■蒼玉の涙(2)■
■本編(青年)
城の広間、その上座で片膝を立てて腰を下ろし、政宗は床に広げた地図を見据えていた。伊達領を中心に周辺国を描いたその地図は、既に幾つかの国名が朱で塗り潰されている。次に攻め落とす、まだ黒文字のその国を、政宗は睨みつける。
障子戸すら開け放した庭からは残暑の日差しを孕んだ風が僅かに吹き込み、油蝉の鳴き声が板張りの間に響く。
その暑さに勝るとも劣らず、目の前では主だった伊達の兵たちが血気さかんに軍議を交わしている。愚連隊気質の伊達軍のこと、例え主の御前での軍議と言えども、議論はあっという間にヒートアップする。
『全軍で一気に攻めましょうぜ』『いや、先の戦の残党に背後を突かれたらマズイだろう』『であれば守りに兵を残して』『いやそれでは攻め手が足りねえ』──
政宗の右側では、小十郎が静かに、兵たちの議論というより喧嘩腰の口論に耳を傾けている。視界には入らずとも、常に傍らにあるその存在は気配で分かる。
風を通す麻の着物に紺袴の政宗はともかく、小十郎はきっちりと茶色の戦装束を着込んで汗ひとつかかずにいる。
──あいつ、暑くねえのかよ──
ちなみに兵たちは、主の御前にも関わらず、半裸にかろうじて戦装束をつけています、という状態だ。
蝉の声と兵たちの声が時雨のように降り注ぐ。その音に包まれたまま、政宗は地図を睨み続けた。
残暑と部屋の熱気、何より思考を止めない頭の熱が体内に籠る。政宗は無意識に唇を薄く開いた。体内の熱を逃すように小さく吐息を漏らす。白い首筋に、つ、と一筋の汗が流れる。その汗が顎を伝い、ぽたりと床に落ちた。
その瞬間、それは何の前触れも無く起こった。
「なっ……!」
汗の痕をなぞる様に、灼熱の刃が政宗の右頸を切り裂く。一瞬にして皮膚が焼かれ、その激痛が心臓までもを貫く。
反射的に、政宗は首筋に手をあてて飛びのいた。刀を掴み、死角でこそあれ敵などいるはずのない右側に刃を抜こうとして──政宗はそのまま動きを止めた。
政宗の目線の先に、敵はいなかった。ただ、小十郎がそこにいた。
手に刃など持たず、座したまま、平素と変わらず──ただ瞳に獣を宿した小十郎がそこにいた。
「……小十郎……?」
小十郎の瞳を睨んだまま、政宗は首筋にあてた手をそっと外した。見なくとも感触で分かる。切られてもいなければ、火傷も負っていない。ただ首筋の熱と心臓の痛み、それだけが身体に残る。いや、今この瞬間も、小十郎の瞳は政宗の心臓を食い破っている。
小十郎の瞳は、戦場にいる時のそれだった。数瞬の睨み合いの後、小十郎の喉が動いた。ごくりと鳴る、聞こえるはずのないその音が政宗の耳に届く。その音が耳から顎を伝い、再び首筋を焼く。
ふっと、小十郎の瞳から光が消えた。我に返ったようにその目が焦点を結ぶ。その瞬間、小十郎の顔に僅かな、だがはっきりとした動揺が浮かんだ。驚愕に見開かれた目が、政宗の手に握られた刀を捉える。今の今まで睨みあっていたにもかかわらず、まるで政宗が自分を見ていることに今更気付いたかのようだ。
政宗は動けなかった。刀の柄にかけた掌が、抜くか納めるかを逡巡する。
数瞬の後、小十郎は静かに目を閉じた。眉間に皺を寄せ、内に暴れる何かを押し殺そうとする、その腹立たしいほどに静かな表情を、政宗は今までにも何度か見たことがあった。そう、この表情は小十郎が何かしらの覚悟を決めた時──政宗が決して望まない覚悟を決めた時の表情だ。
政宗はゆっくりと、刀から手を離した。元通り、正面を向いて座りなおす。
心臓の痛みが惹いてく。それと同時に、不快とも快ともつかないあの感覚が身体の中で暴れ出す。子供のころから感じていたあの熱の正体が政宗の中で形を作る。
──そうか、そういうことかよ、小十郎──
政宗は乾いた唇をそっと舐めた。
耳に油蝉と兵の喧噪が戻ってくる。
『真正面から攻めりゃいいってもんじゃねえだろ』『なんだビビってんのか』『なンだとこの野郎』『やるってのかコラ表に出ろォ』──
兵たちの口論は白熱しながらも堂々巡り、出口が見いだせないまま殴り合いに突入しそうだ。
不意に、政宗の右から低い声が発せられた。
「てめえら、そんなに血の気が余ってんのなら俺が後で稽古をつけてやる」
あくまで静かな、だが腹の底から響く声に、喧噪はぴたりと静まる。兵たちは慌てて大人しく座った。
縮こまる兵たちをじろりと睨み、小十郎は主の方へ向き直った。
「政宗様、皆の申すことは全て尤も、上策は──」
「ここだ。ここを正面から攻める」
突然、政宗が動いた。小十郎の言葉を遮り、腕を伸ばして地図の一点を突く。
兵たちに緊張が走る。とかく最近、政宗の望む方策は小十郎に諌められがちだ。元より兵たちにとって、政宗の我の通り戦場に出ることには何の異存もない。むしろ望むところだ。ただ、主とはまた別の意味で兵たちが慕って止まない『片倉様』の気苦労を思うと、兵たちも穏やかではいられない。
「政宗様?」
僅かに驚いた小十郎に、政宗はニヤリと笑った。視線が一瞬、絡み合う。
それは本当に一瞬のことだった。視線を絡ませたまま、小十郎もまた笑った。それは穏やかで哀しい獣の笑みだった。全てを覚悟した人間の笑みだった。チリッとした痛みが政宗の唇に走る。
素知らぬふりで、政宗は腕を戻した。
「続けろ、小十郎」
「はっ」
小十郎は改めて兵たちの方を向いた。
「政宗様の仰るとおりだ。ここを攻めるが上策。同時に兵を分け側面から──」
ほぼ想定通りの説明を聞きながら、政宗は未だ熱の残る己の唇をそっと舐めた。
別段、小十郎のお株を奪おうとしたわけではない。とかく最近、自分の望む方策は小十郎に諌められがちだ。そして結局最後には、小十郎が政宗の意を汲み、策を立てる。我を曲げるつもりは毛頭ないが、小十郎に苦労をかけているという自覚はさすがにある。だから今回、たまたま自分の意が小十郎の深慮遠謀と合致した、それが政宗には嬉しかった。
小十郎の低く落ち着いた声が、板の間に響く。その声を聴きながら、政宗は己の右頸筋に手をあてた。焼かれてなどいるはずもないその場所は、未だ熱を孕んでいた。
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