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chronology 1960-1965


1960 私立の中学校を受験。不合格。
「小学校から受験戦争ってあったワケ。それで進学教室に通ったんだけど、まったくそういうのに興味なくてアホになっていたから、受けたところ全部落ちちゃった」(1)

1960/03 港区立白金小学校を卒業。

1960/04 港区立青山中学校に越境入学。
「おれって頭悪いんだな、と思って区立に行ったの」(1)
「広尾から青山の墓地下を通って青山一丁目に抜ける道は、僕の中学の通学路だった」(2)
「友だちが、今思うとほんとにいいやつばかりで、やっぱり愛されていたね。愛していたし。孤独じゃなかった。区立だったから、暴力教室っぽくて、先生を職員室に閉じこめちゃったり」(1)

1960 入学祝いにステレオを買ってもらう。
「中学校に入るっていうのは、まあ昔でいえばいちおう成人したみたいな気分もあるでしょ。だから、元服じゃないけど、入学祝いっていうことで、何か買ってくれることになったの」(3)
「そのとき、ぼくはどうしてもステレオが欲しかったんだ。でも、こればっかりは高くて、どうしても自分では買えなかったからね。いいステレオだと10万円くらいしてたんじゃないかな」(3)
「そのころにはね、おじさんがハイ・ファイ・セットを持っていて、クラシックをよく聞かされてたんだ。普通のプレイヤーよりも音の広がりがあって、すごいもんだなあと思ってたわけ」(3)
「ところが、ぼくが中学校に入る少し前あたりからステレオが出回りはじめたのね。デパートなんかに見に行くと、グーンてすごく低音が出てる。ラウドネスっていうスイッチがあって、それを入れるとバーッて低音が出るんだね」(3)
「それは、そのスイッチで低音部分を持ち上げてるだけなんだけど、子供っていうのは低音にひかれるんだよ。ロックなんかだと、低音が出てないとなんかピッタリこないしね」(3)

1960 水泳部に3日間入部。

1960 陸上部に1日だけ入部。

1960 ラジオでエヴァリー・ブラザーズ「キャシーズ・クラウン」を聴き、シングル盤を買う。
「僕はケイデンス時代のエヴァリー・ブラザーズを聞いていた、という記憶がない。彼らの歌を初 めて聞いたのは1960年で、それがたまたまケイデンスに別れを告げ、新興のワーナー・ブラザーズへ移籍した直後のシングルであった。この時の僕は中学に 入ったばかりで、2年前のケイデンスでのビッグ・ヒットである『バイ・バイ・ラヴ』が流行っていた頃は、やっと深夜放送に秘かな快楽を見出し始めた小学生 で、ヒット・パレードを聞きかじるには至っていなかったのだ。」(4)
「僕は『バイ・バイ・ラヴ』を聞いていなかったのではなく、まだ聞く耳を持たなかったのだ。丁度この時は僕の聴 感覚の発育過程期にぶちあたっていたのである。そして、やっと聞こえる様になった耳がウズウズとしてきだし、敏感になっていた所へ、鮮烈な印象を持つ歌が 飛び込んで来たのだ。『こいつはスゲェや!』と思ったのである。ところが、この感じやすい粘膜に飛び込んで来た鮮烈さは、当時の音楽状況によってかなり加 速されていた事に気付いたのだ。というのは、この頃はロカビリーやロックンロールが、徐々にロックへと脱皮して行った時期で、そんな状態の真只中でエヴァ リー・ブラザーズはケイデンスからワーナーへ移籍し、必然的に音が変わっていったのだし、そんなロックの過渡期の中で僕はガキから脱皮していったのだ。」(4)
「成程いわれてみればビートルズピーター&ゴードンの原型がここにはある。ワーナー移籍後の彼らは、ケイデンス時 代の実績を基にして、とてもキャッチーなポップスをつくる事に成功した様だ。このワーナーでのデビュー盤は、おそらくケイデンスにいてもできたかも知れな い。ここで聞くハーモニーやこぶしは、子供の耳にとっては鮮烈であるが、ケイデンスでの、ヒルビリーやブルーグラスにルーツを求めた彼らの音楽を知る者に は、必然的にできてくるものであると納得した筈だ。しかも、B面の『オールウェイズ……』(編注:『オールウェイズ・イッツ・ユー』)はブライアント夫妻の曲で、この曲はその後じわじわと僕を侵していったのだが、全くケイデンスの音づくりそのままである。」(4)
「そこで、新鋭の僕に『スゲェや!』と思わせた決定的なものは何かを考えてみる。やはりこれはリズムである、といいきる事が出来る。カントリー・スタイルのシャッフルでもなく、何かいつもと違ったビートを持っていたのだ。」(4)
「この余りにも完璧な音と演奏、その打ち出すビートに僕はあっけにとられてしまったものだ。それはロックンロールでもロカビリーでもなく、正に『ロック』だったのだ。」(4)
「バック・ミュージシャンを、僕は勝手にジェームス・バートンジム・ゴードンと決めてしまっていたが、ハル・ブレインである事を知り、あらためて尊敬し直したこともある。」(4)

1960ごろ 白土三平の漫画に出会う。
「そのころは、漫画と音楽と両方、同じぐらい入れこんでたな」(1)
「漫画家になろうと思ったことあるし」(2)
「ぼくと漫画っていうのは学校と切り離せないの。小学校のときは、仲のいい友だちはみんな漫画好きでね。授業中 に戦車とかチャンバラとか描くのが好きだった。落書きに近いものだけどね。中学に入ると、クラスに大体ひとりはいるワケ、漫画を描くライバルが。おたがい に描いたものを見せっこしたりして。最初は西部劇を描いていたんだけど、そのうちに白土三平を知ってね。学校の近所に貸本屋があって、休み時間に漫画を借りに行くわけ。そこで白土三平の『忍者武芸帳』を初めて見て、ものすごいショックを受けた。なんとリアルな漫画なんだろうってね。白土三平の影響力は強かったな。それでね、『漫画の描き方』という本を買って、夏休みにストーリー漫画を描いたの。"影丸伝"みたいなやつね」(1)

1960 病気の不安がある時に映画『ベン・ハー』を観て、キリストの奇跡が病を治すシーンに感動する。
「ワーッと感激しちゃったの。これはもう神様だと思って。病気と奇跡と宗教が、ぼくの中でひとつになっちゃったんだ」(3)
「だから、そのときからもう、絶対にキリスト教系の高校へ行こうって自分で決めちゃったんだよ。『ベン・ハー』の後で、『キング・オブ・キングス』っていう、やっぱりキリストの映画を見たりして、その決心はますます強固なものになっちゃったのね。もう、教会のある学校に行くしかないって」(3)
「まあ、影響されやすいんだろうね、ぼくって。『西遊記』でお釈迦様になって、『ベン・ハー』でキリストになっちゃうんだから」(3)

1960/11/05 ジョニー・ホートンの事故死を知る。
「ラジオで『今日、ジョニー・ホートンが自動車事故で死にました』というニュースが流れたの。それを聞いて、泣いちゃったのを覚えています」(1)

1960/12 クリスマス・プレゼントに生ギターを買ってもらう。銀座/山野楽器。
「当時まだあのクリスマスなんていうと家族で、銀座にくり出したりして(笑)、えー冷えた、チ キンを食べたりね(笑)、そんなようなことをやってまして、とてもー、銀座が賑わってたんですけど、楽器屋なんかに必ず僕、レコード屋さんに、連れてって もらって、1枚だけ、えー買ってもらうっていうのが、習慣だったわけですよ」(5)
「えーアルバムなんですよね。当時、アルバムなんてーのはとても、自分では買えないんで、買ってもらうんですけ ど。その楽器屋さんに行った時に、たまたま、あのー、生、ギター、アコースティック・ギターが置いてあって、冬ですからあのコートの、袖がね、ポローンて 触れちゃったんですよ。立てかけてあったー売り物にね。その時の、音がね(笑)、僕の琴線をこう、なんて言うんだろう(笑)」(5)
「揺さぶっちゃったのかな。ポロローンといい音がして」(5)
「なんていい音なんだろう!それにショックを受けて」(6)
「でそのー時に、僕は、もう甘えてますけど。これー買ってくれと(笑)」(5)
「バーゲンのギター」(6)
「ケース付きで6000円だった」(6)
「めったに、僕には、なんか買ってくれた、っていうことはあんまりないんですけど、ギターに関してはあっさり買ってくれまして。それからですかね。あのー、音楽、自分でやるようになったのは」(5)
「そのとき、いちおう教則本をつけてくれて、それを読んで、チューニングってやつから始めた。コードなんかも、その教則本には6つしか出てなかったけど、それを見て、スリー・コードを覚えたんだ」(6)
「それで何を弾いたかと言うと、ラジオでよく聴いていたハンク・ウィリアムスの曲ね。それは、EmとAmとB7さえ知っていればできたわけ」(6)
「そのうち、音を並べて、コードを自分で作ってゆくことを覚えたんだ。和音を聴きながら、コードを作っていった。だから、指の押え方も全部、自己流だった。頭にあるイメージの和音を追っていって、それが重なるまでやるっていう、一種の音遊びに熱中し出したわけ」(6)
「1日に4〜5時間は弾いていた」(1)

1961 盲腸の手術。

「麻酔なしでやったんだよ」(7)
「軍医だったの(笑)」(7)
「母親がついてたんだけど、母親には言わないで僕に言うわけ。自分は昔軍医で、麻酔ってほら危険じゃない」(7)
「だから『やんない』って」(7)
「部分麻酔はするんだよ。ひ、何? 皮下、皮下注射?」(7)
「効かないの。切った時はだから痛くないわけだよ。でー、意識はあるし。『あー切った切った痛くないや』。そのうちね、腸をこねくりまわすでしょ? 痛いんだ(笑)」(7)


1961 フロイド・クレイマー「オン・ザ・リバウンド」を買う。

フロイド・クレイマーは僕のアイドルだよ。『オン・ザ・リバウンド』って大ヒット曲を買ったからね。中学のとき。『ホット・ペッパー』とか、もう素晴らしい!ワイルドだよ!」(8)


1961 黒澤明監督の映画『用心棒』を観る。
「あのころとしてはめずらしく、テレビで予告編をやってて、これはおもしろそうだと思って行ったら、やっぱりスゴかった。まるで西部劇みたいな感じで、殺陣もすごいわけ。迫力あってね。もう白土三平の世界と重なっちゃうの」(3)
「そのうちにね、五反田の名画劇場なんかで黒沢明の三本立てっていうのがあって、友だちと3人くらいで見に行ったんだ。黒沢明の映画って長くて、一本が3時間くらいかかるから、お弁当持って一日がかりで行くわけ」(3)
「黒澤はすごいということになってね、『用心棒』を六回も観ちゃったんです。『七人の侍』が三回」(2)
「そのうちに、黒沢ならなんでもよくなって、現代劇まで見るようになったの」(3)
「古いものを観たりして」(2)
「黒沢明の映画ってほとんど見ちゃったんじゃないかな」(3)
「現代劇はどうもピンとこなかったな」(2)

1961 ベンチャーズのコピーをはじめる。
ベンチャーズの流れのインストものを友だちとやっていて」(9)
「遊んでたんですね。僕はまだ持ってなかったんですけど、友だちがエレキギターを買ったりして。僕は生ギターを持っていました。<ウォーク・ドント・ラン>というのが一世を風靡して、演奏するという楽しみがもう既にあった」(9)

1961 友人の親が経営する鉄工所で得たアルバイト代でグヤ・トーン製のエレキギター購入。

1961 友人たちと初めてのバンドを組み、バンド名をブレッツメンと名付ける。
細野晴臣(b,pf)、河合敏行(g)、羽田雄一郎(ds,vo)、岩間?(g)
「当時は、ファイアー・ボールズとか、ベンチャーズとか、インストゥルメンタルのロックンロール・バンドが多かった」(6)
「聴いているラジオも、FENになった。FENは朝から晩まで音楽をやってたし、毎週土曜日になると、夜8時半からトップ20という番組をやってた」(6)
「そんな番組を友だち同士で集まって、聴いてたんだけど、そんなことから音楽好きが3人集まって、エレキ・グループを作った」(6)
「元々この白金の家のリビングにステレオがあって、そのステレオ・アンプに友達が買ったエレキを差し込んで鳴らして」(10)
「ドラムはつくった。おせんべいの大きな空缶に紙とビニールをはったの。案外いい音するんだよ。バス・ドラは床を踏むワケ。シンバルはブリキを丸く切って、穴あけて、シズルっていう鈴をつけてね。スタンドが買えないからそれを天井からヒモでつってたんだ」(1)
「ベースはないの」(1)
「何でそれが始まったかというと、父親がオープン・リールの民生機のテレコを買ったんです。僕のために買ったとは思えないんですけど、使っていたのは僕だけだったんです。それで録るのが面白くて、それで練習を録っていたんです」(10)
「ドラムやったり、エレキやったり」(10)
「ギターなんか、奏法を自分で発見していくワケ」(1)
「誰も教えてくれないから。ようするに、一種の修行みたいなものだよね」(3)
「ピアノは1人でやってましたね。インスト・バンドというと当時は、エレキ以外の楽器が入ってくるとかっこ悪 かったんで。サックスが入ってくるとおじさんのロックみたいな感じがあって(笑)、なるべくエレキだけでやってましたね。で、リード・ギターをみんな弾き たがるんで、でも当時のレベルでは割とリード・ギターは簡単なので、それで僕はドラムやったりベース弾いたりしてましたね」(10)
「3人で、しばらくやってたんだけど、もうとどまるところを知らなくて、どんどんエスカレートする。けっきょく、ドラム・セットも買っちゃうんだよね」(6)
「で、つぎに、よその学校のヤツなんだけど、ベースをやってるってヤツが、家に来るようになったり、ギターの天才的にうまいヤツが入ってきたり、ついに5人編成のバンドになっちゃった」(6)
「そういう人間関係が自然にできていくの。他流試合みたいに、ゼンゼン知らない人が噂を聞きつけてきて」(3)
「そうやって、だんだん広がっていくんだ」(3)
「そうすると本格的になってきて、発表したくなってくる。そうなると、出る場所ってのはあるもんで、ダンス・ パーティなんかに出て、ギャラをもらったりしてたんだ。まだ中学生のバンドでね。ギャラっていっても2000円くらい。で、やるのはホット・ロッドとサー フィン・ミュージックだけ」(6)

※編注:前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』(シンコー・ミュージック/1984年)によれば、ブレッツメンとは「弾丸男たち」の意。


1961ごろ 忍者ごっこの最中、手製の手裏剣が肩に刺さる。
「モデル・ガンの後に、クラスではナイフ投げが流行ったのね。みんな飛び出しナイフを持ってて、休み時間になるとジャキーンて出して、教室の扉なんかに投げるの扉の木は柔らかいから、よく刺さるんだけど、むつかしいんだよ、あれは」(3)
「でも、ぼくはね、みんながナイフ投げるときに、十万手裏剣を投げてたの。十万手裏剣は、ぼくがクラスでいちばんうまかったね。その十万手裏剣は、前にシンバル作った要領で、ブリキを切り抜いて作ったわけ」(3)
「それで、"破傷"投げなんてのをあみだして」(1)
「もう扉なんか傷だらけになってたけど、べつに先生にもおこられなかったよ。でも、今になって考えてみると、あのころから中学校っていうのはたいへんなとこだったんだね」(3)
「一度、ヘタなやつがぼくに十万手裏剣を投げてほんとに肩に刺さっちゃったことがあるの。亜鉛が入ってるでしょ。だから、はれてきちゃってね。自分で編み出した破傷投げを受けたみたいになっちゃったんだ」(3)
「保健室へ見てもらいに行ったんだけど、『どうしたんだ』って聞かれるわけ。しょうがないから『十万手裏剣が刺さったんです』って答えてね」(3)
「そのときも、べつにたいしておこられはしなかったな。『あぶないねえ』って言われたくらいでね」(3)

1962 エヴァリー・ブラザーズ「クライング・イン・ザ・レイン」を買う。
「『キャシーズ・クラウン』以上に、ワーナーとケイデンスの違いを明確にしている。この曲で彼 らはカントリーからシティーへと移っていった様だ。このレコードは、AB面共にケイデンス離れのしたプロデュースがなされている。というのはまず第一にエ ヴァリー兄弟を育てたと同様の作曲家チームであるブライアント夫妻がはずされた事である。その代りに起用されたのがキャロル・キングで、彼女の手にかかれ ばシティー臭くなるのは当然である。それと同時に「音」も違ってきた。それは実に良い音を出すレコードで、カッティングの違いのせいかも知れないが、ドラ ムやヴォーカルがずい分とクリアに出て来ていて、とても心地良かったものである。」(4)

1962 エヴァリー・ブラザーズ「ザッツ・オールド・ファッションド」を買う。
「イントロとエンディングで買った様なものだ。この曲で、初めてブラスを生かしたアレンジが試されているが、おそらくケイデンス時代のファン、つまりロック学校の第一期生彼は、このレコードで彼らから離れたのではないかと思う。」(4)
「僕にとってはそんな事は知らぬが華で、せっせとエンディングのフレーズをコピーしたものだ。」(4)
「このフレーズは彼らのルーツをかすかに残している部分であり、C&W系のポップス・シンガーであるジミー・ディーンのケイジャン・ソングでも聞いた事のある、つまりC&Wのスティール・ギター奏法における、ひとつのスタイルである事を知ったのだ。」(4)

1962 セロニアス・モンク「ブルー・モンク」を自宅録音。
ブルー・モンク
「ソニーのオープン・リールのポータブルのテレコで録ったんだ、これ。当時、セロニアス・モンクはうろ覚えでラジオで聴いていたんだろうね。レコードなんてものは持ってない。ファンキー・ジャズっていうのが当時流行っていて、アート・ブレイキーが来日したり、あとホレス・シルバーがテレビに出ていたりそれで、いい曲がいっぱいあるなぁと。当時、ファンキー・ジャズはポップ・ミュージックみたいだったんだよ。それに、アート・ブレイキーのヒット曲で「モーニン」ってのもあるでしょ。あれもわかりやすいし、いいなぁと。そんな一連の中で、モンクはメロディアスだから」(11)
「ついでに録った曲です。ラジオで聴いたまんまを弾いたんです」(10)

※編注:CD『HOSONO BOX 1969-2000』(2000年)に収録。

1963/02 私立立教高等学校を受験。合格。
「同じキリスト教系の学校でも、青山学院とかのプロテスタント系の学校はいやだったの。どうせ行くなら、伝統的なカトリックのほうが奇跡が起こりやすいんじゃないかと思ったから」(3)
「いろいろ調べてみたんだけど、立教高校っていうのは聖公会でしょ。聖公会っていうのはカトリックに近いって思い込んじゃったのね。本当を言えば、あれはイギリスでカトリックに反抗して作られた宗派だから、カトリックでもプロテスタントでもなかったんだけど」(3)
「自分でキャンパスも見に行って、すごく気に入っちゃったのね。で、受験することにしたわけ」(3)
「実を言うとね、中学校時代はけっこう勉強もしてたんだ。家庭教師もいたんだけど、英語の先生はね、聖心女子大に行ってる若くてきれいな人で、もう胸をトキメかせながら勉強したの。おかげで英語は上達したよ」(3)
「やっぱり、先生はそういう人じゃないとダメだね」(3)
「数学の家庭教師もいて、こっちは早稲田に行ってる男の人だったんだけど、すごく気さくなお兄さんで、そっちもわかるようになってきたわけ」(3)
「ほかの学科もね、そんなに勉強したわけじゃないんだけど、教室で先生に質問されたりして、テキトーにカンで答 えると、なぜか合ってることが多いの。小さいころから、ぼくはわりとそうなんだ。パッていいかげんに言うと、よく当たってたり。そういうカンがあるのかも しれないね」(3)
「そんな感じで、ぼくは頭が良くなったのかな、なんて思って自信をつけてたんだ。まあ、中学校の時の他の連中はほんとに勉強しなかったからね」(3)
「でも、さすがに試験の当日にはそんなに自信なかったよね。とくに数学が、やっぱり怖かったね」(3)
「だからっていうわけでもないんだけど、試験の前の晩に、いちおう数学の参考書を見ていったんだ。そしたら、そ のときに見たのとそっくり同じ問題が試験に出ちゃったの。それが試験の中でいちばんむつかしくて、配点も多い問題だったから、すごく助かっちゃった。ま あ、それで受かったみたいなものだね」(3)
「でも、あのときは、ほんとに試験ていうのは運だなあと思っちゃったよ」(3)
「高校受験なんかで、音楽活動は一時中止。レコードも聴かない、ラジオも聴かないって日が、1ヵ月くらい続いた。だから、その間のヒット曲を、ぼくは知らないんだよ」(5)

1963/03 港区立青山中学校を卒業。

1963/04 私立立教高等学校に入学。

「私立でしょう。周りが、お金持ちの坊ちゃんばかりなの。全然環境が変わっちゃって、わりと家に閉じこもりがちになっちゃった。完全に"陰の芽"がふいちゃった。そこでは自分の違う面が育ったみたいね」(1)
「初めて学校に行ったときにね、『おまえの靴、ユニークだなァ』って言われたのね。それがすごく気になっちゃったんだ」(3)
「というのも、そのときぼくは中学校のころと同じ格好をしていたわけ。先のとんがった靴もまだはいていたの。中学校のときは、周囲もみんなそうだったから」(3)
「でも、立教っていうのはアイビーなんだよね、みんな。さすがキリスト教の学校だけあって、すごくかっこよかったわけ。それで、なんか異和感を感じちゃって、帰りにね、山手線の電車の窓ガラスに映った自分の姿を見ちゃったの」(3)
「アッ、ズボンがダブダブだ、長いなァって思って、それで直したんだ」(3)
「どうしてダブダブの格好をしてたかっていうとね、うちの親が心配性なの。気配りが強すぎて、子供はいつまでたっても成長するもんだと思ってる。だから、制服とかそういうものは大きめのを買わないと損だからって、いつもピッタリしたものは買ってもらえなかったんだよ」(3)
「ひとまわり大きいのを買って、それに体を合わせなきゃいけないんだけど、そのころになれば、もうそんなに極端には大きくならないよね」(3)


1963/夏 FEN『トップ20』で、ビーチ・ボーイズ「サーフィンUSA」を聴く。
「ある時、<サーフィンUSA>がドーンと入ってきたんです」(9)
「1位になったわけ。だから、それまではぼく、ビーチ・ボーイズって知らなかったんだけど、もう毎週かかるから覚えちゃうのね」(3)
「当時の他の曲とはあまりにも違うんで、興奮したのを覚えています。「これはなんだ!」っていうのがありました。ブライアン・ウィルソンはかつて、フィル・スペクターがやったロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」を聴いて「これはなんだ!」と思ったらしいんだけど(笑)。僕の方からすると、そんな感じですよね。「サーフィンUSA」の新鮮なサウンドに、びっくりしたんです」(9)
「今まで聞いてきた曲とノリが違うっていう感じで、ほんとに新鮮だったんだよ。ベンチャーズなんかとも違った、すごく軽やかなギター・サウンドだしね」(3)
「ビーチ・ボーイズは、アマチュアっぽくて、しかも何よりも歌、コーラスが、聴いた事がないようなものだった。そこら辺にびっくりしたんですけどね」(9)
「あのイントロが流れ出しただけでウキウキしたよ」(3)
「ジャンルなんか関係なく、ワクワクしていた」(11)
「最初にまず思ったのは、「サーフィンって何だ?」と(笑)。ジャケット見れば一目瞭然ですよね。波乗りの事だ と(笑)。それまでは分からなかったんですからね。『サーフィンUSA』という言葉が、何か、波を感じさせる言葉だなとか(笑)。子供ながらにも、何か、 新しい波が来ているんじゃないかと刺激されましたね。それまでのインストにはなかったカルチャーを感じたんです。同世代的なカルチャーと言うか、今アメリ カで起こっていること、日本では全く関係ないけど、何かそういうものを感じて」(9)
「純粋に音楽的なショックだった」(9)
「真似して曲を作ったりしたのを今、思い出しました。<サーフィンJPN>というのを(笑)」(9)
「その曲は今でも覚えています。それはテープに録ったから」(9)

1963 親戚とビーチ・ボーイズ『サーフィンUSA』を買いに行く。溜池/東芝EMI。
「なぜか知らないんですけど、おばが東芝にいて(笑)、レコード関係じゃないし、東芝に直接勤 めていたわけではなかったんですけど、そういうコネクションもあって、なぜ僕が、ビーチ・ボーイズが東芝だと知ったのか分からないけど、溜池の本社まで一 緒に行ってもらって、《サーフィンUSA》を安く買ったんですよ(笑)。聴いてから随分経ちましたけどね。2ヵ月くらい経っていたかな」(9)
「ビーチ・ボーイズの音楽を聴くと、単純だったんで、簡単に出来るわけですよ(笑)。そういう意味で、凄くやる 気を起こさせた音楽が、LPにいっぱい並んでましたね。ただし、歌はあんまり考えてなかったです。歌えるかどうかなんて考えないで、とにかくインストの方 にまず耳が行って、「こいつら、同じだ」と思って」(9)
「それ以来、ビーチ・ボーイズのリーダーのブライアン・ウィルソンていう人が、ぼくのアイドルになったの」(3)
「ビーチ・ボーイズっていうのは、ぼくと世代が近かったんだよ。いちばん下のカール・ウィルソンがぼくよりひとつ上。いちばん歳上のマイク・ラヴが6つ上だったの。だから、初期のビーチ・ボーイズっていうのは、ほんとに子供のバンドだったんだよね。最初はやっぱり、空きカンをドラムにして、ガレージで録音してたっていう。そういう話を知って、こっちも燃えてきちゃったわけ」(3)
「これはどうやって弾くんだろうって、必死で研究したの。もう、一日中弾いてたんだよね」(3)
「『サーフィンUSA』のギターが弾けたときはうれしくてね。次の日にみんなを呼んできて、『できた!』って聞かせたり。そのくらいギターに没頭してたんだ」(3)
「本当にメシよりも好きだったな」(1)

1963 クリスタルズ「ダ・ドゥ・ロン・ロン」を聴く。

クリスタルズは大好きだったし。たぶん、ビーチ・ボーイズと同じくらいですね。クリスタルズを聴いた時も、同じような状況だったんです」(9)
「興奮してね」(9)
「何だろう。直接的ですよ。いてもたってもいられない感じ。快感、ですよね。電気が走るみたいな」(9)


1963 ブレッツメン、ダンス・パーティーに出演。
「不良が主催していたダンパでベンチャーズやったり、ビーチ・ボーイズの『サーフィンUSA』をやったりして3千円もらった。ウケた覚えはないな(笑)」(11)

1963 「サーフィンUSA」を自宅録音。
「気まぐれで録っただけ」(9)
「テープが残っているんです(笑)。自分ではビーチ・ボーイズのつもりだったんだけど、声が低過ぎてね(笑)。中学の時からこういう声だったんです(笑)」(9)
「僕はすでに変声期を迎え、いまの声になっていた。大好きだったビーチ・ボーイズの曲を歌っていると、そんな声では「サーフィンUSA」じゃないといわれてしまう。これほど好きなのに彼らのような声が出ないという現実に直面し、僕は歌うことに限界を感じたのだった」(12)
「我ながら呆れたんで(笑)、ビーチ・ボーイズのコピーはやめたんです」(9)
「ビーチ・ボーイズをやるには、僕の周りには人材がいなかったんだ」(11)

1963 小学校の同級生に誘われて芝高校のフォーク・グループに参加。のちにリーダーになり、オックス・ドライヴァーズと名乗る。
細野晴臣(g)、藤井憲雄(g,vo)、小笠原昭彦(b)、山田恵之助(vo,g)
オックス・ドライヴァーズってキングストン・トリオのコピー・バンドも、芝高校の文化祭でライブをするときに誘われて、頼まれたからやっていただけなんだよ。この頃から始まっているんだよ、僕は頼まれごとを断れない(笑)」(11)
「むかしの友だちが、高校の文化祭で音楽をやるから、てつだってくれっていってきた。彼らはすごいフォーク・ソ ング好きだったんだ。ぼくも興味があったから、てつだうことにして、それが、いつのまにか本格的になってきたんだね。キングストン・トリオなんかも聴き出 して、すごく好きになってね」(6)
「いっぽうでエレキ・バンドもやってたけど、メインはフォーク・グループになった。レパートリーは、キングストン・トリオ、ブラザーズ・フォーピーター・ポール&マリー(6)
「オックス・ドライヴァーズの頃から、フィンガリングの勉強はし始めていたの」(11)
「キングストン・トリオと同じころ、ピーター、ポール&マリー(PPM)っていう、これも3人組のフォーク・ソング・グループがいたのね。この人たちもかっこよくて、とくにギターの弾きかたがすごく洗練されてたの。キングストン・トリオよりも都会っぽくてね」(3)
「だから、PPMからはギター・テクニックとアレンジのやりかたをすごく勉強したよ。とくに、このグループは自分たちで曲を作らないで、古い民謡とか、新しいいい曲を自分たちでアレンジして演奏してたから」(3)
ボブ・ディランなんかものすごく早くから取りあげてたのね。『風に吹かれて』なんかも、PPMが取りあげてヒットさせてるし」(3)
「まぁ、フォークはジョーン・バエズやPPMがやっていたことであって、それ以降はボブ・ディランが変えちゃったから誰もフォークなんて言わないわけだよ。で、僕はキングストン・トリオが好きと言うよりも、ジョン・スチュワートの作家性が好きだった」(11)
「バンジョーをやっていて、才能のある人なんだよ。曲もいいけど演奏も巧い」(11)
「ジョン・スチュワートは、キングストン・トリオに入る前にロックをやってたんで、そういう感覚をグループに持ち込んだんだ。彼が入ってからは、ジョン・スチュワートと、弟のマイク・スチュワートの曲をいっぱいやるようになったんだけど、その曲作りにぼくは脱帽しちゃったわけ。ホラ、ぼくもそのころ自分で曲を作りはじめてたから。そういうことには敏感になってたしね」(3)

編注:前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』(シンコー・ミュージック/1984年)によれば、オックス・ドライヴァーズの名は、ブラザーズ・フォーの曲「オックス・ドライヴァーズ・ソング」からとられたとのこと。


1963/秋 オックス・ドライヴァーズ、芝高校の文化祭に出演。

1963 姉の友人の誘われ、オックス・ドライヴァーズとして、学生フォーク・ソング・サークル『スチューデント・フェスティバル』のコンサートに出演。

「一回きりでやめたんですけど」(13)


1964 ビートルズ「抱きしめたい」を聴く。

「たいした曲じゃないと僕は思ったんです」(9)
ビートルズを最初に知ったのは、テレビのニュー ス番組に出てきた時だったんです。こんな騒ぎがあるという、ロンドンかなんかのコンサートで、女の子達が失神しているニュースで、そういうのを見ちゃう と、何かもうシラケるんですよ。当時はそんな言葉はなかったんですけど、失神バンドじゃないかと(笑)。そんな気持ちになっちゃったんですね」(9)
「みんなが騒いでたんだけど、ぼくは騒がなかった。もちろん聴いてはいたんだけど、意地を張って認めたくなかったんだ」(6)


1964 音楽部に入部。フォーク・グループ、パンプキンズ・フォー結成。
細野晴臣(g,vo)、籾山暁美(banjo)、森谷豊一郎(g,vo)、森谷豊二郎(b,vo)
「どうしてもしっくりくる友だちがいなかったんだけど、何かやらなきゃ耐えられないでしょう。で、音楽部に入ったんだけど、マンドリン持たされて、『鈴懸の径』なんか弾かされたんで、やめるか、何かつくるかを迫られて、結局、フォーク・グループをつくっちゃった。バンジョー以外はみんなぼくが教えて、キングストン・トリオをメーンにやりました」(1)

1964 ビーチ・ボーイズ『オール・サマー・ロング』を買う。このアルバムからブライアン・ウィルソンを本格的に意識しはじめる。

「僕が最も感動していたのは、ブライアン・ウィルソンという人の才能だったんですよ。もう、尊敬しちゃってたですから」(9)
「ああいうサウンドにシビれて、そのサウンドを作る人を闇雲にカッコいいと思ってただけなんですね。最初は軽い気持ちだったのが、アルバムが出る度に追っかけていくうちに、もっともっとディープになっていくんですけどね」(9)


1964ごろ 第II期オックス・ドライヴァーズ活動開始。
細野晴臣(g)、藤井憲男(g,vo)、小笠原昭彦(b)、山田恵之助(vo,g,banjo)、永山靖恒(banjo,g)
「芝高の先輩で、バンジョーの名手がいて、その人とメンバーあわせて3人位で、2、3度やって」(13)

1965 オックス・ドライヴァーズ、学生フォーク・ソング・サークル『ジュニア・ジャンボリー』のオーディションを受ける。

麻田浩とかマイク真木なんかのモダン・フォーク・カルテットと知り合って」(6)
「アメリカにもありますけど本家が(笑)、M.F.Q.と言ってね、学生のアイドルだったんですよ、麻田さん達は」(14)
「マイク真木と重見(編注:康一)さん、三人で。四人だっけ、カルテットだもんね。大学生のスターなんですよ、キャーキャー言われて」(14)
「麻田さんがベースやってて、歌い出すとキャーキャー言われるんですよ。そういう存在だったんだ」(14)
「それで、フォークフェスティバルってのがあって、そのトップの位置に立ってたグループでね、僕たち高校生は相 手にされてなかった。大学生の文化だった。で、高校生の分際で、僕オーディションに行って、麻田さんたちが先生だったわけですよ。緊張しましたよ。麻田さ ん達の前で演奏して、OKが出れば出られると」(14)
「で、受かったんですけどね。それくらい上下関係は厳しかったです、当時は(笑)」(14)

麻田浩の証言
「僕が大学生」(14)
「へー、高校生でこんなことやってるんだって」(14)


1965/03/25 オックス・ドライヴァーズ、『ファミリー・ジャンボリー』出演。御茶ノ水/日仏会館。
オックス・ドライヴァーズ 永山靖恒(banjo, cho)、小笠原昭彦(b, cho)、藤井憲男(g,vo)、細野晴臣(g, cho)
 グリーン・バック・ダラー
 他
グリーン・バック・ダラー
「これはキングストン・トリオのカバーです。フォークです。でも、「チャンチャンチャンチャン」ってギターの刻みはフォーク・ソングではなかったね、ロックのカッティングだから」(11)

※編注:「グリーン・バック・ダラー」の一部は、CD『HOSONO BOX 1969-2000』(2000年)に収録。メンバーは『ファミリー・ジャンボリー No.2』(5月6日)時の編成を参考に推測。

1965 ビーチ・ボーイズ『トゥデイ』を買う。

「随分、惑わされたと言うか、変化を感じたわけです。それまでのビーチ・ボーイズと違う、影が出てきて。音がまず 変わってきた。相変わらず曲が良くて、ますます内向的ないい曲が出てきて、『これはもうサーフィンじゃないな』と思わせたんですね。もうサーフィンやって る場合じゃないな、という気持ちで聴いていたんです」(9)
「受け入れてましたね。なぜかと言うと、曲が良かったからですね」(9)


1965/05/06 17:30 オックス・ドライヴァーズ、『ファミリー・ジャンボリー No.2』出演。御茶ノ水/日仏会館。
オックス・ドライヴァーズ 永山靖恒(banjo)、小笠原昭彦(b)、藤井憲男(g,vo)、細野晴臣(g)
 曲目不明


1965/06/18 17:30 オックス・ドライヴァーズ、『ファミリー・ジャンボリー No.3』出演。御茶ノ水/日仏会館。
オックス・ドライヴァーズ 山田恵之助(vo,banjo)小笠原昭彦(b)、永山靖恒(g)細野晴臣(g)
 曲目不明

1965/夏 ビーチ・ボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」を聴く。

「新作が出ると必ずヒットを飛ばしてくれるんで、ラジオから最初に聴くわけですね」(9)
「『あっ、出た出た』という喜びがあるわけです。それは本当に一般的なファンの感覚ですね」(9)


1965 ボブ・ディラン『時代は変わる』を聴く。
「どこのメロディ・メーカーだろうと思ってたんですよ(笑)。すごく美しいメロディを書くソングライターだなあと思っていて」(9)
「はじめて聴いたのがバーズの『ミスター・タンブリンマン』。いい曲だなって思った。ピーター・ポール&マリーの『風に吹かれて』や、名前は忘れたけど、インストゥルメンタル・グループのやってた『ドント・シンク・トワイス』なんかも、いい曲だと思った。それから、タートルズのデビュー曲『すべてはおしまい』って曲がヒットした。これもいい曲。全部、好きだった」(6)
「あとで、それが全部ボブ・ディランの曲だって知ったんだ。それで、ボブ・ディランが気になって、友だちがアメリカから持ってきた『時代は変わる』のアルバムを聴かせてもらった」(6)
「あんまりいいんでまいっちゃった」(15)
「すごい衝撃だったんだ。ヒットしてた曲の原曲も入ってて。それはロックでもなんでもなかった。それがああなっちゃう、すごいと思ってさ」(6)
「お経みたいで(笑)。カルチャーショックがありましたね。これは何者だろうということで」(9)

1965 ボブ・ディラン『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』を買う。
「ビーチ・ボーイズもビートルズも子供に見えちゃうくらいの存在だったんですよ。僕はミーハーですから(笑)。何もかも忘れてボブ・ディランに没頭した事もあって」(9)
「ああいう声を出そうと思ってやってたワケです」(1)
「やっぱりエレキギターを持ちはじめてからですね」(9)
「エレキを持ち出した『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』を買ったんですね。引きつけられるものがあって」(9)

1965/秋 パンプキンズ・フォー、立教高校文化祭に出演。

「文化祭大賞みたいなのを受賞して、よかったよかったっていうんで、終わりにしちゃったの。解散後、評判になって、2〜3回コンサートをやりましたけど」(1)


1965 立教大学進学のため、志望学部と学科を提出。

「経済学部って書いたの。友だちがみんな経済学部って書いてたから」(3)
「でも、経済学部っていうのは狭き門で、平均点68点じゃ入れてくれないの。結局、社会学部産業関係学科ってい うところにまわされちゃったんだ。同じ社会学部でも、社会学科とかホテル観光学科っていうのもあるのね。でも、それももっと成績が良くないと行けない。産 業関係学科っていうのは、だからギリギリの成績の人が行くところなんだよ」(3)
「考えてみたら、それは学部を差別してるっていうおかしな話なんだけど、ぼくとしては大学なんてどうでもいいと思ってたから、ようするにどこでも良かったわけ」(3)


<出典>
(1)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(2)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(3)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(4)『ニューミュージック・マガジン』8月号 ニューミュージック・マガジン社/1977年
(5)NHK-FM『細野晴臣2001年音楽の旅』 2001年1月2日

(6)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(7)J-WAVE『Daisyworld』 2001年12月10日
(8)『mondo music 2001』 アスペクト/1999年
(9)『NEW RUDIE'S CLUB』vol.23 シンコー・ミュージック/1999年
(10)すみやHP『MEDIA MAX』 2000年
(11)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(12)『Esquire』1996年4月号 エスクァイア マガジン ジャパン/1996年
(13)大川俊昭・高護共編『定本はっぴいえんど』 SFC音楽出版/1986年
(14)『direct』VOL.4 ビットウェイブ/1999年
(15)『guts』No.12 集英社/1970年
update:2019/05/11

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