■陥落~あるいはもうひとつのカレー記念日(3)■
ソファの上で、有栖は冊子の『五月二十一日』の部分をなぞった。自然と頬が緩む。
あの時は分からなかったが、何年か後に、有栖は気付いた。
あの日、あの瞬間、あの出来事は、有栖が作家を目指すにあたってひとつの覚悟を決めた日であり、そしてもう一つ──有栖がおちた瞬間だった。火村に落ち、火村に陥ちた。それは間違いなく、あの瞬間だった。
「思い出し笑いか? 気持ち悪いな」
火村の指が、有栖の髪を弄ぶ。くすぐったさに首を竦めながら、有栖はちらりと火村を見た。
「あの頃、君は優しかったなー、って思い出してたんや。今とは大違いや」
平然と火村が言い返す。
「俺は今でも十分に優しい上に紳士的だろ。アリスこそ、あの頃は素直で可愛げがあったな。今とは大違いだ」
「アホか、三十過ぎて素直で可愛げがあったら、気持ち悪いわ」
くすくすと笑いながら、有栖はそっと火村に唇を寄せた。火村の手が有栖の後頭部にまわる。
「ん……っ」
浅く唇を重ね、擽るように上唇を喰む。決して深くは侵入せず、ただ唇と舌で戯れる。
じゃれあいを存分に堪能した後、有栖は甘い息を漏らしながら唇を離した。
「でもまあ、せっかく火村先生がご所望なら、たまには素直になってみるのもええかな」
言いながら、有栖はクッションを手に取った。
「君、二時間早く来たやろ? 俺はその間に、昨日までの仕事疲れを癒す予定やったんや」
「惰眠を貪る、の間違いだろ」
有栖の言わんとすることを察し、火村はソファを空けるために立ち上がろうとした。そのネクタイを有栖の手が捉える。
「ここにおって。そんで、一時間くらい経ったら起こして」
位置的に上目づかいになったのは、計算か、偶然か。火村はしばし、有栖を見下ろした。
「……」
有栖はへらっと笑い、クッションを抱えてソファの半分に丸く寝転がった。
火村は自分の鞄から専門書を取り出そうとして、手を止めた。
「アリス、お前の新刊、書斎から借りるぞ」
「ええけど、なんや、まだ読んでなかったんか。献本したよなあ」
「こういう時のために、大事にとってあるんだよ」
言いながら、火村は三か月前の有栖の新刊書籍を手にリビングへ戻ってきた。丸くなる有栖の頬に優しく触れ、隣に腰かける。
ゆっくりと頁を繰る音を聞きながら、有栖は瞼を閉じた。頬に触れる穏やかな五月の風が心地よい。
ああ、幸せだな、と有栖は思った。
END.
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