chronology 1947-1953
1947/07/09 東京都港区白金に生まれる。姉ひとりの長男。蟹座。A型。
「白金台町というまあまあいい町で」(1)
「すごい下町っぽいところなの、台町はね。三光町へ行くと住宅地で、台町というのは商店街の人たちが住んでたりね。なかなか下町情緒があった」(1)
「父方は新潟から来たけど、母方の方はだいたい江戸っ子。だから『あんたは江戸っ子の端くれだ』と。芝で生まれて神田で育つのが江戸っ子だって言われていた時代なんだけど、とりあえずは芝で生まれた(笑)。本当の芝はもっと下の方なんだけど。芝の端くれに生まれた」(1)
「お父さんは会社員。お母さんは普通のお母さん」(2)
「たいして金持ちじゃない。中産階級」(1)
「うちはねぇ…なぁんだろ、サザエさん一家に近いですよ。あのーなんて言うんだろう、典型的な、中産、階級の中の下みたいな」(3)
「ですから、のびのびしてましたね。うん。決してこう厳しい人がひとりいて、そういう、虐げられたとか、ないですよ」(3)
1947 百日咳にかかる。
「三日間寝込んだらしいんですよ。生まれたばかりで」(4)
「お乳の出が悪くて。ほんとかなぁ(笑)」(4)
1948 最初の記憶。
「いちばん古いのは、ウンコした記憶」(5)
「ぼくが覚えているのはなんだか薄暗い日本間で、丸い大きなテーブルがあるワケ。和風の。それが、やけにでっか いんだよね。ぼくは、ハイハイしていって、そのテーブルに手をかけて立ち上がる。ヨイショとうなって力むワケ。そして、ウンコしちゃう。そうすると母親が 『あっ、ウンコしちゃった』とかいいながら、抱きかかえてくれる。なんで、こんなことを覚えているのか、よくわからないんだけど……。1歳のころだね」(5)
1950/夏 両親・姉と千葉県興津で海水浴。初めて海を見る。
※編注:このときのスナップはYMO写真集『SEALED』(小学館/1984年)で見ることができる。
1950ごろ 引越を経験。
「すぐ近所へ移ったからね。家族総出でリヤカーを引っぱってね。ぼくは荷台に乗っかって。うれしかったんだよね、あのときは。まだ馬が歩いてた頃だから、馬糞があちこちに落ちてるの」(5)
1950ごろ レコードを聴きはじめる。
「3歳。3歳でしょうね」(3)
「しょっちゅうひとりだったね。友だちとなじめなかったんだ、怖くて。対人恐怖症!でも、ずいぶんかわいかったらしいよ(笑)。赤いチャンチャンコ着せられて、髪がロング・ヘアだったから、よく女の子に間違えられたんだって」(5)
「ぼくはお姉さんの友だちとは遊んだんだけど……あのころは原っぱっていうのがいっぱいあって、みんなそこで遊 んでいるワケ。近所のお兄さんたちが野球したりね。でも、そういう人たちが怖かったの。結局は仲間に入り込めず、見ているだけだった。で、すぐ家へ帰っ ちゃって、ひとりで遊んでいたね」(5)
「小さいころから、絵を書くのが好きだったし」(5)
「ぼくの音楽的環境っていっても、たいしたことないんだけど、レコードだけは豊富にあったよ」(6)
「道を隔てた向かい側に映画会社の秘書をやっていた親戚が住んでたんだ。そこにいろんな輸入盤が全部あるわけだよ。もう、毎日行ってプレーヤーをじっと見ていたね。で、自宅の隣にはおじいさんの家があって、そこには電気蓄音機があった」(7)
「そこの息子、ぼくのお袋の弟だけど、彼が音楽好きで、と言うより、お袋の兄弟はみんな音楽好きで、SPレコードをたくさん持っていたの」(5)
「とにかく蓄音機がとても興味の湧く機械で、まず匂いがいい(笑)」(8)
「プレイヤーも木製で、家具みたいな匂いがするの」(9)
「すごく立派でいい音がしてたよ」(10)
「そこでも毎日音楽を聴いていた」(7)
「自分の家にはプレーヤーはないんだよ。5年くらいそんな生活をしていた」(7)
「母親にね、あのー……曲名がなんだかわかんないから、『あのタイコのレコードかけて』、とかなんか、おねだりしてました」(10)
「タイコがドンドコドンドコ鳴る(笑)」(11)
「今考えてみると、それ、ブギウギのビッグ・バンドだったんだ」(6)
「ジャズですね。ブギウギ。たぶんね、ジーン・クルーパ、っていうドラマーがいたんですよ。彼のバンドの、なんか、こう、タテノリのブギウギ。僕はそれをね、『タイコのレコード』って呼んでたんですよ。タイコがドッドドドッドドって鳴るんでね」(3)
「ブギウギですねぇ。一番、好きだったのは」(3)
「そのころは、やっぱりリズムに反応してたよね。ブギウギのレコードなんか聞くと、思わずワクワクして体が動き出しちゃったもの。まあ、体操みたいなものだよね」(10)
「常時あったのが箱に30枚ぐらいかな」(1)
「たしか、最初のころは母かおじさんがレコードをかけてくれてたんだと思うけど」(10)
「それを、ぼくは、自分でかけて音を出すことを覚えて……それからだね、音楽を好きになり始めたのは」(5)
「気がついたときには自分でレコードをかけてた」(6)
「かけるのがだいたい決まっていたSP盤は3、4枚。一所懸命に聴いていたな。まず、蓄音機のメカニズムに非常 に興味をそそられてね。アームを動かすと回転するわけでしょう。あんな面白いものはないからね。絶対割っちゃだめだって言われて、盤をそーっと置く。針は 一回一回切らなきゃだめ。竹針」(1)
「その竹針の切り方を覚えて、一日中レコードを聴いていた」(5)
「それがまた楽しい。針をそーっと置くでしょう。そうすると音が出て来るんだから、こんな面白いものはなかった。他のものは興味なくなっちゃう」(1)
「子供にとってはすごいオモチャなんだよ、蓄音機って。いろいろ動くっていうのもおもしろいし」(10)
「だから、どちらかといえば、はじめはおもしろいオモチャとして蓄音機に接してたんだよ。ぼくがさわっても、家の人にはおこられなかったから」(10)
「落語、エンタツ・アチャコ、軍艦行進曲なんかがごった煮でいろいろあったんですけど、その中にボブ・ホープ、それからディズニーの『三匹の子豚』『白雪姫』のジャズがあったんです。それが気に入って飛び跳ねて踊ってたんですよ、楽しくて、楽しくて」(8)
「よく聴いたのは、落語、軍歌、歌謡曲、あきれたぼういず……。 それと同じぐらいに、祖母の妹が映画会社にいたから、映画音楽がいっぱいあった。母親の時代って洋画全盛期だから。つまり今の50代、60代の人たちは、 娘時代、日劇や帝劇で並んで観たんだよね、ハリウッド製のミュージカルを。あるいはドイツ映画を観たり。だからその時代の主題歌を彼女たちは愛聴していた わけで、それがうちにはあった」(1)
「映画音楽。それからー、古いジャズ。それからー、なぁんだろうあれ、えーディアナ・ダービンっていう若い、かわいい女の子が、歌ってるハリウッド映画の音楽(編注:「太陽の雨が降る」「乾杯の歌」)とかね」(11)
「SP盤の真ん中にその、彼女のディアナ・ダービンの写真が貼ってあって、えー回転するとクルクル回る。で音をかけ ると、小鳥のような声で、さえずる(笑)。でバッキングがすごく、陽気で、ジャジー、ジャズのような、シンコペーションがあって、もう夢見心地の音楽だっ たんです、僕にとって」(12)
「そういうのを、面白くて聴いてたんです」(11)
「古川緑波とか、漫才みたいなのも聴きましたよ」(5)
「友だちの女の子を呼んできて」(6)
「隣のミヨちゃんみたいな子がいてね。1歳上だったんだけど、その子だけは友だちだった。橋本元運輸大臣の孫でね。それで、ブギ・ウギとかフレディ・マーチンなんかかけて、ソファの上で一日中とびはねていた」(5)
「女の子が遊びに来るとレコードをかけてたっていうのは、やっぱりね、もてなさなくっちゃいけないっていう、社交的な意識があったんだろうね。社交には音楽がつきものだっていうことは、なんとなくわかってたから」(10)
「4、5歳のころだ」(6)
「そんなころ、手拍子をとったり飛びはねていたのが、ぼくのいちばん最初の音楽との出会いというわけなんだ」(6)
1951/11/15 七五三のお祝。
※編注:このときの記念写真はYMO写真集『SEALED』(小学館/1984年)で見ることができる。
1951/12 自宅縁側で、祖母、愛猫と記念撮影。
「ボクがものごころのついた時、すでに猫は家に居ました。その猫の名前は忘れてしまいました が、在来の三毛猫でした。でも、そいつはすぐに消えてしまったのです。家出しちゃったんです。だから、写真で覚えているだけなのです。ぼくがその猫を抱い て日向ぼっこをしている写真なんですが、まるでボクが首を締めているように写っているらしくて……本当はそんなことはしてなかったんです。ただ可愛くて、 可愛くて、可愛がっていただけなんです」(13)※編注:この写真と思われるスナップはYMO写真集『SEALED』(小学館/1984年)で見ることができる。
1952/04 白金幼稚園に入園。
「幼稚園入る前の一日、なんてすごい記憶にあるけど………。あの日はね、非常にうららかな日和 でね(笑)、花が咲いててね、なんかほのぼのと暖かくてね。で、幼稚園入る前ってみんな朝から晩まで遊んでたわけでしょう?何の義務もないわけ。そういう 生活が明日からなくなる、と思うと恐怖だったね。だからその幼稚園から小学校、中学、高校、大学とこう、もう決められちゃってるわけでしょう?なんか、そ の階段あがんなきゃなんない、みたいな恐怖感があった。すごく」(14)
「幼稚園に入ると、競争が始まるわけだよね。受験とか、戦争がある。そんなことを肌で感じていやになっちゃったわけ、入園の前の日。これで平和な毎日とはお別れだと」(15)
「きっと、明日からは社会に入っていくっていう緊張感があったんだね。幼稚園に入って、それから小学校に入っ て、っていうふうにどんどん考えていくと気が遠くなっちゃうわけ。ああ、もう幼稚園に入ったら、この先は止まらないんだ、平和で自由な時間はこれで終わり なんだって思うと、もういやでいやでたまらなかったの」(10)
「ぼくは集団っていうのが怖かったんだよ。その頃、原っぱなんかで野球しているのを見かけると、集団のパワーみ たいなものを感じて怖かったもの。そういう怖い外の世界に出ていかなくちゃいけない。そして、そういう毎日が大人になるまで続くんだと思うと、ほんとにい やでしょうがなかった」(10)
「それでも、もうここまで育っちゃったんだからしかたがないんだと思って、自分の中でひとつの区切りをつけたんだ。あのときに、なんか覚悟しちゃったという感じなのね」(10)
「あの日が、ぼくにとってはいちばん大事な日なの。普段は忘れているんだけど、今でもね、ひまになるとあの時と同じような気持ちになれることがあるんだ」(10)
「やっぱり神経は細かったみたい。とくに時間に遅れたりするのがすごく怖かったの」(10)
「あのころはね、遅刻しそうになってあわてて走っていって、転んで泣いちゃうなんてこともあったけど、どうして遅刻しそうになったのかなあ。あまり思い出せないんだ」(10)
「家は時間どおりにちゃんと出てるんだよ。でもね、幼稚園に行くまでの道のりが、結構楽しかったんだよね」(10)
「やたらと蝶々が飛んでたという記憶があるなあ。今はもう、白金から目黒のほうっていうと、家がギッシリ建てこ んでたりするけど、あのころは東京っていっても田舎だったんだよ。もう、そこいらじゅう草ぼうぼう。ペンペン草だのネコジャラシだの、いろんな草が生えて たからね」(10)
「で、ぼくはそういう草っぱらのジャリ道をきょろきょろしながら歩いてくのね。今でも幼稚園の子供がかぶってる ツバの広いまるい帽子があるでしょ、あれをかぶってて、蝶々が飛んでくるとその帽子でパッてつかまえたり。それから、坂道が多かったから、ツルッてすべっ て転んだり。そんなことをしてたから遅刻しちゃいそうになったんだろうね、きっと」(10)
1952/夏 二泊三日の林間学校。
「たしか武蔵小金井に行ったの。宿泊施設みたいなものがあったんだろうね、きっと。でも、考えてみたら、幼稚園で林間学校があるっていうのは、あのころでもめずらしいかもしれない。たぶん、進歩的な教育方針を持った幼稚園だったんだろうね、今思うと」(10)
「この林間学校で集団生活が怖くなくなっちゃった。集団生活のコツがわかったのかもしれないけど、それからは元気になっちゃったんだ」(10)
1953 いわゆる初恋。
「清水さんという女の子にプラトニックラブ。子供心に"この胸さわぎはなんだ"と考える」(16)
「よくおぼえている。いつも、つい、見ちゃうのだった」(17)
<出典>
(1)北中正和編『細野晴臣 THE ENDLESS TALKING』 筑摩書房/1992年
(2)野上眞宏写真集『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』 ブルース・インターアクションズ/2002年
(3)NHK教育『いつも、新しい音を探している』 2000年
(4)J-WAVE『Daisyworld』 2002年3月18日
(5)YMO写真集『OMIYAGE』 小学館/1981年
(6)細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』 徳間文庫/1984年
(7)CD『HOSONO BOX 1969-2000』同梱ブックレット リワインドレコーディングス,デイジーワールド/2000年
(8)シリーズ20世紀の記憶『かい人21面相の時代』 毎日新聞社/2000年
(9)BS朝日『GREAT+FULL』 2001年
(10)前田祥丈編『音楽王 細野晴臣物語』 シンコー・ミュージック/1984年
(11)NHK-FM『細野晴臣2001年音楽の旅』 2001年
(12)J-WAVE『Daisyworld』 1998年7月27日
(13)細野晴臣・羽仁未央・遠藤賢司『ネコの日』 八曜社/1985年
(14)『ロッキング・オン』9月号 ロッキング・オン/1985年
(15)『unfinished』1 code/2000年
(16)YMOカセットブック『テクノポリス』 富士フィルム/1980年
(17)『YMO BOOK』 学習研究社/1983年