■快楽と体温(6)■


 府警の入り口で有栖は努めて平静に尋ねた。
「君、これからどうする? もう帰るか?」
「ああ、明日の会議の準備があるからな」
「そうか」
 二人の車は府警の駐車場に預けてある。火村が京都に帰るので、今日はここで解散だ。
「……いや、駄目だな、このままでは帰れない」
 火村が足を止めて呟いた。
「ん?」
「アリス、お前の部屋に忘れ物をした。今から取りに行っていいか」
「別にええけど……急ぐ物でないなら、送っとこうか?」
「いや、どうしても今日、必要なんだ」
 そこまで言うなら、有栖に断る理由は無い。事件が終わったのに車を預けておくわけにはいかないので、二人はそれぞれの車で夕陽丘へと向かった。
 マンションの部屋のドアを開けながら、有栖は尋ねた。
「忘れ物って、何や?」
 言い終わらないうちにドアが閉まり、有栖は壁に押し付けられた。掴まれた手首が痛い。
「……なんか、昨日も同じことがあった気がするなあ。忘れ物は口実か?」
 有栖はわざと皮肉っぽく笑った。
「いや、本当だ。ただし物ではないし、忘れたのは俺ではなくお前だけどな」
 火村が真面目な顔で答えた。
「……? 俺、お前に何か返し忘れたか?」
「同じ言葉」
「……は?」
「もしくは、同等の意味を持つ言葉」
「君、何言うてんの?」
「聞こえていただろ、昨日の夜」
 その途端、有栖の顔が真っ赤になった。
「あれ……あれって……いやあれは俺の聞き違いで……」
「やっぱり聞こえてたんだな」
 火村が急に意地悪く笑う。
「!!」
 誘導尋問にひかっかったのだと、気付いた時には遅かった。
 あの時耳が捉えた言葉、頭が拒否した言葉、それが蘇る。
「あんな……あんなこと、今まで言うたことなかったやろ!?」
「ああ、お前が起きている時に言ったのは初めてだ」
「……は?」
「お前が眠っている時に、何度も言った」
「……君、そんな恥ずかしいことしてたんか……」
「そういえば今朝は、夢の中で言ったな」
「っ……! 今朝、って、六時くらいに起きた時か!?」
「多分。夢だから時間は分からないが」
 有栖は思わずその場に崩れ落ちた。火村が慌てて手首を離し、抱きとめる。
「どうした?」
「……なんでもない……なんでも……」
 今朝、六時前、自分が目を覚ました理由は何だった?
 火村が寝言で名前を呼んだからだ。いや、名前だと思ったあの言葉は……
「あっちが聞き違い……やったんか……?」
「アリス?」
 有栖は頭を抱えた。
「なあ、恋人でもないのに、なんで急にあんなこと言うたんや?」
 有栖の言葉に、火村は僅かに顔をしかめた。
「お前のその、恋人アレルギーの理由はあえて聞かないけどな、もう十年以上だぞ!? むしろ言わない方がおかしいと思わないか?」
「……思わない」
「おい、アリス」
「だってそうやろ!? 言葉で言うたらそれだけで気持ちが変わるんか? ちゃうやろ? なら言っても言わなくても同じや」
「……小説家の言葉とは思えないな……」
 呆れたように笑いながら、火村は有栖の耳に口を近づけた。
「アリス……xxxxx……」
「……もう……ホンマにどうしたん、急に……」
 有栖は自分の顔を両腕で隠した。鏡を見なくても分かる、自分の顔は今、真っ赤だ。
「言わないまま死ぬのは嫌だと思った」
「は……?」
 思いがけない言葉に、有栖は顔をあげた。
「あの被害者は、金の高でしか愛情を示せなかっただろ。そしてそれしか手段がないから上手く伝わらず、結局殺された」
「……」
「だから俺は、思いつく全ての手段で伝えることにした」
「……火村……」
「言葉で言ったからって、気持ちは変わらない。お前の言うとおりだ。だったら、ありとあらゆる言葉を尽くしたっていいんじゃないか?」
「……火村……もう勘弁してくれ……」
「お前は言ってくれないのか」
「……そんなん……言えるか……アホ……」
「言葉で言っただけでは気持ちは変わらない。そう言ったのはお前だろ? なら言ってみろよ、お前の言葉で、お前の気持ちを」
 その瞬間、有栖の中で何かか弾けた。
──俺の言葉で? 俺が自分の言葉で考えたことが無いわけないやろ!──
「……人の気も知らんと、ようそこまで言うたな……」
「? ……アリス?」
 不意に有栖は顔をあげた。真っ直ぐに、目の前の火村を見つめる。
「そこまで言うなら、聞かしたる」
 有栖は息を吸い、一息に言った。
「身体の一番深い部分まで繋がって骨の髄まで快楽に溺れるという極めて動物的な欲求を満たしたい相手は君だけや。肌が触れ合うその温度だけで心も魂も満たされる、その極めて人間的な欲求を分けあいたい相手も君だけや。この答えでは不満か!?」
「アリス……」
 火村の腕が有栖を包んだ。強く抱きしめるその体温に、有栖の中で何かが溶けていく。溶けたそれが液体となり、目から溢れそうになるのを有栖は必死に堪えた。
「最高の告白だ。お前だけの言葉だ」
「……っ……」
「なあアリス、俺はお前と同じ言葉は紡げない。だから俺と同じ言葉も紡いでくれないか」
「……どうしても俺に言わせたいんか?」
「ああ、お前の口から聞きたい」
 しっかりと包まれた腕の中で、有栖は小さな声で言葉を紡いだ。
「愛してる」
「俺も愛しているよ、アリス」
 火村の腕の中で、有栖が震える。
「……アカン……」
「アリス?」
 火村の腕の中で、有栖は──肩を震わせて笑っていた。
「駄目や、恥ずかしすぎて、笑えてきた」
 一瞬の後、火村も笑った。
「やっぱり、言葉で言っただけでは気持ちは変わらない、か」
「そうやな、今更変わらんな。甘ったるいだけの恋人みたいな関係は無理や。俺にはお前だけおればいい。それだけや」
 有栖は火村の頬に手を伸ばした。そっと唇が重なる。
「アリス、それでも今日、言葉にすることで変わったことがある」
「なんや?」
「俺とお前は今から『愛している』と口に出して言える関係になった。これは大きな変化だと思わないか?」
「……君、自分で言ってて、寒くないか?」
「全く。これは事実だからな。素直に認めろよ、アリス」
 再び唇が重なる。舌を絡め合いながら、時折唇を離し、その度に火村は囁いた。
「愛しているよ、アリス」
「……もお、やめえ、頼むから……恥ずかしくて死にそうや……んっ……!」
 耳たぶを柔らかく食まれ、有栖の口から甘い吐息が漏れる。骨の髄が快楽を欲して、自然に腰が揺れる。
「アリス、お前も言えよ」
 その腰を意地悪く撫でながら、火村が囁く。
「分かった、言う、言うから、だから頼むから……」
「頼むから、何だ?」
 有栖は小さな声で囁いた。
「頼むから、ベッド行こ、な、火村、愛してる」
 
 
 
END



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