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吹奏楽のための交響詩  ぐるりよざ

GLORIOSA (Gururiyoza)  Symphonic Poem for Band

第1楽章「祈り」音楽之友社  菊倍箱入  17,000円
第2楽章「唄」・第3楽章「祭り」 音楽之友社  菊倍箱入  17,000円
小田野宏之指揮、東京佼成ウインドオーケストラによる演奏のCD付き
(我々が買ったときCDなんてついてこなかったぞ、音楽之友社さん。)



 まず最初に、皆川達夫立教大学教授による執念の調査結果と、作曲者の日記により、「ぐるりよざ」が生まれることになった背景を見てみよう。


朝日新聞の記事

1988年12月9日
オラショ、スペインに原典
長崎・生月島 隠れキリシタンの祈り

 こんな見出しで始まる記事が朝日新聞に載っていた。 長崎県・生月島(いきつきしま)の隠れキリシタンの人たちが唱えるオラショ(祈り)は、16世紀のスペイン・グラナダ地方で歌われたグレゴリオ聖歌だったということを、13年間の執念の研究で、皆川達夫立教大学教授(当時62歳)が突き止めた。

  生月島では、島民人口の約2割に当たる隠れキリシタンが、1500年代に伝えられたキリスト教の信仰を守り続けている。 彼らは信仰の発覚を防ぐため、1年のうち限られた時期に布団をかぶって口伝えで教えている。 水につかったり、まきの上に正座したりして覚えるということも昔は行われていたらしい。

 皆川氏がオラショに出合ったのは1975年。 三つの集落でテープに収めさせてもらい、全文をラテン語歌に復元することが出来た。 そしてそれは下の表のように、なまりがはげしいものの、かなりしっかりと伝えられていた。
 中世ヨーロッパの音楽史が専門の皆川氏は、どこかに元の歌と楽譜があるに違いないと確信し、イタリアのバチカン、フランス、ドイツなど、4年をかけて各地の図書館を調べ歩いた。
 さらに3年をかけて、今度はスペインを回ることにした。 マドリードの国立図書館で、ある行列聖歌集を手にしたとき、全身の震えが止まらなくなったそうな。 そう、紛れもなく、そこに 原典 があった。

 これらの聖歌は16世紀の当時、スペインやポルトガルの田舎で歌われていたもので、今ではもう廃れてしまったらしい。
 そして、世代をこえて歌いつがれた生月島のオラショの節まわしが、いかにも日本的な小節(こぶし)などで御詠歌や念仏のような響きに変わりながらも、原典の聖歌と同じ音の上下動をしのばせていることを皆川氏は発見した。 最後に氏の言葉で締めくくろう。

 「これはもう奇跡です。 発覚したら殺されてしまう弾圧の極限状況のなかでしょう。 人間の信仰の強さに、改めて感嘆しました。 ひたすら唱え、歌って、ぎりぎり自分たちを支えたのでしょうか」


原典とオラショ

O gloriosa Domina excelsa supra sidera
(オー グロリオーザ ドミナ エクセルサ スーペラ シーデラ
A集落 ぐるりよーざ どーみの いきせんさ すんでら しーでら
B集落 グロリオーザ ドーミノ エクセンサ スンペラ シーデラ
C集落 うぐりよざ どーみの いきしょしょー しーでら しーでら
qui te creavit provide lactasti sacro ubere
クィ テ クレアヴィト プローヴィデ ラクタスティ サクロ ウーベレ)
きてや きゃんべ ぐるーりで らだすて さあくら おーべり
キテ キャンペ グルリデ ラタステ エサクラ オーベリ
きけ くろやんで ほろびで らたーちり さくら おーびして



「ぐるりよざ」作曲記 (抜粋)

1989年4月×日
 抒情的「祭」の委嘱者である岩下章二氏から電話がかかってきた。 岩下氏は大湊から佐世保の海上自衛隊に移っていて、また曲を作ってほしいという。

1989年5月×日
 「最近話題になっている佐賀県の吉野ヶ里古墳のイメージで、三楽章くらいの曲が書けないものだろうか。 私は吉野ヶ里に、龍笛の音が似合うような気がする。 二楽章あたりに使ってみたらどうだろうか。」 承諾してから困った。 今回も民謡を使った作品にしようと思ったのに、いきなり吉野ヶ里ときた。
 ふと気がついた。 長崎は外国の文化がいち早く上陸した土地だ。 鎖国の時代にも長崎だけは外国との交流があったはずだ。
 調べていくうちに、おもしろいことに出会った。 日本に伝来したキリスト教は、禁教令の後は、密かに次の世代に伝えられた。 そうなると、次第に歪曲していくのは致し方ない。 マリア様がいつの間にか「マリア観音」と呼ばれ、日本の古くからの宗教とごちゃ混ぜになっていってしまった。 音楽もそうである。 祈り(Oratio)の際にはグレゴリオ聖歌などが使われたらしいが、次第に転訛してしまった。 一般に「オラショ」と呼ばれている。

1989年12月×日
 本格的に作曲の着手。  第一楽章は、聖歌をもとにしてシャコンヌ風に十三回繰り返そうと計画した。 この数字はキリストの受難の象徴である。 このような例はバッハによく見られる。
 グレゴリオ聖歌のような単旋律の音楽に、西洋では新たな声部を付け加えて発展してきた。 一方、その単旋律の音楽が日本に入ってくると、その旋律そのものに装飾を加え、ヘテロフォニー的に変化した。

1990年1月×日
 さて第二楽章「唄(Cantus)」のための素材は、キリシタンにいつからともなく歌い継がれてきた「さんじゅあん様のうた」。 「また来る春はな、蕾ひらくる花であるぞやなあ」とか、「あー参ろうやな、参ろうやなあ。 パライゾの寺にぞ参ろうやなあ」と歌われる特異な歌詞は、きく者の心をとらえて離さない。 メロディーも、日本の民謡とはひと味違った趣がある。 見事な歌である。

1990年1月×日
 第三楽章は「祭り(Dies Festus)」。 対馬蒙古太鼓のリズムにのって、「長崎ぶらぶら節」が現れる。 これは、「長崎くんち」で必ずきかれる有名な民謡だそうである。
 この民謡と聖歌(第一楽章)とを、モティーフ的に統一を図るために若干変形させた。

1990年2月1日
 全曲完成。 約20分を要する曲となった。

1990年2月15日
 初演に立ち会うために、佐世保へと向かうことになった。

1990年2月16日
 岩下章二氏指揮・海上自衛隊佐世保音楽隊により、佐世保市民会館にて初演。
 大成功だった。

1990年2月17日
 平戸へ出かけた。 いままで調べたことを、この目で確かめておきたかったのである。 途中にキリシタン資料館があり、立ち寄った。 すぐ脇は根獅子(ねじこ)の浜だった。 かつて、この浜で何人ものキリシタンが処刑され、海までが血で赤く染まったときく。
 が、私の目の前に広がっていた海は青く、穏やかだった。 快晴で、とても碧い空が眼前に広がっていた。 辺りは全く物音すらない。 それは、あまりに平和だった。 全く何事もなかったかのようである。
 ふと、「さんじゅあん様のうた」が頭に浮かんだ。 思わず涙を禁じ得なかった。



 
   第一楽章   祈り (Oratio)最初は分冊にする予定だったけど、

第一楽章から第三楽章まで

まとめて こちら からどうぞ。
   第二楽章   唄  (Cantus)
   第三楽章   祭り (Dies Festus)  
   第四楽章   自分勝手な思い


演奏に際して − 作曲者から

 この曲をコンクールで演奏する際、時間制限のため、抜粋して演奏せざるを得ない。 第一楽章や第三楽章のみを独立させて演奏することも可能であるが、次に示すカットの方法を私は特に推奨する。 ただしこれは、あくまでもコンクールのための暫定的な抜粋にすぎない。 機会があれば、なるべく全曲を演奏してほしい。

参考文献:  朝日新聞  1988年12月9日
バンドジャーナル別冊 ザ・シンフォニックバンド Vol.4  音楽之友社 1991年6月