■春を忘るな(1)■
──『愛している』──
上擦ったバリトンボイスが有栖の耳元で囁く。胎内を深く穿つその熱と同じだけの熱さで、その言葉は有栖の脳を犯す。
囁かれるたび、有栖の内壁は火村に絡みついた。浅く腰を引かれれば、行かないでくれと縋りつく。言葉にならない魂の悲鳴が、ただ喘ぎとなって口から溢れる。
眦に火村の唇が触れた。
「キツイ、か?」
熱く息のまま気遣うように問われ、有栖は自分の目から涙が溢れていることに気付いた。
「……なんでもない……平気や……」
ぼやける視界のまま火村を見上げ、有栖は微笑を作った。叫びが口だけでなく目からも溢れているのだと、それを伝えるかわりに有栖は脚を火村の腰に絡めた。
「なあ、火村……もっと……奥まで……きて……」
もっと奥まで貫いて、見せるつもりのないその奥底を強引に暴いて、そして──
「ひ、あ、あ……ッ……」
火村が脚を抱え直した。垂直に奥深く、熱が有栖の身体を貫く。その間も火村は低い声で囁き続けた。
──『愛している、アリス、愛している』──
その言葉に引き裂かれながら、有栖の身体は貪欲に火村をより奥へと導く。止まらない涙を快楽のせいにして、有栖は火村の頭に腕を伸ばした。
優しく甘く愛を紡ぐその酷薄な唇を、有栖は涙に濡れた自分の唇で塞いだ。
何かが動く気配に、ゆっくりと意識が浮上する。無意識に伸ばした指先が、誰もいないシーツに触れる。
「……火村?」
自分でも驚くほどのかすれ声しか出ない。カーテンから僅かに漏れる光が、今が早朝であることを示している。
寝室のドアの向こうから声がした。
「悪い、起こしたか」
ああ、そうだ、火村は今日は午後から会議だ、これから車で京都まで帰るのか──ぼんやりとした頭が、次第に状況を把握する。
「っ……」
起き上がろうとするが、腰に力が入らない。這いずるようにベッドから出ようとしたところで、身支度を整えた火村が寝室へと戻ってきた。
「無理するな、宵っ張りで自由業のセンセイはまだ起きる時間じゃないだろう?」
「俺が自由業なのをいいことに夜更かしさせた張本人が、よう言うわ」
精一杯の減らず口に、火村はにやりと笑った。
「あいにくと、『もっと』と強請られてやめられるほど、老成はしていないんでね」
火村がベッドに片手をついた。マットレスがギシリと沈み、柔らかく唇が触れる。緩んだネクタイが、有栖の裸の胸にさらりと触れる。その甘い感触が昨夜の記憶を呼び覚まし、有栖の身体が僅かに震える。
「もう少し寝てろ、鍵はかけていくから」
「……ああ、そうさせてもらうわ」
唇を離し、火村が低く囁いた。
「アリス、愛している」
「……朝から言うことちゃうやろ」
顔が火照るのを自覚しながら、有栖は精一杯、火村を睨みつけた。
「『想いを伝える言葉にふさわしい時間はあるのか』──そのテーマは今後じっくりと探究するとして、今は簡潔な返事が聞きたいな」
火村がわざとらしく腕時計を見る。有栖は観念し、小さな声で囁いた。
「俺も──愛してる。……気をつけて行けよ、寝不足で事故なんて洒落にならんからな」
「ああ」
笑いながら火村が寝室を出ていく。やがてドアが閉まる音と共に、鍵をかける音がした。
遠ざかる足音を心の耳で聞きながら、先ほどの言葉をもう一度小さく繰り返し、有栖は再び微睡みに落ちて行った。
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