chronology 1954-1959
1954 私立の小学校を受験。不合格。
「受験したんですよ。さる名門校を」(1)
「面接というのがあって、僕はそれはー試験だと思わなかったの」(1)
「僕はもう落ち着かないと、脚が揺れるんですよ」(1)
「で面接の試験官の女性がね、僕に、それは何をやってんだと」(1)
「で僕はその面接を受ける前に母親から、『何か聞かれたらハキハキと、はっきり答えるのよ』と、言われてましたんで、『これは貧乏ゆすりです!』ってすーごいはっきり答えたの。もう得意だよね。誉められると思ってね」(1)
「でーなんかその後ね、落ちちゃったんですよ」(1)
1954/03 白金幼稚園を卒園。
1954/04 港区立白金小学校に入学。
「小学校に入るときはね、幼稚園のときみたいなショックっていうのはなかったよ。もう幼稚園のときに覚悟をきめちゃってたから」(2)
「いやだったっていうのは、入学式のときにね、母親に『背広を縫ったから着なさい』って言われたことだね。『背広を着てネクタイもしなさい』って言うんだけど、ネクタイなんて恥ずかしいんだよね、なんだか」(2)
「そういうものを着ること自体が恥ずかしいっていうのは、あれはなんだろうなぁ。なんかドキドキしちゃってイヤなんだよ」(2)
「でも、しょうがないから着ていったんだけど、やっぱりそんなかっこうをしているのは、ぼくひとりしかいないわけ。みんなは学童服っていうのかな、普通の制服みたいなのを着てる。あのときは、ほんとうに恥ずかしい思いをしたね。でも、実際に学校がはじまってしまえば、すごく楽しくて、小学校時代って、すごく幸せだったよ、ぼくは」(2)
「ぼくの世代っていうのはベビー・ブームじゃない、ちょうど。だから、いままでの学年はそれぞれ4〜5クラスしかなかったのに、ぼくらの学年は8クラスになっちゃっていたんだ。しかも、ひとクラスに60人くらいいたし。教室も先生もたりなかったから、午前の部のクラスと午後の部のクラスとに分かれて、二部授業という形で急場をしのぐ、なんていうこともあったよ」(2)
「そのころ、おとなの間や新聞なんかでは、スシ詰め教室とか言われて問題にもなったんだけど、実際にそういう環境にいたぼくたち自身は、たいへんだとか、そういうことはまったくわからなかったよね。本人たちは、けっこう楽しんで学校生活を送ってただけなんだから」(2)
1955/12 ピアノを習いはじめる。
「母親が非常に音楽好きで。母方の祖父が調律の先生みたいなことをやっていたり、当時有名だったらしいドイツ人のピアニストのクロイツァーという人がいたんですが、その人の日本でのマネージャーをやってたりしたらしいんです」(3)
「母方の人だから名字は細野じゃないんだ。中谷孝男っていうんだけど、どうしてピアノの調律の仕事をするようになったのかは、ぼくもよく知らないの。浜松生まれの人だから、ヤマハに関係があったのかもしれない」(2)
「おじいさんの時代にはピアノの調律をする人も少なかったんだと思うんだけど、そのせいかどうか、ピアノの権威みたいになっちゃってたの」(2)
「もうおじいさんのやりかたは過去のものになってるんだけど、一時期はピアノ工学や音響学の理論を作って、国立音楽大学で教えてたりもした人なんだ」(2)
「やっぱりそのおじいさんの影響は大きいね。ぼくは今でもピアノの調律の音って大好きなの」(2)
「母方の祖父と祖母は隣に住んでいたから、そこで調律の音を毎日毎日聴いて遊んでた。直すピアノがいっぱい置いてあってね。母親がピアノにこだわっていたらしくて、むりやりに習わされた」(3)
「いわゆる天才教育というんじゃなく、楽器に接する、というくらいのものだったけどね」(4)
「友だちはみんな、野球とか、アウトドアのスポーツをやってたわけね。そういうのに、ぼくは入れなかった。見てるだけ。家に帰ってピアノやらされてた」(4)
「それがすごくみじめだったんだ」(4)
「とにかく典型的な中産階級の家庭だったし、応接間なんかじゃなくって、トイレとリビングの間に中途半端な廊下があって、そこにピアノが置いてあっただけ。だから、お屋敷でおぼっちゃんがピアノ弾いている幼少ではないの。全然違うんだよ(笑)」(5)
「とても恥ずかしかった。ひた隠しに隠してた」(3)
「ドレミファソラシド弾けるだけで、みんなびっくりするような時代だったしね」(4)
「学校の先生なんかは、ぼくがピアノを習っていることを知っているから、『ドレミファソラシドを弾いてみなさい』とか言うんだよね。そう言われたら、やっぱり弾いちゃうでしょ。あんなのは、もう簡単だから、スムーズに弾けるよね」(2)
「そうすると、クラスのみんなはぼくがピアノをやってること知らないもんだから、『ワーッ』て歓声をあげるの」(2)
「そういうのはね、まあ悪い気はしないんだけど、快感と同時にね、やっぱり男の子がこういうことをやってるっていうのを知られるのが恥ずかしいっていうのもあるわけ。ピアノを習ってる子っていったら、圧倒的に女の子しかいなかったからね」(2)
「でもね、『バイエル』がやっと終わったら、こんどは『メトードローズ』っていうテキストになったの。この『メトードローズ』っていうのはすごくいい本で、きれいな曲がいっぱい入ってたし、大好きだったよ」(2)
「もともとポップスに関心があったからね。ピアノの教則本でも『メト・ド・ローズ』 は、ポップなフランス民謡の曲が並んでいて、いまだに好きなんだけど、そればっかり弾いていた。楽しかった。それには、ずいぶん影響されていると思う」(3)
「実を言えば、僕の持っているメロディーっていうのは、基本的には『メトードローズ』から出ているんだよ」(2)
「ほんとうに、『メトードローズ』に入ってる曲っていうのは、今でも時々弾きたくなるくらいなのね。もう、ほとんど全部暗記しちゃって、自分の楽しみのために弾いてたの」(2)
「『バイエル』はつまらなかったね。ドイツとフランスの差だな。でも正式な教育を受けていないから、譜面を初見で読むような訓練はしていないの。最初は譜面を読んで弾くんだけど。耳のほうが早いから、暗譜しちゃうわけ。だからいまだに譜面は初見ができない。絶対音感もない」(3)
「ピアノを習っていると、発表会っていうのがあるでしょ。あれが独特の雰囲気でねえ。黒い半ズボンに白いワイシャツなんか着て、小さいときはグランド・ピアノに背がとどかないから、イスを高くして、足をぶらんぶらんさせて弾いたりしたんだよ」(2)
「練習のときはちゃんとできた曲が、いざ舞台にあがると、カーッとなっちゃって、途中でつっかえそうになったり」(2)
「そういう発表会の雰囲気ってイヤだったのね。でも、あれがぼくのコンサート初体験なのかもしれないよね。僕がコンサート嫌いなのは、あの経験のおかげっていうこともあるみたいだな」(2)
「ああいう会場だと、みんなオシャレしてくるから、おとなの女の人なんかのお化粧の匂いがプーンとしてるでしょ。あれで緊張しちゃうのね」(2)
「だから、ぼくはいまでもお白粉の匂いがすると緊張しちゃうクセがとれないんだよ」(2)
1956 担任の桜沢先生に怒られる。
「映画に出てくるような二枚目の先生でね。友だちにトラホームにかかっている子がいたの。トラホームはうつると聞かされていて、親はよくいうでしょう、その子と遊ぶなとか…。で、友だちに注意したの。大きい声で『あの子と遊んじゃだめだよ、トラホームがうつるから』って。そしたら、先生に呼ばれて『人をそういうふうにいっちゃいけない」って注意された。もう、すごいショックで、でも、なんでそういっちゃいけないかよくわかったワケ。それからそういうことを、ぼく、考えるようになった」(6)
1956 アルベール・ラモリス監督の映画『白い馬』と『赤い風船』を観る。
「ずっと記憶が消えないんだ。僕の大好きな映画のひとつになっている」(3)
「『白い馬』も記憶にあるけど、『赤い風船』はやけに迫りくるものがあった。色とか。生きているんだよね、風船が。子供が非常に母性的な、あるいはアニマみたいなシンボルの風船と仲よくなるわけ。子供の後を風船がくっついて行って……。恋愛関係みたいなものだな、いま思えばね。エロティックな映画かもしれない。その風船が妬まれて悪ガキどもにパチンコでしぼまされちゃう。最後にしぼんでいくシーンが非常に不気味でね。それがつらかった記憶があって」(3)
「それが最初の強烈な映画の記憶かな」(3)
「子供にとって、赤いつやつやした大きな風船はセックス・シンボルだったのだと言い切ることができる」(7)
「風船は慕う対象のシンボルなのである。それはまたセクシーな夢にも似ている。それは理想、志、異性、母、彼岸のような慕う心の対象であり、子供なら誰でも持てる。だが大人になることによって失うかもしれない「世界」の象徴である」(7)編注:細野晴臣は「幼稚園が教育用に連れていってくれた」と回想するが、映画『赤い風船』は1956年に発表されていることから、時期をこの年と判断した。
1956/12 父が親しくしていたアメリカ兵の家でクリスマス・パーティ。
「呼ばれたんだよ」(8)
「その家には同じ歳くらいの息子がふたりいて、子ども部屋で一緒に遊んだの。僕には初めて見るおもちゃばっかりで。そのなかにミニチュアのクレーンがあって、それで実際に重いものを持ち上げられるの。気に入ってずっとそのクレーンで遊んでいたら帰るときにそこの父親が出てきて、息子に『彼にそれをあげなさい』ときつーくいうわけ」(8)
「その子が泣いちゃった。僕は日米関係の板ばさみになって、複雑な気持ちで、日本的な心情から『いいや』と思ったんだけど、そのお父さんも『貧しい日本の男の子なんだから』と譲らないの」(8)
「もらったよ。感動したよ、一応ね。でもそういうことは心に残っちゃうの」(8)
1957 徳川家の子孫にあたるクラスメートに片思い。
「なんかねえ、すごく印象にのこるようなことを誰に対してもよくやる子だったの。ぼくが、その子のことを意識してるっていうことは当然知ってたんだろうけど、ぼくにはなんだかよくわからなくてね。時代劇によく出てくる、天衣無縫っていうか、気の強いお姫様っていうイメージなんだよね」(2)
「そういう子だったから、やっぱりみんなが気にしてたんだよ。ぼくも、その子が他の子と仲良くしてたりすると、ジトーッて見てたりね」(2)
1958ごろ 杉浦茂の漫画と出会う。
「大好きだった。『面白漫画文庫』というのがあってね。『トトイケナイ』とか『レレレ』とか日常の会話が杉浦茂調になっちゃうくらい好きだった」(6)
「アミューズメント。何ともいえない気持ちだね、あれは。絵がたまらなく好きなのね。それとギャグも。絵がときたまバク臭く(編注:原文ママ)なるんだよね。別世界に入っちゃうわけ、読んでると」(6)
「『猿飛佐助』は、ほんとにすごかったよね。突然、西部劇になっちゃったり、まったく関係ない絵が出てきたり、ものすごくシュールになっちゃったりするの。あのマンガには影響されたなあ。もちろん、今でも大好きだよ」(2)
1958 『西遊記』を読んで仏に魅せられ、仏像の絵を描く。
「『猿飛佐助』に夢中だったのが、いつのまにか『西遊記』になっちゃったんだけど、『西遊記』から受けた影響っていうのがまたすごくて、『猿飛佐助』以上だったのね」(2)
「孫悟空にもあこがれたんだけど、それ以上に、お釈迦様ってすごいなあと思って、すっかりあこがれちゃったの。あのころの、ぼくにとってのアイドルになっちゃったわけ」(2)
「『釈迦物語』っていう本を読んだり、その本のさし絵に見とれてたり、ようするに恋心に近いものだったんだろうね」(2)
「仏様に、なにか母性とか父性といったものに近いものを見てたんだろうけど、でもそれは、もっと神秘的な世界にあこがれるっていう感じだったような気もするなあ」(2)
「座禅組んでみたりしてね。それも別に、親にいわれたからというんじゃなくて、そういうことに憧れていたの」(6)
「お釈迦様とか観音様が好きだったのね。辞典なんかで見るときれいな顔してるから観音様に恋しちゃったワケ。そのとき描いた絵と、昔(編注:父方の)おばあさんが描いたのと配列から何から同じだった」(6)
「家の人もびっくりしてね、大騒ぎだった。そのおばあさんの死に目には会ってるんですよ。孫の顔を見に家へ泊まりに来て、3日目に死んじゃったの。それで、ぼくの家でお葬式して棺桶のふたを石でたたいた。それをよく覚えている。因縁があるんですよ、そのおばあさんとぼくは」(6)
1958ごろ ラジオの深夜放送を聴きはじめる。
「ソニーがトランジスタ・ラジオを発明して大流行したんです。買ってきた父は野球くらいしか聴かないから、僕は深夜それを借りて聴きながら寝てたんです。補聴器みたいなイヤホンのジャックがふたつついてて、両耳で聴けたから頭のど真ん中で音がするんですよ。まずその刺激がおもしろくて、そのうち番組自体にはまっていったんです」(9)
「深夜放送にめざめたんだ。深夜放送っていっても、12時くらいまでしかやってない」(4)
「あのころは10時ごろからもう深夜だったからね」(9)
「女の人がささやくようなヤツ。あれを聴きながら寝てたわけ」(4)
「やけに色っぽくて、意味深に『あなた、まだ起きてんの』みたいに女性がささやく番組ね(笑)。子供だったんで、まいりましたよ。起きてちゃいけない時間帯に起きてるような気がして(笑)」(9)
「イヤホンをして、寝ながらラジオ聴く癖がついちゃったの。こんな遅くまで起きてていいのかなとかドキドキしながら、ひっそりと深夜放送を聴いてたワケ」(6)
「ラジオ関東の『ポート・ジョッキー』っていう番組。ケン田島がDJをやってたんだけど、あれはよく聞いていたね」(2)
「番組のテーマ曲が『ハーバー・ライト』っていうすごくいい曲で、スリー・サンズっていうインストゥルメンタルのグループが演奏してたの」(2)
「50年代当時、ムード音楽はちゃんとメイン・ストリームだったんだよ。みんながよく聴いて知っていたのはストリングスものでパーシー・フェイスとかマントヴァーニ。僕が好きだったのはメダリオン・ストリングスとフランク・プゥールセルとクレバノフ・ストリングス。ラジオでしょっちゅうかかってたね」(10)
「当時は、ラジオ関東に飛び抜けて新しめの番組が多かった。大橋巨泉が毎日出ていて『昨日の続き』という番組を聴いてました」(9)
「永六輔とか前田武彦なんかがやってた」(2)
「トーク番組で、最後に必ず『今日の話は昨日の続き、今日の続きはまた明日』って言うんだけど、おしゃべりが新鮮でおもしろかったんだよ」(2)
「で、その番組の前に『ジョー・ウィップラーズ・バンド・スタンドUSA』っていうのをやってたのね。夜の10時半くらいから始まる30分番組だったんだけど、アメリカの最新ヒット曲のテープがかかるんだ」(2)
「だから、夜は『バンド・スタンドUSA』を聞いて、『昨日の続き』を聞くでしょ。それから『ポート・ジョッキー』があって、次に『午前零時のリクエスト』っていう番組を聞くのが、ぼくの日課だったわけ」(2)
「そしたらやめられなくなって、ラジオに夢中になって、ヒット・パレードを聴き出した」(4)
「『ユア・ヒット・パレード』とか『S盤アワー』『L盤アワー』とか、ヒット・パレード・スタイルの番組がはじまってて、それもずいぶん聞いてたよ」(2)
「なにしろね、『バンド・スタンドUSA』でかかる曲っていうのは、もうホヤホヤなわけ。あの番組でぼくのポップス好きはますます本格的になっちゃったんだ」(2)
「中学校に入ったあたりから、前よりさらにのめりこむようになってたんだ。ソニーの小型テープ・レコーダー、もちろんまだカセットなんてなかったから、オープン・リールのやつを買って、ヒット曲を必ずエアチェックするようになったの。だって、中学一年生のお小遣いじゃ、とても欲しいレコード全部は買えないからね」(2)
「興奮して聴いてたのはFENですね」(9)
「聞くのは、ほとんどFENかラジオ関東って決まってたんだ」(2)
「ビルボードやキャッシュ・ボックスのトップ40を聴いてました。当時はそれさえ聴いていればポップスのすべては知ったも同然。トップ40に入らないようなポップスはそんなに面白くなかった」(11)
「FENにはね、『FENトップ・トゥエンティ』っていうのがあったんだけど、そっちのほうは曲を全部流さないで、途中で編集しちゃったり、はしょっちゃったりするわけ。『バンド・スタンドUSA』のほうは、わりとちゃんとかけてくれたんだよ」(2)
「そういうラジオ番組を通じて、ぼくはその当時ちょうど花開いてたアメリカン・ポップス・シーンにどんどん入り込んでいったのね」(2)
「ちょうどニール・セダカがデビューした頃で、『恋の片道切符』が大ヒットしていた」(4)
「ニール・セダカからはじまって、コニー・フランシス、ポール・アンカ、もちろんエルヴィス・プレスリーもいっぱい聞いてたよ」(2)
「その頃はプレスリーの出始めで『ハートブレイク・ホテル』がしょっちゅうかかっていたの」(6)
「ロックンロールが出てから、ちょっとたったころだったね。ロカビリーって呼ばれてたんだ。で、一般的にはロカビリーっていうのは不良の音楽だといわれてたから、ぼくもそうかなと思ってたんだ」(4)
「だけど、ラジオでロカビリーを聴くと、すごくいいわけ」(4)
「姉貴も好きだったから、いっしょにラジオを聴いて、いい曲が流れると、今の曲どうだった、とかいってふたりでメロディーを思い出すワケ。すごい感動してね」(6)
「日劇のウエスタン・カーニバルが始まって、山下敬二郎なんかが、プレスリー・ナンバーをよく歌ってた。でも、僕は、日本のそういうのを見たり聴いたりはしてたけれど、そんな深い影響は受けなかったみたいだね」(4)
「やっぱり、聞くのは外国の曲が多かったね。日本のっていうと、なんとなく流れてたのを聞いてはいたんだろうけど、あんまり覚えてはいないの。それでも、江利チエミの『テネシー・ワルツ』とか、伊藤久男の『イヨマンテの夜』、暁テル子の『ミネソタの卵売り』なんかは覚えてるよ」(2)
「美空ひばりはねえ、もちろんよく流れてたし、覚えてはいるんだけど、ぼくの家ではなぜかタブーだったの。聞いちゃいけなかったんだ。美空ひばりって、あのころの山の手の人たちには、あまり好まれていなかったのかもしれないね」(2)
「ぼくは、でも歌はうまい人だなあって思ってたの」(2)
「マーティン・デニーやアーサー・ライマンの『タブー』といったエキゾチック音楽の出会いもこの頃かな。けれど、子供ながらに子供の聴く音楽じゃないなとは思ってたね(笑)。何かイカガワシイというか、やっぱりニール・セダカとかの方が健全だと。でも気になった」(10)
1958 ピアノをやめる。
「中学受験でやめちゃったの」(6)
「ブルクミュラー、ツェルニー、だいたいみんなそこらへんでやめるところまでやった」(3)
「『ソナチネ』はやらないでやめちゃったんだ」(2)
「でも、今から考えてみて、あのころにイヤイヤでもピアノをやってたこと自体は良かったと思ってるよ」(2)
「ピアニストじゃないけど、ピアノが少し弾けるっていうのは、曲をつくるときなんか役に立ってる。ただ、今思えば、もっといい先生につきたかったね」(4)
「本人がもっとやる気を出せるようにしてくれたら、もっと良かったと思うけどね」(2)
1958 初めてレコードを買ってもらう。
「中島潤という人の歌ってる『僕の叔父さん』っていうレコード」(4)
「そのころからレコードを買い始めて」(4)編注:細野晴臣は「小学校4年生のとき」と回想しているが、ジャック・タチ監督の映画『ぼくの叔父さん』は1958年に公開されており、その主題歌のカヴァーである中島潤のバージョンがこれ以前に存在することは考えられないため、時期を1958年と判断した。
1959 ラジオでハンク・ウィリアムス「カウライジャ」を聴く。
「一番最初、自分で歌いたいと思った曲」(10)
「インディアンのうたで「ドン、チャチャチャ、ドン、チャチャチャ」ってリズムなの。AM放送でハンク・ウィリアムスは、当時大人気だったからね。この曲には本当に体がしびれた。体がしびれればそれが最高。しびれればそれでOKだった」(10)
「流行っていた。マイナーのインディアン・ソングみたいなの」(12)
「異質だね。変わっているよ。でも、最初に聴いたカントリーがあれだったんだ」(12)
1959 ラジオでジョニー・ホートン「ニューオルリーンズの戦い」を聴く。
「次に気に入ったのが、ジョニー・ホートンっていう異質なシンガーで、ロカビリー上がりの人」(12)
「マーチ風の軍歌みたいなのだった(笑)。早口言葉の、フォーク調のマーチ風のカントリー」(12)
「変な方がいいの。正攻法のカントリーなんて小学生には面白くない。で、アルバムで最初に買ったのが、ジョニー・ホートンの25cm盤。バラードがたくさん入っていて、変わったカントリーだよね。洒落てる。チェンバロが入っていたりね」(12)
「ジョニー・ホートンの良さって声だったんだよ。ホース・ボイス」(12)
「馬というかね(笑)」(12)
「僕の好きな男の歌手は、ホース・ボイスとしか言えないような声なんだ。カントリーはみんな鼻で歌う。鼻を通さない歌手はいい歌手じゃない。日本では"洞間声"って言葉があるけど。洞穴に響くような鼻でエコーがかかるような声。今は、『ニューオルリーンズの戦い』を聴くと、"なんでこんなもの好きだったんだろ"って思うけどね(笑)。そのころは、ジョニー・ホートンがA面で、カップリングにジョニー・キャッシュなんかが入っていた。そっちは正統派のカントリー。それを聴き込むと、どんどんそっちが好きになってきた。そういうのをコピーして歌ってきたから、僕はカントリー・シンガーだと思ってる。発声法とかコブシとか、完全にそこから来ているしね」(12)
1959 テレビの西部劇に夢中になる。
「最初は『ローン・レンジャー』とか『名犬リンティンティン』みたいな子供向けのやつをやってたんだけど、6年生のころに『ローハイド』っていうのがはじまった」(2)
「フェーヴァーさんという親分がお父さんの役割を果たす、西部劇の形を借りたホームドラマなんだけど」(8)
「すごくストーリーが複雑で、毎回必ず心理的な悩みとか葛藤があるわけ。打ち合いのシーンなんかもあんまりない。それで最後に、『さあ、いくぞ。出発!』っていって次回に続いていく」(2)
「このドラマには影響受けたよ。それでまた、テーマ曲が良かったのね。誰が作ったんだろうと思ったら、ディミトリー・ティオムキンだったの」(2)
「ディミトリー・ティオムキンていう人は、ハリウッドの有名な映画音楽作家だったから、ぼくも知ってたわけ」(2)
「あと、西部劇の大きな影響のひとつはガンブームだよ。誰でも何挺かは持っていて、拳銃をクルクル回して、ストンとガン・ベルトに落とすのが流行った」(8)
「津々浦々でやっていたよね。それまではチャンバラだけど、刀が古くなって拳銃のコルト45を買い出したわけだな」(8)
1959 西部劇をきっかけにカントリー&ウエスタンを聴きはじめる。
「最初に自分で買ったLPは『テレビ映画主題曲集』っていうやつ」(2)
「カントリー&ウエスタンていうのが大好きになって、ずいぶん意識的に聞くようになったんだ。『ブロンコ』とか、『ボナンザ』とか、『マーベリック』とか、テレビのウエスタン番組の主題曲も全部集めたしね」(2)
「そのころはラジオのヒット・パレードでもカントリー&ウエスタンの曲が多かったんだよ。マーティ・ロビンスの『ホワイト・スポーツコート』とか、ヒット曲がたくさんあって、もうワクワクして聞いてたもの」(2)
「『ローハイド』のレコードを買ったら、B面にマーティ・ロビンスの『エル・パソ』っていう曲が入ってて、すごくうれしかったのを覚えてるんだ。というのも『エル・パソ』っていうのは、当時全米第1位になった最新ヒット曲だったの」(2)
「もちろん『ローハイド』とはまったく関係ないんだよ。『ローハイド』のほうはフランキー・レインていう、これまたカントリーの大スターが歌ってるんだ。日本でこういうカップリングにしたんだろうけど、豪華なレコードだったわけ」(2)
「ロカビリーっていうのも、ぼくはテレビで見たの。だって、当時のぼくから見たら、ロカビリーっていうのは大人の世界の出来事だったから。もちろん見に行くなんていうこともなかったし」(2)
「で、テレビで見てると、ほとんどカントリー&ウエスタンをやってるんだよね。その中にときどき、エルヴィス・プレスリーとか、ジーン・ヴィンセントの曲が混じってるの。プレスリーもジーン・ヴィンセントもカントリー出身のシンガーだから、すごく理にかなってるんだけどね。とにかく、ぼくはプレスリーっていうのを、その番組を通じて知ったんだ」(2)
1959ごろ 音楽体験が一気にひろがる。
「そのころ、姉が中学生から高校生になっていて、その友だちに音楽好きの人が多かったの。そっちのほうからも、音楽の情報がドーッと入ってきたんだよね」(2)
「だから、この前後で音楽に関する情報が一気に増えちゃったのね。テレビを見ても、ラジオを聞いても新しい音楽が入ってくる。もう何を聞いても新鮮だったわけ。今まで聞いてた、家にあったレコードとは違うビートでね。もうワクワクしちゃうの」(2)
「テレビのショー番組っていうのも大きかったんだよ。『ペリー・コモ・ショー』っていうのがあって、ダンスが必ず出てくるの。ジーン・ケリーが出たりしてね、もうホレボレして見てたもの」(2)
「『ペリー・コモ・ショー』の影響でね、日本でも『光子の窓』とか、『スタジオ・ナンバーワン』とか、『シャボン玉ホリデー』なんていうバラエティ・ショー番組が作られるようになったわけ。もちろん、そういう番組もよく見てたよ」(2)
1959 静岡県国府津に修学旅行。
<出典>
(1)J-WAVE『Daisyworld』 2002年3月18日
(2)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(3)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(4)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(5)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(6)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(7)細野晴臣『地平線の階段』 徳間文庫/1985年
(8)『GQ Japan』2000年6月号 嶋中書店/2000年
(9)『FM fan』NO.26 共同通信社/2001年
(10)『mondo music』 リブロポート/1995年
(11)『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1968-1980』 音楽出版社/1999年
(12)『mondo music 2001』 アスペクト/1999年