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chronology 1968


1968/01〜03 中田佳彦の紹介で大瀧栄一と知り合う。白金/自宅。

「中田が、もうひとり面白い男がいるから呼ぼうというワケ」(1)
「僕に会わせたい人がいるっていうことで彼を家に連れてきたんですね」(2)
「ぼくの家に遊びに来るとき、もう一人ヘンなのがいるからって言って連れてきたのがマッシュルーム・ヘアーを赤く染めたビー・ジーズみたいな奴だった(笑)」(3)
「こいつがね、今まで知らないようなヤツだったわけ。本格的な長髪でね。僕も長髪だったんだけど」(4)
「まるでグループ・サウンズ風だったんだ」(4)
「それが、大滝詠一だったの」(1)
「最初に僕の家に入ってきたときに、これはあちこちで言ってますけど、入って来るなり『おっ、GET TOGETHER!』 って言ったんですね。これはもうテストみたいなもので(笑)たまたまその頃新譜が出たばかりだった、ヤング・ブラッズっていうグループの『GET TOGETHER』っていうシングル盤を、飾っておいたんです。日本盤のシングルを。それを見て、挨拶代わりに『おっ、GET TOGETHER!』って言ったんですよね。『七人の侍』みたいなもんですよ(笑)」(2)
「侍が『お主、できるな』って感じよね」(1)
「知ってるんだなあと」(3)
「これはー大事な、あれですよ。ポイントだったんですね」(5)

大瀧詠一の証言
「たぶん68年の1月から3月の間だったと思うんです」(6)
「私はアルバム持ってたのよ。細野さんはシングル盤。シングル盤のジャケ付きだったんですよね。で、シングル盤のジャケ付きって見たことなかった」(5)
「『おっ、シングル盤がある』。またね、これ見よがしに飾ってあるんだよ。そのー、ステレオのところにね。あのーこれを、見つけるやつはいるのかっていうような、感じでこっちの方を、こう見てて。だから、『こんにちは』の前に、それがいちばん最初に、目に入ったんですよね」(5)
「とにかくびっくりした」(6)
「挨拶を忘れて『おっ、ゲット・トゥゲザー』って、言ってしまったんですけどね」(5)


1968/01〜03 中田佳彦、大瀧栄一と勉強会をはじめる。

「ソフト・ロックみたいのをやってた」(1)
「これはバンドではないですね。練習バンドやサークルみたいなものですね」(2)
「音楽の作家性っていうんですか、それとか音楽の音楽たる構造性とかね、メロディーラインから何から、構造的なものの勉強会だったですけど」(6)
「貴重な所は、そういうところ」(6)
「ハモッたり、曲つくったり、わりと知的な作業してたの。他のグループでは、もっと肉体的なロックやってたから」(1)
「それ以外のグループは、全部ねプレーヤーですよ、パフォーマンス集団ですから。特にサイケデリックっていうのはいかに、いい作品を作るかっていうんじゃなくて、いかにユニークな演奏をするかっていうところです。そこらへんが違うところですよ。両方、だから僕は、必要だったんですよ」(6)
「中田くんは、僕はすごい影響された」(5)
「特にあのギターの、コードワークね。親指の使い方。ベースの取り方ね。あれはすごかった」(5)
「まあ先生だよね」(5)
「中田くんももちろんそうだけど、大瀧くん、は歌がすごいうまいと、思ってた」(5)
「週に1回くらい、来てたんじゃないかなあ」(6)

大瀧詠一の証言
「細野さんの家に、日曜日毎にレコードを聴きに行ってたの」(7)
「中田、細野、大瀧の3人で集まってはレコード聴いて。ギターを一人ずつ持ってコードを取って。で、最後に1曲ずつオリジナルを発表するという、会合をやってたんだよね」(7)
「お茶飲み会みたいなこと」(3)
「レコード買ってね、持ってって。こういうシングルが出たとか、誰がいいとか」(6)
「そこで細野さんが、もうギター弾いて、それでオリジナルを聞かされて、英語だったけどね、全部。何か不思議な歌が多かった(笑)。ずいぶん変わった曲作るなあ、まあ、中田君のはすごいメロディアスだったんだよね。僕の体質にもすごく合って、よかったんだけど細野さんのは、こうメロディアスでもない、まあ極端にリズミックていうんでもない、すごく不思議な歌作ってたけどね。日本語の歌もあったの。でその日本語の歌詞も『ポトンポン』だとか、何かすごく不思議な歌をつくるんだ」(6)
「詞曲、細野さん。当時はみんな個人的に詞曲だったんですよ。英語にしろ日本語の詞にしろ」(6)
「『ぽとん・ぽん』は細野さんっぽい曲だったよね」(7)
「そういう試作、もたくさんやってたんですよ。世の中に出てないですけども」(5)
「面白かったですよ」(5)
「そういうようなことがあって、お前も何かやれ、みたいな事だったんだけど、何かましな曲ができなかったんだよね」(6)
「中田君が一番曲数が多かったよね。いっぱい作ってて、で、へえ、なんて言ってさ。その時にみんなコード進行だとか、そのどういうコード使っているとか、弾いてる時にわかるじゃない。だから、みんなでなんかじーっと指先を見てるんだけど、へェーそういう進行があるかみたいな」(6)
「これは自分もやらなくちゃなぁ、みたいなことで、ギターの練習をしたりとか、こういうコードはみんな知らないんじゃないか、とかコードの発掘作業をしたりとか、なんか変なコードをぼろっと入れたり」(6)
「変なコード使うとみんなのぞきこんで『なにそれ』とか言って」(6)
「このコードをここで使ったらみんなビックリするだろうみたいな(笑)」(6)
「あの頃は、全員がそういうなんて言うかあのー…曲を作る、試みの段階、って言うかねぇ、試作の段階でしたからねえ」(5)
「曲作りも自分たちでできるんだ、と。音楽学校に行ったり、教育を受けなくても。そういうロック的なものは自分たちで作ることができるんだっていうことを模索していたんだと思うんだよ」(3)

中田佳彦の証言
「細野の家で、レコードかけて、あれがいい、これがいいって言ったり、ちょこちょこっと、『こんな曲、作ったよ』みたいな感じで。まあ、そんな、曲なんていうものじゃなかったような気がしますけどね」(6)


1968 ビッキーズのライブを観覧。大瀧栄一が飛び入り出演。渋谷/グルービー。

「プレスリーの真似をしていて、おもしろい奴だなあと思った(笑)」(3)

大瀧詠一の証言
「グルービーという所で百軒店の手前の恋文横町のところにあって、そこで洪栄龍氏が入口でもぎりをしてて(笑)、そこをビッキーズがネジロにしてたんだ。そこでしょっちゅうやってたから、そこによく行ってたんだよ」(6)
「それで、彼がいる間に俺が遊びに行くと1曲やれってことにことになるんだよね。そうするとそのバンドが何もできないわけ。つまり、僕の好きなものが何ひとつできないわけ。そうすると洪君が、何のはずみでこうなったのかなあ『500マイル』をエルビススタイルでって(笑)。だから、いや俺はプレスリーのものまねうまいんだみたいな事で、プレスリーの歌って何も知らなかったんだよね。たまたま、たまたまだと思うんだけど『500マイル』を弾いたんじゃないの。それをエルビススタイルで、『フルムーン・オブ・ケンタッキー』調っていうか、ツイストなんだけど、要するに歌い方をビブラート効かせてやったんだけど、もう全員のってきちゃってさ、それがたまたま遊びに行ったときにそうなったのかなあ」(6)
「そうすると、行くといつも飛び入りをやらせるんだよ。それを、細野さんがみてるんだな(笑)。大滝詠一で、一番印象に残ることっていったら、大滝詠一のプレスリースタイルの『500マイル』だってどこかに書いてあった(笑)。あれをみた人は非常に貴重な人なんだ(笑)」(6)


1968 野上眞宏、柳田優と六本木/スピードに通う。

野上眞宏の証言
「ロアビルの向かい側、細いビルの最上階で、確か7階だったと思う」(3)
「68年の前半、細野晴臣や柳田健とよく遊びに行った。細野が松本隆のバーンズで青山の<コッチ>に出演する前だったと思う」(3)
「いつ行っても当時のトップ・モデルとかが踊っていて目を引いた。細野もこの頃まではよく踊っていた」(3)


1968/春 松本隆に原宿/コンコルドへ呼び出され、バーンズに誘われる。澁谷/ヤマハで「デイ・トリッパー」を弾いてみせる。

バーンズは慶応のグループだったし僕らとは全く関係のないバンドだった」(2)
「ある日、見ず知らずの学生から電話がかかってきて、なぜウチの電話番号を知ってるんだろうという疑問もありつつ、とにかく呼び出しをくらったんです。自分のバンドを手伝ってくれとか言われたのかな?でもそれにはオーディションが必要だと言われて、原宿に呼び出されたんだよね」(8)
「面接をするからっていうワケ」(1)
「原宿の駅前」(9)
「地下にある喫茶店で、コンコルドという場所だった」(8)
「そしたらチョークストライプのスーツなんか着たキザな男がいた」(8)
松田優作みたいのが入ってきたんだ。それが、松本隆(1)
「松本はピン・ストライプのスーツを着てやって来たの。しかも、レイバンのサングラスをかけて」(8)
「まああの頃のツッパリの、一種の、表現だけどね」(10)
「僕はアイビー崩れのヒッピーの格好で、肩まで髪があった」(8)
「ロング・ヘアでヒゲモジャ。単なるヒッピー」(9)
「ベルボトム以前です」(9)
「ブラック・デニムの、細いジーンズ」(9)
「まだハンパな時代。コットン・パンツを履いたまんまヒッピーになる連中って多かったの、僕みたいに」(9)
「だから対照的だったよね。かたやスーツで、かたやヒッピーで」(8)
「僕が先に来てたんだ。松本はあとから来たのに、すごい高飛車でね(笑)」(9)
「ライト・ミュージック・コンテストで1位とったとか、ドラム部門でも1位でテレビに出たとか、自慢話するんだよね」(1)
「もともとはシャドウズやってたの」(1)
「シャドウズやらせると本当にきれいな音出す、そのかわり、ビートがない」(6)
「品のいいバンドだった(笑)。でも、そういう人たちもドロップアウトするくらい世の中の動きが強くて」(3)
「変わりたいというワケ。ジミ・ヘンとかクリームとか、サイケデリックやりたいと」(1)
「シャドウズをやめてジミ・ヘンドリックスをやりだして、僕が呼ばれた(笑)」(3)
「ドクターズとまったく同じで、あの、助っ人ですね」(6)
「バイトの誘いだったんだな」(9)
「僕にとってバーンズはバイト感覚なんだよ」(9)
「『とにかくいい仕事だ、金になる』って、コンコルドで松本に言われて。『お金欲しいよ』と思って、誘いに乗った」(9)
「本当にバイトのつもりでね、新しくバンドをやろうとかではなくて、バイトに参加するという話に乗ったわけですからね」(8)
「『デイ・トリッパー』を弾いたのは、たぶんそのドクターズでビートルズのコピーを手伝わされてたからでしょう」(9)

松本隆の証言
「僕は高校を卒業したばっかりだった。大学に入るんで、ようやく夜のバイトができるんで」(9)
「大学では(慶應義塾大学)日吉校舎に通い始めて、風林火山っていうサークルに入った」(3)
「青山のコッチというディスコで夜中じゅう演奏するバイトがあったんだよ。でもその時にいたベースが抜けたんです」(8)
「ディスコに出てもうけようと(笑)、不純な考えをもってしまって(笑)、演奏できればよかったんだよ」(6)
「バーンズはそれまでインストゥルメンタル・バンドだったのが、これから方向転換をして、小山をヴォーカルにして歌をやろう、って時期で。今後の活動にしても、バイトにしてもベーシストがいないと困るからどうしようって話してたら、小山が「すごいうまい人がいる」って細野さんの名前を挙げたんだよ」(9)
「柳田ヒロの兄と僕がまず電話して、『細野には話しておくから、松本が直接電話して二人で会って、話をするように』と言われたんだ。僕より細野さんは二年年上でね、もう『天才ベーシスト』と言われてたから、どんなに上手い人かなって思って、こわごわ電話して、で、下級生だし馬鹿にされてはいけないと思って、だからスーツを着て行ったんだ」(8)
「細野さん、スリムな、黒のパンツを履いてたよ。ピタッとした」(9)
「当時は僕、高校卒業したばっかだから、まだ髪が耳に届くぐらいだったんだ」(9)
「『そんなに髪短いと音楽はできない』って言われたんだよ。この人、すごい自信ありげにものを言う人だな、というのが第一印象」(8)
「すごく偉そうに「君、髪が短かすぎるよ」(笑)。細野さんはね、肩ぐらいまであったから」(9)
「この人、ヤなおじさんだな」と思った(笑)」(9)
「二十歳なんだけど、もう風格がね、おじいさんみたいな感じだった」(9)
「まずはバイトの話をして。『儲かるらしい』って」(8)
「ディスコに出て稼ぎませんか、って」(9)
「細野さんがベースを弾いてみせることになって、原宿から渋谷のヤマハまで、歩いて行ったんだ」(9)
「自分で引っ張ってったんだよ」(9)
「『ベースがあるところへ行こう』みたいな感じで」(9)
「楽器売り場のベースを弾いて、『デイ・トリッパー』のイントロをやるの。ところが、どうしても途中でつっかえるんだ(笑)。3回ぐらいやって、3回ともつっかえて(笑)。僕は心の中で「この人、大丈夫かなあ……」って不安になった」(9)


1968/春 バーンズのオーディション。青山/伊藤剛光宅。

「逆オーディションはね、当時のバンド同士の果たし状みたいなものだったんだと思う、きっと」(9)
「メンバーの伊藤くんの家、超豪華な青山にある家にベースをかついで行って。課題曲を2曲もらってたんだよね、ジミ・ヘンドリックスの『パープル・ヘイズ』と『ファイアー』。それでテストされたの」(9)
「持ち前の勘とテクニックでうまくやったワケ」(1)
「セッションしてOKが出たんで、メンバーになったわけです」(2)
「僕の記憶じゃ、無理矢理オーディションを受けさせられて、「この野郎!」と思ったっていう」(9)
「となりの家が外国人でね、そこの息子がロバートという人で、そいつが、モビーグレープ持ってるんですよね」(6)
「で、こういうの、やりたいって聴かされて、あ、だったらやってもいいよってことになって」(6)


1968/04 大瀧栄一、中田佳彦との会合中に野上眞宏が来訪。白金/自宅。

野上眞宏の証言
「細野宅に入っていくと、立教大学のキャンパスで細野と一緒のところを会ったことがある中田佳彦と、初対面である中田の友達がいた。細野が『野上は初めてだっけ』と大滝詠一を紹介してくれ、『今度一緒にバンドを作るんだ』と言ったのだ」(3)
「『どんなバンドなの』と聞くと、細野は『えーと、フォーク・ロックかな。サイモンとガーファンクルみたいなの』と言った」(3)
「もちろんストーンズが彼らの趣味でないことは知っていたので、遠慮がちにYAMAHAの袋からLP(編注:『サタニック・マジェスティーズ』)を出すと、『ローリング・ストーンズの最新盤か、ふぅーん』『ストーンズが(ライバルの)ビートルズの影響を受けているんだって』と、一応の興味は示し、さっそくアルバムを聴くことになった。すると大滝は、ビートルズやストーンズについてのすさまじいばかりの博学ぶりを披露してくれた」(3)


1968 バーンズ、青山/コッチや赤坂のディスコなどでハコバンのアルバイトを開始。
松本隆(ds)、伊藤剛光(g)、小山高志(vo)、細野晴臣(b)
「青山3丁目の地下にあったコッチ」(2)
「ディスコって言っても、大人が来るようなね」(9)
「ミュージシャンが来たり、芸能人も来たりして」(9)
「(編注:森進一が)白目出してね(笑)。なんか印象深いんだよ、森進一の白目が」(9)
「曲は覚えてるよ、僕は」(9)
「モビー・グレープはまだやってないな」(9)
「できなかったな。ああいう感じはできなかった(笑)」(9)
「月に5,000円じゃなかった?」(9)
「全然お金になんなかったなあ」(8)
「でも、気軽だったよね。別に生活苦とかはかかえてないから」(9)

ドック・オブ・ザ・ベイ
「はい、やってたね」(9)

トライ・ア・リトル・テンダネス
「よくできたね(笑)」(9)

ホールド・オン・アイム・カミング
「やってたね」(9)

キープ・ミー・ハンギング・オン
「難しいよ。今だったらやる気起きないよ、あんなの」(9)

グローリア
「ゼムの」(9)
「バーンズで一番やってた」(9)

ブラック・イズ・ブラック
「小山が得意だったでしょう」(9)

アンダー・マイ・サム
「ストーンズの」(9)

ブルー・バード
「バッファローの」(9)
「僕が(カヴァーしようって)持ってきた」(9)

松本隆の証言
「オーティス・レディングやサム&デイヴみたいな曲をやるってことで」(3)
「夜の9時ぐらいから朝の4時ぐらいまでやってたのかな。たぶん法律的には違反してたと思う」(9)
「今でいうクラブだね」(9)
「客に森進一とかチト河内とか三原綱木とかが来てて、おー、森進一がゴーゴー・ダンス踊ってるって(笑)」(3)
「4ステージから5ステージぐらい?」(9)
「ディスコでバイトしてる間ね、ずっとみんなブーブー文句言ってたんだ。『なんで僕たちはこんなバカみたいなことやんなくちゃいけないんだ』って(笑)」(9)
「儲からなかった。一晩やってギャラもらうじゃない。たぶん1人頭5,000円ぐらい」(9)
「月に5,000円かな。だったら1回2,000円か2,500円だね、頭で割ると。それで僕ら(細野、松本、伊藤)は車を持ってたんだ。だから、そのまま家に帰れたけど、小山っていうやつは車がなくて、しかも実家が浅草なのね。深夜だからタクシーじゃない。そうするといつも赤字だったみたい」(9)
「もうかったのはマネージャーだけ」(6)
「細野、松本のベーシックなコンビはコッチでできたんだと思う。あそこで培われたR&Bが後々のはっぴいえんどの土台になっている」(3)
「赤坂のディスコにも出たけど、名前忘れちゃった」(9)

野上眞宏の証言
「『コッチ』は、青山通りと表参道の交差点、交番の斜向かいの建物の地下1階にあった」(10)


1968 松本隆と六本木/ジョージに通い、ジューク・ボックスでヒット曲を聴きまくる。

「ソウルバーのジョージ。あそこはよく行ったね」(9)
「オムライス食いながら」(8)
「あと焼き飯とか。おいしかった」(9)
「3曲100円ぐらいだったような気がするな」(9)
「あの頃、インプレッションズが流行ってて」(9)
アトランティックも流行ってた。アレサ・フランクリンとかね。もちろんモータウンも全盛期だけど」(9)
「アレサ・フランクリンが多かったね」(9)
「ママが本当にアレサ・フランクリンみたいなんだ、日本人なのに。後にフィリピン・バンドがいっぱいたむろするようになってからは、なんとなく行かなくなっちゃったけど」(9)

松本隆の証言
「ジュークボックスがあって、最新のヒット曲が入ってるから、なけなしのお金を入れて、それを順番に聴いて」(8)
「コーヒーで五、六時間粘って、いろんな音楽を聴いた」(8)
「最初はよくレクチャーしてもらってたよね」(8)
「ジューク・ボックスの前の席に座って、細野さんがいろんな曲かけては、『こういうベ ースがいいんだ』とか『お前もこういうドラムをたたけ』って」(9)
「それで僕は勉強になった」(9)


1968 鈴木茂に電話し、自宅に誘う。

鈴木茂の証言
「PEEPから1年後くらいに、細野さんからレコードを聞かないかと誘いの電話がかかってきた」(3)


1968 ビーチ・ボーイズ『フレンズ』を買う。

1968/夏 鈴木茂、林立夫とセッション・バンドを結成。

「ドクターズが主宰していた『ピープ』というコンサートに集まってきたバンドの中から、ピック・アップしたんです」(6)
「アメリカで、アル・クーパーが、マイク・ブルームフィールドスティヴン・スティルスなんかと作った『スーパー・セッション』というアルバムが話題になってたから刺激を受けて、自分たちもやろうっていうことだったんだね」(6)
「いくつものバンドの中から一番巧い人をピック・アップしてバンドを組めば、それがスーパー・バンドになるだろうという考えで。それを言い出したのは、僕の友達の柳田ヒロのお兄さんで柳田優という人なんですけど、ドクターズのメンバーだった彼の言い出しでピック・アップをして、組んだ訳ですね」(2)
「なんでもやるやつです(笑)。モビーグレープからバッファローまで」(6)
「レコードを聞いたりしているうちに自然にセッションするようになった。茂がギター、林がドラム・セットを持ってきて、部屋の中に布団をかけて演奏した。真夏で、汗びっしょりになって(笑)」(3)
「定期的にやってたんです」(6)
「家の2階で」(6)
「その辺りからベーシストとしての自覚がだんだん出てきた」(9)
「自分の家にオープンリールの2トラックのテレコがあって、一台借りてきてピンポンやってたんですよ。ホントに原始的なやり方だね」(8)
「マイクもそこら辺にある民生機のテレコにくっついてた付属品のマイクで、林立夫のドラム運んできて、一緒にセッションやったのを録ってみたりね、マイクをキックに置いてみたりとか」(8)
「もうそこでキャラメル・ママのサウンドの原形はありますよ、確かに」(8)
「当時、一番やりたいことはバッファロー・スプリングフィールドだった。バッファローは、地味だったんだよ(笑)。それに闇雲に強く惹かれていたな」(12)
「彼らにバッファロー・スプリングフィールドを聞かせて、とは言っても例の『ブルー・バード』と『ミスター・ソウル』だけなんだけど、それをやってもらったら、すごく気持ちよくできるのね。この曲はバーンズでもやってたんだけど」(13)
「他にも、フランク・ザッパが作ってた前衛的なマザーズ・オブ・インヴェンションていうグループの『トラブル・カミング・エヴリデイ』だとか、茂のオリジナルのインストゥルメンタルの曲とか、けっこうサイケデリックなものをやってたの」(13)
「この頃は学生の遊びだから、真面目じゃないんだよ。きちんとコピーなんてできやしない」(12)
「オリジナルというのは特殊なことで、基本はセッションだった」(12)
「遊んでたわけですよ、リズムをね」(8)

鈴木茂の証言
「僕は高校生です」(6)
「グループでの練習ではあったけど、たくさんではないですね。細野さんの家でたまに練習するぐらい」(6)
「マザースの『トラブル・カミン・エブリ・デイ』やバッファロー・スプリングフィール ドの『ミスター・ソウル』をやった」(3)
「それとヤード・バーズとかね。その辺、わりとゴッチャだったんでね」(6)
「アート・ロックといわれてたイギリスのムーヴメントがわりと最初で、その後にサイケデリックでしょ。だから、レパートリーなんかも、そのヤード・バーズっていうのはアート・ロックの前だけれども、まあそういった流れがあって、それからウエスト・コーストになるとモビーグレープとかバッファローとかマザーズ・オブ・インベンションとか、あの辺も全部いっしょくたに考えてたんですけどね。で、そういう中からチョコチョコやる。だから、いわゆるそういった選曲って意味では、面白かったんですよ。やってても楽しかったし。で、たまにスリーコードとかのジャムやったりね」(6)


1968 鈴木茂、林立夫と、柳田優の主催するダンス・パーティでライブ活動を開始。

「パーティに出るようになって、チラシに印刷しなきゃならないから名前を考えた。スージー・クリームチーズドライアイス・センセーションジェット・エイジ・トリッパーと出る度に名前を変えた」(3)
「他にもナポレオン・ボナパルトとか」(6)
「なんかそのころ、そういうふうに変な名前をつけるのが流行ってたんだよ。アメリカでも、ストロベリー・アラーム・クロックとか、パールズ・ビフォア・スワインとか、ハーパース・ビザールとか、妙な名前のグループがいっぱいいたの」(6)
「歌手だけが違って同じグループだった(笑)。その頃茂がジミ・ヘンドリックスをやりはじめた」(3)
「柳田くんや岡野くんも入ってたりしたんだけど、そのうちに、僕と茂と林の3人ていうことになってね」(13)
「柳田くんが仕事をとってくるんだけど、それがみんな社交ダンスをしに来てるようなパーティでね。ぼくらがサイケな演奏をはじめると、めんくらっちゃうの。でも、しょうがないから社交ダンスをしようっていうことになって、みんな踊ってたりした。あれは、異様な光景だったよ」(13)
「なにしろダンスバンドだから、パーティバンドだから、間をもたせないといけないんだよね。少ないレパートリーの中から、マザーズ・オブ・インベンションとか」(6)
「『パープル・ヘイズ』のイントロをやると快感なんだ(笑)。クリームの『サンシャイ ン・オブ・ユア・ラブ』とか」(3)
「スージー・クリームチーズで『ブルー・バード』や『ミスター・ソウル』をカバーしていた」(12)

鈴木茂の証言
「その頃から細野さんの名前付けたがり病のゴッドファーザー病っていうか、もうノートに一面びっしり。徹夜で考えてね、それを。まあ、出る度に名前が変わったようなグループだったんですよ」(6)
「セッション・ヴォーカリストっていうか、一人何かいたんですよ。細野さんの知り合いなのかな。二谷(編注:英二)さんていうんですけどね」(6)
「あと(編注:東郷)昌和君が確か2回やったかな」(6)
「パーティ荒しのバンドだった」(14)
「『ストーン・フリー』とか」(3)
「収入的には全然なかったんですよね」(6)

野上眞宏の証言
「聖路加病院の看護婦さんたちのダンス・パーティの仕事も柳田は請け負っていた。バンドはもちろん細野晴臣、鈴木茂、林立夫で、ヴォーカルは岡野正、もう一人誰かいたと思う。バンド名はどれだったか覚えていない。行ってみたら、スーツ姿にドレス姿の人たちのダンス・パーティだった。彼らにサイケデリックな曲はちょっと気の毒だったが、即席のメンバーで、練習してあるレパートリーも彼らが自分たちで自由にやりたい曲を選んだだけのものだったのでしょうがなかった。案の定、『もっとスローな曲はありませんか?』と言われてしまった。」(3)


1968/夏 逗子に海の家を借りる。

1968/夏 バーンズ、毎週土曜日、風林火山主催『キャンドル・ライト・パーティ』に出演。軽井沢/三笠ホテル。

「毎週、土曜と日曜に」(1)
「逗子と軽井沢を往復。忙しい(笑)」(9)
「遊んでるだけだったね、音楽で。軽井沢の三笠ハウスって、もう今はないんだよね」(9)
「古い、いいホテルだった。僕らがやったときは。そこのダイニングがけっこう広くて、そこを借り切って週末だけパーティをやってたんだ」(9)

高橋幸宏の証言
「毎夏、慶応の学生が主催するもので毎晩2バンドの競演で1バンドにつき2〜3万円というギャラ。」(15)
「僕の兄たちが主催してたんです」(16)


1968/夏 『キャンドル・ライト・パーティ』でブッダズ・ナルシーシィの高橋幸宏、東郷昌和、松村克己らと知り合う。

「バーンズの対バンで出てたのが、ブッダズ・ナルシスト(編注:正しくは"ブッダズ・ナルシーシィ")っていう高校生バンド。そこに高橋幸宏がいたの。ここで初めて知り合ったんだな、確か幸宏たちとは」(9)
「その頃からもう、ドラム叩いてた」(17)
「生意気だったんです、すごく」(17)
「ほんとね、おしゃれだったんですよ」(17)
「ボーカルがバズ東郷昌和(1)
「その時に、やってた曲がスライの、『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』。かっこいい曲を、いいリズムでやるじゃないかと思ってね」(17)
「でもそういう曲は、僕たちもよくやってたし。やってたと言うか、好きだった」(17)
「だからちょっと引っ掛かっちゃったんですよね。こいつが幸宏か、と」(17)
「印象に残ってたの」(17)
「僕たちはね、あのー」(17)
「ソウル・ミュージックをやってましたけど。うん。インプレッションズなんか」(17)
「幸宏に紹介するっていったジェット・エイジ・トリッパーっていうのは、そのころぼくがやってた、また別のグループなの」(13)
「林たちと同世代だから、面白そうだと思って紹介したんだよね、確か。そしたら彼ら同士、気が合ってね」(1)

松本隆の証言
「幸宏と後にバズになる東郷昌和。もうひとり、後にC-C-Bのプロダクションの社長になったやつがいた」(9)

高橋幸宏の証言
「僕が16歳ですね」(17)
「全員高校生」(17)
「東郷昌和と、その後カルメン・マキのところでギターを弾いていた、ジョージ吾妻、それにベースはジャック松村だった」(1)
「対バンが大学生だと聞いても、何ら恐るるに足らず。まわりのメンバーも、ガキのくせして百戦錬磨のツワモノばかりだったから、僕同様『じゃあ、聴いてやろうじゃん』と半分ナメてかかっていた。」(15)
「相手のバンドは、ザ・バーンズといった。慶応大学の1、2年生のバンドで、一人だけ立教の3年生がベースのトラで入っているという。」(15)
「ベースがすごくいいという噂があって」(16)
「ジミヘンとかやってましたね」(17)
「ベースは、って言うかそのバンドでは、抜きん出てうまくて。でもあんまり動かない、ベーシストだったですけどね」(17)
「でも、パーティでは踊ってましたけどね」(17)
「ブガルーを」(17)
「僕たちは、バニラ・ファッジとかね(笑)」(17)
「ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』」(17)
「演奏が終わると、おもむろにそのベーシストが話しかけてきた。名を細野晴臣といった。」(15)
「どんなこと考えているのか話したいって……。きっと、今と同じような話し方で、話しかけてきたんだと思うんですけど」(1)
「『キミたちにそっくりなバンドを知ってるんだ。実は僕、そのバンドともやってるんだけど、今度一緒にその連中とセッションしない?』」(15)
「いきなりの誘いに返答に窮している僕たちに、彼は続けた」(15)
「『じゃあさ、今晩キミたちのところに行くよ。その話ももう少ししたいし』」(15)
「僕らの別荘の場所を聞き出すと、彼は去っていった。低い声でゴソゴソッといった感じの口調で、ちょっとヘンな人だな、と僕は思った。」(15)
「夜の10時すぎだったかな」(1)
「メンバーはみんなゴロゴロしながら、音楽談義に花を咲かせていた。」(15)
「ふいに呼び鈴が鳴った。」(15)
「こんな時間にいったい誰だろう、と思いつつ玄関に向かい、ドアを開けた。真っ暗な深い闇の中に、一人の男が立っている。細野さんだった。」(15)
「『来ちゃったの』」(15)
「長い髪をかきわけることもなく、彼はポツリとそう言った。」(15)
「うちは南軽井沢、彼が泊まっていたのは旧軽井沢」(1)
「車でも相当な時間がかかる距離を彼は自転車で、それもたった一人でやってきたのだった。夜中の山道を黙々と自転車をこぐ男という状況を想像するだけで、十分にブキミだ。」(15)
「『よく、あの距離を………。よく来ましたネ』」(15)
「『遠かった………』」(15)
「僕は彼にお茶漬けを作ってあげ、一緒に食べた。静かに黙々と食べた。突然顔を上げて、彼は言った。」(15)
「『ボク、スプーンでお茶漬け食べるの初めて』」(15)
「どんなグループを聴いているかっていう話になったんです。それが同じだったワケ。バッファロー・スプリングフィールドとか、カントリー・ジョー&フィッシュとかドアーズとか、サイモンとガーファンクルとか」(1)
「細野さんにその時紹介されたメンバーがいて、細野さん別のバンドやってたんですよ。それは高校生たちだったんですよ、他のメンバーが。それが小原、礼とか、林立夫とか鈴木茂で。でそれはそれで会うようになったんですよ。それで小原と僕はミカ・バンドに入ったんですから、言うなれば紹介してもらったわけです」(17)

※編注:ジャック松村こと松村克己は、日本コロムビア代表取締役社長兼CEO在任中の2002年8月20日、心不全により急逝した。享年49歳。


1968/夏 バーンズ、船上パーティ・ツアーに出演。神津島。

松本隆の証言
「細野さんと僕とあと2人いて。それで、当時の神津島はすごく素朴な所で、全然客が集まらないんだ(笑)。船に乗っている間にダンスパーティーを開くってことだったんだけど客が10人いなくてさぁ(笑)。友達5・6人がスタッフでみたいな感じで」(6)


1968/夏 バーンズ、慶應義塾大学広告研究会キャンプ・ストアに出演。長者ヶ崎。

松本隆の証言
「1週間ハコでやった」(6)


1968/夏 大瀧栄一、中田佳彦との会合で大瀧が発表した自作曲を、中田とともに称賛する。

大瀧詠一の証言
「ギター持って1曲ずつやって、こうぐるぐる回るんだよ何かお酒ぐーとまわすみたいに」(6)
「2人をいかに納得させることができるかっていうような、2人にどういう評価を得るのかっていうようなことがもう3人の課題みたいなことだったんだよね」(6)
「たいしたことない曲だとみんな視線が下向くし、コメントはないし、やっぱり、あ、いいねって二人から言われるような曲をお互いみんな目指して」(3)
「俺は始めたのも遅かったし、だから始まった当時はまねごとみたいなことだったけど」(6)
「とにかくよくない曲でやっぱり今一つよくないなあ、と思う時は2人の顔も曇るからね(笑)。よくないとか、つまらないとかさ目の前じゃ言いにくいものなんだけども、だいたい曇ったりすると、あ、これはよくないんだな、とかさ。それで『あ、いいな』とか本当にいわれるとやっぱりいいんだあ、みたいな」(6)
「夏休みに海にギターを持ってって、1曲できたんだよね。その時にあの自分でもこれは初めて、何かあの2人の前で胸を張って歌える曲ができたなあ、なんかインチキな英語だったけども。そのコード進行はあの『スピーチバルーン』ていう曲のコード進行と同じで、だいたいメロディもよく似てる」(6)
「それができて、まあ、さすがに誉められたね。一番最初に2人に認められたのはその曲だったと思う。だからそれを2人の前で歌えば、2人は記憶の彼方、かすかに残っているんじゃないかと思う」(6)


1968/09ごろ 大瀧栄一、中田佳彦と、ランプポストの名で西新宿のフォーク喫茶フォークビレッジのオーディションを受ける。

「新宿の『フォークビレッジ』。今のロフトのあたりで」(6)
「オーディションされに行ったんです」(6)
「『59番街橋の歌』とアソシエイションの『ネバー・マイ・ラブ』をやったら、落ちて、みんなやる気がなくなっちゃった(笑)」(3)
「『チェリッシュ』か何かをやったような」(2)
「ソフト・ロック・バンドだったんですね。それは中田くんの趣味と言うか、そういう感じが強かったですね」(2)
「中田とギター2本で何かフォーク系のセッティングでやったと思います。ヴォーカルは3人で。その時、録音してなかったのかな?」(2)
「あそこで受かっていたら、ソフト・ロックのバンドをやって、茂を呼んでいたかもしれない(笑)」(3)
「なんで落ちたのかな?」(2)
「ルックスじゃないですか(笑)マニアックですからね。選曲も(笑)、誰も知らない曲ですから」(6)
「その落としたヤツ、今もいるけどね、業界に。スタジオやってるけど、いまだに大瀧にいじめられてる(笑)」(9)
「いまだに『お前が落としたんだ』って言ってますね(笑)」(2)

大瀧詠一の証言
「夏休みで帰ってきて何だかんだってやってたころだから、秋口だったんじゃないのかなあ、まだ残暑きびしき折だったような気もしたけどね。68年の9月とか、だいたいその辺じゃないのかなあ」(6)
「3人で何かやろうということにはなったんだけれども、全員とも何か本気じゃないようにも思ったけどね」(6)
「だいたいが、その集りがお茶飲み会みたいなものだったから、そのたとえばそのバンドを始めて、大きくどこかへ打って出て大きくなるとか、そういう大それたことはなかったと思うんだけど、まっちょっとは集まっているんだから、じゃ楽器でも持って、何かやろうかみたいな話には、普通なるよね。いろんなものやろうみたいなことだったんだけれども、細野さんは何かすごく大志をいだく人だからやれるのかやれないのかっていう前に始めちゃうんだよね」(6)
「それはみんなも、ある程度そうなのか、若いうちの特権ていうかあれで、ザ・フーなんかも好きで、ああいうのもやろうなんて、どだいやれるわけがないんだよ(笑)。ザ・フーをやってるGSなんかどこにもいないしさ、できる種類のものじゃないんだけど、無謀にもそれをカヴァーしてビージーズの曲は俺、バリー・ギブの真似がうまかったから、それをやったりとか」(6)
「でもその中でも、ビージーズの中でもみんな知らないような、1枚目の『プリーズ・リーヴ・ミー』だとか、そのまるっきりコレクター曲をやったりとかね」(6)
「で、それを持って新宿の『フォークビレッジ』に行ったんだよね」(6)
「西口に『フォークビレッジ』ってあったの。そこでバンドのオーディションみたいのやってて」(6)
「俺がドラムで細野さんがリードギターで中田君がベースか何か3人で」(6)
「『ランプポスト』というグループ名にしてね。あのサイモン&ガーファンクルの『フィーリンググルービー』にHello Lampostて歌詞が出てくるんだけれども、その中からがいいんじゃないかとたぶん細野さんだと思うんだけれど、決めてそういうのをやって。でも、あまり功を奏さなかった」(6)
「あの頃オーディション聞いたやつって何人いるのかなあ。何人かいたよ、偉そうな長い髪したやつが、同じくらいの年のやつが、4、5人いたかなあ。それで何曲かそこでやったんだよね。せせら笑われたことあったけどね。そいつらに今、会いたいね」(6)

中田佳彦の証言
「えーとね、ビートルズのね、『イエス・イット・イズ』をやったんじゃなかったかなぁ。あと『サウンド・オブ・サイレンス』をやったかなぁ」(6)
「僕は、インチキのサイドギターとコーラスっていう感じですね」(6)


1968/秋 松本隆と野上眞宏が自宅に来訪。

野上眞宏の証言
「細野の家に遊びに行くと、松本が『ジャックスの世界』を持ってきていた。松本はその詩の世界が気に入っていた。だが松本は、音楽面での不満を述べた。細野は曲や演奏が面白くないと受けつけないのを僕は知っていたが、彼は否定的なことを決して直ぐには言わない人だ。『いいね』とだけ言った。」(18)


1968/秋 野上眞宏宅でのセッション・パーティに参加。文京区関口町。

野上眞宏の証言
「細野晴臣、鈴木茂、林立夫が練習がてらに、モビー・グレイプ風の曲をジャムしたり、マザーズ・オブ・インヴェンションの『トラブル・カミン・エヴリ・デイ』にバッファロー・スプリングフィールドの『ミスター・ソウル』が入る信じられないようなジャムをして遊んでいるところに、浜口茂外也が加わってホセ・フェリシアーノ風『ライト・マイ・ファイア』などをやった。ほかに数人程度の友達が聴衆であった。」(3)


1968/10/25 バーンズ、青山/コッチに出演。

1968/10/26 未明〜早朝 松本隆、野上眞宏とともに目白〜銀座を散歩。野上による写真撮影が行われる。

野上眞宏の証言
「前日の夜に、『コッチ』に箱で出ていたバーンズを聴きに行き、閉店までつき合った。」(11)
「閉店後ぼくたち(細野、松本とぼく)はしばらく深夜の東京を徘徊したあとで、文京区関口町にあったぼくの自宅に行った。」(11)
「そういう気分だったのか、ぼくは押入れに長いことしまってあったニコンFを取り出して、写真を撮ろうかと言った。」(11)
「松本は、『ねえ、細野さん、そうしようよ!』と言った。表に出ると珍しく朝霧が出ていた。近くの東京カテドラル教会の前でまず何枚か撮った。これが細野晴臣と松本隆を撮った最初の一枚となった。霧がめずらしかったので、そのまま銀座に行った。ソニービルの一階のカーディナルに、コーヒーを飲みに行ったのだと思う。当時こんなに朝早く開いていて本当にコーヒーが飲めたかは憶えていない。1968年頃、深夜や早朝に営業している店は東京中に数えるほどしかなかったはずだ。」(11)

※編注:このときの写真は野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)の他、CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット(リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年)でも見ることができる。


1968/10/27 バーンズ、『ヤマハ・ナチュラル・サウンド・フェスタ』出演。日本橋/東急百貨店2階特設会場。

野上眞宏の証言
「バーンズが、ヤマハのコンテストでシャドウズのカヴァーをやり3位になっていた関係で、日本橋の交叉点にあった東急デパート2階でヤマハ主催の催し物に出演した。」(11)
「曲目はヴァニラ・ファッジ流『キープ・ミー・ハンギング・オン』等のサイケデリックなもの」(3)
「前の日の朝に銀座で撮ったのがきっかけになって、『演奏している写真も撮ってあげよう、きっと彼らの青春のよい思い出になるに違いない』と思った」(11)
「細野や松本とは友達意識の方が強く、あらたまって演奏している彼らの写真を撮ろうなどほとんど思っていなかった。」(11)
「彼らの演奏風景を撮った最初だ。」(11)

※編注:このときの写真は野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)の他、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)、CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット(リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年)でも見ることができる。


1968/10/27 バーンズ、青山/コッチに出演。

※編注:このときの写真は野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)で見ることができる。


1968 バーンズのライブ用オリジナル曲を松本隆と制作。「めざめ」「暗い日曜日」を含む5曲を完成。

「学園祭に出なくちゃいけないという義務感から」(12)
「慶応の、風林火山っていうクラブがあって、なんでもやるイベント屋さんで、よくコンサートを主催してて松本がそこによく顔出してて、メンバーみたいなもので。当然バーンズもそこによく属することが多くて、そこで、あのオリジナルでコンサートやろうよっていう企画があって、ま、それに乗ったわけですね」(6)
「そこで初めて松本くんが詞を書いて僕が曲をつけたわけです」(6)

松本隆の証言
「風林火山主催のコンサートがあって、そこでトリでバーンズがやるんだけど、曲を創ってくれって言われて5曲ぐらい作った。『めざめ』と『暗い日曜日』。あとの3曲は覚えてないな」(3)
「過去に埋没したね。忘れさられたというか当時のパンフレットがあったんだけど、それには全部載ってたんだよね」(6)
「それがはっぴいえんどの原型。はっぴいえんどを作るきっかけになった」(8)
「細野さんはバーンズをものすごくバカにするんだけど(笑)、エイプリル・フールじゃなくて、バーンズの時代にオリジナルが生まれたってことがバーンズにとっての救いかな」(3)
「詞先だって言うから詞を書いて、細野さんがその詞にインスパイアされて作った」(8)
「作品づくり用に高輪あたりのマンション借りてさ、すごい、豪華な所で、らせん階段があるような所でね、メゾネットタイプのマンション。2階に行くのに、ふきぬけがあるんだよね。らせん階段でのぼってさ、すごい高級なマンションを、作品作りのために一晩借りたの。ぼくが、詩を書いて、細野さんが曲をつけるんだけど細野さんの曲がなかなかできなくて、お風呂に入ってて出た瞬間に「曲ができたぞ」とか、言われてびっくり」(6)
「ぼくが、その時にね、曲にケチをつけたんだ。そんな曲よくないよとか云ってね、そしたらあの温和な人が烈火のごとく怒ってさ、音楽に関しては、おれは、世界中で、だれにも負けないって胸を張っていうわけ。ぼくは、その言葉に感動しちゃって(笑)。その世界中って所が(笑)すごいなーと思って」(6)
「だってまだ、アマチュアで、海のものとも山のものとも、つかないんだよ。ジョン・レノンにも負けないと思ってるんだろうな、この人はと思って(笑)」(6)
「これはもう、音楽をやってる限りは、この人に、ずっと付き合うんだなあと思ったね」(6)
「あ、俺は負けたと思った(笑)。そのかわり、すかさず詞では僕は負けないからさって、言い返したけどね」(6)
 暗い日曜日
「あのダリダの名曲とは関係がない。あの頃、ディスコ通いをしていて、朝帰りが多かったから。だから、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『サンデー・モーニング』(邦題:日曜の朝)の世界に近いかも知れない。"カフェ"という言葉は珍しかったんじゃないかな、詞に出てくるのは。僕は中学の頃にフランス文学で育ったから、趣味が出てしまったんだね」(19)


1968 バーンズ、風林火山主催のコンサート・パンフレット用の写真撮影。撮影は野上眞宏。

※編注:この写真は野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)の他、CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット(リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年)でも見ることができる。


1968 バーンズ、中田佳彦を加え、アンティック・マジシャンズ・アンノウン・バンドの名で風林火山主催のコンサートに出演。「暗い日曜日」と「めざめ」を初演する。イイノホール。

松本隆の証言
「バーンズの末期の時」(8)
「それで名前も変えてオリジナルの詩曲を作って発表したんだ」(8)
「すでにバッファロー・スプリングフィールド風の曲を演っていた」(8)
「(編注:バンド名は)細野さんがつけたんじゃなかったかな」(8)

野上眞宏の証言
「当時は、既成の曲をどれだけ同じようにコピーできるか、ということがバンドの実力をはかる一つの基準だった。でも、僕は自分のバンドなら自分の曲を演奏するのが当たり前ではないかと思っていた。楽器を演奏できないので、カヴァーにもそれなりの難しさがあることがよくわからないから言えたのかもしれないが。もちろん僕は外野なので、周りではやし立てていたにすぎない。だが細野や松本がバーンズで初めて風林火山のコンサートで自分たちの曲を演奏した時には、僕は観客席ですごく興奮したし、喜んだのだ。」(3)


1968/12 柳田健主催の恒例クリスマス・パーティ『ラ・フェテ・ド・ノエル』に出演。原宿/地産ビル地下。野上眞宏が撮影。

野上眞宏の証言
「この年は仮装パーティになった。場所は原宿の明治通り沿いで、表参道の交差点から150メーターほど渋谷寄り、名前は覚えていないが地産ビルの地下にあった喫茶店。出演したのは三つのグループで、ドライアイス・センセーション、バーンズ、名前を忘れてしまったが二谷英二のバンドだった。細野はドライアイス・センセーションとバーンズ両方のベースを掛け持ちした。二谷もドライアイス・センセーションでもヴォーカルを担当したと思う。」(3)
「この時のバンドの名前がドライアイス・センセーションだったと覚えているのは、バンド名にちなんで、ドライアイスの大きな固まりを買ってきて水をかけ、アンプやスピーカーの後ろから煙を出す担当が僕だったからである。残念ながらドライアイス・センセーションが写っている写真は一枚もなかった。」(3)

※編注:このときの写真は野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』(ブルース・インターアクションズ/2002年)の他、レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン/2000年)でも見ることができる。


1968/12/31 野上眞宏宅でのセッション・パーティに参加。文京区関口町。

「大晦日から正月にかけて」(12)
「状況としては、ミュージシャンの方が多くて、そこで観ている人がほとんどいないという感じ(笑)」(12)
「この時はエイプリル・フールのナンバーもやっている。「暗い日曜日」とか」(12)

ミスター・ソウル
「メンバーは、ドラムが林立夫でギターが鈴木茂。で、ぼくがベースと歌」(12)
「カバーというかコピー。『ブルー・バード』と共によくやったレパートリー」(12)

野上眞宏の証言
「当時、歌謡曲中心の紅白歌合戦を見ることが国民的行事になっていたので、あえて騒々しいジャムを大晦日にやったのだ。集まったミュージシャンは細野晴臣、鈴木茂、林立夫を中心に、フローラルから柳田ヒロ、小坂忠、バーンズから松本隆、小山高志であった。聴衆は彼らの友達3〜4人と、演奏をしていないミュージシャンであった。モデルのような女の子もいた。」(3)
「初めは細野晴臣、鈴木茂、林立夫でバッファローのコピーを何曲かやって、フローラルのレパートリーであるジミ・ヘンドリクスの『レッド・ハウス』を小坂忠のヴォーカルと柳田ヒロのピアノに、鈴木茂のギター、林立夫のドラム、細野晴臣のベースが即席で入った最強のメンバーで演奏した。」(3)
「『暗い日曜日』も演奏された。」(3)
「メンバーは、細野晴臣、鈴木茂、松本隆、柳田ヒロ、小坂忠。特に茂のギター・ソロの部分が良くて、僕の耳の中に長く残っていた。細野晴臣、鈴木茂、林立夫、柳田ヒロの組合わせで、ヒロが才気あふれるリズム・セクションをバックにピアノの鍵盤を足まで使って熱演し、延々と即興演奏を繰り広げた。細野晴臣、鈴木茂、林立夫、小山高志(vo)で『ブルー・バード』を演奏した。細野、鈴木、林と柳田、小坂の組合わせは初対面ではないが、初めて一緒に演奏した。」(3)
「この日は張り切っていたせいかついついボリュームが大きくなりすぎて、近所の人から何回か警察に電話されてしまった。」(3)
 ミスター・ソウル
「茂のソロに『ヒューヒュー』と口笛を吹いているのは柳田ヒロだ。」(3)


<出典>
(1)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(2)すみやHP『MEDIA MAX』 2000年
(3)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(4)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(5)J-WAVE『Daisyworld』 1999年2月1日
(6)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(7)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 2000年
(8)『SWITCH』4月号 スイッチ・パブリッシング/2000年
(9)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 1999年
(10)J-WAVE『Daisyworld』 1999年1月4日
(11)野上眞宏写真集『HAPPY I  SNAPSHOT DIARY:1968-1970』 2002年
(12)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(13)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(14)J-WAVE『Daisyworld』 1999年2月22日
(15)高橋幸宏『犬の生活』 JICC出版局/1989年
(16)YMO読本『OMOYDE』 ソニー・ミュージックハウス,GT music/2003年
(17)net-flyer.com『GET WIRED!!』 2002年
(18)『レコード・コレクターズ』3月号 ミュージックマガジン/1999年
(19)CD『風街図鑑』街編ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント/1999年
update:2003/04/08

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