■春を忘るな(4)■


 会議を終えた火村がようやく夕陽丘に着いた時、時刻は既に夜の十時を回っていた。
 朝晩と続けての強行軍に、肉体が疲れを訴える。だがそんなことにかまってはいられない。
 マンションを見上げると、有栖の部屋は真っ暗だった。眠っているのか、あるいは外出しているのか──
 インターフォンのボタンを押すが、案の定、返事はない。合鍵でドアを開けようとして、火村は思い留まった。まずは電話だ。
 ワンコールがやけに長く感じられる。コール数が十を超えた頃、ようやく声が聞こえた。
『……火村?』
「アリス、今、どこにいる!?」
『どこって……家の近くの公園やけど……急にどうしたん?』
「公園って、窓から桜が見える、あの公園だな!?」
 暫くの沈黙の後、小さな声が答えた。
『……そうや、その公園や。なあ、君、どうしたん?』
 有栖の問いに答えず、火村はエレベーターに向かいながら早口に言った。
「すぐに行く。そこで待ってろ」
『行く、って、君、今どこにおるんや!?』
「お前の部屋の前だ。ああ、正確にはエレベーターの……中……」
 途切れがちの通話に苛立ちながら、火村は階数を示すランプを睨んだ。チン、という音と共にドアが開き、通話が回復する。
『君、また来たんか!? 今度は何の忘れ物や』
「いいな、そこで待ってろ」
 問いには答えず、火村は通話を切ると夜道を走り出した。
 
 
 
 人気のない夜の公園のベンチに有栖は座っていた。ベンチの隣には小さな常夜灯があり、春の夜風が、蕾を膨らませた桜の枝を揺らす。息を切らして走ってくる火村の姿に気づき、有栖が苦笑した。
「君、何度来れば気が済むんや」
 上がった息のまま、火村は有栖を見下ろした。
 有栖はベンチに座ったまま、穏やかに微笑んでいた。突然の来訪を疑問に感じている様子は無い。
 微笑んだまま、有栖はベンチの隣を指した。
「ホンマに、君は何でもお見通しやな。さすがは名探偵や」
 息を整えながら、火村は隣に腰を下ろした。
「解決に一年も掛ける名探偵はいねえよ」
 火村の言葉に、有栖は笑った。
「そんなら俺は、名探偵を一年も騙しとおせたんか。結構、ヒントをばら撒いてたつもりやったんけどなあ」
 そのヒントに気付きながら、その意味を追及しようとしなかった、それは十年を超える年月に対する油断──或いは甘え──だ。
「きっかけは昨年のデスゲーム。そうだな?」
「……ああ、そうや」
 騙され、拳銃を突きつけられ、毒を飲み、病院に担ぎ込まれ、そうして火村は生還と勝利を得た。一年前の出来事だ。
「……悪かった」
「何がや?」
 あくまで穏やかに、有栖は桜を見上げた。
「お前に心配をかけた。余計な心配をかけたくなくて、連絡もほとんどしなかった。そして全てが終わった後も、俺はお前に心配をかけたことを謝らなかった」
「……それだけか?」
「それから……」
 言い辛そうに言葉を濁す火村に、有栖がくすりと笑った。
「まあええわ。それ、一年前に聞けてたら、俺も人殺しなんてせんでも済んだかもなあ」
 思わず顔をあげた火村に、有栖はすぐ傍の桜の樹の根元を指した。
「一年前に殺してな、そこに埋めたんや。今から掘っても無駄やぞ? さっき自分で掘り出したから。残っているのは俺の自白だけや」
 火村は桜の根元に目を走らせた。地面は平坦で、掘った跡はどこにもない。
 有栖は樹を見上げながら、穏やかに続けた。
「勘違いするなよ、俺が殺人を犯した動機は、まあお前のせいではあるけれど、お前の言動が原因やない」
 有栖は自嘲気味に顔を歪めた。
「可笑しかったら笑え。俺はな、お前に会いたかったんや。理屈やない、恋人が死にかけたんや、何を置いても駆けつけたいのは当たり前やろ? なのに俺は、見舞いにも行かんかった」
「それは……!」
 思わず開いた火村の唇を、有栖は目線で止めた。
「言うたやろ、お前の言動は原因やない。お前が何を言おうと、俺が形振り構わず飛んで行けば良かったんや。でも俺はそうしなかった。それが全てや。死にかけた恋人に会いに行かんなんて、それは恋人ちゃうやろ」
「アリス、俺は……」
 言葉を遮り、有栖は火村の方を向いた。
「なあ、もう分かっているやろ? 俺が誰を殺したか」
「ああ」
 火村は静かに言った。
「殺されたのは有栖川有栖。正確には、火村英生の恋人である有栖川有栖」
「さすが名探偵」
「つまり俺には一年間、恋人がいなかったわけか」
「そうや。残念やったな、気付いていたら浮気し放題やったのにな」
 笑いながら減らず口を叩く有栖の身体が、不意に強く引かれた。力強く抱きしめられる。夜風に冷えた身体に温もりが伝わる。低い声が有栖に届く。
「もういい、もういいんだ、アリス」
「火村、俺な──」
「俺も会いたかった、死なないと分かっていても万が一を想像した時浮かぶのはお前の顔ばかりだった、入院中も三重にいた時も会いたかった、声が聞きたかった、顔が見たかった、抱きしめたかった」
「ちょ、おい、火村やめろ! 俺の言いたかったこと全部言うな!」
 有栖の制止も聞かず、火村は続けた。
「──会いたかった。生きていることを実感したかった」
「……」
「……でも、合わせる顔がなかった。勝手に騙されて勝手に死にかけて、愛想をつかされたらどうしようかと思った」
 火村の腕の中で、有栖は目を丸くした。
「君、そんなこと考えてたんか!? 阿呆にも程があるわ」
「ああ、今、自分で言いながら、心底呆れている」
「君なあ……」
「アリス、悪かった」
 唇がそっと触れた。
「ん……」
 重なった唇から、鼓動が伝わる。この一年、何度となく確認した、それは生きている証だ。
 昨日の言葉が蘇る。
──ありとあらゆる言葉を尽くしたっていいんじゃないか──
 十年という時間を経てなお、言葉にしないと伝わらないことがある。
 有栖はそっと唇を離した。
「なあ、火村」
「なんだ?」
「愛してる。君だけや」
 火村は驚いたように目を見開き、そして泣きそうな顔で笑った。
「愛しているよ、アリス」
 お互いの鼓動が重なる。その音を聞きながら、有栖は桜の下に想いを馳せた。
 火村はきっと気付いているはずだ。有栖が殺して埋めたのは一人ではない。
 もう一人は火村英生。正確には、有栖川有栖の恋人である火村英生。もちろん一緒に埋めて、一緒に掘り出した。
 一年間、土の下に埋まっていた恋人たちは、桜の下でもう一度唇を重ねた。
 
 
 
END.



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