■親の心子知らず、子の心親知らず(4)■


4.ひげもじゃの話
 
 店の奥は小さな畳の部屋だった。事務室兼、店員の控室だというその部屋にはパソコンや書類が置かれ、小さな流しとガスコンロが備えてあった。
 これから昼食だと言う坂田に『一人分も二人分も同じだから』と言われ、安田は結局、その部屋でうどんまでご馳走になった。胃に納まるうどんの温かさに、安田は自分の身体がずいぶん冷えていたことに気づいた。
 食後のお茶を入れながら、坂田がさりげなく尋ねた。
「小岩井さんとは、学校の後輩?」
 安田の肩がぴくりと震えた。正直今は、小岩井の話はしたく無かった。が、安田の口はその意思とは裏腹に、言葉を吐き出していた。
「あー、まあ、学生の頃から小岩井さんたちとはよく遊んでて……ツーリングとかキャンプとか」
「へえ、若い頃の小岩井さんって、どんなんだったの?」
「今とそんなに変わらないっすよ。掴み所がなくて、突然ふらっと外国行っちゃったりして」
「あー、想像できるなあ」
「ぼーっとしてるかと思えば、頑固だったり。自由すぎる人かと思えば、悪いことするとすげー怒るし」
「よつばちゃん見てると、そんな感じだねえ」
 その名前が出た途端、安田はムッとした。そして、そのことに驚いた。何故かさっきから、よつばの話になると無性に腹が立つ。でもその理由が分からない。なんだか腹の底がもやもやする。さっきの出来事とはまた別の、嫌なものが心の中に燻っている。
 拗ねたように尖った唇を面白そうに眺めながら、坂田はさらりと言った。
「小岩井さんって、いかにも『人妻』って感じで、いいよねえ」
「は?」
「初めて見たときからかなり好みだったんだけどね。あの人、ダンナいるでしょ? ほら、花屋の息子の……フラワージャンボだっけ?」
「……なんで……」
 そんな事を知っているのか。確かにあの二人は隠してはいないが、公言もしていない。二人の深い関係に気づいているのは、学生時代からのごく親しい人間だけだと、安田は思っていた。
 安田の声にならない疑問に、坂田は事も無げに答える。
「そりゃあ、お客様に合った自転車をお勧めするには、普段どういう生活をされているか、知っておくのも必要だからねえ。お客様には出来るだけご満足いただきたいからね。やんだ君も営業職なら分かるでしょ?」
「……っ! だからって……!」
 安田の剣幕を受け流すように、坂田はにやりと笑った。
「あの貞淑そうなところが、またいいよねえ。まさに人妻の色気だね。『ダンナ以外の身体は知りません』って感じでさあ。ああいうタイプを、ダンナが留守中の昼間に押し倒すのって、燃えるよね」
「……っ!」
 安田の脳裏に、先ほどの光景が蘇る。明るい昼間の光が差し込む部屋。大きな背中に絡みつく腕と脚。汗に濡れて張り付いた、長めの髪。押し殺した喘ぎ声。快楽に潤んだ瞳。僅かに聞こえた、甘やかな吐息。
 決して自分に向けられることのない、それらが安田の全身をぞわりと駆け抜けた。
「アンタ、小岩井さんに何しようってんだよ!?」
 思わず襟首を掴もうと伸ばした手を、坂田の大きな手が易々と捉えた。
「っ!」
 強く掴まれた手首を振りほどこうと、安田が反射的に身をよじる。その腕をぐっと引かれ、安田の身体は前のめりに倒れかけた。畳に手をつき必死に身体を支える安田の耳元で、低い声が囁いた。
「っていうことをさ、やんだ君も考えてるんじゃない?」
「……!」
「ずーっと昔から好きだったんだよねえ? 他の男にヤられてるのを指咥えて見てるだけ? それとも、それを想像しながら自分でする方が燃える?」
「うるせえよっ! っていうか、なんでそんなこと知ってるんだよっ」
「え、もしかして本当に図星だったの?」
「え……?」
 坂田は急にきまりが悪そうな顔をしながら、安田の身体を離した。
「ごめんごめん、やんだ君が落ち込んでたから、ちょっと大人の冗談を……ね。『そんなわけあるかっ』とか『あんた変態?』っていう反応を期待してたんだけど……」
「冗談で言っていい話じゃないだろっ!」
 怒鳴りながら、安田は混乱していた。
──冗談? どこまでが……?──
 坂田は本当に申し訳なさそうな顔をした。
「本当にごめんね。……で、図星ついでに聞くけど、もしかして泣いてた理由も、そのあたりかな?」
「……っ!」
 坂田は穏やかに笑いながら、ゆっくりと言った。
「坂田自転車店は、修理から人生相談まで、何でも引き受けますよ」
 安田は唇を噛みしめた。
「小岩井さんは、よつばちゃんのことを可愛がってるよね。いいお父さんだねえ」
「……そうだよ、いいお父さんだよ、小岩井さんは……」
 安田の奥底から、言葉が零れた。
「ジャンボさんもそうだ、よつばのことを当たり前のように大事にできるんだよ、あの二人は……っ」
 腹の底の燻りが、言葉になって溢れ出す。自分の口から出る言葉が、安田自身にその感情の正体を知らせる。
 安田が自ら話し始めたのに気づき、坂田は穏やかに微笑んで口を噤んだ。
「あの二人が出来てるのなんて、ずっと前から知ってたんだ。それでも──」
 
 それでもあの二人が、小岩井さんが、かまってくれるのは俺だったんだ。
 あの、緑色の髪の子供が現れるまでは。
 俺の小岩井さんだったのに。俺がジャンボさんの位置に立つことは出来なくて、それでもかまってもらえる立場は俺だけのものだったのに──。
 
 安田は黙ったまま俯いた。
 しばらくの沈黙の後、坂田がゆっくりと口を開いた。
「重症だねえ。初恋こじらせちゃったんだ」
「うるせえよ」
「まあ俺は、そういうの好きだけどね」
「……は?」
 坂田はにやりと笑った。理由も分からないまま、その笑顔に安田の背中がぞくりと震える。
「誰かに夢中な人に振り向いてもらえたら、嬉しいよね?」
「……っ! アンタ、今までの俺のハナシ聞いてた!?」
「聞いてたから、口説いてるんだよ、安田君」
 真顔で言われ、安田は固まった。
 安田君、と呼ぶ声が妙に低い。
 一瞬の後、安田は勢い良く立ち上った。
「アンタ、わけわかんねえ!」
 靴をつっかけて店を出ようとする安田の後ろから、坂田が声をかけた。
「坂田自転車店は、アフターサービスも万全ですよー」
 その声を無視して、安田は外へ出た。
 
 
 
 冷たい風が吹き抜け、安田はぶるりと首を竦めた。
 いつの間にか太陽がずいぶん低くなり、アスファルトに伸びる影が随分と長い。
 安田は足元を見つめた。
 つい数時間前、この影を見ながら、もう一歩も歩きたくないと思っていたっけ──そんなことをぼんやりと思い出す。
 小岩井のこと、よつばのこと、今日考えたことを一つずつ思い出すたびに心臓が軋む。
 少しの迷いの後、安田は置きっぱなしの車の元へ──小岩井家の前へ──ゆっくりと歩き始めた。
 
 
 
 数日後。
「ひげもじゃー!」
「いらっしゃい、よつばちゃん。と、お父さん」
 坂田がにこにこ笑いながら、小岩井を迎える。
「今日はどうしました?」
「あー、錆び止めって、自分で出来るもの?」
「はいはい、できますよー」
 しばらくの会話の後、買い物を終えた小岩井は自転車に跨った。
「じゃ、どうも」
「いえいえ、いつでも来てください。修理はもちろん、人生相談もいつでもどうぞ」
 小岩井は相変らず、曖昧に笑った。
 坂田はにっこり笑って、声を潜めた。
「そういえばこの前、偶然、安田君に会いましたよ」
「え?」
 そういえば、前回苦し紛れに相談したことを、小岩井は今更のように思い出した。
 ちなみに小岩井の相談は、要約すると『いい年をした後輩が彼女と長続きせず、自分たちと遊んでばかりいる。本人の問題なのでとやかく言いたくはないが、本人の幸せのために何かできることがないか?』というものだった。
 その時の坂田の返事は『子供じゃないんだから、本人の自主性に任せたらどうですか?』というもので、それはもちろん、小岩井の想定の範囲内の回答だった。
「やっぱり彼なら大丈夫じゃないですかねえ。子供じゃないんですから」
 坂田の言葉に、小岩井は穏やかに笑った。
「そうですね」
 小岩井は、相変わらず空気入れに興味津々のよつばに声をかけた。
「おーい、帰るぞー」
「おー!」
 よつばが元気よく、自転車に跨る。
 親子が仲良く帰っていく姿を、坂田はにこにこ笑いながら見送った。



END






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