■陥落~あるいはもうひとつのカレー記念日(2)■
有栖が英都大学法学部二回生だった五月二十一日。天気は快晴。
その日、有栖は朝から妙にハイテンションだった。
新人賞への応募作を書き上げ、ギリギリまで推敲を重ね、大量の原稿用紙のコピーを取り、消印が間に合う時間ギリギリに郵便局へ駆け込んだのが昨日のこと。
その夜は達成感に興奮しつつ、期待と後悔と楽観と悲観が脳内を絶えず掻き回し、さっぱり寝付けなかった。
寝不足と興奮を引きずったまま、それでも一コマ目から出席したのは、教養数学に大変な興味があったから、ではない。二コマ目の法学部の講義に、火村が聴講に来るからだ。
大学では一般教養と称して、一、二回生のうちは専門外の講義も単位を取らなくてはならない。
数学講師の声とチョークの音が、午前中の教室に響く。その後方の席で、有栖はちらちらと自分の鞄を見ていた。中には昨日コピーを取った応募作が入っている。今日、それを火村に見せることになっているのだ。
二週間前に知り合ったばかりの、風変わりな男のことを有栖は思い浮かべた。
有栖の小説に興味を持った人間。続きが気になると言った人間。そんな人間に出会ったのは、初めてだった。
二週間前に有栖の小説を読みカレーを奢ってくれたあの男は、一週間前の講義にも現れた。もはやなりふり構わず、講義が始まる前から原稿用紙を広げた有栖の隣に、その男は迷わず座った。挨拶もそこそこに、男は先週の続きから勝手に読み始めた。
法学必修の自分を棚に上げて、有栖は少しだけ心配になった。わざわざ他学部の講義を聴講に来て、授業より小説に夢中になっているこの男は大丈夫だろうか。
だが一時間半後、それが杞憂であることを有栖は知る。男は先週のように手元を覗き込むことはせず、新たに一枚が積み上がるたびに待ち構えていたかのように手に取った。そうして終業のチャイムが鳴った時、机の上には有栖が積み上げた原稿用紙と、男が要領よくまとめたノートが載っていた。思わず『そのノート貸してくれ』と喉元まで出そうになった言葉を、有栖はプライドで飲み込んだ。授業を放棄した責は自分で負うべきだ。
そのまま、ごく自然に二人は学食へ行き、揃ってカレーを食べた。次回の講義の前日が締切なのだと言うと、男は興味深そうに言った。
──『じゃあ、来週には犯人が分かるんだな』──
半年後に雑誌に載るからそれを見ろ──と有栖は言えなかった。曖昧に言葉を濁し、そのまま雑談をして昼休みを過ごし、それぞれ三コマ目の授業に向かった。ちなみにこの昼休みの間に、二人の間には呼び方に関する協定が結ばれた。有栖は『火村君』を『火村』と呼ぶようになり、火村は『有栖川君』などと一度も呼んだことがないくせに『有栖川』は長いから『アリス』と勝手に呼ぶようになった。
──これが一週間前のことだ。
有栖はこめかみをおさえながら、頭を振った。数学講師の声が耳を通り抜けていく。眠気は無いが、集中力も全くない。講師は何かの証明問題を解説している。黒板に多角形の図が描かれ、角度と長さを表す記号の羅列が続く。
有栖はぼんやりと、書き終えたばかりの作品を頭の中でなぞった。伏線は破綻していなかっただろうか、ちりばめたヒントはきちんと唯一の犯人を導いているだろうか──そしてその犯人は、火村が想像する人物と同じだろうか──
黒板の中では角度と長さに関する証明が進んでいく。
それを目に映したまま、有栖は頭の中で、全ての伏線を洗い出した。
──うん、大丈夫や、あの伏線があの可能性を消去するから、残るのはこの可能性だけや。ゆえに犯人は──
「ゆえに」
突然、数学講師の言葉が響いた。チョークがカッカッと力強い音を立てながら、記号を描く。有栖の目が黒板に焦点を結ぶ。
「αとβはイコールとなる」
講師の言葉が教室に響く。黒板に『α=β』が書かれ、そしてその後に──
「Q.E.D.」
講師の声と同時に、白い文字が黒板に描かれる。
その光景を有栖は茫然と見つめた。自分の書いた小説のことが一気に吹き飛び、その白い文字が有栖の頭を支配する。
本当にこれを書く人間を、有栖は初めて見た。
あの青い背表紙の文庫本の中で、何度も登場する言葉。名探偵が使う、あまりにも有名なフレーズ。けれど有栖にとってそれは現実の言葉ではなく、物語の中の言葉だった。それが今、現実に、目の前にある。
講師は何事もなかったかのように教室を見渡した。終業のチャイムが鳴り、学生たちは次の教室へと移動を開始する。講師が手早く黒板を消していく。あの言葉も、最初からそこに無かったかのように消えていく。
一瞬の後、有栖は荷物を纏め、教室を飛び出した。次の講義は法学の専攻だ。知り合いも多い。誰か、今の授業に出た人間がいるはずだ。この感動を誰かに伝えたい。同じ感動を味わった人間と話がしたい。
有栖は階段教室へと走り出した。
階段教室で、親族相続法の授業が始まるまでの僅かな時間に、有栖は片っ端から知り合いに声をかけてまわった。だが声をかけた人数が増えるたびに、有栖の気分は沈んでいった。
さきほどの教養数学の授業に出ていた人間はそれなりにいた。だが、興奮しながら有栖が語る言葉は、誰にも理解されなかった。
有栖が何を言っているのかが分からない人間が半分。言っていることは分かるが、それが何故感動に繋がるのかが分からない人間が半分。名探偵の名台詞であることは知っているが、別に感動はしなかったという人間が二人。高校時代から普通に使っていた、と言う理系崩れが一人。
やがて始業時間が近づき、法学部の教授が壇上に姿を現す。学生たちは各自、席に着く。
有栖はのろのろと、教室の階段を昇った。昨夜から続いていた緊張の糸がプツリと切れ、反動のように虚無感が有栖を支配する。
自分がどんなに感動しても、他人が同じことで感動するとは限らない。考えてみれば当たり前のことだ。阪神タイガースに興味のない人間だって世の中にはたくさんいる。別にそれを不満には思わない。自分は自分、他人は他人、ただそれだけだ。
緩慢に、有栖は鞄からテキストとノートを取り出した。今日からは当分、内職は禁止だ。
鞄の中の、コピーした原稿用紙の束が目に入った。
その瞬間、有栖は自分の足元が、座っている椅子が、崩れ落ちるのを感じた。なんとか意識を保ち、足腰の感触を確かめる。崩れ落ちたのは錯覚だ。床も椅子も、何の異変も無くそこに存在する。
有栖は紙の束を見つめた。
自分は自分、他人は他人。自分がどんなに感動しても、他人が同じことで感動するとは限らない。
この紙の束も同じなのだと、有栖は思った。ここ数か月、書き続けた物語。自分の中の全てを込めた物語。自分以外に、この作品に感動を──せめて興味を──持つ人間などいるのだろうか。
有栖は急に、郵便局へと走りたくなった。昨日郵送したあの原稿用紙を取り戻したい。誰にも興味を持たれない作品など、応募して何になるというのだ。
ぐらりと視界が揺れる。
と、その時、隣の席に人影が滑り込んだ。
「ああ、間に合ったな。一コマ目の講義が押して、参ったぜ」
挨拶も無く、当たり前のように隣に座る男を、有栖はぼんやりと見た。
「あ、火村……か……」
「? どうしたアリス、寝不足か? ああ、昨日、締切だったんだよな、間に合ったんだろ?」
「……ああ、間に合った……昨日……送った……」
「じゃあ後で読ませてくれ」
手早くノートを出しながら、火村が怪訝そうに有栖を見た。
「おい、大丈夫か? 何かあったのか?」
「いや、さっき教養数学でな……」
そこまで言って、有栖は口を噤んだ。
有栖の小説に興味を持った人間。続きが気になると言った人間。唯一の人間。
そんな人間に先ほどの講義の話をして──それで自分の感動が伝わらなかったら?
理由も分からないまま、ただ恐怖が有栖を支配する。
始業のチャイムが鳴り、教授の声が壇上から流れ始める。
有栖は火村から目を逸らし、前を向いた。講義に集中しようとするが、何も頭にはいってこない。
と、有栖の視界にノートが滑ってきた。隣の火村が、自分のノートの隅を指す。そこには流れるように綺麗な字が書かれていた。
『教養数学はxx講師か?』
返答を書く気力も無く、有栖は緩慢に頷いた。火村が文字を続ける。その文章に、有栖は目を見張った。
『あの先生だけらしいぜ、この大学で今時、証明の終わりにQ.E.D.を書くのは』
有栖は茫然と、隣の男の顔を見つめた。火村がさらに文字を続ける。
『それで喜ぶのは、熱烈なエラリイ・クイーンのファンくらいだな。お前も好きだって言ってたよな、アリス?』
少し間をおいて、最後の一行が綴られる。
『俺はエラリイファンじゃない。でも、ああいう頑固な先生は、嫌いじゃない』
文章はそこで終わり、火村はノートを手元に戻すと前を向いた。
有栖は火村の顔を見つめたまま、動けなかった。
火村がQ.E.D.に感動したはずはない。まして、有栖が他人に声をかけてまわったことなど知るはずもない。だからあの文章は共感ではなく、慰めや同情でもない。
自分は自分、火村は他人。でも火村は、全く別の観点から、自分と同じものを見ていた。全く別の価値観で、自分と同じものを好ましいと感じていた。それは共感とは違う、でも確かな感覚の共有だ。
有栖は改めて、鞄の中の紙の束を思い浮かべた。あの作品に対して、おそらく火村は感動も感心もしないだろう。けれど火村は火村自身の価値観で、あの作品に興味を持ったのだ。
有栖は火村の横顔をじっと見つめた。火村の眼差しは黒板に集中し、火村の耳は教授の言葉を漏らさず捉えている。時折、細く長い指が唇を撫でる。相変わらず、いい横顔だ。
不意に、有栖は自分の身体が落下するのを感じた。もちろん錯覚だ。それは先程のように崩れ落ちる感覚ではなく、むしろふわふわと浮いているような不思議な感覚だ。
終業のチャイムが鳴るまで、有栖はずっと、火村の横顔を眺めていた。
「そんなに見るなよ、穴があく」
苦笑する火村に、有栖は笑いながら言った。
「食堂行こ。カレー奢ったるわ」
「俺が何かしたか?」
怪訝そうな火村に構わず、有栖は立ち上った。
「何も。俺の一方的な感謝の気持ちや」
なおも首を捻る火村を連れて、有栖は食堂へ向かった。
「……ス、おい、アリス、起きろ」
「……ん……?」
「食いながら寝るんじゃねえよ」
スプーンを握ったまま、有栖は瞼を開けた。呆れ顔の火村が目の前に座っている。どうやらここは食堂だ。
「俺……寝てたんか……?」
「その皿に顔をつっこむ前に、さっさと食っちまえ」
「あー……うん」
ぼんやりと、有栖はスプーンを口に運んだ。
カレーを奢ってやると言って、火村と食堂に来たのは覚えている。二人分の支払いをしたことも覚えている。が、その後の記憶が無い。カレーが半分ほど無くなっているので、おそらく半分食べたところまでは起きていたのだろう。
どうにか皿を空にした有栖に、火村が言う。
「お前、もう無理だろ。帰って寝ろ」
「でも……四コマ目が必修やから……出席厳しいから出とかんと……」
それまで自習室で突っ伏して寝る、と言う有栖に、火村は仕方ねえな、と頭を掻いた。
「どうせなら横になった方がいいだろ。天気もいいし」
そう言いながら、火村は食堂の外を指した。敷地内には芝生が茂り、あたたかな木漏れ日が鮮やかな影を作っている。
「あかん、あんな気持ち良さそうなところで寝たら、絶対に起きれんわ」
「俺が起こしてやる」
火村の言葉に、有栖は目をぱちくりとさせた。
「君、三コマ目は?」
「たまにはいいさ。それに、読ませてくれるんだろ? って言うか、さっさと読ませろ」
そう言うと、火村は二人分のトレーをさっさと片付け、有栖を屋外へと急き立てた。適当な木陰を見つけ、腰を下ろす。
有栖は芝生の上に、ころりと横になった。爽やかな風が頬に触れる。新緑のざわめきが、鮮やかに力強く、その生命を誇示している。そのまま眠りに落ち始めた有栖に、火村が声をかける。
「おい、寝る前に続きをよこせ」
「ん……鞄の中……勝手に取って……」
がさがさと、火村が鞄を漁る気配がする。瞼を閉じながら、有栖は小さな声で言った。
「なあ、火村……」
「ん?」
「……俺……また次も書くわ……あっと驚くトリックがあるんや……」
ありがとうな、という言葉が火村に届いたかどうかは分からない。ただ火村の気配を隣に感じながら、そのまま有栖は心地よい眠りの中へと沈んでいった。
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