというプロのバンドに入ることが内定していたの」(1)
「そのころまで、バーンズとかドライアイス・センセーションなんかもやってたんだけど、いつまで続けても先が見えないのがイヤになってたから、そっちは全部やめちゃったの」(1)
「全部整理したんです。プロになるんだっていうの……初めて、まとまったね、ギャランティが出て、まとまった仕事があってね」(2)

大瀧詠一の証言
「一応、日曜のお茶会はずっと定期的に続いていたんだけれど」(2)


1969/03 新生フローラルのリハーサル開始。バンド名をエイプリル・フールと命名。
松本零(ds)、細野晴臣(b)、小坂忠(vo)、菊池英二(g)、柳田ヒロ(kbd)
「アイドル系的なフローラルのメンバーがいるところに、新米のぼくと松本隆が途中から入っていった。かなりひねくれた二人がね。で、エイプリル・フールは半分が遊び人で半分はそうじゃないというバンドということになった」(12)
「フローラルっていう名前がいやでね、みんなで思いつく英語の名前をあげていったんだ。ぼくが『エイプリル・フール』はどうだっていったら、松本が『それでいこう』ってのって、名前が決まった」(13)
「ただのベーシスト。そういう楽しさがあった」(11)
「事務所が楽器を支給してて。元々フローラルっていうグループ・サウンズでしょ?彼ら。その持ち物だった<リッケンバッカー>を受け継いで……いや、違うな。当時は<エピフォン>だったかな?」(14)
「ビートルズ・スタイルで弾くのが嫌で、もっと低い位置で弾きたくて自分で<リッケンバッカー>を買ったんだ」(14)
「エイプリル・フールは、最初からレコーディングすることが決まっていて、全部オリジナルでやろうということになっていた」(13)
「その頃ははっぴいえんどのような明確な意識はな かったんだよね。でもバッファローの影響なんでしょうけど、アメリカのルーツの音楽をリスペクトしてああいういいものができたということを学んだわけです よ、我々も。なんとなくですけど、うすうすそれを感じてて、オリジナルだったら日本語もありだなと。抵抗はあることはあったんですけど、でもバーンズでた またまその学園祭という場でね、テーマを与えられて作ったということがいい練習になってたんですね。それがなかったら……」(11)
「あそこでやってたからできた。だから明確な意志というのはないんだよな。なんとなく日本語でっていう。小坂忠が歌うのは決まってたし」(11)
「小坂忠の歌が上手かったんだよ」(6)
「特に詞を作る場合、日本語の方がいいというのはあったと思いますけど。あと周りにボヘミアンがいっぱいいたりして、彼らヒッピーに(英語訳)詞を頼んだりしてましたね。『タンジール』という曲は、そういう風にして出来ましたね」(15)
「モロッコ帰りのヒッピーの女性で有楽町のサーフショップに勤めてた。その彼女に先に詩をもらったような気がする。素人だし、周りになんとなくいた人に頼んだりしてたね」(11)
「最初にアーティスト写真を撮んなきゃいけないんで、松本はカツラかぶったんだよ(笑)」(4)
「オカッパみたいなやつ(笑)」(4)
「だって他のメンバーはすごかったんだもん。バランスが合わなかった。しかもこんなベッチンの裾幅40センチぐらいのベルボトム、履かなくちゃいけないんだよ。ステージ衣装として(笑)」(4)
「その衣装に短髪っていうのがどうしても似合わないんだよ(笑)」(4)
「ロック・バンドというのは、とにかくカッコつけなきゃどうしようもない。さまにならないというのがあって、エ イプリル・フールは、かなりカッコよかったグループかもしれない。怖いぐらいに、太いパンタロンみたいのをはいて、ベルボトムをはいて、ひげをぼうぼうに してね(笑)。そういう意味ではロック・バンドっぽかった」(16)

松本隆の証言
「僕はただのドラマー」(11)
「やっとこれでおれたちのやりたい音楽ができるなあ、時代が来たと思った」(2)
「あの時はね、とにかくハード・ロックがやりたい、と。それだけでしたね。オリジナルを作るということも、たい して理由がなかったんです。全部コピーでもよかったんだけど、なんとなく、一応曲だけはオリジナルにしようって言って。あの当時は、まだ、ずーっと英語で やるつもりだったんです」(17)
「英語の歌ばかりで僕が詩を書かせてもらえなかったっていう不満がかなり強くあった」(10)
「その時はぼくはまだ一番新入社員みたいなもので全然発言権なかったから、英語でやるのかな、っていうくらいで黙ってたんです」(18)
「なんか、細野さんに負かされた。英語でやんなきゃだめだって、他のメンバーもそんな感じだったし」(2)
「まだ芸能界体質で、新人バンドは印税はなくて、買い取りだったか、給料に含まれてたか忘れたけど、それが業界の一般常識だと言いくるめられてた」(19)
「わりと締めつけはなかった」(18)
「自分(編注:細野)が言ったんじゃない、『松本、カツラかぶれ』って(笑)」(4)
「僕、しょうがないからデパート行って、『これください』ってカツラを買ったんだ。1回かぶって写真撮ったんだけど、なんか気持ち悪くて、その後2度とかぶる気がしなかった(笑)」(4)


1969/04/02 0:30〜4:30 エイプリル・フール、レコーディング。虎ノ門/テイチク・スタジオ8階。

「確かステレオのピンポンでやったな。録った音を流しながら、歌を録音するという、当時では当たり前のやり方」(6)
「2トラック録音。ドラムス、キーボード、ベース、ギターをステレオで録音して、それからヴォーカルをかぶせたんだ。他の音をミックス・ダウンしながらね」(13)
「レコーディングができるというだけで興奮状態なんだよ」(6)
「そのスタジオで聴いた時には、いい音だ、と思ったんだけどね」(13)

松本隆の証言
「僕は英語で1曲か2曲作って、まだ2チャンネルしかない頃で、けっこう即席で作ったものを一発録りしているんですよ」(19)

※編注:この日から4月5日までの4日間にわたるレコーディング風景は、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)の他、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)などで見ることができる。


1969/04/03 0:30〜4:30 エイプリル・フール、レコーディング。虎ノ門/テイチク・スタジオ8階。

1969/04/04 0:30〜4:30 エイプリル・フール、レコーディング。虎ノ門/テイチク・スタジオ8階。

1969/04/05 0:30〜4:30 エイプリル・フール、レコーディング。虎ノ門/テイチク・スタジオ8階。

1969/04/09 野上眞宏主催のパーティーに出席。代官山ホテル。

野上眞宏の証言
「関口町の自宅や、喫茶店やホテルのスイートルームとかを借りてぼくは当時よく、小さなパーティーをセッティングしていた。なんかみんなを集めて騒ぐのが好きだったのだ。」(5)
「代官山がそろそろカッコいいというので代官山ホテルに部屋を取って、いつもの連中に加えて新しい友達を呼んで やった。花札をしたり、誰かがどこかで習ってきた新しいステップで踊ったりもした。今でも覚えているのは二谷英二に、嫌いだというトマトをみんなで投げつ けたりしたことかな。」(5)

※編注:この日のスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。


1969/04/17 大瀧栄一が自宅に来訪。エイプリル・フールのレコーディング・テープを聴かせる。

「できたときは、ものすごく興奮したよ、かっこいいって。大瀧に聴かせたりして……自慢しちゃったりして(笑)」(6)

大瀧詠一の証言
「エイプリルフールのLPができたって、曲聞かされた時に、うわー!と思ってさ。バンドで例えばそのしっかりしたデモテープとかっていうの自分たちが作ったことないでしょ。生ギターでこう、やる程度のものじゃない」(2)
「それが、こう、バンドで曲になってて音になってるって時は、もう一つの感動を禁じえなかったね。あーって、 やっぱり、変な歌作ってたけどこういうの作るんだあ(笑)。うわあ、日本のヴァニラ・ファッジだ、みたいなさ。テープで聞いたんだよ、オープンのテープ だったから、要するにテープの音がよかったんだよね。それもあってさ『やったあ!』みたいな感じで、これは、やった!みたいな、もうものすごく興奮したの おぼえてるよね。これだなぁこれからは、なんていってね(笑)。細野さんは、なんかやる人なんだなって(笑)」(2)


1969/04/20 13:00〜17:00 野上眞宏主催『ザ・ジャム・セッション3』出演。虎ノ門/第11森ビル地下/東京音楽文化センター虎ノ門スタジオ。

野上眞宏の証言
「出演は、LPの録音を終えたばかりのエイプリル・フール(菊池英二g、柳田ヒロkbd&g、小坂忠 vo、松本隆ds、細野晴臣b)を中心に鈴木茂(g)、林立夫(ds)、小原礼(b)、高橋幸宏(ds)、東郷昌和(vo)、村松かつみ(編注:松村克己 と思われる。)、吾妻ジョージ、伊藤剛光(以上g)、中田佳彦(vo)、小宮としゆき(g&b)、浜口茂外也(fl)、飛び入りでブルース・クリ エイション(竹田和夫g、布谷文夫vo、田代信一ds、野地義行b)の連中が参加してくれた。」(10)
「このメンバーで11通りの組合わせを作った。休憩を2回挟んだ3部構成で、1〜2部がジャム・セッション、3 部のはじめがブルース・クリエイション、トリにエイプリル・フールという具合だった。見学には中田佳彦の友人でブルース・クリエイションを連れてきた大滝 詠一、景山民夫をはじめ風林火山の連中、そのガールフレンドなどなど18名くらい。総勢40人ほどだった。皆さんから会費を400円ずついただいて、会場 のレンタル料を払った。」(10)

大瀧詠一の証言
「僕も中田君と行って見てたんだよ。それじゃおもしろいから、とかいってブルースクリエーションなんかも呼んで なんか遊ぼうか、みたいなことで、で後半のころにはブルースクリエーションがどどっとやってきて、エイプリルフールをバックにして、布谷さんがブルース 歌ったりしてセッションでなんかわけのわからない、あのインチキブルース歌ってたのがあのセッションの一画だったと思ったよ」(2)
「その時に集まったメンツが、そのあと日本の音楽作っていくんだけど、そんとき何かそういう予感がしたよ」(2)

高橋幸宏の証言
「ぼくがやったのは覚えてます。『サンシャイン・オブ・ユア・ラブ』と『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』、それと、あとはブルースをごちゃごちゃと」(3)


1969 エイプリル・フール、島倉千代子ショーに前座として出演。長野県内または山梨県甲府方面。

「あれはもう、すごい印象に残ってる。すごかったわ」(4)
「すごい音だったもんね」(4)
「アンプはけっこう大音量のアンプを使ってたからね。音、でかかった」(4)
「(編注:客は)腰抜かしたね」(4)

松本隆の証言
「主催したのは有名な漫才の人で」(19)
「温泉場みたいなところ。事務所から仕事で前座に出ろ!って(笑)」(4)
「行ったら、ただの講堂なんだよ、学校の。紅白の垂れ幕が周囲に張りめぐらされてて、ゴザ敷いてあって、おじいさんとかおばあさんが、おにぎり食べてて。そこにブワーッと幕が上がると、異様な風体の若者が(笑)」(4)
「バケモノみたいな格好したぼくらが出ていって演奏したからお爺ちゃんお婆ちゃんたちの鼓膜が破れたかもしれない(笑)」(19)
「腰抜かしたと思うね」(4)


1969/05 エイプリル・フール、荒木経惟とアルバム・ジャケット用のフォト・セッション。銀座〜日比谷界隈。

「エイプリル・フールに女性マネージャーがいたんだよ。名前忘れちゃったけど(笑)。彼女が荒木さんのモデルをやってたの。まあ、要するにすごいプライヴェートな関係でさ、仲良かったの」(4)
「マサヨさん、だっけ?」(4)
「荒木さんは電通にまだいて」(4)
「朝の5時に銀座で待ち合わせようってことになったけど、ドシャ降りの雨で。その中で日比谷公園に行ったり、あちこちで2時間近く写真を撮ったのね。翌日、みんな風邪ひいて寝こんじゃった」(1)
「あの当時から、荒木さんはひょうひょうとしていたよ。もうあのまんま」(1)
「その後もよく会ったけど、荒木さんの撮ったヌード写真を見せてくれるのね。きったねえ写真だなァと思ってたんだ。まるで変わってないわけ、今と」(1)

松本隆の証言
「確か、イクヨさん」(4)
「(編注:荒木は)まだ電通で、これから辞めようって頃。今でも鮮烈に覚えてるんだけど、すごいパワーがあって。『有名になるのは簡単だ』って言ってた」(4)

野上眞宏の証言
「ミュージカラー・レーベルの幾代昌子。彼女が電通のカメラマンだった荒木経惟さんを個人的に知っていて、エイプリル・フールのジャケット写真を彼に頼んだ。」(5)


1969/05 エイプリル・フール、新宿/パニック、六本木/スピード、渋谷/ハッピー・バレーなどでライブ活動を開始。

「新宿のパニックというディスコに1か月くらい、ハコで入ってね。一日3ステージやった。鍛えられたね」(3)
「メインの根城は新宿のパニックだったんだけど、六本木のスピードにもよく出ていた。そこへユーミンが来てたらしくて」(4)
「その頃、名前だけはよく知ってた。"ユーミン"って。昔からユーミンだったね。なんか"子供!"って感じの後ろ姿の印象があったのね」(20)
「ハッピーバレーっていうとこがあったな(笑)、すごいダンスホール」(2)
「今でいうと、全線座のとこです。全線座なんて、今ないか。(爆笑)」(2)
「サイケと、それからお客さんがみんな踊っていたんで、ダンス・バンドという側面も強かったんです。かなりアナクロですよ。というか、よりハコバンというイメージが強いというか」(16)
「その頃の風潮として当然の事でしたから」(2)
「修行の場ですからね、そういう所は。そこで演奏技術とか、感が良くなるんで、いい経験でしたね」(2)
「ベース弾きまくってたから、プレーヤーとしての自信もついた」(3)
「当時はライヴで演奏するときは全部カヴァーだったんだよね。メインはドアーズだっけ?」(4)
あとはツェッペリンもやってたね。それからアイアン・バタフライとか。スリー・ドック・ナイトプロコム・ハルムもよくやってたよ」(4)
クリームもやってましたけど」(2)
「いわゆるサイケのころ出てきたグループの曲を広くやっていたバンドです。コピー・バンドです、そういう意味では」(16)
「コピーっていうのは、リーダーがいなくてもいいわけです」(2)
「エイプリルフールが楽しかったと松本が言ったのは、コピーして演奏してるのが楽しかったわけだよね」(11)
「単純に演奏家として楽しかった」(11)
「ライヴでは自分たちのオリジナルはなかなかできなかった。気持ちもノらなかった。そこにギャップがあった」(16)
「何曲かやってましたけどね『暗い日曜日』っていうのと、ヒロの何とかっていう曲と」(2)
「たまにオリジナルをやるとコピーとの力量の差が歴然とでる」(12)
「自分達のオリジナルなんてつまんないと思ってたんだよ」(11)
「ようするに、自信がないんでしょうね」(2)
「好きなのは自分達が聴いてる音楽だったんだよ、多分。でもオリジナルを演ったとしてもライヴではウケないし、浮いちゃうんだよ、レパートリーの中から」(11)
「自分たちじゃ、自分の演奏は聞けないんだけど、一回友だちが録ったやつを聞いたことがあるの。やっぱり、けっこうスゴかった」(1)
「毎日、同じスタイルで同じ曲をやってるわけだから、もう腕だけが動いてるわけ。ちょうど自動車を運転するみたいに感覚だけでやってるの。そうすると、それだけじゃつまらないから、何かが入ってきちゃう。一種、神がかってきちゃうわけ。もうお神楽の世界だよね」(1)
「そうすると、もうレコードよりすごい演奏になっちゃうの。そういう意味では、エイプリル・フールっていうのは、ライブのほうがレコードより良かったバンドなんだよ」(1)
「バンドとしてはメチャクチャに新しくて、恐ろしくて、イメージがすごかったらしいんだよね」(3)
「噂を聞きつけて、いろんな人が見に来たの。大滝も来たし、茂や林も来たしね。そういう連中とセッションになっちゃうこともよくあったよ」(1)
「フィリピンバンドのスーナーズとかね」(11)
「まあ、ほとんどセッションですよね。ですから音楽を作っていくっていうより、セッションですから、ミュージシャンがうでがいいか、悪いかって、そういう世界です」(2)
「中間のインプロビゼーションを楽しんでいるだけですから。ですからその、長さはね、ダンス用ですから長くなっちゃうんです一曲が」(2)
「演奏してる途中、急にビンの割れる音がして、ケンカがはじまっちゃうこともあったの。横浜の本牧のほうから、チェーン持って殴り込みに来る連中がいたんだ。なんだか、よくはわかんないけど、新宿と本牧の店同士で対立みたいなのがあったらしいんだよ」(1)
「もう、こっちは慣れてるから、ケンカがはじまると、すぐに演奏をやめて、ケンカが終わるまで待ってるの」(1)
「そんなふうに夜中を過ごして、終わると六本木の『ハンバーガー・イン』で食事をして、家に帰って寝るっていう毎日だった」(1)
「毎日が冗談みたいだったよ。いつもヒゲモジャでべっちんのハカマみたいなパンタロンをはいた5人が一緒に行動してたんだから、知らない人が見たら、本当に異様だったろうね」(1)
「ヤクザに呼び出されて、親しげにされたこともあったよ。新宿の花園神社っていったら、昔から怖いところだったからね。でも、そういうことも、ぼくらは冗談にしちゃって、ヘラヘラしてたの」(1)
「あのころの生活っていったら、ほんとうに退廃してたね。やることは全部行きあたりばったりで、それでいてなんにも考えていなかったし。もっとも、そうでもしていなかったら、一日2ステージで連日同じ店に出っ放しみたいな仕事には耐えられなかったんだろうね」(1)
「もう、典型的なバンド・マンの生活だったもの。ただ、自分たちが、今までになかったスゴイことをやってるんだっていうプライドみたいなものはあったんだよ」(1)

松本隆の証言
「花園神社の隣に『パニック』というディスコがあって毎晩演奏した」(11)
「ベトナム帰りの米兵がいて、それこそお祭り騒ぎ。ベトナム戦争映画で描かれるような陰惨な雰囲気はなく、みんな気のいい連中で、ただ、今は騒ぎたい、そんな気分が漂っていました。」(20)
「渋谷に前線座という映画館があって、いまの東映の隣だけど、その地下にダンスホールがあったの。そこにはビッグ・バンドが入っていて、前時代的な衣装の人が社交ダンスを踊ってた。そのドラムを叩いたこともある(笑)」(19)
「人生の中で一番楽しかった時期かも知れない」(10)
「毎夜スーパーセッションやってた。で、ホント、遊びにきた人が飛び入りで演奏したりしてたよね」(11)
「当時はスーパースキル(テクニカルなバンド)がウケている時で、それでそういうのをやったんです」(18)
「毎晩演奏できてとても楽しかった。ドラマーとしてのスキルがものすごくあがった。当時、右足が機関銃のように動いたのね(笑)」(10)
「テクはけっこう上手かったと思います」(18)
「うまいバンドだっていわれてたしね。横浜のパワーハウス、東京のエイプリルフールと言われてたんだ。誇りもあったしねプライドもあったしね」(2)
「オリジナルは演奏してないんだよね」(11)
「毎晩ドアーズやってんだよね」(11)
「『ウェン・ザ・ミュージックズ・オーヴァー』とか。あと、『ブレイク・オン・スルー』と『ジ・エンド』」(4)
「スリー・ドッグ・ナイトとかね。それはちょっと偏ってるなっていう」(11)
「僕はそれはちょっと不満だったね。せっかくアルバムをレコーディングしたのに、なんでオリジナルを演奏しないんだろうっていうのは疑問としてあった」(11)
「来る日も来る日も、やることはドアーズなんかのコピー。これって変だし、自分たちが作った歌を日常的にやらないと、意味がないんじゃないか。」(20)
「僕はドアーズが好きだったから、それも楽しかったですけどね」(18)
「プロコム・ハルム、やってたっけ?あんまり巧くなかったよね」(4)
「キーボードが一人足りなかったから」(4)

松任谷由実の証言
「六本木にあったディスコ。あたしが15才くらいの頃よく行ってて」(20)
「あたしの場合、グループ・サウンズの親衛隊やってた頃と時期的に少しダブるのね。で、"スピード"ではGSとは全く違う世界がそこにくり広げられていたわけ」(20)
「もう、『あ、すごい!音楽ってやっぱりこうだよ!!』って」(20)
「細野さんは当時から後光が差してました」(20)
「スター性とはまた違う…、教祖性というか」(20)
「髪もすっごい長くてね」(20)
「長い髪をスケベ分けして、ヒゲぼうぼうで(笑)。でもすっごいカッコヨカッタ!」(20)


1969/05/07 エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』収録。
出演:遠藤賢司 他
「遠藤賢司はよく知っていたんですよ」(15)
「『720』に出たらそこに出てたと。腕に磨きがかかって、かなり上手くなっていた。で、ああいいなと思ったんですね。当時ティム・ハーディンとか、トム・ラッシュとかが好きだった。そういう風格が遠藤賢司にあって、ギターを独特に上手く弾く」(2)
「ロックよりもロックぽいな、特に言葉の使い方とか既に自分の言葉を持っていましたから」(15)
「『何てかっこいいんだろう』って僕は思ってたんですよ」(15)

グッド・タイムズ・バッド・タイムズ
「すごかったよね。ドラムがいちばん大変だった」(9)
「(編注:松本隆は)あの頃がいちばんむきになってたね、あの曲に関して」(9)
「それでやったんだよね。あの、ストトストトドンッていう。足が痙攣する…」(9)
「バスドラは2個使ってたらしいんだけど。レコーディングではね」(9)
「松本はシングルでやったと」(9)
「その時の顔が。顔と、右足が、痙攣してたと」(9)
「ちゃんと、生でやったのが残ってるはずだよどっかに」(9)

松本隆の証言
「どうして『720』に出たか、よくわからないんだけど、遠藤賢司が『猫がねむっている』を歌ってたのね。あれ は、日本のドノヴァンじゃない。細野さんとさ、これにドラムとベースを足せばもっとおもしろいんじゃないかって。ドノヴァンを日本語にしてね、これに、ド ラムとベースを足せば、ロックになるから。細野さんに、言ったら『ああそういうやり方は、あるな』とか言ってくれたんだ」(2)
 グッド・タイムズ・バッド・タイムズ
「レッド・ツェッペリン僕ら早かったよね」(9)
「すごいドラムだったんだよね」(9)
「『松本これはできないだろう』って言うから、むきになって練習して(笑)」(9)
「3連の裏のね。だからあれシングル・バスドラムでは、誰もできないと思うんだけど(笑)。あの、多分あの、バスドラムが2個、並列して置いてあると、あれは簡単なんだけど」(9)

遠藤賢司の証言
「ベースがどっかで見たヤツなんだよ。その時は細野くん、ひげ生やしてたから。そこで、アレ?って再会して」(22)


1969/05/09 7:20 TBSテレビ『ヤング720』放送。
エイプリル・フール
 グッド・タイムズ・バッド・タイムズ
 ※1969/05/07@TBS

1969/05 大瀧栄一に呼び出され、バッファロー・スプリングフィールド『ラスト・タイム・アラウンド』を買う。新宿/紅屋。

「バッファロー・スプリングフィールドが3枚目のアルバムを出して解散したっていうニュースが入ってきた。もう残念でね。そのアルバムを聞かなきゃ気がおさまらないと思って探してたんだけど、やっぱりみつからないの」(1)
「そしたらある日、大滝から電話がかかってきて、『今、新宿の帝都無線にいるんだけど、バッファローの3枚目をみつけた』って知らせてくれたんだ」(1)
「『新宿で見つけたから押さえておく』って」(23)
「それは僕のために教えてくれたんです。彼はその頃、バッファローに特に興味があった訳じゃなくって、僕が騒いでたのを知っていたので情報をくれた訳です」(15)
「急いでスッ飛んで買いに行って」(15)
「もう舐めまわすようにして聞いたんだけど、あの時の興奮ていうのはなかったね」(1)
「それで、またそのアルバムが良くて深みにはまっちゃった」(1)

大瀧詠一の証言
「細野さんはバッファローの『ラスト・タイム・アラウンド』ってアルバムを買ってなくて、ほしいほしいって言っ てたの。国内盤なんかなかったしさ、ヤマハにも輸入盤が入らなかったんだ。ところがある日、新宿で僕が見つけたわけ、輸入盤を。買おうかな、と思ったけ ど、細野さんがほしがってたの思い出して、電話したの。見つけたよって」(17)
「細野さん欲しいのあるよっていったら、いやあ、探してるんだけど無いんだ、みたいなので、見張ってるからおいでよって(笑)」(2)
「そしたら"なに!?"って車で飛んできた」(17)
「その間誰にも買われないようにっていうんで」(2)
「あんなに興奮したことはないって言ってたね」(17)


1969 エイプリル・フールを観にきた吉田美奈子と知り合う。新宿/パニック。

「追っかけだ」(9)
「僕は、美奈子は、家出少女かと思ってた」(9)

吉田美奈子の証言
「高校の時はよくエイプリル・フールを見に行ったの。新宿にある『パニック』という店で彼らと知り合って、細野くんなんかと、よく音楽の話をしたり」(24)

松本隆の証言
「多分、その、『グッド・タイムス・バッド・タイムス』を、テレビで観て、それを、んーと、観にきたみたい。チェックしに」(9)


1969/06ごろ 柳田ヒロとの音楽的亀裂が決定的となる。

「私の心の中では、『バッファロー』『モビー・グレイプ』『バンド』『ローラ・ニーロ』を思いながらも、それとはうらはらに、ブルースやとてもハードな音楽へと突っ走っていったのです。が、ハードな音楽をやり過ぎ、疲れたと思った時には、もう『エイプリル・フール』の解散は決っていたのでした。」(25)
「もう、うるさい音楽に飽きちゃってたのね、ぼくは」(3)
「ハコバンにも疲れてた。演奏能力はかなり鍛えられてたけどね」(4)
「確かに演奏はうまくなるんだけど、これは音楽じゃないな、自分のやりたいことじゃないなって思って」(5)
「そんな事が永遠続いちゃたまらないということで」(15)
「その頃僕はローラ・ニーロ聴いてたりして、シンガーソングライターの方向にぐっと惹かれてる頃だったんだけど、ヒロはそういうものはやりたくないとはっきり言っていた」(11)
「『そういうのは音楽じゃない。インプロヴィゼーションがない』っていうの」(1)
「彼はロックバンドの志向が強かったんだよね」(11)
「そこで、全然、やりたいことが変わってきたんですよ」(2)
「もしエイプリル・フールが日本語で、僕の好きなバッファローやローラ・ニーロとかそういうものを出来るんだっ たら、ひょっとするとはっぴいえんどの代わりになっていたかも知れないんですよ。だけどリーダーの柳田ヒロはやりたくないとハッキリ言ったんで、対立して しまった訳です。そういうことがあったので、潔く辞めようと」(15)
「サイケはね……あんまり好きじゃなかったんだ(笑)。ぼくは、ポップ・ミュージックが好きなんだよ、ずっと。サイケで好きなのは、モビー・グレイプを除いて、ストロベリー・アラーム・クロックとかエレクトリック・プルーンズというようなバブルガムっぽいのとかしか好きじゃなかった。それ以外のはくっだらねぇなって思ってたね。例えば初期のピンク・フロイドとかアイアン・バタフライとかね、そんなこけおどしには乗らないんだよ(笑)」(6)

小坂忠の証言
「モビー・グレイプとか、グレートフル・デッドとか、バッファローとか、ああいうのが好きだったの。仕事終わると、細野君たちと毎日きいていたの。それでも、次の日になると、仕事は自分たちの好みと全然違うでしょ。そういうのやっぱりいやだった」(26)
「柳田ヒロ君の持っているものと、細野君たちの持っているものとが、だいぶ方向が開いてきて、一致するところがなかったからですかね」(26)

松本隆の証言
「ハード・ロックに疲れてたね(笑)」(4)
「ちょうどハード・ロック全盛の頃にカントリー・ロックが流行り出してきたんですね。バッファロー・スプリング フィールドとかモビー・グレープ、グレイトフル・デッドとかね。元からプロコル・ハルムとかが好きで、プロコル・ハルムとまったく同じ楽器編成のザ・バン ドがアメリカに出てきたんですね。ぼくと細野さんは、そっちの方向の音楽に魅かれていったんですよ。どっちかっていうと、ナチュラル志向ですね。普段着 で、自然体で」(18)
「当時柳田ヒロは、アル・クーパーみたいな音楽をやりたいと思っていた」(19)
「ケバケバしいハード・ロックやプログレの方にいってたから」(18)
「でもどっちかというとバッファロー・スプリングフィールドはしんねりむっつり型だから、合わなくてね(笑)」(19)
「メンバーそれぞれのやりたいことが違ってしまって」(20)
「細野さんと柳田ヒロの間が犬猿の仲になって。『松本、あいつ(ヒロ)の顔は見たくない』とか(笑)、言ってた。だから、あとは消化期間」(4)
「6月頃はもうよくなかった。やっぱり解散が決まってたものね、メンバー内では」(2)
「スピード解散に僕は驚いたけど」(20)
「会社には言ってなくて、発売が9月って事で、会社を解散という形に説得して、それでなおかつ時間をつぶしてなきゃいけないと」(2)

柳田ヒロの証言
「よく怒られてましたよ細野さんに。キックが聞こえないとか、サウンド面に。こっちは演奏してるだけで精一杯だから細野さんのイライラの原因がわからなかった」(7)
「僕は技術ないから勢いでノイズと共にガーッとやっちゃいたいって思ってましたから。細野さんの言うようなのはできないんですよ。僕らはまだカヴァーをちゃんとやれるようになりたい段階でしたから。細野さんはもう次に行きたかったんでしょう」(7)


1969/06/04 エイプリル・フールを観に来た大瀧栄一に解散をもらす。新宿/パニック。

大瀧詠一の証言
「細野さんがエイプリルフールをやめるって云ったんだ」(2)


1969/06/05 未明 新宿/パニックでのエイプリル・フールの終演後、大瀧栄一と麻布/松本隆宅へ。

大瀧詠一の証言
「松本の家に行って3人で夜明かしをしたのは、この日が初めてだ」(2)

松本隆の証言
「その前にね、大滝さんと麻雀やってんだよね」(2)
「3人かもう1人ぐらいいて。中田さんがいたのかも知れない。それで麻雀やってて異常に怒鳴る人だなと思ってた(笑)。麻雀やってない時はすごくおとなしい人なのにね」(2)
「ビージーズっぽい曲を日本語で作ってたんだ。『サンデードライブ』という」(2)
「僕もビージーズは嫌いじゃなかったから、大滝さんとはその辺で一致した訳」(2)


1969/07ごろ TBSテレビ『ヤング720』出演。
出演:内田裕也、麻生レミ 他
「『来年は日本語とロックを融合する』と言ったら『融合』を『結納』に聞き間違えられたりして」(27)
「お恥ずかしい(笑)」(14)

大瀧詠一の証言
「7:20宣言事件というか、TVの早朝番組に、細野が麻生レミや内田裕也なんかと一緒に出たんだけど、その時『これからの抱負は』なんてきかれて、彼が言っちゃったんだよね」(27)
「日本語とロックを結び付けて、日本語のロックを作るんだっていう事を、テレビで宣言したの」(2)
「演奏しなかったように思ったよ。何か出てね、何か喋べってただけだったよ」(2)
「俺テレビで見て、すごく胸が熱くなる思いをしたの覚えてる」(2)


1969/07 エイプリル・フール、パニック八丈島店にハコバンとして3週間出演。

小坂忠の証言
「7月に八丈島で1ヵ月だけ開く期間限定ディスコに営業で行かされたんですよ。もうほとんど島流し状態。そこで毎晩毎晩酒呑み相手に演奏して」(8)

松本隆の証言
「やたらひとけないゴー・ゴー・スナックで、照明めざして飛び狂う大きい蛾から、身をかわしながら毎晩やった」(27)
「ジャングルの中にある倉庫みたいなディスコティックに来る客は、島民だけ。」(20)
「宿舎と倉庫の間をひたすら往復するだけの生活は、仕事というより合宿に近い感覚でした。しかもそんな逃げ場のない合宿中に、メンバーの仲はどんどん険悪になっていく。」(20)


1969/08 八丈島の桟橋で海に落ち、頭部に裂傷を負う。

「船と桟橋の間に落っこちて」(16)
「船のへりに頭をぶつけたりした」(28)
「海の中で気絶して、頭を切っちゃって、かなり危険な状態になった」(16)
「あの時は、横泳ぎでスーッと」(27)

松本隆の証言
「ようやく島から帰れるという時」(20)
「コード類の入った鞄を受け取ろうとして」(27)
「その時、怪我をした彼を僕が病院へ連れて行くことになって、残りのメンバーは船で東京に帰ってしまうんだけど」(20)
「その出来事は『エイプリルフール』のその後を暗示してる。」(20)


1969/夏 松本隆、小坂忠と、新バンドの構想を話し合う。

「松本っていうのは、僕が誘ったんです。同じような音楽を、聞いてたし、好きになってたんで」(2)
「松本にバッファローやローラ・ニーロを彼の家に行ったり、僕の家に呼んだりして聴かせてたんですよ。『こういうのやりたいね』『絶対やろうよ』ということで」(15)
「ですから、そういうところは了解済みだったし」(2)
「で、『じゃあヴォーカル誰にする?』ということになって(小坂)忠が一緒にやりたがっているからっていうんで、3人でやろうという事を決めたんです」(15)
「小坂忠も、もともと、そういう音は好きだったんで、フォークをやってた人ですから、バッファローなんかやりたがると思ったんです」(2)
「3人で、毎晩集まっては、レコード聞いたり、一緒に遊んだりして盛り上がってたの」(1)
「エイプリル・フールはその頃解散状態で、もうやることもなかったので」
「ぼくの中でもやりたいことがもう熟していたしね」(1)

小坂忠の証言
「松本の麻布の家に細野くんと3人で」(8)
「ディスコの仕事が終わった後によく集まって自分達の音楽について語り合い、やがてまた新しいバンドを作る計画を話し合っていた」(29)


1969/09 ミュージカル『ヘアー』のオーディション。小坂忠に同行。赤坂/国際芸術家センター。

「行きました、いっしょに(笑)」(2)
川添象郎さんから、ミュージカル『ヘアー』の話が来たの。『ヘアー』っていうのはヒッピーを主人公にしたミュージカルで、アメリカで大ヒットしてたんだ。それを日本でもやるっていうのね」(1)
「そうしたら、忠が『どうしてもオーディションを受ける』って言い出した。しょうがないから、ぼくはそのオーディションにギターで伴奏をつけるために行ったの」(1)
「それはいいことだから、チャンスだからって」(2)
「僕ってやることに一貫性がないんだよね」(4)
「たしか、PPMの『マザーレス・チャイルド』を歌ったんじゃないかな」(1)
「僕は興味なかったんで。小坂忠に頼まれて、ギターやっただけで」(2)
「商業主義的なもので、ミュージカルみたいな、えー僕はきらいでしたね、『ヘアー』っていうのは」(2)

小坂忠の証言
「その頃、アンダーグラウンドの演劇がものすごいエネルギーを持ってたんですよ。寺山修司の天井桟敷とか。僕はその頃、そういう世界にも興味があったんです」(8)
「細野くんの頭の中にはもうはっぴいえんどのイメージも出来かかっていたんだろうけれど、僕はその世界とは別 に、演劇の世界も魅力的に映ってたから、結局、『ヘアー』のオーディションを受けることになった。そうしたら、オーディションには細野くんがギターを弾き に来てくれたらしいんです、僕はすっかり忘れてたんだけど(笑)。もし、細野くんがギター弾きに来なければ……」(8)

※編注:野地秩嘉『キャンティ物語』(幻冬舎/1994年)によると、『ヘアー』のオーディションは9月1日から3日間行われたという。小坂忠(と細野)が何日に参加したのかは不明。


1969 小坂忠が『ヘアー』に合格。新バンド構想が白紙に。

「忠は、オーディションに受かって、明るい未来が開けちゃった」(1)
「輝かしい未来を獲得したわけ」(13)
「『あーあ、困ったなァ、リード・ヴォーカルがいなくなっちゃった』と思ってね」(1)
「そこの別れ目が大きかったね」(4)
「残されたんですよ二人が、僕と松本が。もうそこでゆきづまっちゃったんですよね。小坂忠がいなくなったらもうだめだと」(2)

松本隆の証言
「メンバーを探さなくちゃと言ってるうちに、忠さんが裏切ったというか(笑)」(19)
「メジャーな話題のミュージカルだったからね」(19)
「そういうものに出られるのはチャンスですよね。ぼくらはレコード会社も何も決まってなかったし、売れるかどう かわからないバンドにいるよりは、よかったんじゃないでしょうか。というのは推測だけど(笑)。それはぼくは、あ、そうか、くらいにそんなに深刻には感じ なかったけど、細野さんはすごいショックだったみたい」(19)
「すごい落ち込んでた。『忠に裏切られた』って。でもさ、だったら一緒にオーディションについて行って、ギターの伴奏してあげることないのにって、僕は内心思ってた(笑)。その時はなんにも言わなかったけど。『ああ、そう』って聞いただけだった」(4)
「で、ボーカリストを探さなきゃということになって」(19)
「とにかくメンバーを集めようって言ってさ、細野さんとやっきになってたんだよね」(2)


1969 中田佳彦の就職決定を知る。

「キング・レコードに入社しちゃったからあせったのよ。先越されたと思って」(4)
「一体どうしようか!って。でもノウハウがないんだよ。誰のサゼスチョンも聞くわけじゃないし。とりあえす大学の就職窓口に行ってみようと思って行ったんだけど、閉まってた(笑)。もうとっくに終わってたわけ、そういうことは」(5)
「なんか、ものすごく普通のことに疎い。でも別に慌てなかったよ。もう1年やろうかなって、そのうちなんかわかるかなと思ってさ」(5)

松本隆の証言
「そのときはあせってなかったように見えたよ」(4)
「だれをメンバーにしようとかいってた時、考えてて」(2)
「でも就職するからとかいわれて」(2)


1969/09/06 エイプリル・フール、新宿/パニックに出演。新バンドに大瀧栄一の加入が決まる。

「メンバーとの出逢いがないとバンドを作れないからゆきづまってたんですけど、そんなに時間たたないところで、大 滝くんから電話があって、キーワードがバッファローなんですね、そのころのバッファロースプリングフィールドのえたいのしれないよさが、わかるかわからな いかっていう、それがひとつのキーワードですよね。大滝君の電話っていうのが、そのことなんですよね、当時僕が熱中してた頃大滝くんは、それほどバッファ ローにこだわってないんですけど、その電話でバッファローが、わかったということで、あ、メンバーが決まった、と思ったんですよね」(2)
「なんだかぼくにもわからないけど、なにかひらめいたんだろうと思ってね」(1)
「音楽っていうのはそういうものなの。なんかわかる時点がある。極意みたいなもんだな」(1)
「"ああ、大滝くんはバンドに入るつもりだな"と思った。大滝くんは当時はソフトロックが好きで、僕はサイケデリックが好きで、それまでは一緒にやれるとは思っていなかったから」(30)
「『わかったか、じゃあ一緒にやろうよ』って、その場で決めたの」(1)

大瀧詠一の証言
「少しくい違うんだよね」(2)
「9月の6日にちゃんと書いてあるんだから、たぶんこの日だったと思うんだけど」(2)
「細野さんの所に行ったんだよ」(2)
「忠が来て、みんな演奏だけで、ヴォーカルひまになってうろうろして、いや何かもう、どうしたのっていうような ことで、『いやもうやめちゃうんだよ。』みたいなことを何か忠がこう自問自答しているような。なんか演奏ばっかり長くなって、あれだね、みたいなこと言っ てて、『もうすぐやめちゃうんだよ』みたいな事を言われたのは覚えてるんだよ」(2)
「で、最近、どんなの聞いてるの、みたいなので、たまたま、竹田和夫の話をして、バッファロースプリングフィールドの『ドゥ・アイ・ハフ・トゥ』がよくて、みたいな」(2)
「ぼくが初めてバッファロー・スプリングフィールドを意識したのは布谷さんちでだった。布谷さんはあんまりレコード持ってる人じゃなかったけど、なぜかバッファローの『フォー・ホワット』のシングル盤だけは持ってたの」(17)
「ある日ね、布谷さんちに遊びに行ってそのシングル盤聴いてたら、竹田和夫がさ、"大滝さん、これB面もいいんだよ"って言ってレコードひっくり返したの。それが『ドゥ・アイ・ハフ・トゥ・カム・ライト・アンド・セイ・イット』だった」(17)
「いい歌だったよ。A面も聴いてはいたけど、今ひとつ良さがわからなくてね。B面のポップな感じがたまらなく好きだった」(17)
「あれもポップス、の一種なんだっていう風に気がついたんです」(31)
「この時代のロックンロールなんだっていう風に思った時にわかったんですよ」(31)
「だからその解釈が細野さんの解釈とは、あのー細かく言うと違う、とは思うんだけれども」(31)
「あの時代ほら"小異を捨てて大同につく"と言うかさ(笑)」(31)
「そうしたら細野さんがヤング・ブラッズの『ゲット・トゥゲザー』と同じように、そのバッファロースプリングフィールドっていうグループ名が口から出るっていうことが意外だったんだと思うのね」(2)
「バッファロースプリングフィールドっていう名前を出すやつすらいないっていう(笑)、時代だったわけだから」(2)
「もうそれだけで細野さんが何だってことなく、では一緒にやろうと」(2)
「たまたま自分は、バッファロースプリングフィールドのようなバンドを作ろうと思ってたんだって。そういうのがやりたくてエイプリル・フールを解散しようと思ったんだって」(2)
「細野さん特有の言い方だからね、本気だったかどうかわからないけど、まあ、言うやつもいないから、やろう、みたいなことでさ」(2)
「たまたまその場に居合わせたってことじゃないですかね。よくある、『あ、いいとこにきた』っていうやつ」(32)


1969/09/07 未明 新宿/パニックでのエイプリル・フールの終演後、大瀧栄一を自宅に泊める。

大瀧詠一の証言
「細野さんちに行って、どういうのやるかみたいなことで、レコードどっさり、バッファローの全部だ、モビーグ レープからローラ・ニーロからバンドの『ビッグ・ピンク』から何からもうこんなにかかえてさ。こういうのやりたいんだみたいな、それを車で送ってもらった かな、山のように借りて」(2)


1969 エイプリル・フールを観にきた小倉栄司と知り合う。新宿/パニック。

「レコード会社の人らしいなという(笑)、あんまり印象がないですけど(笑)」(2)
「1、2度は面識あったと思う。新しいバンドをやるかやらないかって話はあったような気がするな」(2)

小倉エージの証言
「当時ボクは、URCレコード、厳密にはアート音楽出版の社員」(10)
「その時、すでにエイプリル・フールの解散が決まっていること、新しいグループを結成するつもりでいる、という話を聞きつけた。さらに、当時発売されていた様々な新譜についての話をきっかけに彼と交流をもちはじめた。」(10)
「最も出会うことが多かったのは、当時、輸入盤を購入するために通っていた澁谷のヤマハだった。」(10)
「そんな時にもバッファロー・スプリングフィールドの話が持ち上がり、彼との交友を深める大きなきっかけになっ た。さらに、バッファロー・スプリングフィールドだけではなく、モビー・グレープ、ザ・バンド、グレイトフル・デッド、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、 ザ・バーズ、ラヴィン・スプーンフル、プロコル・ハルムなどなど、数をあげていけばきりがないほど、様々なグループについて、アルバムについて、話を交わ したものだった。」(10)
「しかし、どんなアーティストをどれだけ知っているか、ということは問題ではなかった。好きかどうか、気に入っ ているかどうかを確認することからはじまり、歌、それも歌詞やメロディ、演奏、サウンドを通して何を伝えようとしているのか、それらを吟味し、評価しあっ た。そんなことを通じてお互いの感性をさぐりあっていった。」(10)
「中には、意見の食い違うこともあったが、おおむね、趣味、さらには、評価はにかよっていた。そして、ほとんどの会話はレコードを媒介として成り立っていた。それが拠り所でもあった。」(10)


1969/09/10 エイプリル・フールのアルバム『エイプリル・フール』発売。

「芯のない音をしている(笑)」(6)
「演奏と言うより、当時のレコーディング技術がロックを作り出せるだけの音が出せなかったというのもある。とにかくヘナチョコな音をしているんだ」(6)


1969/09/12 エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』出演。

1969/09/15 エイプリル・フール、キッド兄弟商会の劇伴アルバム『ラブ&バナナ』レコーディング。

「エイプリル・フールに舞台音楽の依頼があって、キッドのプロジェクトに参加してバッキングもやった」(4)

松本隆の証言
「キッド・ブラザーズって、渋谷のマックスロード(喫茶店)の奥をずっと入っていったあたりの左側にあって、そこにはけっこう通ってたんだよ。ちょっとしたたまり場みたいになって。忠がそこに呼ばれて、チョコチョコッと出てたんだよね」(4)
「ちょうど東さんだっけ?あの人が天井桟敷から分派して、東京キッド・ブラザーズを旗揚げして、一番パワーがあったんだよ」(4)


1969/09/19 エイプリル・フール、キッド兄弟商会の劇伴アルバム『ラブ&バナナ』レコーディング。

1969/09/22 エイプリル・フール、キッド兄弟商会の劇伴アルバム『ラブ&バナナ』レコーディング。

1969/09/23 新バンドをヴァレンタイン・ブルーと命名。

「カタカナです」(2)
「まあたいした意味もなくつけたんだけど、ぼくらがモテなかったことも関係あるだろうね。モテないから、バレンタイン・デーにはもっとブルーになるっていう」(1)
「実際モテなかったよ。みんなの共通の悩みっていうのは、モテなかったことだったね」(1)
「松本とふたりで、よくナンパしに行ったの」(1)
「松本からナンパの話はいっぱい聞いてた。『いかに自分はモテるか』というね。『チョロイもんだぜ』って。派手な世界の話をいっぱい聞かされてたんだよ、僕は」(4)
「松本と行けば、いいことがあるんだろうと思ってね、ワクワクして、期待してね」(4)
「それで六本木へ行って、どういうことになったかというと、松本の指導でアマンドに入ろうということになって、アマンドに入ればいいことがあるのかと思ったら、なんにも起こらなくて、二人でハンバーグ食って……」(4)
「いつもふたりでコーヒー飲んで、未来の話をして帰ってくるだけなんだけどね」(1)
「なんか真面目な話を二人でして帰ってきちゃった。なんだったんだよ、あれ?」(4)

大瀧詠一の証言
「英語だったと思うよ、うん、細野さんがいろんなアイディアを書きためたノートを持ってたからね。その中から一つ選んで、あのそれに決めたみたいな、まずはこれでいこうか、みたいなことだったと思うんだ」(2)

松本隆の証言
「えっ。期待してたの、あんとき(笑)」(4)
「当時はそんな時間に開いてる店が、そんななかったんだよ」(4)
「二人で車に乗ってるじゃない。たいてい細野さんの車に乗って、細野さんが運転して、僕が助手席に座って走ってると、男からナンパされるんだよね(笑)」(4)
「髪の毛、2人とも背中ぐらいまで伸びてるからさ、女だと間違えて(笑)」(4)
「なんだったでしょうね。お互い誘う相手を間違えた(笑)」(4)


1969/09/25 新宿/パニックでのエイプリル・フールの練習後、大瀧栄一とともに麻布/松本隆宅を訪ね、ミーティング。

「僕らは洋楽をやるつもりだった。和製ポップスをやるつもりなんかなかった」(6)
「もう、(オーディエンスが)踊んなくていいと思ってたんだよ」(4)
「つまり、これまでは、ロックは踊るための音楽だったわけ。そうじゃなくて、むこうのフォーク・ロック・バンドというのは、みんな、すわって聴くっていう。そういうのをやろうってこと」(13)
「ようするに、ディランとかポール・サイモンなん かを聴いていると、自分のコトバで、すごい意味深いことを歌っているわけ。これはすごい、これは詩だと思ったんだ。それに当時の流行としては、バッファ ロー・スプリングフィールドにしても、すごく地味で重たいんだよ。そういった深くてシリアスなことをやりたかったんだ」(13)
「当時僕の頭の中はバッファローの音を作ることしか興味がなかった。あとは、ザ・バンドとプロコル・ハルムかな」(6)
「非常にさまになりにくいロック」(16)
「さまになることを拒否したというか、エイプリル・フールでかっこつけていることがばからしくなってはじめたということかもしれない」(15)
「本当に時代の変わり目だったんだよ、そういう意味では。今思ってもやっぱりそうなの。バッファローとかモビー・グレープはあの時代のキーになってるから、未だに」(4)
ばれんたいん・ぶるぅは、バッファローのコピーだったからね」(6)
「コピーしている時がけっこう楽しいんですよね。そっくりそのままコピーして再現するのが快感な時代だった」(16)
「それは楽しかったですよ。手本のとおりにやればそれでよかったから。でも、彼らから教わったのはルーツを尊重してそこから新たに作らなきゃいけない、ってことなんですね。ぼくらはその教えを忠実に守った」(30)

大瀧詠一の証言
「その辺りからもうオリジナルを作ろうって話になってた」(2)


1969/09/26 大瀧栄一と松本隆が自宅に来訪。

大瀧詠一の証言
「『メッセージコンサート』っていうのを見に行って、遠藤賢司を初めてみたのかな」(2)
「遠藤賢司いいから見に行こうよって、たぶん松本に言われたんだと思うよ」(2)
「それで細野さん家に行ったんだ、松本と2人で。それで朝までレコードを聞くって書いてあるから、たぶんその時の話なんかしたんじゃないかあ。細野さん、朝までレコード聞いて翌日コンサートでだいじょうぶだったんだろうか(笑)」(2)


1969/09/27 エイプリル・フール『レコード発売記念フリー・コンサート』。虎ノ門/日消ホール。
出演:ブルース・クリエイション
松本隆の証言
「『解散コンサート』になって(笑)」(4)

大瀧詠一の証言
「私は見に行きましたよ、中田君と一緒に見に行ったんだなあ。一番最初に酔っぱらって、高久(光雄)さんが出て きて、今にして思えば高久さんなんだけど、酔っぱらった人が出てきて、『今日はエイプリルフールのデビューコンサートでなんとかででも解散コンサートで す』って(笑)。なんだ、このバンドは、みたいな」(2)

野上眞宏の証言
「ぼくはこの日、サイケデリック・ライティングを担当、舞台の袖からオーバーヘッド・プロジェクターでアメーバーをやった。」(5)
「ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドのステージ写真にあるような照明をした。」(10)
「撮影の用意もしていったのだが、ライティングで忙しかったので、残念ながらエイプリル・フールのステージ写真はない。」(5)


1969/09〜10 ヴァレンタイン・ブルーのオリジナル曲を制作開始。松本隆に作詞をするよう指示。

「オリジナルということは自分に責任が持てるかということなんで、やはり責任を持ちたかったんですね」(23)
「真似ばっかりでは、肉体的な喜びはありますが、精神的な喜びはない。ゼロからやらなくちゃいけない」(30)
「頭の中でやろうと思ったのはバーンズの時にやった日本語を使ってやったことが経験になっているんですけど」(2)
「日本語でやるというのは、一つのアイデアですよね」(10)
「特に松本の気持ちが大きかったんじゃないかな」(6)
「エンケンの影響があると思いますよ」(15)
「ボブ・ディランとかポール・サイモンとか、ずいぶん表現が上手だなと憧れが強かったんですけど、それを日本語になおすのは、松本の仕事だと思ってたから(笑)」(16)
「当時、松本隆っていう青二才は偉そうな本ばっかり読んでたのね。こいつなら何かできるだろうと思って(笑)。こっちはそういう素養はそのころまったくなくて。音楽三昧だったから」(16)
「本当のこと言うと、僕たちにとっては歌詞よりも音楽的なことが重要だったんです」(23)
「アメリカのポップスだって、言っていることなんてわかりゃしないし、内容なんてどうでもいい」(6)
「その頃、新しいニュアンスをつかんだという確信があったのね。それはカッコつけることじゃなくて、表現をする ことだと。いかにカッコいい演奏をするかではなくて、いかにイメージをふくらませて、それに近い音を出せるか、そういう表現ができるかということで、その 参考になったのは、ただ単にバッファロー・スプリングフィールドの音楽ということではなくて、彼らの観念だったんです。つまり、彼らの『アゲイン』 のジャケットのライナーノーツ。ライナーノーツに、わけのわからない人名がずらっと並んでる。それは大きな謎で、その謎解きをしていくうちに、なるほどと いうことがあって、音楽にはまったく関係ないところからも影響を受けて、彼らの世界を作っているんだということを認識させられた。じゃあ、彼らの音楽に対 抗するには、我々もそれをやらなきゃいけないと」(16)
「アメリカで起こった新しい波を受け止めて、それを僕たちなりにどう表現できるかというのがテーマだった。彼らは伝統を化学反応させて、新しいものに作り替えていくことをやっていた。じゃあ僕たちも自分たちの足元、日本の文化、ルーツをちゃんと見つめ直そうと」(23)
「自分たちのルーツということを考えると、長唄や浪花節は使いものにならないんで、よりスピリチュアルな方向に行ったわけですね。つまり詞の世界に」(30)
「音楽的には戻れない。分裂してて。でも言葉だとそれができる」(30)
「だから、そういう時から松本隆はボブ・ディランやポール・サイモンの詞を研究するよりも、山之口貘とかのしぶい詩を引っ張り出してきて」(16)
「あるいは谷川俊太郎もそうだけど、そんなような、日本の足もとの文学的な世界を目指した。そういう方向がきまったときに、分担が決まったというか、一人ひとり深みにはまっていったというか」(16)

松本隆の証言
「どの辺で俺が詩書く事になったのかなあ。とりあえず詩は全部僕が書くって事になって、それは細野さんに言われたような気がするんだよね」(2)
「どんな詩を書けばいいって聞いたら、サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンを参考にしろって言われて、サイモン&ガーファンクルの輸入盤を貸してくれた。歌詞カードも付いてないの(笑)。最高だよ、もう。サイモン&ガーファンクルのすごい古いやつ」(2)
「2枚ぐらい貸してくれたんだ。たぶん何か、『水曜の朝』とか。とにかくその辺を2、3枚見つくろってさ」(2)


1969/10/02 エイプリル・フール、フリー・コンサート。新宿/パニック。

1969/10ごろ 自宅にて大瀧栄一のギター練習の成果を聴く。松本隆も同席。

大瀧詠一の証言
「猛練習始めたから。ギターをやらなきゃいけないと思って。一番最初、バッファローをやるわけだから『ブルーバード』が一番ね、『ブルーバード』の間奏を練習したりとか。まさにあの自分が滝にうたれてるみたいな感じの(笑)、それから何かひとりで燃え始めてたのかなあ」(2)
「『ブルーバード』の間奏をこうやることがあのバンドに対する熱意の一つの象徴みたいなことだって考えて、それをもう必死で練習して、コピーして、それをやったね」(2)
「細野さんとしては、そういうのを練習してきて、必死で、そのギターをやったっていうところでこう熱意を買ったんじゃないかと俺は思ってるけどね」(2)

松本隆の証言
「10月ぐらいかな」(2)
「大滝さんが『ブルーバード』のアルバムヴァージョンの方の間奏のギターというのをコピーしてくるわけ。それが 結構聞くに値するという事で、細野さんの家に集まって聞いたんだ。それで、これなら大丈夫なんていってたんだよね(笑)。このぐらい弾ければ大丈夫かと。 それでサイドギターが決まって」(2)


1969/10 エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』収録。終了後、メンバーや高久光雄、野上眞宏らと喫茶店へ。

※編注:喫茶店でのスナップは、野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。


1969/10/11 7:20 TBSテレビ『ヤング720』放送。
エイプリル・フール
 曲目不明

1969 エイプリル・フール、桑沢デザイン研究所の文化祭に出演。

横森美奈子の証言
「何げなく見に行ってブっとんでしまい、当時通っていた桑沢デザイン研究所の文化祭コンサートにも呼んでしまった」(33)

奥村靫正の証言
「コンサートって言うか、まあ、ダンスパーティー」(34)
「学内でやるんだけど、ホールとかじゃなくて、ただの教室。教室をぶち抜いたような場所で、夜中までやってた。うまいバンドだと思いましたよ。柳田ヒロのキーボードなんか、印象に残ってるよ」(34)


1969/10/15 エイプリル・フール、キッド兄弟商会のミュージカル『続・黄金バット』でバッキングを担当。虎ノ門/日消ホール。
構成・演出:東由多加、荒川純
音楽:下田逸郎、大野真澄
出演:斉藤泰徳、小林由紀子、松尾佳友、中川節子、深水龍作、大野真澄、吉田実三、斉藤正一、椎谷建治、永浦実、横田明子、佐藤憲吉、峰登、相楽好章、TONG HOI MIN、小林和彦、長井礼子、加藤栄、コーラス隊

オープニング
割れた地球
メッセージソング
モーニングサービス
ひとりひとり
遠く離れて
おふくろを殺しに故郷へ帰る
愛そうとして愛せない
セブンティーン
AND YOU
LOVE LOVE LOVE
DA DA DA(ダダダの歌)
BANANA

「劇団に16歳の吉田美奈子がフルートを持って入ってきた」(10)

松本隆の証言
「ミュージカルの特別バージョンみたいなもの」(19)
「オケ・ピットに入って演奏した」(19)

吉田美奈子の証言
「ペーター(編注:ペーター佐藤=佐藤憲吉)とボクが芝居の中で、デュエットした」(35)
「たまたま、私が1曲歌ったんですが、(編注:細野に)声がいいって言われてね、それから、彼が私にいろいろ教えてくれたんです。『こんなLPを聴け』とか、『歌を歌うんだったら、作曲もしてみなさい』とか」(36)
「私の音楽の先生は細野くんで、彼がローラ・ニーロのアルバムで『イーライと13番の懺悔』の入ってるのがあるでしょ?あれを耳にタコができるくらい聴いて、そして分析してね」(36)
「初めてオリジナルを作った時、細野くんに見てもらったんです」(36)
「詩を書いて曲もつけて彼に見せたら、彼、すごく誉めてくれてうれしかったわ」(36)

ペーター佐藤の証言
「たまたま、役者が足りないからってナナハンにまたがり皮ジャンにサングラス姿で歌うハメになった。過激に暗い歌だったね」(35)


1969/10 松本隆・大瀧栄一と自動車旅行。

「3人で何をしようかということになって、とりあえず旅に出ようという事に(笑)。車で3人で何故か旅に出たわけです」(15)
「十和田湖まで」(13)
「大瀧の故郷の方まで行ったりして、本当にその結果旅の最中に大瀧は曲がいっぱい出来てきた。僕は全然出来なかったですが」(15)
「僕なんか旅してただけだから(笑)」(37)
「なんかこう、青春の旅だよ」(37)
「これが大事だったけどね」(10)

松本隆の証言
「細野さんと大瀧さんと3人でぼくの車に乗って」(38)
「福島に」(27)
「東北から群馬、長野と長距離のドライブをした。宿も決めない行き当たりばったりの旅だったから、3人で車の中で寝たりもした。ぼくが運転席、細野さんが助手席でバック・シートに大瀧さんとギターという旅だった。」
(38)

大瀧詠一の証言
「車にギターを積んで3人で群馬、軽井沢を回った。そのときに何曲か作ったというか、意欲が高まったというか」(32)


1969/10 鈴木茂をヴァレンタイン・ブルーにスカウト。

「演奏の面がお粗末なものではバンドとして駄目だと。このメンバーでは、ランプポストに近いようなところがあるし、ですから、どうしても、テクニックのある演奏家が必要な訳ですよソロの時。そこで、茂しかいないと思って誘ったんです」(2)
「茂に僕が電話したんだっけ」(10)
「迷っていた茂を説得した記憶がある。『ニューミュージック・マガジン』が創刊されたころで、レコードに点数がつく。そこにエイプリル・フールのアルバムも載って、79点だった(笑)。それで発奮して、今度は1等をとるから、絶対やってて得するよと言った」(10)
「ぜったいに日本でやったことのないことをやって、ナンバー・ワンになるっていうのを説得材料にしたんだ」(13)

鈴木茂の証言
「『何やってるんだ』と言うから、たいしたことはやってないと言ったら、また『レコードを聴きにこないか』と誘われた(笑)」(10)
「三人で何かやってるってのは知ってたんだけど……『ばれんたいん・ぶるう』って名前でね」(17)
「ところが、ギターがいないっていうんで、細野さんがぼくをスカウトに来たわけ。"やらないか?"と」(17)
「『松本が詞書くし、日本語でやるから』って事で聞かされてた。で、とにかくいいって」(2)
「一番最初の誘いの時はもう話だけで、それで帰って考えて、OKって事になって」(2)
「抵抗なんかしてないよ」(37)
「深刻に悩んだわけじゃなくて、エイプリル・フールがドアーズなんかもやっていたので、そういう曲もやるんだったらいやだなと。その辺のこだわりだけ」(10)

松本隆の証言
「大学に行きたがってたの。青山学院を受けると言ってた。それを細野さんが、そんなもん、行く必要がないと言って説得しちゃった(笑)」(19)


1969/10 鈴木茂に「雨あがり」(「12月の雨の日」原曲)を聴かせる。麻布/松本隆宅。

「いちばん最初に出来上がった曲なんです」(32)
「大瀧・松本コンビの第1作目なのこれが」
(37)
「(編注:旅行から)帰って来たら、あの、詞と曲が、できてんだね、彼らは」(37)
「当時の大瀧の曲作りのテーマがバッファロー・スプリングフィールドの『クエスチョン』っていう曲のコード進行 に影響されている。キーはDなのにAmから始まっている特別なコード進行なんだ。後にも先にも、その『クエスチョン』と『12月の雨の日』しかないかもし れない。これは大発見なんです。誰も考えつかない。この曲は芯にそれを持ってきた。だから、一番バッファロー的ではあると言うかね」(32)
「そのーイントロの、ギターを弾いてもらったんだよ」(37)
「松本の家でちょっと練習していて、曲自体が持っている構造はもう完成されていたみたい」(32)
「形がだいたいできてきて、どうしようかという段階で茂のギターが必要だからと、やってもらったわけです」(10)
「松本の家の部屋でアンプにギター繋いで」(15)
「録ってみたりしたね」(37)
「テレコで」(37)
「そのー最初のフレーズが、バッチリだったんだよ。そのまま使ったんだよね確か(笑)」(37)
「最初のインスピレーションで弾いてくれたフレーズがレコードになったから、あれではっぴいえんどが確信を持ってはじまったようなものですね」(10)

鈴木茂の証言
「松本さんの家に、細野さんと二人で行ったわけ。その時なぜか大瀧さんはいなかった」(17)
「松本さんも何か隣の部屋に居て、いなくて」(2)
「そこで、今度レコーディングするとか何とか言われて、この曲があるんだって聴かされた」(17)
「細野さんが生ギター弾きながら、歌唄って」(2)
「で、リフを思いついて」(2)
「ちょうどエレキ持ってたんで、一緒に演って……。そしたら、その時のフレーズがたまたまよくてね。"お、もうこのまんまレコーディングできるな"とか言われて」(17)
「上手くやったなって感じはしてましたよね」(2)
「細野さん達がどういうギターを要求しているのか、解ってたし、自分でもそれが非常にいいと思ってたし。そこでわりとスムーズにはっぴいえんどの音作りっていうのかなあ、そういうのができたような気がします」(2)

大瀧詠一の証言
「俺は現場にはいなかったけど、細野さんは『こいつしかいない』って思ったらしくて」(32)
「もちろん当時細野さんの曲もあったし、他にも選択肢はあったんだけど、最初に練習する曲をどうしようかということになったとき、たまたまこの曲がバッファロー的だったこともあって、そこから始めたほうがバンドとしての方向性が出るのではないか、と」(32)
「細野さんの家に集まって『こんな曲どう?』みたいなことをやったんです。そのとき、とりあえず『十二月の雨の日』のメロディができてて、ほにゃほにゃ英語まじりのインチキなメロディが」(32)
「『マイ・バック・ペイジズ』の詞で作ったんですよ。『マイ・バック・ペイジズ』でそのまま歌える(笑)。どこも似 てないよ、曲は。詞だけ。ご存知のようにこのバンドはバッファロー・スプリングフィールドみたいなものをやろうっていうのがとりあえずの目標で。そうした ときに、バッファローの前に自分の中にはタートルズとかバーズとかのフォーク・ロックがあって。だからバーズを起点に、バッファローとかニール・ヤングと かを加味して作ってみたらああいう感じになった。そしたら松本くんが、たまたまぼくが読んで転がしておいた永島慎二のマンガを読みながらスススッと歌詞を 書いて、『この詞で歌ってみてよ』と言って去って行った。それが『十二月の雨の日』の前、仮タイトル『雨あがり』。で、これは面白そうだということになっ て、細野さんの家か松本くんの家か、どっちかで試しに録音してみて」(32)
「茂のギターのイントロが入ったときには、もうこれしかない、こういうことだったんだよ、と。まだスタート地点ではあったけど、バッファローを目指してオリジナルを作ってきて、とりあえずの決着点というか、それにふさわしい曲になったという思いはみんなにあったと思う」(32)


1969/10/26 エイプリル・フール、銀座/ジャンクに出演。
出演:日野皓正クインテット

1969/10/28 ヴァレンタイン・ブルー、日大闘争救援会主催『ロックはバリケードをめざす』出演。お茶の水/全電通会館ホール。
出演:遠藤賢司、早川義夫、ブラインド・レモン・ジェファーソン 他

ヴァレンタイン・ブルー 松本隆(ds)、細野晴臣(b, vo)、大瀧栄一(g, vo)、鈴木茂(g)
 ミスター・ソウル
 ブルー・バード
 クエスチョン

遠藤賢司+ヴァレンタイン・ブルー 遠藤賢司(vo,g)、松本隆(ds)、細野晴臣(b)、大瀧栄一(大正琴)、鈴木茂(g)
 夜汽車のブルース

「その頃は、僕がマネージャーをやってたの。『ロックはバリケードをめざす』っていうコンサートの仕事が入ってきて、『ギャラはいくらいるか』って聞かれたから、『そんなにはいらないだろう』って答えたり。頼りないマネージャーだったんだよね」(1)
「練習不足だったしね、本当に自信なかったんですよ演奏というものに」(2)
「お金もらえないな、恥ずかしくて。そんな気持ちでやったわけ」(2)
「オリジナルと平行して、モビー・グレープや、バッファロー・スプリングフィールドをかなり忠実にコピーして、ステージをやった」(12)
「後味が悪くてね。ようするに、ステージが上手くいかなかったの」(1)
「予想どおり、あまりいい演奏できなかったんです」(2)
「バランスが悪くて失敗しちゃった」(13)
「自分たちの自信や野望とはうらはらに、表現力のなさに失望しちゃった」(1)
「演奏がイマイチついていけないという。それはそれでまたへんな自信になって、俺たちは演奏は下手でいいんだ、レコーディングするために作ったバンドだというような意識が強かった(笑)」(16)

大瀧詠一の証言
「共演したバンドの奴がね、"あ、今日はオルガンいねえから、たいしたことねえぞ"って言ったの。柳田ヒロのことなんだよ。エイプリル・フールとごっちゃになってたんだろうけど、そういう次元だったみたいよ。腕をきそう、みたいなさ、すごく貧しい環境だったんだね」(17)
「演奏は地味だったんだけど、すさまじいステージだったよ。演ってるうちに突然ドラムが聴こえなくなっちゃって、どうしたんだろうと思って振り向いたら、なんとベードラがないの。松本が叩いてるうちに前におっことしちゃった(笑)」(17)

遠藤賢司の証言
「『夜汽車のブルース』で(編注:大瀧栄一が)大正琴を弾いてくれたんだよね。あれが最初で最後の共演かもしれない。『いまは山中 いまは浜〜♪』って大正琴で弾いてくれた」(22)

※編注:この日のヴァレンタイン・ブルーの演奏曲については「12月の雨の日」「かくれんぼ」「春よ来 い」「ブルーバード」「クエスチョンズ」とする通説があるが、「かくれんぼ」のメロディー完成を1970年1月とする大瀧詠一の証言(大川俊昭・高護共編 『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年)を尊重し、この時期に通説どおりのレパートリーを演奏することは不可能と判断した。なお、上記の演 奏曲は、1977年に無料配布された大滝詠一のリーフレット『GRAPH NIAGARA』における記述にのっとっている。また、同リーフレットには、この日はエイプリル・フール名義で出演したという記載もある。


1969 早川義夫が作曲を担当した演劇センター68/69公演『バーディー・バーディー』劇中歌バッキング・トラックのレコーディング。

早川義夫の証言
「演技者が歌うために、演奏だけのテープを作ったんだよね。それは、スタジオを借りて、俺がピアノで、細野晴臣 がベースで(笑)、で、細野晴臣がギターの子を連れてきて、その子は俺の知らない子だったけどね、それと木田高介。4人で、音を録って、そして、そのテー プを、その場面になるとパチッと流して、それに合わせて演技者が歌うわけ」(39)
「曲としては10曲ぐらい……。題名がついてないやつだからね、みんな。結局、セリフがこうあって、急に歌い出すっていうやつだからね。例えば、6行ぐらい歌うとかね、だから、1番とか2番とかそういうやつじゃない」(39)

※編注:劇中歌の作詞は『バーディー・バーディー』の作家である山元清多。『バーディー・バーディー』は、『鼠小僧次郎吉』『トラストDE』とともに演劇センター68/69長期連続公演のレパートリーのひとつとして、1969年12月5日から1970年3月1日までの期間、アンダーグラウンドシアター自由劇場で上演された。


1969/11 小倉栄司にヴァレンタイン・ブルーの結成を告げる。鈴木茂が同席。渋谷。

小倉エージの証言
「ヤマハかなんかで会って、その向かいの喫茶店で話してて、かくかくしかじかグループをやるっていうんで」(2)
「グループを、作ったという話かな、それを聞いて僕は見に行ったのかな、代々木かなんか、ヴァレンタインブルーを見に」(2)
「一番の望みといえば、ロック・バンドのレコーディングだった。そんな時に聞きつけたのが細野晴臣の新しいグループの話であり、レコーディングの話をもちかけた」(10)

鈴木茂の証言
「渋谷かどっかで、確か僕と細野さんとエージと3人で話したんですよ」(2)
「どっかの喫茶店で話して、とにかくURCでレコード作らないかって」(2)


1969/11/23 ヴァレンタイン・ブルー、フォーク・コンサートに出演。代々木区民会館。
出演:高田渡 他

ヴァレンタイン・ブルー 細野晴臣(g, vo)、大瀧栄一(vo)
 チェルシー・モーニング
 アイ・ワズ・ア・フラワー・ワン・タイム
 アイウエオの歌

チェルシー・モーニング
「僕がギター弾いて大瀧が歌って。確かねジョニ・ミッチェルの、『チェルシー・モーニング』っていう曲を歌ったかな」(40)
「そこはフォークの仲間なんでフォークスタイルでジョニ・ミッチェルをやってましたよ」(2)
「その曲を聴いて、女の子たちが大瀧ファン、になったんだよ(笑)。その女の子たちが、女子学生だったの」(40)
ラヴィン・スプーンフルの、ファンクラブ」(40)
「彼女たちの間ではあのー大瀧はチェルシーと呼ばれてたよ」(40)
「最初のファン」(2)
「そういういちばんいい時代だったね。(笑)」(40)
「僕は、"細野さん"(笑)」(40)
「差があるでしょ」(40)

大瀧詠一の証言
「コンサートは細野さんが持ってきた話だったよ」(2)
「すでにヴァレンタインブルーになってたんだけれども細野−大瀧だけで出たの」(2)
「ギター1本。俺はただ横で突っ立ってたの」(2)
「細野さんはギター弾いて、俺はなんか、ポケットに手を突っ込んでボヤッと立ってて、マイクの前で歌ってた」(2)
「細野さんは『I WAS A FLOWER ONE TIME』っていう『私は花だ』っていう曲(笑)」(2)
「最初『チェルシーモーニング』をわたしが歌って、細野さんが『アイ・ウォズ・ア・フラワー・ワン・タイム』を歌ってそれで最後に僕が『あいうえお』の"ん"がウけてねえ。何だか知らないけど『あいうえお』の"ん"っていったらやたらウけたの覚えてるんだよ」(2)
「その時に『ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会』っていう女の子が4人だか5人いたの。たまたまその中にビージーズのファンクラブの会長っていうのがいて」(2)
「私は、なんとそのビージーズのファンクラブの会員だったんだよ(笑)」(2)
「だからその子、知ってるか知ってないか、その4、5人がコンサート見にきてたわけ。それでヴァレンタインブルーだっていうんでファンの第一号だろうってね」(2)
「その人たちが私を何って呼ぶかっていうとチェルシーって呼ぶんだよ。それは何故かといえば『チェルシーモーニング』歌ったからで、ただ、それだけのことなんだよ。それで、アレンジ名にチェルシーて使うようになったのは、そこからなんだよ」(2)
「『チェルシーモーニング』はすごいいい出来だったの。だから、ジョニ・ミッチェルの『チェルシーモーニング』 を、しかも生ギターひとつと、男が2人でやるってのはすごい新鮮だったと思うよ。歌もよかったしね、私の。『チェルシーモーニング』は得意だったから。そ れはきっとそういうのを見てても、こいつらには才能あるとは思うよ。それがいい悪いは別としても」(2)
「『チェルシーモーニング』を、細野さんはオープン・チューニングでやった、アコースティック。生ギター弾い て。で、男がそれを唄うなんて、ちょっとないんじゃない。『あいうえお』はうけたからね。一般的には、素人にはうけたんだけど、小倉エージにはあまりうけ なかった。『チェルシーモーニング』がよかったんじゃないの」(2)
「帰りしな、細野さんと2人で、細野さんギター持って、俺が歩いてて、目黒かどこかの横断歩道に立った時に、サングラスをかけて髪の長い男と、背の低い男がツカツカツカッと寄ってきて、高石事務所のものですけれど『ねえ、君たちレコード作らない』って云われたんだよ」(2)
「細野さん『君たち事務所あるの』って聞かれたとかいって書いてなかったかなあ何か。それでレコード作らないかみたいなことになって、高石事務所に行き来するようになったのはそれで」(2)

小倉エージの証言
「たまたまその日は2人で出たんでしょ、アコースティックギターで」(2)
「全然ウケなかったですよ。でもその日一番カッコよかったですよ、僕にしてみればね」(2)
「レコードの話をもちかけたかどうか、もはやその記憶はない」(10)
「要するに、ヤマハで会った時から決めているわけで」(2)
「早川義夫が同行していたかということについても、思い出せない。もっとも、後に彼らに関わることになる前島邦明がいたことはたしかだが。というのも、彼こそその公演のことを教えてくれ、案内してくれた人物にほかならなかったからだ」(10)

松本隆の証言
「その時は、ぼくは行ってないけど、当時、その辺はみんなフォークなわけ。フォークのコンサートだから、電気楽器、使えないから(笑)。生ギター一本もっていくっていう世界だからね」(2)
「そういう時は行ってもしょうがないと思うから。行かなかったんじゃないかな」(2)

※編中:1977年に無料配布された大滝詠一のリーフレット『GRAPH NIAGARA』には、この日のグループ名は「細野晴臣+α」だったと記載されている。


<出典>
(1)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(2)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(3)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(4)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 1999年
(5)野上眞宏写真集『HAPPY I  SNAPSHOT DIARY:1968-1970』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(6)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(7)『レコード・コレクターズ』4月号 ミュージックマガジン/2004年
(8)『小坂忠&Friends コンサート』パンフレット トラミュージック/2001年
(9)J-WAVE『Daisyworld』 1999年1月4日
(10)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(11)『SWITCH』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(12)篠原章『J-ROCK ベスト123 1968-1996』 講談社文庫/1996年
(13)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(14)『Tin Pan CONCERT 1975/2001』パンフレット ミディアム/2000年
(15)すみやHP『MEDIA MAX』 2000年
(16)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(17)萩原健太『はっぴいえんど伝説』文庫版 シンコー・ミュージック/1992年
(18)CDジャーナル別冊『ストレンジ・デイズ』No.6 音楽出版社,ストレンジ・デイズ/1999年
(19)『ロック画報』01 ブルース・インターアクションズ/2000年
(20)ビッグコミックスペリオール編『宇宙百景』 小学館/2008年
(21)『シンプジャーナル』8月号 自由国民社/1982年

(22)『ロック画報』15 ブルース・インターアクションズ/2004年
(23)シリーズ20世紀の記憶『かい人21面相の時代』 毎日新聞社/2000年
(24)『ヤングギター』10月号 シンコー・ミュージック/1973年
(25)『ライト・ミュージック』1月号 ヤマハ音楽振興会/1973年
(26)『ニューミュージック・マガジン』2月号 蝸牛社/1972年
(27)『ニューミュージック・マガジン』5月号 蝸牛社/1971年
(28)LP『トロピカル・ダンディー』ライナー・ノーツ クラウン・レコード/1975年
(29)小坂忠オフィシャルHP 2000年
(30)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(31)J-WAVE『Daisyworld』 1999年2月1日
(32)CD『はっぴいえんどBOX』同梱ブックレット エイベックス・イオ/2004年 
(31)CD 久保田麻琴と夕焼け楽団『ライヴ・サンセット64'40"』ライナー・ノーツ チョップ・レコーズ/1989年

(32)野上眞宏写真集『HAPPY I  SNAPSHOT DIARY:1970-1973』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(33)『an an』6月25日号 マガジンハウス/1982年
(34)『ヤングギター』10月号 シンコー・ミュージック/1973年
(35)J-WAVE『Daisyworld』 1999年2月22日
(36)CD『風街図鑑』街編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
(37)黒沢進編・著『日本フォーク紀』 シンコー・ミュージック/1992年
(38)J-WAVE『Daisyworld』 1999年1月18日
update:2016/11/24

1968<>1970-1
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