■親の心子知らず、子の心親知らず(3)■
3.やんだの話
車を降りた安田は、思わず首をすくめた。風が思ったより強い。隣の家の庭木が、やけにざわざわ鳴っている。
小岩井家の前には、既に一台の車が停まっていた。見慣れた、竹田の車だ。
──今日は休店日じゃないだろ!?──
ちっ、と安田は心の中で舌打ちをした。竹田がいる休店日や夜をわざわざ外して来ているのだから、昼間の小一時間くらいは譲ってくれよ、と思うが、それが完全に自分の我儘だということも、安田には分かっていた。
小岩井家がここに引っ越してきてから、安田は時折、昼時にこの家へと押しかけた。勝手に入って、勝手に湯を沸かして、持参したカップ麺を勝手に食べる。ついでに、勝手にコーヒーをご馳走になる。
小岩井が驚いた顔をしたのは最初だけで、後は何も言わなかった。安田に気を遣うでもなく、そこにいるのが当たり前のように、好きにさせてくれている。厳密にいうと、単にほおっておかれているのかもしれないが、むしろ安田はそれが嬉しく、優越感さえ感じていた。
あの家は小岩井のテリトリーだ。そこで自由に振る舞うことを許されているのは、娘(なのか?)のよつばと、実質的に長年の旦那(ムカつくけど仕方がない)の竹田を除けば、自分だけだ。
そう──仕方がないのだ。
学生時代、先輩である小岩井に対して感じた、あの泣きたいほど重く苦しい感情が何なのか、最初は分からなかった。ようやく理解してその感情と向き合い、その正体を明確に認識した時には、小岩井は既に竹田とデキていた。そして、それでも二人の態度は全く変わらなかった。この感情を自覚する前と同じように、自分をからかうようにイジり、一緒に遊んだ。泊りがけのキャンプにもツーリングにも行った。
そういえば、あれだけ一緒に遊んでいるのに、あの二人が恋人のようにいちゃついているのを見たことが無い。もっとも、当時から熟年夫婦のような雰囲気があったから、そういう意味ではいちゃつきっぱなし、と言えなくもない。
要するに、自分だけが子供だったのだ、と安田は思う。それが年齢差のせいだけでないことは、あの二人を見ていれば分かった。単に恋人というだけではない、誰にも割り込めない何かが、あの二人にはあった。
外国から突然子供を連れ帰った時もそうだった。正直、安田には全く理解が出来なかった。どんな事情があるのか、どんな事情にせよあんなに大変そうなことを自ら背負い込む小岩井の心理が理解できなかった。でも、それは小岩井にとっては何の疑問も無い当然の選択であり、そして、小岩井の選択は竹田にとって当然の選択だった。
だから、あの二人の──小岩井の傍にいるためには、その選択が安田にとっても当然の選択である必要があった。そうしてその選択を受け入れ、その結果、安田は今も小岩井家に当然のように出入りしている──
目の前の竹田の車を眺めながら、安田はもう一度、心の中で舌打ちした。
当然のようにここに停まっているデカい車。あの男がいる限り──いや、もしいなくなったとしても──小岩井が自分のことを想うことは無いだろう。
情けないことは分かっている。女の子とつきあっても結局長続きせず、『いじられ役の後輩』というポジションに固執し、せいぜい小岩井のことを想像してオカズにするのが精一杯だ。
安田は、小岩井家を見上げた。どの部屋もカーテンは開いている。竹田と鉢合わせるのは面白くないが、仕方がない。それが自分の選択なのだ。そうだ、よつばがいたら、からかって遊ぼう。
そう思いながら、安田はドアノブに手をかけた。
「ちわー。お邪魔しまーす」
形だけ声をかけて、勝手知ったる家に上がり込む。よつばがドタドタと走ってこないということは、遊びに出ているのだろうか。
居間を覗くが、おもちゃが散乱しているだけで、誰もいない。畳の部屋には親子二人分の布団がぐちゃぐちゃに敷きっぱなしで、台所には大量の食器が無造作に積み上げられている。
よつばも、小岩井と竹田の姿も無い。家の中はしんと静まり返っている。
──コンビニにでも行ったのかな? 鍵がかかってなかったから、隣とか? にしても不用心すぎだよな、この家──
自分も無断で入り込んでいることは棚に上げて、安田はコンビニ袋からカップ麺を取り出した。
台所の食器を適当に避け、細身のケトルでお湯を沸かす。鮮やかな水色のテーブルにカップ麺を置き、お湯を注ぐ。しばし待つ間、卵を拝借しようか迷っていると、ふと、物音が聞こえた。
──ん?──
誰か帰ってきたのだろうか。廊下を覗いてみるが、人影はない。
と、また物音がした。上だ。そういえば二階は仕事場だ。仕事中なら邪魔するのも悪いし、よつばもいないし、今日は大人しく昼飯だけ喰うか──
その時、物音と共に、人の声が聞こえた。やっぱり二階だ。竹田も一緒なら仕事中ではないだろうし、声をかけてもいいだろうか──
一応、一声かけようと薄暗い階段を昇り始めたその瞬間、安田の中を嫌な予感がよぎった。
──駄目だ、今、二階へ行っちゃ駄目だ──
行った先に何があるのか。本能はそれを既に察知している。その警告に気付いてなお、安田の足は止まらなかった。
──駄目だ、絶対に後悔する──
安田の身体はその意志に反して、声を発した。
「小岩井さん? いるんスか?」
仕事部屋の隣の部屋の扉が半分開いている。物音と声が聞こえる。導かれるように、安田は開いた扉の前に立った。
部屋の中は明るかった。白く薄い目隠しカーテンから、秋の日差しが零れ落ちている。
床に敷かれた薄い布団と、良く知っている大きな背中が見えた。その背中に、裸の脚が絡みついている。まわされた手が、広い肩に強く指を立てている。背中の動きに合わせて、密やかな喘ぎ声が聞こえる。
不意に背中の向こうから、小岩井の顔が見えた。快楽に瞳を潤ませて、半開きの唇が浅い息を吐く、それは安田が見たことのない小岩井の姿だった。首にしがみついたまま、小岩井と安田の目が合う。
安田は動けなかった。小岩井は潤んだ目で安田を見た。竹田の腰が突き上げるように大きく動く。慌てるでもなく隠すでもなく、小岩井はそのまま身体を反らせた。甘い悲鳴のような声が僅かに漏れる。
「……あ……ん……っ……」
安田は茫然と立ち尽くした。この場を去らなくては、と思うのに、目の前の光景から目が離せない。
小岩井は確かに安田を見ている。その証拠に、小岩井の視線は安田から動かない。なのに、そこには何の反応も無い。見られて興奮しているわけでもない。安田に見られていることは小岩井にとって何の意味もなく、ただただ、竹田の与える刺激にのみ反応している。
ふと、竹田が小岩井の様子に気づいた。
小岩井が何かを見ている。
その視線の先を追い、竹田の動きが止まった。
「……やんだ、か?」
竹田は反射的に、小岩井を抱きかかえ、安田の視線から隠した。
その動きに、小岩井の口からひときわ甘い悲鳴が漏れた。
「あ、あ……っ……!」
小岩井の脚が痙攣するように震える。
その瞬間、安田は身を翻し、階段を駆け下りた。
ばたばという足音が遠ざかり、ドアがバタンと閉まる音がして、道路を走り去る靴音が聞こえなくなるまで、竹田はじっと小岩井を抱きしめていた。
腕の中で、小岩井はぐったりと動かない。
ようやく足音が去り、竹田は腕の力を緩めた。
「コイ? 大丈夫か?」
「……ん……」
竹田の腹は、小岩井が放ったもので濡れていた。竹田はゆっくりと、自分のものを引き抜いた。
「んっ……」
小岩井が緩慢に、身体を震わせる。
「なあ、コイ、気付いてたか? ……その……」
「……ん……誰か……いたような……あれ、まさかよつば?」
「いや、よつばじゃない」
「そっか」
意識を手放しかけながら、小岩井は安心したように笑った。
「よつばじゃないなら……いい……」
そのまま、小岩井は堕ちるように目を閉じた。
「コイ……」
汗で張り付いた髪を丁寧にかきあげ、その額にそっと口づけ、竹田は意識のない小岩井の身体をしっかりと抱きしめた。
安田は小岩井家を飛び出した。無我夢中で歩道を走る。どこへ向かっているのか自分でも分からない。ただただ、あの場所から離れたい。
心臓がバクバクと音を立てながら、縦横無尽に跳ねまわる。それがショックのせいなのか走っているせいなのか、そんなことはどうでも良かった。
知っていた。あの二人が出来ていることなんて、ずっとずっと前から知っていた。
それでも、小岩井にあんな顔をさせられるのが自分ではないという事実を突き付けられ、安田は初めて、自分がその事実から今まで目を逸らしていたことに気付いた。
心臓が軋む。肺がよじれる。走って走って走って、やがてつんのめるように安田の足は止まった。もう一歩も走れない。そのまま道端に座り込む。
車を取りに行かなくちゃ、とか、カップ麺置いてきちゃったとか、頭では分かっていても、今は戻りたくはなかった。自分が泣きたいのか笑いたいのか、それすらも分からない。
いい年をした大人のすることではないと頭では分かっていて、それでも安田はもう、そこから立ち上がりたくはなかった。
アスファルトの歩道に、へたり込んだ自分の影が映っている。その陰に、長い影が重なった。
「えーっと、お客さん? なのかな?」
安田はゆっくりと顔をあげた。つなぎの作業服の男が立っている。逆光で顔が良く見えない。安田は目を細めた。特徴のある髪型、眼鏡、髭──写真で見たことのあるこの顔は──
無意識に安田の口から、言葉が漏れた。
「……ひげもじゃ……?」
「あー、その呼び方は、もしかしてよつばちゃんの知り合い?」
男が苦笑しながら、頭を掻いた。愛想よく笑いながらしゃがみこみ、安田に目線の高さをあわせる。
「こんなところでどうしたの? 小岩井さん呼ぼうか?」
今は聞きたくないその名前に、安田の心臓がズキリと軋む。
「いえ……なんでもないです……から……」
男はポケットを探り、ティッシュを差し出した。
「とりあえず拭いたら? なんでもないって顔じゃないでしょ」
「え?」
その時ようやく安田は、自分の顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃなことに気付いた。
「……スミマセン」
ティッシュを素直に受け取り、顔を拭う。
「あ、俺、仕事行かなくちゃ……」
「何の仕事?」
「営業……外回りの……」
「いやいや、その顔でお客さんのとこ行ったら、ビックリされちゃうでしょ。アポあるの?」
「いや、今日はもうないっすけど……」
ぐしっと、鼻を啜りあげる。瞼が熱く、視界がぼやけている。
「落ち着くまで休んでいた方がいいんじゃないかな? ここ、ウチの店」
顔をあげると、きれいに並べられた自転車が目に入った。看板には『坂田自転車』と書かれている。
「外は寒いよ、少しあったまっていったらどうかな、えっと……」
「……安田です」
「あ、もしかして『やんだ、なかす』のやんだ?」
「……あのクソガキ……」
安田の憎々しい小さな声に、坂田は納得したように笑った。
「ああ、それでよつばちゃんに本当に泣かされたんだ?」
「そんなわけないでしょ」
むっとしながら、安田は立ち上がった。
「まあ、とにかくあがってよ。お客もそんなにいないし、お茶くらい出すよ、安田君」
「『やんだ』でいいっすよ。よつば……たちにもそう呼ばれてるし」
「じゃあ、やんだ君、どうぞ」
素直に店内へとついてくる安田を見ながら、坂田はにっこりと笑った。
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