■快楽と体温(5)■
国道沿いのラーメン店で昼食を摂り、二人は刑事たちと合流した。午前中に火村が電話で伝えたトリックは、現在警察が裏取りをしているという。科学的に証明されるのは時間の問題でしょう、という刑事の言葉に、有栖はほっとした。また司法解剖の結果、被害者の死亡推定事時刻が狭まった、という情報がもたらされた。
死亡推定事時刻は二十一時から二十五時。僅か三時間の縮小だが、それだけでも容疑者の数はかなり減る。
若い刑事が手帳を捲りながら、話を引き継いだ。火村が希望した関係者との面会は、概ね、今日中にアポイントが取れたと言う。その真剣な仕事ぶりに、有栖は別の意味でほっとした。昼食の間中、いったいどんな顔をして会えばいいのかと煩悶していたのだが、若い刑事は有栖のマフラーをちらりと目に留め、その後は一切、おかしな態度を取らなかった。
因みに有栖が煩悶しながらラーメンを啜っている間、火村は平然と、ラーメンをふうふう冷ましながら美味そうに食べていた。考えてみれば、有栖の身体に痕をつけた犯人が火村だということは、第三者には推し量ることはできても断定はできない。状況証拠しか無いのだから、堂々としらばっくれれば済むのだ。
まったく不公平だ──今更のように、有栖は思った。
面会は恙なく進んでいった。
ある女性は警察署での面会を希望し、ある女性は喫茶店を希望した。そのたびに場所を移動し、火村は根気よく質問を重ねる。そしてほとんどの面会は、結果としてその女性による殺害が不可能であることを証明するものになった。
Kとの面会は本人の希望により、客の多いファミレスで行われた。一目でブランドものと分かる服を纏ったKは、あっさりと、金銭的に困窮していることを認めた。原因は浪費癖だ。ただし、遺言書のことを知ったのは事件当日、Pから聞いて初めて知ったと言う。KとPは元々、旧知の仲だった。同じ高校を卒業した後、しばらく音信は途切れたが、大人になって再会した──正確には被害者によって再会させられたのだと言う。同じ高校出身だと知った被害者が、よりによって二人を引き合わせたのだ。旧交を温めるといい、と無邪気に笑う被害者の顔が今でも忘れられないと、Kは吐き捨てるように言った。だが結果として、KとPの奇妙な友人関係は続き、事件当日もPから相談があると誘われて夕食を共にしたと言う。遺言書のことも、その時Pから初めて聞いた。それが十九時から二十一時までのことだ。
「相談の内容は何だったんですか?」
火村の問いにKは、プライベートなことだから、と言葉を濁しつつ、結局は話した。
Pは被害者のいわゆる一番のお気に入りだった。それが最近、別の新しい愛人に入れ揚げている、あの人の愛を失ったら私は生きていけない──そんな内容だったらしい。
いくらお気に入りでも、所詮は山ほどいる愛人の中の一人だ。それなのに、自分が特別に愛されていると錯覚するなんて、本当に馬鹿な女、とKは言った。そして、その馬鹿さ加減ゆえに危なっかしく、見放すこともできず、友人関係を続けている、と。
最後にKは、念を押すように言った。十九時から二十一時までのアリバイはPが証人だ。二十一時から翌朝までは知り合いの店で別の友人たちと馬鹿騒ぎをしていた。それは警察でも確認できるはずだ。だから自分には犯行は不可能だ、と。
火村は唇をなぞりながら、黙ってその話を聞いていた。
そして有栖は、自分の推理が正解に近づいていることを感じていた。推理が当たることなど滅多にないのに、有栖はそれを少しも嬉しいとは思わなかった。
Pとの面会は本人の希望により、ホテルの喫茶室で行われた。美人なのは当然だが、一言で表現するなら『儚げ』が適切だろう、と有栖は思った。さすがに憔悴しきっていたが、その苦しそうな姿が尚更、保護欲をかきたてるタイプだ。Pもまたあっさりと、被害者が新しい愛人に入れ揚げていたこと、またそのことで悩んでいたことを認めた。
被害者の愛を失い、死んでしまいたいと何度も思った、Kは親身に相談にのり、励ましてくれた──Pは涙ながらにそう語った。Kの話と矛盾は無い。
「別の女性に夢中になり、被害者はあなたが疎ましくなっていた。そうですね?」
火村がわざと、容赦ない言葉を放つ。Pは即座に否定した。
そんなことはない、あの人は私を愛してくれた、ただ……私が一番ではなくなった……
泣き崩れるPを、有栖は冷めた目で見つめた。
Pが言っていることは、既に警察が裏付けを取っている。被害者はPに変わらぬ手当を支払い続け、時々はPの元を訪れた。厄介払いする意図があったとは思えない。それを知っていて、火村はわざとPを煽ったのだ。
Pは嗚咽を漏らしながら続けた。
他に愛人が何人いてもかまわなかった。お金なんていらなかった。ただ自分を一番に愛してくれればそれでよかった、と。
「被害者が遺言書を書き換えたことはご存知ですね」
Pは頷いた。謝礼金は変えていないこともPは被害者本人から聞いていた。
「他の女性への謝礼金について、あなたは聞きましたか?」
火村の問いに、Pはびくりと肩を震わせた。
……いいえ……聞いて……いません……
か細い声が震えながら答える。
火村は続けた。
「被害者はお金を対価に女性を繋ぎとめていました。おそらく、愛情の度合いを示す尺度として、金額以外の方法を知らなかったのでしょう」
Pの肩がぶるぶると震える。
「つまり、手当や謝礼金の額が一番多い女性が、被害者が最も愛している女性だと判断できます」
震えが止まらないPに、火村は淡々と続ける。
「ここからは私の想像です。あなたは遺言書に書かれた、新しい女性への謝礼金の額を知っていたのではありませんか? おそらく、被害者本人の口から聞いて」
愛人同士が友情を結べると無邪気に思い込んでいた人間だ。それを聞いた相手がどう感じるかなど、推し量ることもできない、そんな人間だったのだ。Pへの謝礼額は変わらない、だからPへの愛情も変わらない。被害者本人にとっては当然のことだったのだろう。だから無邪気に話したのだ。新しい愛人への謝礼金が、Pよりも多いことを。
「それともう一つ。これも私の想像ですが、Kは以前から、遺言書の存在を知っていたのではありませんか?」
Pはもはや動かない。
「あなたへの謝礼金の額を知れば、Kは自分にもそれに近い額が遺されると、そう想像したのかもしれません。先ほどKからも話を聞きました。Kは遺言書のことを知ったのは事件当日だと言っていました」
有栖は目の前の女を睨んだ。この女に言いたいことがある。自分は火村のただの助手だ。でも、それでも、どうしても言わなければ気が済まない。
火村が止めの言葉を告げる。
「最後に伺います。事件当日、二十一時から二十五時まで、あなたはどこで何をしていましたか?」
「……Kの家に……一緒にいました……私の愚痴を……ずっと聞いてくれて……」
「Kは二十一時から翌朝まで、街で複数の友人とお酒を飲んでいました。裏付けも取れています」
Pがはっと顔をあげた。
「そんな……! Kが……Kが証人になると言ってくれたから、だから私は……っ」
火村は立ちあがった。刑事二人に「あとはお願いします」と頭を下げる。刑事は頷いた。
Pは茫然と座り込んでいる。
有栖はPの前にしゃがみ込んだ。目線を同じ高さにあわせ、Pにだけ聞こえる声で言う。
「あんた、ほんまに馬鹿やな。大勢の中の一番でええなんて、その程度の気持ちしかない相手を殺したんか」
「……」
「俺は大勢の中の一番なんて御免や」
Pの瞳が僅かに揺れた。
「アリス、行くぞ」
火村が喫茶室の入り口から声をかける。
「ああ、今行く」
有栖は立ち上がり、そのまま振り返らずに火村の後を追った。
府警に着くまでの間、有栖は一度も口を開かなかった。そして火村も、何も言おうとはしなかった。
重い空気が二人の間に流れる。
ようやく府警へ戻ると、刑事たちの上司にあたる人物に声をかけられた。
Pは府警へ向かう車の中で、既に自白を始めたそうだ。あの日、Kの『アドバイス』を受け、Pは被害者を呼び出して遺言書の書き換えを迫った。愛情の証を求めたPに対し、被害者はPを金目当てと決めつけた。争いの末、誤って被害者を殺してしまったPは、Kに助けを求めた。Kは、Pが受け取る謝礼金と引き換えに、アリバイ工作を引き受けた。密室もどきの部屋は、その過程の副産物だ。
「ご協力、感謝します」
頭を下げる上司に、火村もまた丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、貴重な体験ができました。ありがとうございました」
その後ろで有栖も頭を下げた。
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