■蒼玉の涙(3)■


 雲は厚く、空に月は見えない。ただ虫の声が庭に響く。その庭も、室内の燭台が灯っているせいで、ただただ真っ暗に見える。
 自室の襖と障子戸を開け放し、柱にもたれ、政宗は盃を口へと運んでいた。
 いくら昼間は暑くとも、所詮残暑だ。日が暮れればずいぶんと涼しくなる。
 宵闇の庭から目を離し、政宗は空を見上げた。今にも降り出しそうな夜の雲は、不思議と白く明るく見える。
 廊下を渡ってくる足音に、政宗は顔をあげ薄く笑った。
「月も無いのに月見酒ですか」
 呆れた顔の小十郎の手には、追加の酒と盃が載った盆がある。
「いいだろ、つきあえよ」
「小十郎はかまいませんが、あまりお過ごしになられませんよう」
「I see. わかってるって」
 隣に腰を下ろし、律儀に手酌をしようとする小十郎の手から、酒器を奪い取る。
 小十郎の盃を満たし、自分も盃に口をつける。
 しばらく無言のまま、二人は盃を重ねた。時折、小十郎が何かを問うように政宗の顔を伺う。が、政宗は酒を注ぐとき以外はじっと空を見つめている。
 雲はどんどん厚くなり、遠くから小さく雷の音が響く。
 小十郎が気遣うように、あるいは沈黙に耐えかねたように声を出した。
「政宗様、降り出しそうです。まだ、呑まれるのであればせめて部屋におはいりください」
 そう言いながら、盃類を盆に戻そうとする。
 まだ遠い雷を眺めながら、政宗が口を開いた。
「なあ、小十郎。昼間のあれは、何だ?」
 小十郎の手が一瞬、止まる。
「……なんのことでございましょう」
「しらばっくれるなんざ、お前らしくねえぜ、小十郎」
 不意に、政宗の手が小十郎の左手を掴んだ。自分より数段逞しい腕を引っ張り、自分の右頸筋に大きな手を無理やり押し付ける。
「政宗様……!?」
「ここだ、小十郎」
 薄闇の中、竜の瞳が小十郎を射すくめる。
「ここが熱くて痛てぇ。ガキの頃から時々あったが、今日のはとびっきりだった。おまけに心臓まで食い破られたみたいに痛てぇ」
「……っ……政宗様……」
「てめえ、俺に何をした!?」
 小十郎は目を瞑った。一呼吸して、静かに目を開く。
「……何もしてはおりません」
「Ha! 物は言い様だな。じゃあ聞き方を変えるぜ」
 政宗の左手が、今度は小十郎の後頭部を掴んだ。自然と、二人の顔が近づく。
「俺を見ながら、この頭の中で俺をどう扱った!?」
 雷の音が徐々に大きくなっていく。
 闇の中、燭台の僅かな炎に照らされて、竜の瞳だけが爛々と輝く。鋭く激しく、ただ前だけを見る、それはまさに、小十郎の主君の姿そのものだ。
「……っ!」
 不意に、小十郎が政宗の手を振りほどいた。そのまま逆に、政宗の両腕を掴む。そのあまりの力強さに、政宗の顔が痛みに歪む。
「聞きてえか? 自分が家臣に何をされようとしたか、本当に知りてえのか!?」
 痛みに耐えながら、政宗は黙って真っ直ぐ小十郎を見つめた。
 小十郎は振り絞るように言葉を続けた。
「政宗様のその首筋に喰らいつき、その身体を奥の奥まで辱め、俺の欲望の捌け口にした。頭の中で、何度も、何度もだ」
「……いつからだ?」
「何年も何年も前から……梵天丸が政宗様になった、あの頃から」
 政宗は黙って俯いた。沈黙の中、その身体が僅かに震える。
 不意に、小十郎が主の身体を強く抱きしめた。
「これで満足か? 自分の家臣に、自分の右目に犯される話は楽しいか?」
 吐き捨てるように小十郎は言葉を続ける。
「俺は最低の家臣だ。こんな醜い欲望は墓場まで持っていくつもりだった」
 だが主は気付いてしまった。そして、この浅ましい家臣に刃を抜こうとした。
 いっそあの場で斬り捨てて欲しいと──この醜い心も身体も叶わぬ願いも、全て塵芥の如くこの世から消して欲しいと──そう願うこと自体が身に過ぎた望みだと、小十郎には分かっていた。
 小十郎の腕の中、政宗の身体はまだ震えている。それが屈辱の怒りなのか恐怖なのか、小十郎には分からなかった。
 聞いた以上、言った以上、無かったことにはできない。もう家臣ではいられない。竜の右目ではいられない。誇り高い竜は、自分を赦しはしないだろう。いやそれ以上に、己が自分を赦すことなどできるはずもない。斬首も切腹も覚悟の上だ。
 背中を守るという誓いも、もう果たすことはできない。それでも──
 小十郎は震える声を振り絞った。
「だが……政宗様が、聞きてえと言ったんだ!」
「……ああ、そうだ」
 腕の中で政宗が僅かに身じろいだ。身体を震わせながら、顔を上げ、そして政宗は──にやりと笑った。
「それが聞きたかったんだ、小十郎」
「っ……政宗様?」
「何年も何年も、この熱くて痛いものの正体が分からなかった。しかも年々、ひどくなりやがる。これでも人並みに悩んでたんだぜ? それが、理由を知ってみりゃあ何のことはねえ、自分の右目に喰われてた、ってわけだ」
「……っ!」
「しかし、見ているだけで俺の身体に伝わるって、どういう理屈だ? ああ、覇気の一種か?」
 お前あの時、極殺状態っぽかったしなあ、とひとり納得する政宗に、小十郎は唖然とした。未だ腕の中で政宗が、くくっと笑う。
「まあ要するに、ずっと俺を目で犯してた、ってわけだ」
 すっと細められた目が炎を孕み、小十郎を射抜く。
「……っ!……政宗様……っ!」
 ようやく我に返った小十郎は、その場にがばっと平伏した。
「政宗様……っ! このような浅ましき感情、家臣にあるまじきことなれば……っ」
 雷の音が徐々に大きくなる。湿気を孕んだ風が、室内の燭台の炎を揺らす。
 首筋に手をあててため息をつき、政宗は小十郎の前にしゃがみこんだ。
「なあ、小十郎」
「……はっ」
「ひとつ答えろ。今日のアレは、今までの比じゃねえくらい熱かった。何が今までと違った?」
「……何も」
「Really? 本当か?」
「はい。あの時は……その、政宗様が汗をかかれていたので、お拭いして差し上げたいと……ただそう思っただけで……」
「マジかよ……」
 あの熱と痛みは年々ひどくなりこそすれ、和らいだことは無い。と言うことは──
「おい、じゃあ俺はこれから、汗をかくたびに頸を切られるのか?」
「……っ! 決してそのようなことは……っ」
 平伏する小十郎を、政宗は見下ろした。床についたその拳は固く握られ、震えている。
「小十郎、さっき言ったことは嘘じゃねえな? 俺を──お前の言葉で言うなら辱めた──、それはお前の本心だな?」
 しばらくの間の後、小十郎がゆっくりと顔をあげた。その顔には、真剣さと穏やかさと、そして覚悟が浮かんでいる。
「政宗様、それは嘘偽り無き、小十郎の本心です。元より貴方様への忠心に一片の偽りもございません。そしてまた、畏れ多くも貴方様を欲してやまぬ、この心もまた、小十郎の真でございます」
 小十郎は静かに続けた。
「もとより全ては覚悟の上。いかなる処遇もお受けいたします。されど……」
──貴方様の背中をお守りできないことだけが心残りです──
 政宗は空を見上げた。低い雷の音が響く。時折、稲光が雲を焦がす。もうじき、ここにも嵐がやってくる。
 湿った空気をゆっくりと吸い、政宗は凛とした声で言い放った。
「片倉小十郎景綱」
「……はっ」
「俺はお前の主だ。だからお前に何でも命じることができる。そうだな?」
「はい、いかようなご命令にも従います」
「All right. なら、俺の命令はただひとつだ。小十郎!」
 政宗は小十郎の後頭部を掴み、強引に顔を上げさせた。驚きに目を見張る小十郎の目を正面から覗き込む。唇が触れるほどの距離で、凛とした声が響く。
「いい加減、てめえの本当の覚悟をきめやがれ」
 それだけ言うと、政宗は立ち上がった。小十郎に背を向け、部屋に入る。
 廊下にぽつり、と黒い染みができた。冷たい風が吹き抜ける。
 その背中が不意に、熱に包まれた。強く抱きしめるその腕に、政宗はそっと触れた。今までもこれからも、自分の背中を守り続ける男の腕だ。この腕があるから、自分は前だけを見て駆けることができる。
「政宗様」
 低い声が耳に響く。
「政宗様こそ、お覚悟はよろしいのですか? 臣下に御身を穢されるお覚悟は」
「Ha! 俺に覚悟なんていらねえよ」
 後ろ手に襖を閉め、男の腕の中で政宗は身を翻した。
「竜が竜を喰らって、何が悪い?」
 雨音が強くなる。雷はいっそうその音を増し、襖の隙間から稲光が漏れる。
 嵐の中、強く腰を抱き寄せ、首に腕をまわし、そうして二人は唇を重ねた。



END






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