もちろん第四楽章ってえのは、あるわけがない。
この曲で浮かんだ強いイメージは5年たった今でも消えることがない。
この強いイメージが消えてしまう前に書き残そうと考えたわけでもない。
すでに当時、団員の前で、この曲に対する自分勝手な思いを吐き出した。
でも、もう一度吐き出したくなったんだ・・・
この曲に対する自分なりのイメージができてから、この曲を取り上げた定期演奏会の2週間後に至るまで、いったいどれだけの期間になるんだろう・・・
1994年の6月25日、第24回定期演奏会で客員指揮者の菅原先生にこの曲、全曲を振っていただいた。
そしてその前年の12月、北見市内の(小学生から一般まで)全バンドが集まってクリスマス時期に行う「サヨナラ・コンサート」において、作曲者の指定するカットにより演奏した。
このサヨナラ・コンサートの後、年末・年始にかけて集中的にカットしてしまった部分を分析していた記憶がある。
だから、2月に入ったころからかなぁ、自分なりのイメージができあがってきたのは。
前フリが、かなり長くなってしまった。
要はこの期間の半年近く、ほとんど毎日、夢を見ていたのである。
この頃の私は夜、床につき、静かな気持ちになると、同じ夢を見ていた。
夢? そう。 いや、むろん眠りについたあとの本当の夢ではない。
夢と言うよりも、映画を見ていた。
心を落ち着かせ、「祈り」の導入部を頭の中で鳴らしてみる。
すると、自分の銀幕の中に、スペインの朝の風景が映り出すのであった・・・
いったい、いつまでエッセイ風の書き方を続けていくのかね?
伊藤氏は「作曲記」の中で、こう記している。
「交響詩」という名前を用いることにしたが、特にストーリーをもたせなかった。
確かに、各楽章に付されたタイトルは内容を暗示する。
しかし、そのために変に感傷的になったりすることだけは避けてもらいたい。
しかし、最後には、こうも書いてある。
ふと、「さんじゅあん様のうた」が頭に浮かんだ。
思わず涙を禁じ得なかった。
私は当然のごとく、後者の方です。
だって、のめり込んでしまったんだもん。
キリシタンへの弾圧は強くなり、村にやってくる役人たちの足音が大きくなってきた。だが、今回はうまく逃れることができた。
ほんの一瞬の安らぎが訪れる。
しかし、不安感をぬぐい去ることはできない。
つかの間の休息のときに追っ手たちのかけ声が聞こえる。
やがて隠れキリシタンたちは見つかり、磔刑にされる。
そして断末魔の叫び・・・
すべてが無に帰してしまった。
そこに見えるのは、風に舞う砂埃と、屍のみだった。
皺だらけの老婆が見える。
家族全員を殺されたのだろうか。
あきらめたようにも、祈っているようにも見える。
周りをはばかるように小さく口を開け、そこから地声(じごえ)が聞こえてくる。
死者の弔いに御詠歌を詠っていると思ったが、近くによってみると、聞こえてきたのは「さんじゅあん様のうた」だった。
「また来る春はな、蕾ひらくる花であるぞやなあ」
「あー参ろうやな、参ろうやなあ。
パライゾの寺にぞ参ろうやなあ」
そして突然、死者への思いを断ち切るように魚板の乾いた音が鳴り、
画面が切り替わる。
一人が椅子に腰掛けていた。
その顔には安らぎの表情があった。
もう一楽章のような、不安感の残る安らぎではない。
ゆっくりと、安心感に満ちた音楽が流れていく。
彼は町の様子を見ようと窓辺へ寄った。
開け放した窓の外から、明るい日差しと、祭りの騒音とともに「長崎ぶらぶら節」が入り込んできた。
そして、その旋律の底には、力強い「グレゴリオ聖歌」がゆったりと流れている。