映画コラム



  1. 「評論家」

  2. 日本で一番有名な(だった)評論家といえば故淀川長治氏だろう。 ファンだったので、アテネフランセとかで講演会があるとよく聴きに行っていた。 あの人は、他の評論家とは全然違う。 好きな作品の話になると、蓮実氏なんかだといろいろ分析を始めるところだけど、 淀川さんの場合ファーストシーンからずーーーーーーーーーーっと、 観たまんま話し始める(全部覚えてんだよ、これが)。 淀川さんの「好き」には根拠がないんだ。一直線に、先ず、好きなんだ。 もう、映画というものを心の底から愛して愛して愛してしまっていた。 「愛」なんてちょっとクサい気もするが、もう、それ以外に表現のしようがない。 それだけに、ダメとなると滅茶苦茶きついんだが。

    「今日は何日ですか?今日という日は、今日1日しかないんですよ。 明日という日も1日しかないんですよ。1日1日、大事に生きましょうね。・・・」
    -----淀川さんがいつも講演の最初に言っていたこと-----


    評論(批評)というのは、 読む者にいたずらに先入観を植え付けようとするものではなく、 作品の世界への理解を深め、視野を拡げることを促すようなものであり、 肯定的に語られるのであれば、 制作者すら気付かない新しい価値を作品の中に見つけだし、 作品自体の世界をより膨らませるようなものであり、 批判的に語られるのであれば、 制作者の隠そうとしている欺瞞・怠慢を暴き、 質的によりよい作品が制作されることを促すようなものであると、 いいのかなぁと思う。

    自分の感想を吐露しているだけの「感想家」に振り回されてはいけない。 多くの「感想家」と違う感想を抱いたからといって、 自分の評価を曲げることはない。 映画史に残るような名作が、自分にとって重要な作品であるとは限らない。




    ・・・と、自分に言い聞かせてみる。


  3. 「基準」

  4. 年に一本しか観ないなんて人は、 そもそも映画にさほど興味があるわけではないだろうからいいとして、 これから映画の世界に深く分け入っていきたいと 思っているような奇特な人は、 何を基準に映画を選んでいけばいいんだろうか。 自分の基準で映画を選びたい、とは言っても、 かなりの本数観ないと本当の「基準」なんてできてこない。

    評論家のお薦め通りに新作ばかり観ていくのもいいけど、 ハリウッド以外の旧作となるとなかなか評論自体に出会えない。 ってことは、やっぱり「手当たり次第」しかない。

    とりあえず、50本(週1本で1年間)を目標にがんばってみよう。 その50本の基準は、各種映画祭の受賞作でも、友達のお薦めでも、何でもいい。 とにかく数を観て経験を積むことが大事。 普通なら、この時点ですでにかなり映画ヲタとも言えるんだろうが、 真の映画ヲタを目指すならここからが本番。

    50本も観れば自分の好みの傾向、即ち「自分の基準」ってもんが出来てくる。 そしたら、気に入った映画の出演者じゃなくて「監督」に注目する。 多くの場合、作品の質を決めるのは「監督」だからだ。 んで、その気に入った監督の作品を手当たり次第に見てみる。 ついでに、それらの映画のパンフだの、監督の著作物なんかも読み散らしてみる。 そうすると、その監督の好きな監督とか作品とかがちらちら見つかってくる。

    今度はその周辺を観散らかして、さらにまたその周辺を・・・ ってな感じで、気がつけば年間100本ペースに。


    はい、映画ヲタ一丁できあがり。



    私?10年程前は年間300本でしたよ。 今は50本ペースだけど。


    得意げに本数語ってるとこが、いかにもヲタっぽい。


  5. 「3つの視点」

  6. 映画を観る視点には3つのレヴェルがあるそうな。


    1つ目は「観客」の視点。

    主観的に、面白いかどうか、好きかどうかを観る。 主にストーリー(原作)とか出演者に注目するってことかな。 感動的なストーリー云々とか、ブラピすてきーとかってのは、 このレヴェルってことね。 作品の一般的な評価を決めるのはここなんだけど、 それだけじゃぁ、映画の味わい方としてはちょっともの足りない気がする。 ストーリーがいいってんなら原作の方が面白いだろうし、 ブラピが好きってんならテレビでもブロマイドでもいいだろう。 映画にしか出ないスターもいるからしょうがないこともあるけど。


    2つ目は「評論家」の視点。

    客観的に、作品の価値を観る。 映画史的な流れの中での作品の価値とか、 画面の深層の意味とかを探っていく。 まぁ、価値はなくとも面白い作品はたくさんあるんで、 プロの方でもなければ気にすることはないでしょう。 私もあまり気にしない。


    3つ目は「作家」の視点。

    それらの主観と客観を作り出している作品、それ自体を構成する要素を観る。 監督の視点、脚本家の視点、キャメラマンの視点、美術の視点、 出演者の視点等々数限りなくあるが、 その作品の作り手たちが何を意図してそうしたか、 どのようにしてその画面を作り出したか、何が成功して何に失敗したか、 自分ならどうするか、なんてことを考える。 この見方は、実際に映画の制作に関与していなくても面白い。 全然面白くないはずだった作品が キャメラだけは面白い、なんてことはよくある話。



    いろんな視点で見ていくと、 それぞれに新たな面白い発見があったりする。 そんなわけで、気に入った映画は最低3回は観なきゃならない。 最初から作品の価値とか作り方とかに注目してたら、 感情的に入り込めないもんね。 そんでなんか引っかかるものを感じたら、 なんでそう感じたかを考えながら見直してみる。 逆に、どーにもつまらん作品に当たっちゃったときも、 なんでこんなにつまらないのかを考えながら観てると、 退屈せずに済む。

    しかしこれは映画に限ったことじゃないですな。


  7. 「スクリーン vs. ビデオ」

  8. 映画を観る、というとビデオ屋に行く人がいる。

    いいよ、ビデオも。 安いし。タバコ吸えるし。 途中でトイレ行けるし。 一緒にエロビ借りられるし。 女の子連れ込む口実に使えるし。 そのまま盛り上がって×××・・・。

    でもね、ビデオとスクリーンは別物。 画面と音の大きさってことももちろんある。 でもそれならプロジェクターとかヘッドフォンとか ある程度補いようもあるだろう。

    問題はそんなとこじゃない。 ビデオってのは、絶対的にキレイじゃないんだ。

    それはつまり、ノイズの質が全く違うってこと。 フィルムのノイズといえばキズ。 古いものになるとあちこちにキズがついて、 ちらちら白い点が見えたりするもの。 でも、一番大事な色やシャープネスが失われることは、 全くないとは言えないが、ほとんどない。 これに対してビデオのノイズってのは致命的だ。 色も輪郭も劣化してぼやける。

    色の違いが一番はっきりわかるのは「夜」のシーンだ。 もともとちゃんと見えるように撮ってるはずの暗闇の中で動く対象は、 スクリーンでならはっきり見えても、 ビデオでは何が何やらさっぱりわからない。

    これは光学的な記録媒体であるフィルムと、 電磁気的な記録媒体であるテープとの宿命的な差といえる。 フィルムは、レンズから入ってきた光を直接焼き付け、 またそのフィルムに光を当てて直接スクリーンに投射する。 対してビデオでは、一度電気信号に変換して記録して また読みとって変換してっていう様々な処理を受け、 その処理の過程はもちろんのこと、 それぞれをつなぐコードを通る際にさえ、 必ずノイズが入って信号が劣化する。

    もちろん、ハイビジョンとかDVDとかのデジタル技術は 信号の劣化をかなり防いでくれるが、 最後の段階のモニター画面というのが、もうどうにもならない。 無段階アナログのスクリーンに対して、 モニター(テレビ画面)はどこまで行っても「点」の集合。 人間の目に違いがわからないほどきれいなビデオ画像ってのは、 まだまだ時間がかかる。 開発者たちは、いかに「フィルム+スクリーン」のクオリティーに近づけるかに、 日夜心血を注いでいるし、 最新のテクノロジーは確実にその差を縮めつつはある。

    でもね、そんな最新のAVシステム、いったいいくらかかんのよ。 百万円かけたって、1800円のスクリーンには及ばないんだよ。



    だから「この監督は!」という思い入れの強い作品は、 何が何でもスクリーンで観る。


    そんなわけで、私はスタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を 未だ観たことがなかったりする。




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