■錆びた天使(8)■


 そこは資料室のような部屋だった。
 宮田はドアをロックし、机でバリケードを作った。少女も小さな体で、椅子を持ち上げて積み上げる。
 ドアを鞭打つ二つの音が響くが、化け物たちにドアを破る力はないようだ。
 宮田は床にうずくまった木村に駆け寄った。
「木村さん!」
「痛ってえ……」
 意識があることに少しだけほっとしながら、宮田は木村のコートを脱がせた。オフホワイトのコートは背中が縦に切り裂かれ、赤黒い液体に重く濡れている。宮田の手も、同じ色に染まっていく。ボディスーツをたくし上げると、裂けた皮膚と真っ赤な背中が目に飛び込む。
──落ち着け落ち着け落ち着け──
 必死に自分に言い聞かせながら、宮田はウエストポーチから救急キットを取り出した。
 少女が不安そうに、木村の手をぎゅっと握った。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
 木村は痛みに引きつる顔で、それでも必死に優しい笑顔を作った。
「沁みますけど我慢してくださいね」
 言い終わらないうちに、宮田は傷口に消毒液をかけた。
「ん──ッ!!」
 傷口が焼け付く。溢れる叫びを必死に殺し、木村は手を強く握りしめた。白くなる指先を、少女が握りしめる。
「か……はッ……!」
 呼吸もできない痛みに肺が軋む。
 宮田はガーゼで血を拭った。その傷口が思ったほどは深くないことが分かり、安堵の息を吐く。
 抗生物質の軟膏を手早く塗って止血テープを貼り、包帯できつく体を縛る。
「……いてえよ宮田ぁ、もうちょっとやさしくして……ね?……」
 口を開くのも億劫な状態で、なお、木村はふざけたように笑いながら言った。
「……アンタが怪我したのが悪いんだろうが、我慢しろ!」
 宮田がぎゅうぎゅうと包帯を締め上げる。
「いててて、なあ宮田、痛いのは俺の方なんだからさあ」
「ああ、痛いだろうな! こんなデカい傷つけやがって!」
「だから、痛いのは俺なんだから……お前が泣くなよ……」
「!? 誰が泣いてるって……っ」
 大きな目で、宮田は木村を睨んだ。
 その瞳を見ながら、木村はゆっくりと笑った。
「悪りぃ。見間違いだ。お前がこんなところで泣くわけないよな」
 木村の指が宮田に伸び、頬を伝う液体を拭った。宮田は無言で、救急キットを片づけた。
 痛み止めを飲み、木村は呼吸を整えた。怯える少女を宥めながら、これからの作戦を頭の中で組み立てる。
──ドアを打つ音は止まったが、あの二体が廊下にいるのは気配で分かる。部屋を出れば階段はすぐそこだ。何階か昇れば、鷹村さんたちがフロアをホールドしているだろう。そこまで辿り着ければいい。問題は──
 木村は、少女と宮田を見た。宮田は昏い目で少女を見ていた。



 宮田はデザートイーグルを机に置いた。マグナム弾は使い果たし、持っていても意味が無い。木村は痛みを堪える様に、荒い息を整えている。致命傷ではないが、今までのように戦うのは無理だろう。街の『消毒』まで、もう時間が無い。
──鷹村さんたちのいるフロアまで駆け抜ければ、何とかなるはずだ。火力の弱い銃しか残っていないが、木村さんを援護しながら辿りつくことは不可能ではない。そう、木村さんと二人なら──
 宮田は少女を見た。少女は怯えたようにぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、小さな指で木村の手を握りしめている。木村が、落ち着かせるように髪を撫でている。
 宮田の心臓が、ドクン、と脈打った。
 そう、二人なら辿りつける確率は高い。だがこの子供は足手まといだ。移動速度が格段に遅くなる。さっきだって、この子供がいなければ木村さんはもっと早く走れた。怪我をすることも無かった。こいつのせいで木村さんは──
 宮田の中に、押し殺していた思考が湧き上がる。それは、マイクロチップを見つけた時から気付いていたことだ。
 そうだ、何もこいつを連れて帰る必要はない。組織にとって必要なのは、ウイルスとワクチンの生成方法だ。マイクロチップさえ持ち帰れば、科学者と取引をする必要などない。
 宮田は木村を見た。木村は優しい表情で少女を宥めている。『大丈夫だよ、もうすぐお父さんに会えるからね』──そんな言葉が宮田の耳に届く。
 宮田は自分の掌を握りしめた。昏い感情が膨れ上がる。
──オレはアンタを失いたくない。アンタだけがオレの全てだ。例えアンタが何を望もうと、オレは……──
「宮田」
 木村の声に、宮田ははっと視線を上げた。木村は何かを問うように宮田を見ていた。木村の腕の中で、小さな少女が震えている。
 宮田は奥歯を噛みしめた。抑えきれない感情が身体の中で暴れまわる。
──アンタさえ傍にいてくれれば、オレは何もいらない。アンタがいないなら、生きている理由なんてない。オレは──
 宮田は、木村の前に屈みこんだ。少女の腕を掴む。
「宮……田?」
「アンタ、この子を抱えて走ってください。傷が痛むでしょうけど、できますよね」
 宮田の言葉に、木村が目を見開く。
「宮田……」
 自分のベレッタを取り出し、宮田は手早く弾倉を交換した。残り少ない弾倉を全て、ポーチからポケットへと移す。
「援護します。階段を昇れば鷹村さんがいるはずだ」
 宮田は立ち上がり、ドアを睨んだ。蠢く気配は二体。子供の手を引いて走るよりはマシだが、それでも速度は落ちるだろう。勝算が下がることは分かりきっている。二人とも生きては帰れないかもしれない。それでも──
 もし子供を見捨てて、二人で生き残ったとして──そうしたらきっと、木村さんはオレから離れていく。自分とオレを責め続ける。二人で何人殺したって、アンタはオレとは違う──
 宮田は木村の方を振り返った。木村は少女を立たせ、自分の銃の弾倉を交換している。宮田の口元に、ふと、笑みが浮かんだ。ブーツの紐を結んでくれた、あの時の光景が蘇る。
──木村さん、オレはね、生まれて初めて、戦うのが怖いって思ったんですよ──
 アンタを失うことが、アンタがいなくなることが、こんなに怖いなんて知らなかった。
「宮田、これ持っていって」
 弾倉を交換した銃と残りの弾倉を、木村は宮田に差し出した。
「何言ってんだ、アンタ丸腰になっちまうだろ!」
「どのみち、両手が塞がってたら撃てねえよ」
 宮田の手の上に、木村はそれをぽんっと置いた。
「だから、頼むぜ」
 片目をパチンと瞑り、にやっと笑う。
 宮田はその銃をホルスターに収めた。
 木村が少女を抱き上げた。宮田がバリケードを動かし、銃を構える。
「開けるぞ」
「ええ」
 少女を抱えたまま、木村はドアのロックを解除した。



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