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chronology 1966


1966/03 私立立教高等学校を卒業。

1966/04 私立立教大学社会学部産業関係学科に入学。

「立教ってのはのんびりしたところで、大学紛争なんかも最後の頃にちょっぴりあったくらい。学生運動に関して僕はノンポリシーで、音楽三昧だったんです」(1)


1966/春 阿蘇喬の紹介で野上眞宏と知り合う。池袋/立教大学。
野上眞宏の証言
「キャンパス内の通称"4丁目"の近く、うつぶせで芝生の上に寝ころんでいると隣に座っていた友人の阿蘇喬が『細野だ』とつぶやいた。オフホワイト・コットンパンツのアイビースタイル全盛のキャンパスに、スレンダーで整った体型の細野が足より細いリーバイスのストレッチ・ブラックジーンズを履いている。『うーんカッコイイな』と僕も阿蘇の向いている先を見ながら思った。小わきに裸のままの教科書を持ってちょっと前かがみで、木漏れ日の中をレンガ造りの学食方向に歩いていた。」(2)
「学園祭などでその姿は知っていた細野だが、立教高校時代にはクラスが同じになったことがなかったので、話すのは初めてだった。阿蘇は如何に彼が素晴らしいミュージシャンで音楽のセンスが良いか僕に何度か話していたので、紹介されるのを楽しみにしていた。『ホソノー!』と阿蘇が呼ぶと、こっちを向いて『よー』と低い声で言ったみたいだ。」(2)
「細野とは同じ学部で、取っている授業も共通するものが多く、それからは期末テストなどでも一緒に勉強した。テストの時期になると、勉強仲間の川嶋亮一と堀邦雄と共に4人でよく集まった。だが大抵は夜中にお腹が空いたりお茶をしたくなったりして車で青山や六本木に出かけてしまい、勉強は少しもはかどらなかった。その頃の細野は、たまにお茶目であったが、普段は口数が少なかった。川嶋はよく『細野はいつも黙っているから、内容があるように見えるんだよな』とからかっていたが、多分みんな、彼に何かを感じていたみたいだった。」(2)
「替わりばんこに、それぞれの家に集まって勉強したのだけれども、細野の家に行くとその圧倒的な量のレコードに驚かされた。」(2)
「それからは細野の家で細野がかけるレコードを聴くことにした。」(2)

1966ごろ オックス・ドライヴァーズのメンバーを中心にサブタレニアン・ホームシッカーズ結成。ライブ1回で解散。
細野晴臣(g)、藤井憲雄(g,vo)、小笠原昭彦(b)、山田恵之助(vo,g)、他
「『サブタリニアン・ホームシック・ブルース』っていうボブ・ディランの曲があってね、それでメンバーはね、高校の時からちょくちょくやってたフォーク仲間です」(3)
「一度、学生主催のコンサートで失敗しまして、それでやんなっちゃって」(3)

1966ごろ フォーク・ロック・グループ、トリップに参加。
細野晴臣(g,vo)、土屋敏行(b)、関勝(vo)、山田恵之助(vo,banjo)、女性(vo)
「高校時代の仲間がフォーク・グループつくるっていうんで、そこにも手伝いにいっていた。チューニングから教えてね。女のコを入れて、トリップとい名前でフォーク・ロック・バンドにして大学のキャンプ・ストアなんかによく出演してた」(4)
「キャンプストアがあるんですよ、湘南の茅ヶ崎に、そこに出て」(3)
「キングストン・トリオの曲ばっかりですね」(3)

1966 フォーク・コンサートに出演。横浜。

※編注:このときのスナップはYMO写真集『SEALED』(小学館/1984年)で見ることができる。


1966/春 立教大学の学生コンサート企画集団「SCAP」の柳田優、岡野正に誘われ、ドクターズに加入。
岡野正(vo)、金子?(ds)、柳田優(g)、細野晴臣(b)
ドクターズは大学の同窓生達がやりだしたバンドで、それに参加してくれと要請されて手伝っていたんです」(5)
「ビートルズのコピー・バンドで。それまで僕は、ビートルズは全然コピーしたことがなかったんで、それで知ったんですね」(5)
「御苑スタジオにいる人がドラマーで、それがドラマーで、あとは、同期生で、高校から大学にいった連中で、柳田ヒロのお兄さんがいて、柳田優がギターで、岡野正がヴォーカルで、その4人ですね」(3)
「突然ベースを弾いてくれと言われてね」(6)
「ぼくは、ビートルズを無視してたからイヤだったけど、いちおう経験してみようと思って参加したんだ」(7)
「ヴォーカルが持ってたベースを借りて」(8)
「ベースはないよって言ったら、テスコならあるよっていうことで」(3)
「なんでかって言うとまぁ、欠員ができたんで、ベースが必要なんで、やってくれ、と言われてね」(6)
「あのね、ベースを弾く人がほんとにいなかったんですよ。みんな、みんな、リード・ギター、エレキ・ギターにみんな目が行って(笑)」(6)
「地味にこうサイドに、回るっていう人があんまりいなくて(笑)。結局、うーん、なんだろうなぁ、誰もやんない、けど、大事なパートなんで。うーん、僕みたいなタイプが、なんて言うんだろ、やる羽目になるわけですね。あのー気の弱いタイプが。はははははは」(6)
ポール・マッカートニーのベースっていうのは、比較的オーソドックスで、ギターの延長線上にあるような感じなのね。ぼくもピックで弾いたりしてたし」(7)
野上眞宏の証言
「柳田優はジョン・レノンに傾倒していた岡野正と一緒に、1966年の春に、ビートルズのコピー・バンドをやろうと思って、メンバーを集めてみたがなかなかベースとドラムが見つからない。彼の音楽仲間の間では、細野晴臣の評価が既に高かったが、フォークをやっているようだし、ほかのバンドに入っていた。当時は、フォークとロックを掛け持ちでバンドをしている者は、いなかったのだが、思い切って、細野に話を持ちかけると、快くOKしてくれた。ドラマーには特定のメンバーが決まらず、そのつど誰かに頼むことにして(よく使っていた御苑スタジオで働いていた金子がやっていたこともある)、優のバンド、ドクターズは、柳田(リードg)、岡野(vo&サイドg)、細野(b)プラスαでやることになったのだ。」(2)

1966ごろ フォーセインツのステージにウッドベースの代役で出演。

「なんかのコンサートでフォーセインツっていうグループがあって、今テレビで司会やっている人なんだよね、そこの。ウッドベースが病気しちゃったんで(笑)トラをやったんです」(3)

※編注:フォーセインツは1968年秋にレコードデビューしている。細野の代役出演については、細野がフォーク・コンサートの類いに最も出演していたこの時期と考えるのが妥当ではないかと判断した。


1966 遠藤賢司と知り合う。白金。

「僕の小学校の同級生の友だちだった(笑)」(2)
「白金の家の近所に、遠藤賢司が下宿していて、明治学院に通ってて。僕の友達が、歌の好きなやつがいるっていうんで連れて来て、そこで初めて、家で歌を聴かされた憶えがあるんです」(3)

遠藤賢司の証言
「高校のときナルシソ・イエペスの<禁じられた遊び>が好きで、親にギターを買ってくれと言ったら、勉強しないからダメだと言われた。店にナイロン弦の"古賀ギター"がぶら下がってるのがカッコよくてね。ホールの中に古賀政男の写真があって、ニッコリこちらを見てるギターだったんだ」(10)
「大学に入って、白金の飯島君という友だちの家に遊びに行ったら、そいつが古賀ギターを持ってるんだよ。それを借りて」(10)
「飯島君のおかげで細野氏にも会った。古賀ギターとドノヴァンの『おとぎ話』のレコードとスーパーで買った大根を持って高校の学生服を着て歩いてたら、細野氏を紹介してくれた」(10)
「電話ボックスから−それ、白金にまだ残ってるんだけど−『おう、飯島』って顔を出したやつがいて。飯島くんが『おお、細野』って返事して。同級生らしいんだよ」(11)
「そのとき彼がレコードを見て、"オッ、ドノヴァン好きなんだ。家に来いよ"って」(10)
「『おっ、君、ドノヴァン持ってんの? 好きなの?』って言うから、『好きだよ』って返事したら、『遊びに来ない?』って言うんだよね。近所だったんだ、実家が。俺はアパートだったけど。それで友だちになった」(11)
「そのとき彼の家で、でっかい声で歌ったらしいんだ、俺が」(10)
「彼のお母さんに『静かにしなさい』って怒られたらしいんだけど(笑)」(11)
「時々、道端でばたっと会って話すうちに、趣味が合う感じで」(11)


1966 ビートルズ『ラバー・ソウル』を聴く。
「《ラバー・ソウル》から《リボルバー》《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》に至る変化の中で、「こいつらは只者じゃない」と思い始めたんです。それまでは只者だったんです(笑)」(12)

1966 ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』を聴く。
「『ペット・サウンズ』は理解できなかった。ぼくもみんなと一緒にそっぽを向いていたし。小さい頃から好きで贔屓していたビーチ・ボーイズはビートルズみたいなバンドに勝ってほしいと思ったけど……悲しくなってね」(13)
「一番大事なアルバムの《ペット・サウンズ》の時に、距離があったんですね。それは実は全く、その時代のビーチ・ボーイズの立場を表しているんです(笑)。曲が面白くないと言われて、誰にも評価されずにね」(12)
「ずーっと、気になるアルバムだったんですよ、これは。評価が難しくて」(12)
「僕の体験は<サーフィンUSA>から始まっているんで、《ペット・サウンズ》に距離が出てくるのも、より時代に沿った聴き方だったんですね。でも、気になるアルバム。聴き込むのが恐ろしかったんです。その原因は他にもいろいろあるんです。その頃までも僕はずっとFENを聴き続けていて、ある時、ブライアン・ウィルソンのコメントが突然放送されたんです。それは音楽番組ではなくて、番組と番組の間のニュースのようなところで、軍隊のインフォメーションみたいなコメントをブライアン・ウィルソンが言っているんです。おぼろげながら言っていることが分かりました。彼は呂律が回らず、ちょっと変なんです。もちろんビーチ・ボーイズがその頃、マハリシに心酔していたり、ドラッグ的な生活にのめり込んでいたりという事は知っていたんですけど、ここまで深刻だと知ったのはそのコメントを聴いてからですね。兵隊に呼び掛けているんです。「ドラッグはやめよう。みんな、僕みたいになっちゃうよ」と言っているのが分かったんです。この人はそうなっちゃったんだと思ったんですよ。そういう事があって、僕は怖かったんですね。ブライアン・ウィルソンのことを知るのが。そういう事が強く影響して、距離が出てきたというのはありますね。だから《ペット・サウンズ》も、そういう中での怖いアルバムだったんですね。僕にとっては」(12)

1966/夏 ドクターズ、立教大学広告研究会キャンプストアに出演。千葉/館山。

1966 ビートルズ『リボルバー』を聴く。

「一曲一曲の楽曲が良かった。割とそういう醒めた気持ちですね」(12)


1966/秋 ビーチ・ボーイズ「グッド・ヴァイブレーション」を聴く。

「そろそろ心が醒めつつあった時期の大ヒットですね」(12)
「ヒット曲なんですよね。よくできたヒット曲」(12)
「割とおおらかにヒットしていたんで、おおらかに聴けましたけどね。すごくよくできた音楽なんで、そのときはうれしかったんです。『ビートルズをやっつけたじゃないか』と思っていたんです」(12)


1966/12/26 ドクターズ、SCAP主催『PEEP』に出演。銀座/ヤマハホール。

「主催者といっしょに、友達が主催者だったんで、主催をしてたんです」(3)
PEEPはドクターズの柳田優が主催していたコンサート」(2)
「のぞきですね、ピープショーっていって、ストリップショーっていう(笑)」(3)
「本格的なコンサートでしたよ、つまり、ちゃんとチケットを売って。大きなホールです。あのね、ちょっとうろおぼえなんだけどね、割と大きなホールでした」(3)
「当時はね、あのー、主流がね、それまでの学生の動きっていうのはフォークコンサートだったの。スチューデントフェスティバルとかジュニアジャンボリーとか。ですからそれのロック版ですよ」(3)
「それが魅力的でしたから、それが、面白かったから僕は、出たんですけど」(3)
「フォークもいました。柳田ヒロがそうでしたから。PPMスタイルで」(3)

野上眞宏の証言
「優は自分の周りにたくさんいるグループを集めてコンサートができないかと思いついた」(2)
「ドクターズがトリを務めるコンサート」(2)

<出典>
(1)シリーズ20世紀の記憶『かい人21面相の時代』 毎日新聞社/2000年
(2)レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々』 ミュージックマガジン/2000年
(3)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(4)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(5)すみやHP『MEDIA MAX』 2000年
(6)NHK-FM『細野晴臣2001年音楽の旅』 2001年1月2日
(7)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(8)松本隆オフィシャルHP『風待茶房』 1999年
(9)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(10)『レコードコレクターズ』2月号 ミュージックマガジン/1997年
(11)『ロック画報』15 ブルース・インターアクションズ/2004年
(12)『NEW RUDIE'S CLUB』vol.23 シンコー・ミュージック/1999年
(13)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
update:2004/03/30

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