■春を忘るな(3)■


 有栖が再び目を覚ました時、部屋の中はすっかり明るくなっていた。ぼんやりと時計を見上げる。火村はもう大学に着いている頃だ。きっと慌てて会議の準備をしているのだろう。
 だるい腰をさすりながら、有栖はベッドから這い出した。カーテンを開けると、昨日とは打って変わって青空が広がっている。暖かな日差しに、有栖は目を細めた。
 遠くに茶色い樹が見える。この陽気なら、数日中に花をつけるだろう。この窓から見えるあの桜は、かの有名な小説のように、血を吸って紅く染まるのだろうか──
 あえりえない夢想だとは自覚しつつ、有栖の頭に一年前の記憶が蘇る。
 
 一年で一番寒い、あの冬の日の夜遅く、突然かかってきた電話。
 友の窮地を伝える声に頭が真っ白になり、すでにそれを脱したことを伝える声に脚の力が抜けた。
──何故、どうしてそんなことになったんや、火村の阿呆──
 火村が無事だったことへの安堵と、犯人への怒りと、火村自身への怒りでその夜は眠れなかった。
 日が経つにつれ、その怒りは自分への無力感へと変わっていく。火村からは何の連絡も無かった。
 そして有栖は結論を出した。
 それが火村の選択だったのなら、自分もそれを受け入れよう。とにかく火村は生き残ったのだ、ならばそれでいい──
 有栖は一度も、病院へ見舞に行かなかった。
 一度だけ、火村から電話があった。静養と隠遁を兼ねて、三重の小島にしばらく身を寄せる、と。
──『見舞いに行ってやろうか?』──
 震える声を抑え、平静を装い、一縷の望みをかけて問うた有栖の言葉に、電話口の火村はあっさりと言った。
──『別に重症じゃねえし、ちょっとの間、匿ってもらうだけだ。お前も仕事があるだろう』──
 そうか、じゃあせいぜい保養しろ、土産は伊勢海老がええな、と答えて有栖は電話を切った。
 その時も思った。見舞いが不要だと言うのなら、それが火村の選択なら、自分もそれを受け入れよう。今思えば、それは既に凝り固まった意地だった。
 火村がいない日々は、何も支障がなかった。お互い仕事が忙しければ、一ヶ月くらい会えない時もある。それと同じだ。そう思って過ごしていた、あの日。寒さの中、急に暖かくなった三月のあの日。
 有栖は何気なく窓の外を見て、動けなくなった。桜が咲いていたのだ。
 それを見た途端、蓋をしていた思考が溢れ出した。
 見舞いに行かない自分。来てくれと言わない火村。
 行動の理由を問う勇気がない自分。選択の理由を言わない火村。
 自分はいったい、火村の何なのか。
 親友、旧友、腐れ縁、助手、動物的本能が求める唯一の相手、人間的感情が求める唯一の相手。
 どれも真実だ。でもただ一つ、ここにはない、あてはまらない言葉がある──
 そうして有栖は生まれて初めて、物語の中以外で、人を殺した。死体の始末には困らなかった。目の前に桜があるなら、埋めてしまえばいい。推理小説じゃあるまいし、死体の始末方法に凝る必要などない。およそ大抵の人間が思いつくであろう、呆れるほどに陳腐なこの方法で十分だ。この殺人にはむしろ、それが相応しい。
 そうして有栖は、人を殺したことを誰にも──火村にも──告げなかった。
 
 有栖は窓から、遠くに見える茶色い樹を見つめた。未だ蕾であろうその樹の上に、血に染まった鮮やかな花びらを夢想する。あの樹の根元には、死体が埋まっている。それを知っているのは自分だけだ。死体の血を吸った樹には、紅に染まった美しい花が咲くのだろうか──
 妄想から我に返り、有栖は苦笑した。あの桜が血を吸ったとして、その花が美しいはずはない。こんなに醜い感情を持つ死体が、美しい花に変わることなどありえないのだ。
 有栖は昨夜の火村の声を思い出した。
──『愛している』──
 どんなに表現を駆使しても、これを超える言葉など無いのだと有栖は思い知った。桜の儚さが、月の美しさが如何ほどのものか。魂を求めて鮮烈に紡がれるこの言葉の前には、理性が捻くり廻した言葉など霧散する。
 有栖は空を見上げた。暖かな日差しと少し強い風が、春の訪れを告げている。三月下旬になっても氷雨が降った昨年とは全く違う。そう、昨年とは違うのだ。
 あの死体を掘り出そう。有栖はそう思った。強引に暴いて欲しいと願う、それこそが醜い欲望だ。
──今度こそ火村は気付くだろうか。一年前の殺人に──
 有栖は苦笑した。気付いて欲しいと願うことこそが醜いと、今、自覚したばかりではないか。
 それでもなお心の片隅で、火村に暴かれることを望んでいる自分がいる。それは遥か昔、有栖自身が知らなかった身体の奥に火村を求めてやまない場所があると、それを火村自身によって次々に暴かれたあの頃の、甘い疼きに似ていた。



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