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chronology 1967


1967 SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション。新宿/御苑スタジオ。

1967 ビートルズ「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を聴く。

「当時の音楽好きはみんな、<ストロベリー・フィールズ・フォーエバー>に打ちのめされていたんです。誰にもできない音楽だったから」(1)


1967/03/19 ドクターズ、SCAP主催『PEEP』に出演。銀座/ヤマハホール。

1967 SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション。新宿/御苑スタジオ。

1967/06/25 18:00 ドクターズ、SCAP主催『PEEP』に出演。銀座/ガスホール。
出演:CEE CEE RIDERS、F・B・I、フォローズ、ファニー、モン・プチ・ミミ、ペッパーズ

1967 ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を買う。

「『リボルバー』と《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》は、僕の中では随分とくっつい ているんですよ。でも世間で言うように、ある飛躍があったのは感じましたね。非常にコンセプチュアルなアルバムという意味でね。曲のよさではないんです ね。いい曲が入っているのは、『リボルバー』の方かもしれないし。なんだろう、思わせぶりなアルバムとしての完成度が高かった(笑)」(1)
「<ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ>とかね。隠喩と言うか、暗号がちりばめられてたり、アルバムの最後に逆回転の声が入っていたり。非常に幻想を育んでくれるわけですね」(1)
「アルバムを買って、毎日聴くわけですよ。毎日、毎日、聴いていた。生活が、もうその一色になっていくわけです。だから音楽が自分の生活を作るし、おそらく時代を作っていったんだと思います」(1)


1967/夏 野上眞宏や柳田優とディスコに通い、ダンスのステップを練習。
野上眞宏の証言
「テストで授業が早く終わると、新宿の<ジ・アザー>に行って午前中からアレサ・フランクリン、オーティス・レディング、ジェイムス・ブラウンらのソウル・ミュージックで踊りまくったりした。細野も踊りは上手かった」(2)
「<ジ・アザー>には、ソウル・ブラザーズという、日焼けした褐色の顔、リーゼントにイヤリング、てらてらのサテン風スーツでキメた美形のお兄さんが二人いて、そろいのダンスがとてもクールだった」(2)
「その後は渋谷のヤマハに行ってレコードあさり、というのがお決まりのコース。今になって考えてみると、ディス コ通いにいちばん狂っていたのは大学2年生の夏の3ヵ月間ぐらいだったと思う。当時は新しいダンスのステップが2〜3ヵ月ごとに登場したので、細野と僕は 赤坂、六本木、新宿のディスコに飽きたらず、池袋や新大塚の秘密クラブまで巡って最新のステップ教えてもらい、家で密かに練習しては、また出かけていった のだった」(2)
「年々激化していたベトナム戦争の影響で、東京の夜の盛り場のディスコにはアメリカ兵がかなりいた。赤坂や六本木や新宿のディスコはもとより、"絨毯クラブ"とか、はては大塚の秘密クラブに至るまで、ソウル・ミュージックに合わせて黒人兵が気持ちよさそうに踊っていた」(2)
「制服を着ているわけではないが髪の短いGIカットの者も混じる若い彼らは、兵隊だとすぐ分かった。でも僕たち は、そんな彼らが戦場からのがれて束の間の平和を味わっているとは一瞬たりとも考える心を持ち合わせてはいなくて、ただ彼らが踊っている格好良いステップ を教えてくれとねだるのであった。人の良い彼らは熱心に教えてくれた」(2)
「池袋にブラック・ライトとストロボの炸裂するディスコがオープンした。<ストロボ>という店だったと思う。僕は細野晴臣や柳田優とともに、その目眩くサイケデリックな感じを楽しんで何回か行ったと思う。確か絨毯敷きで、靴を脱いで入った」(2)
「音楽が他の店と同じくソウル・ミュージック一辺倒なのが気になった。細野がちょうどレコードを持っていて、その中にフランク・ザッパの『フリーク・アウト!』があったので、僕は店の人に頼んでかけてもらった」(2)
「派手なライティングの中で踊りまくる僕らは、何だかサイケデリックな気分だった」(2)
「そこで柳田が女の子二人と知り合いになって、新大塚に秘密クラブがあるそうだからそっちに行こうということになった」(2)
「その日、僕は自分の真っ黄色のホンダN360に乗ってきていた。小さな車に5人乗りをして新大塚に向かった。彼女たちは女子高生だった」(2)
「新大塚の秘密クラブとは、通りにサインがでてない無許可のディスコのことだった。その頃のディスコは法律のた めオールナイトで営業できなかったが、ここはもともと無許可なので朝まで営業していた。細長い店で、入って右側にテーブル席があり、一つ一つのテーブルが 高いボードで区切られ、お互いが見えないようになっている。左側がダンス・フロアで、奥がバー・カウンターだ。こんな所でも結構混んでいるなと思った。大 柄の黒人がジュークボックスのオーティス・レディングで踊っている。すぐ側で日本人の女がイスに座って彼を見つめている」(2)
「もっと中に入っていくと女の子たちの友達二人が来ていて、合流した。僕らは彼女たちに黒人兵から習ったちょっと変わったステップを教え、彼女たちはジルバを教えてくれた」(2)
「踊り疲れ、夜も明けて、N360に勢いですし詰め7人乗りして彼女たちを家の近くまでひとりひとり車で送った のだが、最後になった少女の家の近くでパトカーに止められてしまった。すでに定員オーバーはしてなかったが、当時は若い者が早朝楽しそうにフラフラしてい るだけで職務質問にあったのだ」(2)

1967 モビー・グレイプ『モビー・グレイプ』を聴く。

「大学の友だちの友だちに、横浜中華街の人たちとか白系ロシアの、いわゆるハーフの人たちがいてね。一緒にセッションやろうって呼ばれたの」(3)
「その人たちは、やっぱり情報も早くて、すでにサイケをやってたのね。そこで、ぼくはモビー・グレイプっていうグループと出会うことになるんだ」(3)
「モビー・グレイプっていうのは、前にジェファーソン・エアプレインにいたスキップ・スペンスっていう人を中心に出発したグループなんだけど、『モビー・グレイプ』っていうファースト・アルバムを借りて聞いたら、これまたいいの。とくにベースの弾きかたでは影響を受けたよ」(3)
「どうやって弾くのかわかんなくって、でね、ま、写真を見ながら、研究したんですよね」(4)
「ジャケット裏のライヴ写真で、ボブ・モズレーってベーシストがリズム&ブルース・スタイルで弾いてたんです」(5)
「それまでは、ビートルズ・スタイルのベースでしょ」(3)
「当時は白人がピックでゴリゴリいわすポール・マッカートニー・スタイルが主流だったんだけど、そこで初めて下の方で弾いてる人を見て」(5)
「下のほうにズラして人差し指と中指で弾くわけ」(3)
「ストラップが長くて、腕を伸ばしたところで2本指で弾く」(5)
「トゥーフィンガーで弾くというのが、かっこよくて」(4)
「そのころ、ぼくはちょうどリズム&ブルースもよく聞いていて、ベースっていうのは、そういうふうに弾かなくちゃって思いはじめていたころだったから、すごく参考になったんだ」(3)
「僕もこうやって(腰の辺りで)弾こうってね」(5)


1967 ビーチ・ボーイズ「英雄と悪漢」を買う。

「心苦しかったですね。かたやビートルズが、ある意味では健全にいいアルバムを作ってきて、したたかなエンターテ インメントの要素をちゃんと持っている連中だったのに、ビーチ・ボーイズはすごくイノセントで、弱くて、ドラッグに巻き込まれて、だんだん寡作になってき て、インフォメーションが全くなくなってきて、<グッド・ヴァイブレーション>以降、知るチャンスがあまりなかったんです。だんだん霧の向こうに霞んで いった感じですね」(6)
「<英雄と悪漢>のシングルが出て、とにかく買ってみたんですけど、『この曲はいただけない』と思ったんです」(1)
「当時はついていけなかったですね。これはシングルじゃないだろうと思って。ビートルズのやり方が輝いてる時に、そういうものを出しちゃうから、翳って聴こえちゃうんですね」(1)


1967 SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション。新宿/御苑スタジオ。

1967/09/15 16:00 SCAP主催『PEEP』リハーサル。新宿/御苑スタジオ。

1967/09/16 ドクターズ、SCAP主催『PEEP』に出演。東商ホール。

1967/秋 ドクターズ、解散。

1967/09/24 第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト関東甲信越大会で審査員。慶應高校のバンド、バーンズの松本隆とニアミス。

バーンズってシャドウズのコピーをやってた、すごい巧いバンドだったんだよね」(7)


1967 ビーチ・ボーイズ『スマイリー・スマイル』を買う。

1967 友人の紹介で中田佳彦と知り合い意気投合。池袋/立教大学。

「同級生です。彼は有名な作曲家の、中田喜直氏の甥ですね」(8)
「中田くんとは僕は大学のキャンパスで、ある友だちに、お見合いさせられたの。『おまえみたいなやつがいるから、会わせる』と。で来たらあのー、彼が来たわけ。ベンチに」(9)
「会ったとたんに一目ボレ」(7)

中田佳彦の証言
「細野氏とは、学部が違うんですけど、彼の立教高校からの友達がいて、その人に紹介されたんですね、立教のキャ ンパスで。4丁目っていう、立教の中で場所がありまして、ギターをどっちが持ってたか忘れましたけど、『ちょっと弾いてみれば』みたいな感じで、確かサイ モン&ガーファンクルか何かやったんじゃないかな」(4)


1967 中田佳彦とフォーク・デュオを結成。

「中田くんはソフト・ロックの人だから、サイモン&ガーファンクルの『59番街橋の歌』の話をしたりしていた」(2)
「彼がまたぼくに刺激をくれるワケ。ライバルとしてね」(10)
「ギターなんか、コードもぼくとは違う押えかたをするわけ。それに、じつにいろいろ曲を知ってるんだ。ぼくの知らない分野のことまで」(11)
「音感なんてメチャクチャよくて、歌心もあるワケ」(10)
「じゃあ、2人で何かやろうかってことになって、レコード聴いたりデュエットしたりしていた」(11)
「ふたりでサイモンとガーファンクルなんかやってたんだ」(10)


1967 中田佳彦、トリップに参加。
細野晴臣(g,vo)、土屋敏行(b)、関勝(vo)、山田恵之助(vo,banjo)、女性(vo)、中田佳彦(g,vo)

1967 FENでバッファロー・スプリングフィールドの特集を聴く。

「60年代の後半になって状況が変わってきたんです。カウンター・カルチャーが出てきて、質を問うような音楽が出てきた。そういう傾向のハシリにFENでアルバムを丸々全曲かける番組があって、僕はそれでバッファローを聴いたんです」(12)
「『アゲイン』ていうLP特集やってたんですけど」(4)
「一時間番組なんだけど、最初は、なんかよくわからなかったんだ」(3)
「一回聴いただけじゃさっぱりわからないんですよ、面白さが。何がいいんだか」(13)
「誰が演奏しているかもわからないし」(4)
「非常に地味な音楽なので、決してラジオ向きではないんですよ」(12)
「だから何かやりながら聞き流してたんだけど、ところがずーっと後まで、なんともいえない印象が残っちゃうんだよね」(3)
「ボーッと聴いてるうちに、何かが溜まってくる」(12)
「音楽自体が残ってるわけじゃないのね。そんなに覚えやすい曲じゃないし。ただ、なんか新しいものを聞いちゃったんじゃないかっていう気持ちが残って」(3)
「こりゃ大変なものを聴いてるぞ、と。その時にいちばん耳に残った曲が<ブルーバードだった」(12)
「最後に英語のアナウンスでバッファロー・スプリングフィールドという名前が飛び込んできて、その晩、衝動的にレコード屋に走ったんですよ。日本で発売されているかどうかわからないけど」(13)
「気になってしょうがないから、レコード屋さんに行って探したんだけど売ってない。それでもいつも探してた」(3)
「バッファロースプリングフィールドっていうのがバンド名だか、なんだかよくわからないまんま探してたんです」(4)


1967 中田佳彦と、ムーヴァーズの練習を見学。

「リハを観に行って、僕はぶったまげたんだ」
(14)
「当時のMOVERSがドラム、小原がベース……じゃなくて確かギターだよ。サイケデリックやっててね、カッコ良かった。(14)
モビー・グレープとかゾンビーズやってたでしょ。全部覚えてるよ。ストロベリー・アラーム・クロックも歌ってた。ぶちのめされたね」(14)
「素晴らしかったね。あれにはかなわないと思った」(15)
「こんな子供がいるんだってビックリした」(14)
「恐るべき子供たちという感じで」(2)
「こいつらはたいへんなやつらだって思ったね」(3)
「だって、そのころモビー・グレイプを知ってるっていうのは、アメリカと直接のつながりを持ってる連中じゃなきゃあり得ないからね。特殊な環境の人じゃなきゃ知らないはずなの」
(3)
「ぼくの場合は、べつに特殊な環境にはいなかったんだけど」
(3)

林立夫の証言
ムーヴァーズはキンクスやゾンビーズ、ビートルズといった、イギリスのボーカルバンドをコピーしていた」(16)
「当時の大学生がいろんなところでダンス・パーティーをやっていた時代だけれど、そのダンス・パーティーに必ずバン ドが出ていて、そのバンドの楽器を借りちゃあ、"パーティー荒らし"をやっていたんだよね。で、はっきり言って大学生の連中なんかよりもうまかった自信が あんの。ムーヴァーズは」(17)
「まあパーティー荒らしをやりながら、なんとかっていうバンドが結構うまい、っていうのが口コミで伝わるようになって、ある時僕らがムーヴァーズの練習をメンバーの家でしているときに、細野さんが来たんだよ。それで、細野さんがぼくらの音きいて気に入ってくれて、スカウトされるように、『「ピープ」っていうのをやっているんだけれど、オーディションにこないか?』って」(17)


1967 SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション。林立夫・小原礼らによるムーヴァーズ、鈴木茂のCIAが参加。新宿/御苑スタジオ。

「ぼくらはオーディションする側だった」(2)
「高校生達が、オーディションしに集まって、で、大学生である僕達が、御苑スタジオで、椅子にすわって、審査するわけです。学生の分際で」(4)
「青学の生徒が多かったですね、青学の音楽クラブの」(4)
「当時のバンドはあまり印象はないんだけど、くんのいたCIAくんのバンド、ムーヴァーズはよく覚えている。テクニック的にも音楽的な志向でも、とても子供とは思えないほどレベルが高かったから」(16)
「茂はCIAというベンチャーズのコピー・バンドをやっていて、ベンチャーズのギターみたいなことをやっていた」(8)
「『キャラヴァン』もやったっけ。うまかったよね。茂は天才少年と言われてた。ノーキー・エドワーズみたいで。みんな袖で見てて、びっくりした」(2)
「なんであんなにうまかったんだろう……。ちょっと悔しかった(笑)」(6)
「会ったというか、ただ同じ場所に居たという事ですよね、話しはしなかったから」(4)

小原礼の証言
「僕らは青学(青山学院)だった」
(14)

林立夫の証言
「僕らの前か次にやっていたのが『CIA』っていうバンドで、そこでギターを弾いていたのが茂!なんだアイツ?!みたいな(笑)。え〜〜?って感じ!」(17)

鈴木茂の証言
「兄貴の友達の紹介で」(4)
「CIAはベンチャーズスタイルのバンドね」(16)
「ヴェンチャーズがカヴァーしていたザ・バーズの『霧の8マイル』」(2)


1967/11/12 18:00 SCAP主催『PEEP』に出演。勤労福祉会館。
出演:BRUINS、C.I.A、ムーヴァーズ、ペッパーズ

CEE CEE RIDERS  高浜秀雄(g)、森谷豊次郎(g)、村松道夫(banjo)、細野晴臣(b)
 曲目不明

O.B.グループ  岡野正、細野晴臣、柳田優、
高浜秀雄、村松道夫、森谷豊次郎、柳田博義、片桐新次、清水完一、諏訪郁生 他

1967ごろ ビートルズ「ハロー・グッバイ」を聴く。

「『ハロー・グッバイ』はすごくいい曲だなと思いましたね、たしかに。これは斬新だなと」(13)


1967 中田佳彦の紹介で布谷文夫と知り合う。

1967/12 中田佳彦と布谷文夫に同行していた大瀧栄一とニアミス。新宿/フォノ。

大瀧詠一の証言
「『いっしょに、サイモンとガーファンクルのような、グループを組んでいる細野という人間がいるんだから、今度会わない?』っていう風に言われたのがきっかけですよ、知り合ったのは。中田くんと会った時に」(9)
「最初に、細野さんは覚えてないんですけど初めてうちに行く前に、新宿のレコード屋さんですれ違ったんですよ。中田くんが、あのー挨拶してたのを遠くから見てたの。でー、それが最初なんですよね」(9)
「偶然なんだよ。もっとも、行く場所って決まってたからね、みんな若いころは(笑)」(4)
「入口にひげのはえたぬぼっとした男が立ってたんだ(笑)。たまたま。中田君が『何だ、細野じゃないか』なんて言って」(4)
「『あれが、細野だから、今度会いに行こう』みたいな、のが先にあったんです」(9)

布谷文夫の証言
「レコード店の前で細野さんとバッタリ会い、その時大瀧氏も一緒で紹介したのを覚えている」(18)
「一九六七年の終わり頃だったと記憶している」(18)


1967ごろ バッファロー・スプリングフィールド「ブルーバード」を買う。

「とうとうある日、シングル盤があったわけ」(3)
「買って帰って聞いてみると、すごくいいのね。どんどん聞きこむうちに、もうとりつかれちゃったわけ」(3)
「レコードを手に入れて、もう闇雲に惹かれていったんです」(12)
「なんでこんなに好きなのか、ますます聴きだして、すり切れるまで聴いて」(4)
「とにかくぼくは、これだと思ったら何回でもくりかえして聞くからね。聞きたくなくなるまで聞くの。なにごとかがわかるまでね」(3)
「なにかがわかったら、もう聞く必要はないんだ。レコードを聞く快感ていうのは、なにかわからないものがあるから、なにかエタイのしれないものがあるから感じられるんだよ。それがあるからこそ、いつまでも聞いていられるんだ」(3)
「たとえば、その音を完全に掴んでコピーしちゃったら、もう聞かないと思うんだよ。だから、なにか掴みきれないものがずーっとあって、いつまでも聞き続けていける音楽ほどおもしろいっていうことになると思うんだ」(3)
「バッファロー・スプリングフィールドにはそれがあったからね。だからシングル一枚じゃわからない。『ブルーバード』もメチャクチャいいんだけど、B面の『ミスター・ソウル』を聞くと、また違った感じで、これもすごくいい。なにか、今まで聞いてきたのと違うなっていう感じがするわけ」(3)
「何が違うのかというと、まず地味だった(笑)。ヒット・シングルのことを考えていない。それまでの伝統の中で、シングル盤が作られてきたような、職人的な作られ方がされていない」(12)
「とにかく人にも説明できないわけですよ、何がいいのか。みんなに聴かせるよりしようがない。みんなも、最初はわからないわけです。どうだ、いいだろういいだろうといって何回も聴かせていくと、みんなも好きになっていくわけです(笑)」(13)
「それがまあ非常に強いきっかけです。バッファローのようなことをやろうというのは。音楽の構造でもない、演奏技術でもないもっとちがった何か、第三の謎がね、そこに隠されているんですよ」(4)


1967ごろ ビートルズ『マジカル・ミステリー・ツアー』を聴く。

「《マジカル・ミステリー・ツアー》は本当に《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》と同じぐらい楽しませてもらって。思わせぶりなという意味でね(笑)」(1)
「《マジカル・ミステリー・ツアー》以降は、急に醒めちゃったんです。飽きやすいんです(笑)。僕は音楽を追っていって、何か、火がパッと消える事を感じたりすると、醒めちゃうんですね」(1)


1967ごろ 阿蘇喬の自作曲のレコーディングに参加。「夏の日の海が」「あほむすこ」の2曲でボーカルを含む演奏と実質的な編曲を行う。

「スタジオに入ってレコーディングしたのは、その時が初めてですね」(8)
「67〜68年頃かも」(8)
「盤があるんですよ」(8)
「それをプロデュースした方の名前で出ていたと思います」(8)
「僕でさえ持ってない」(8)

夏の日の海が
「自主制作盤で歌謡フォークみたいなものを作るんで歌ってくれないかっていうんで、女性と2人でデュエットしたことがあるんです」(8)
「あの頃はボブ・ディランとか、サイモンとかを聴いてたから」(19)


<出典>
(1)『NEW RUDIE'S CLUB』vol.23 シンコー・ミュージック/1999年
(2)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(3)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(4)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(5)『Tin Pan CONCERT 1975/2001』パンフレット ミディアム/2000年
(6)シリーズ20世紀の記憶『かい人21面相の時代』 毎日新聞社/2000年
(7)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 1999年
(8)すみやHP『MEDIA MAX』 2000年
(9)J-WAVE『Daisyworld』 1999年2月1日
(10)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(11)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(12)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(13)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(14)『BASS MAGAZINE』10月号 リットーミュージック/1999年
(15)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(16)『GQ Japan』3月号 嶋中書店/2001年
(17)『音芸人』第参回 ペット・サウンズ・レコード店/2005年
(18)『ロック画報』02 ブルース・インターアクションズ/2000年
(19)『バラエティ』2月号 角川書店/1982年
update:2019/12/25

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