■春を忘るな(2)■
京都へと車を走らせながら、火村はダッシュボードから眠気覚ましのガムを取り出した。まったく、寝不足で事故など洒落にならない。しかもその寝不足の原因が、恋人との甘く熱い夜に耽溺したせいとあっては、全く同情に値しない。火村はガムを口に放り込んだ。先ほどコンビニで買ったコーヒーが冷めるのは、まだもう少し先だ。
──恋人──
赤信号を見つめながら、火村は想いを巡らせた。有栖が『恋人』という言葉に拒否反応を起こすようになったのは比較的最近だ。最初は、そう──去年の春だ。去年は四月になっても寒かった。あの日はフィールドワークの途中、急に冷たい雨が降り出した。傘が無い火村に、有栖は自分の傘の半分に火村を入れて、言ったのだ。
──『恋人でもないのに、相合傘なんて、変やな』──
あの時はその言葉に驚きはしたが、人目もあり、追及はできなかった。その後、稀に有栖はその言葉を口にするようになった。
──『俺とお前は恋人やないやろ』『恋人でもないのに──』──
もしや別れを切り出す気か、と思ったが、そうでないことはすぐに分かった。恋人ではない、と言う以外、有栖の言動には全く変化がなかったからだ。
フィールドワークはもちろんのこと、電話をし、都合をつけて会い、甘い軽口を叩きあい、食事をし、キスをして、セックスをする。もう十年以上前の、思い出すのも恥ずかしい拙い告白から始まったそれは、今でも何ら変わりはない。挙句、昨日は『愛している』という言葉に、真っ赤になりながら同じ言葉を返してくれたではないか。これが恋人でなくて何だと言うのか。
信号が青に変わり、火村の車は再び走り出す。
確かに今まで、明確に「自分たちは恋人同士だ」と確認しあったことはない。それは自明の理だからだ。それをいきなり「恋人ではない」と否定するのはおかしい。それでも、有栖がそれを口にすることは稀だったから追及しなかったが、一昨日と昨日はやけにその言葉が多かった。
去年の春──あるいはその前──何があったのか。
そこまで考えて、火村は危うくベンツをエンストさせそうになった。
確かにあった。去年の春のその少し前に。忘れることのできない出来事が。
あの時、有栖の態度があまりにもいつもどおりだったので、火村はさして気にも留めていなかった。だが、もしあれがきっかけなら──有栖が一年もの間、黙ってそれに苦しんでいたとしたら──
「クソッ」
火村は自分の愚かさを呪った。今すぐにでも引き返したい。有栖に会って真相を確かめたい。あの時、言えなかった言葉を伝えたい。
だが、火村にはそれができなかった。会議の時間は迫っている。有栖が言うところの『臨床犯罪学者』であり続けるためには、欠くことのできない義理というものがある。
苛立ちを抱えたまま、火村のベンツは進路を変えることなく、京都へと向かった。
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