■陥落~あるいはもうひとつのカレー記念日(1)■
五月下旬の土曜日、昼下がり。いつもどおり朝食兼昼食を終えた有栖は、リビングのソファに行儀悪く寝転んでいた。クッションを枕がわりに俯せて、何かの参考にと買っておいた雑誌を読むとは無しにパラパラ捲る。
窓辺からは穏やかな光がフローリングの床に零れ落ち、爽やかな風がカーテンを揺らす。きっと窓の外では、新緑が鮮やかに力強く、その生命を誇示しているだろう。耳を澄ませば、風に揺れる木々のざわめきが聞こえてくるような錯覚さえ覚える。
ああ、幸せだな、と有栖は思った。
ここしばらく格闘していた作品は、昨夜無事に担当編集者へ送ることができた。他に差し迫った締め切りは無く、今日からはしばしの休息だ。
有栖はソファに寝転んだまま、仰向けに体勢を変えた。雑誌を床に落とし、瞼を閉じる。頬に触れる穏やかな五月の風が心地よい。たまにはこんな、怠惰な日があってもいいじゃないか──夢のように幸福な微睡みに落ちはじめたその時、有栖の意識は無遠慮なチャイムの音によって、現実に引き戻された。
──ん……?──
ぼんやりとした目で有栖は時計を見上げた。確かに今日、こちらに来るという連絡はあったが、予定の時間はまだ二時間も先だ。心地の良いソファから離れがたく、有栖はクッションに耳を押し付けた。
セールスだったら出る義理は無し。予定外の宅配便だったらごめんなさい。お隣さん、カナリアだったらいくらでも預かるけど、今はもう少しこのままでいさせて──ぼんやりとした意識のまま居留守を決め込んだ有栖の耳に、容赦なくチャイムの音が響く。
チャイムの押し方にも、個性というものがある。
セールスでも宅配便でもお隣さんでもない、この躊躇も遠慮も無い押し方を有栖は良く知っていた。これは居留守が通じない。
ソファの誘惑を振り切り、有栖は玄関へと向かった。別に、予定より早い遅いをとやかく言う間柄では無いが、それにしても。
──『そんなに何度も押さなくても、勝手に入ってくればええやろ? 何のための合鍵や』──
以前そう言ったら、火村は真顔で答えたのだ。
──『アリスが自分でドアを開けてくれるのがいいんじゃないか』──
そういうわけで、火村が自分で鍵を開けることは滅多に無い。鍵を使うのは、主にベッドから起き上がれない有栖を残して帰るときだ。
有栖が内鍵に手をかけようとしたところで、三度目のチャイムが鳴る。
「ええかげんにせえ、近所迷惑や」
憮然としながら、有栖はドアを開けた。
「よお」
合鍵とは鍵を開けるためではなく、閉めるために存在するのだと、それを有栖に教えた男がドアの外に立っていた。
「ずいぶんと早いお着きやな。そんなに俺に会いたかったんか?」
何食わぬ顔をしながら、有栖はリビングの床に落ちたままの雑誌を拾い上げた。
火村は勝手知ったるソファに上着を放り投げ、緩いネクタイをさらに緩める。
「ああ、会いたくてたまらなかったよ、アリス」
一瞬、二人の視線が相手を探るように絡み合う。火村の瞳の奥底に楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「有栖川有栖先生のファン第一号として、最新作の感想を真っ先にお伝えしたくてね」
「誰がファン第一号や」
正確に言うなら、火村はファン第何号でもなく、読者第一号だ。そんなことを思いつつ、有栖は首を捻った。有栖の最新作が書籍として出版されたのは三ヶ月も前だ。それ以外に、最近掲載された作品はあっただろうか。書籍、雑誌、他作家の書籍の解説──
火村が自分の鞄から薄い冊子を取り出した。有栖の表情が固まる。表紙には『英都大学』のロゴと今年の入学式の写真。全十六頁フルカラー中綴じのそれは、英都大学がOB会向けに発行している季刊誌の最新号だ。表紙の小さな活字の中に、その見出しはあった。
──『卒業生インタビュー 推理小説作家 有栖川有栖先生』──
火村がソファにゆったりと腰かけ、わざとらしくゆっくりとページを繰る。
「いつも新刊は俺にくれるのにな。しかもこの写真、大学の図書館じゃねえか。知っていたら、有栖川先生の晴れ姿を見物しに行ったのに」
見物、と言う時点で語るに落ちている。現に、いかにも残念そうな口調とは裏腹に、火村の顔はにやにや笑っている。
有栖は観念し、火村の隣に腰かけた。一応、反論を試みる。
「第一に、君に渡しているのは書籍だけや。雑誌や小冊子まではいちいち渡しとらんやろ。第二に、もし事前に知っていたとして、社会学部助教授の君が何の理由で広報課の取材に押しかけるんや。そして最後に、それは俺の作品では無い。文章に起こしたのは広報課の職員さんや」
「第一の理由は認めよう。第二の理由は、旧友の成功を祝して。そして最後の反論は認めない。口述筆記だと解釈すれば、それはお前の文章だろう」
火村の指が、有栖の文章をなぞる。記事は見開き二頁だ。インタビューは今の仕事に対する想いや後輩へのエールなどで、有栖が丁寧に選んだ言葉が続いている。添えられた写真は、図書館前で撮影したものだ。もし担当編集者である片桐に見せたら『著者近影よりひどいですね』と言われそうなほど、写真の中の笑顔はひきつっている。
「ところで、この数学の講義、っていうのは?」
「え?」
それは短い質問と短い回答だった。
──『学生時代の体験で、後に作家として大きな影響を受けた出来事は何ですか?』──
──『二回生の時の数学の講義です。最も感激した講義でした。日付まで覚えていますよ、五月二十一日です』──
有栖は内心の動揺を押し隠して、尋ねた。
「君、覚えとらんか?」
「何があったか、は覚えている。ただ、法学部の教授を差し置いて、数学と答えたのが気になっただけだ」
火村の答えに、有栖は笑った。
「まあ、君が社会学部以外の講義を挙げたら、そら角が立つなあ」
笑いながら、有栖は冊子の『五月二十一日』の部分をなぞった。
火村はきっと、あの日の出来事がどんな意味を持っているのか、それを知らない。いや、おそらく理解できないだろうし、理解する必要も無い。ただ、火村が今でも同じ記憶を共有していたこと、それが有栖は嬉しかった。
|