■Weekend Lover(2)■


 翌日、土曜日。
 冬貴は今日、彼女とデートの約束をしていた。夕方に待ち合わせをして、街で食事をして、彼女の部屋で明日まで過ごすはずだったのだ。
 しかし、楽しい週末の予定は、あっさりとキャンセルされてしまった。
 待ち合わせをしたカフェで、彼女は悪びれもせずに言ったのだ。
『今、付き合っている人がいるの』
 それが別れの言葉であることは、明白だった。
 呆然とする冬貴に伝票を押し付け、彼女はさっさと帰ってしまった。
 要するに、二股をかけられた挙句に捨てられたのだと理解するまで、たっぷり三十分はかかった。
 そこからどうやってアパートに帰ったのか、覚えていない。
 とにかくもう一度話をしようと思い、電話をかけたところ、結果は着信拒否。
 ようやく我に返った冬貴は、携帯電話をベッドに叩き付けると、その足でコンビニに行きビールとつまみを山ほど買い込んだ。
 テーブルの上にそれらを乱暴に広げ、缶ビールのプルタブを勢い良く引く。一気に喉に流し込むと、冬貴は缶をぐしゃりと握りつぶした。
 ──ふざけんなっ!──
 サキイカの袋を乱暴に開けようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
 ──こんな時に誰だよ。セールスとかだったらキレるぞ──
 冬貴はのろのろと立ち上がり、ドアを開けた。
「あ、あの、こんばんは」
 ドアの外にいたのは、昨晩、自転車で盛大に転んだ青年だった。
「あんた、昨日の……」
「昨日は大変お世話になりました。あの、これ、ささやかですけどお礼です」
 凪は礼儀正しく頭を下げると、ビニール袋を差し出した。
「気を使わなくっていいのに」
 言いながら受け取った袋の中身は、タイミングの良いことに缶ビールの六缶パックだった。しかも冬貴の好きな銘柄だ。
「お煎餅とかタオルより、こっちの方がいいかと思って……」
「ありがたくもらっとくよ。足の具合はどう?」
「今日、仕事を休んで病院に行ってきました。縫うほどの怪我ではないそうです。骨も異常なしでした」
「そりゃ良かった」
 あれだけの出血だったので心配していたのだが、意外に元気そうなのでほっとした。冬貴の安心した表情につられるように、凪も照れくさそうに笑った。
「自転車も預かってもらって、ありがとうございました。今日、持っていきますから」
「乗れるのか? 無理すんなよ。うちならいつまで置いておいてもかまわないし」
 ありがとうございます、ともう一度言い、凪はにっこりと笑った。ふんわりとした、見ているこっちまで和んでしまいそうな笑顔だ。
 ──あいつにもこのくらい、愛想があればなぁ──
 不意に彼女のことが頭に浮かび、振られたことを思い出した冬貴は落ち込んできた。
「あの、倉田さん?」
 急に眉間にしわを寄せた冬貴に、凪が怪訝そうに声をかける。
「あ、いや、なんでもない……」
 じゃあ、失礼します、と出て行こうとする凪を冬貴は反射的に呼び止めた。こんな時に、一人で飲んでいたのではますます落ち込んでしまう。
「あんた、今日、暇?」
「え? 特に用事はないですけど……」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれない? 一人で飲んでてもつまんなくってさ」
 駄目モトで言ってみたのだが、凪は意外なほどあっさりとのってきた。
「じゃあ、ちょっとだけお邪魔します」
 冬貴の部屋は八畳の和室で、ベッドやテレビなどがある、ごく普通の男の部屋だ。小さなテーブルの上に、飲みかけのビールやつまみなどが散乱している。
「足、伸ばしたほうが楽だろ?」
 冬貴はクッションを壁際に置いた。これなら凪は、あぐらをかかなくても楽に座れる。
「飲み物、ビールでいいか? ……って、そういやあんた、怪我人だっけ」
 冬貴は冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルとグラスを持ってきた。
「あー、食い物、乾き物しか買ってねえや。あんた、晩メシ食った?」
「いえ、まだです。よかったら、僕、何か作りましょうか?」
 凪の思いがけない申し出に、冬貴は驚いた。
「え? あんた、メシ作れるの?」
「坂の上にある、前坂亭っていうレストラン、知ってますか? 僕、そこで働いてるんです」
 その店は冬貴も知っていた。入ったことはないが、「中華&洋食レストラン」という看板が出ていた記憶がある。
「へー、そうなんだ。俺、学生とかかと思ってた」
「……」
 一瞬の間の後、凪は苦笑した。
「僕、そんなに若く見えます……?」
「え、でも、俺よりは下だろ?」
「倉田さん、おいくつですか?」
「二十四」
「僕は二十六です」
「……」
 ──嘘だろ!? どう見ても二十歳そこそこじゃないか! ってことは俺、年上にタメ口きいてた!?──
 冬貴は思わず正座をし、頭を下げた。
「すみませんっ! タメ口きいちゃって……」
 小学校から大学までスポーツ一筋、現在は営業職の冬貴は、バリバリの体育会系育ちだった。年上にタメ口など、とんでもないことだ。
「え? そんなこと気にしなくていいですよ、二つしか違わないんだし……」
 慌てる凪に、冬貴は言い募った。
「俺のことは呼び捨てにしてください。敬語もダメです」
「えっと……」
 体育会系に縁のない凪は、冬貴が何故、年齢にこだわるのかさっぱり分からない。しかし、冬貴のあまりに真剣な様子に押されて、妥協案を考えた。意図的に敬語もやめてみる。
「じゃあ、呼び捨ては好きじゃないから、『倉田くん』でどう?」
「はいっ、それでいいです、望月さん」
 『あんた』からいきなり『望月さん』に変わって、凪はなんだかこそばゆい感じがした。
「そんな堅苦しく呼ばなくていいよ。それに、『望月』って、言いにくくない?」
 確かに少々発音しづらい苗字ではある。
 ──そういえば、この人の名前は『凪』だったっけ。優しい音で、なんか雰囲気にぴったりだよな──
 冬貴はしばらく考えた後、恐る恐る言ってみた。
「『凪さん』でどうですか?」
 凪は一瞬、驚いた顔をし、その後、急に真っ赤になった。
「ど、どうしたんですか? やっぱり『望月さん』の方が良かったですか?」
 焦る冬貴に、凪は慌てて「ううん、なんでもないよ」と答えた。
「その呼び方でいいよ。あ、僕、晩御飯作るね。キッチンと食材、借りていいかな?」
「あ、どうぞ。手伝いますよ」
「い、いいよ、簡単に作っちゃうから」
 凪は真っ赤な顔のまま、逃げ出すようにキッチンへと行ってしまった。
 しばらくは冷蔵庫や戸棚を漁る音がしていたが、やがて、軽快な包丁の音が聞こえてきた。料理慣れしているのは本当のようだ。何かを炒める音とともに、食欲をそそるいい匂いが漂ってくる。
 十五分後、凪は皿をお盆に載せて部屋へと戻ってきた。
 トマトと卵の炒め物に、じゃが芋とピーマンの千切り炒め、中華スープ、きゅうりと春雨のサラダと、とても十五分で作ったとは思えない品数だ。
「すげー、美味そう!」
「食材、結構使っちゃった。後でお金出すね」
「いいですよ、そんなの! うわー、中華料理屋みたいだ!」
「一応、プロだからね」
 ちょっと得意そうに、凪が笑う。
 冬貴はビール、凪はウーロン茶で、夕食兼飲み会が始まった。
 小さなテーブルいっぱいの料理を、冬貴は「美味い!」を連発しながら平らげた。
「でね、凪さん、あいつってばブランドのバッグとか有名なレストランとか、とにかくそういうのが大好きなんですよ。たかが布のかばんが十万円ですよ!? 信じらんねー」
 ビールがウイスキーに変わり、いつの間にかすっかり酔っ払った冬貴は、別れた彼女のことをべらべらとしゃべっていた。
「でも、女の人ってそういうの好きだよね」
 凪は、そんな冬貴の話を嫌な顔もせずに、にこにこと聞いている。
「そりゃ俺だって、高級なレストランでフルコース、とかスイートルームを予約、とかやってみたいですよ。でも、クリスマスとかならともかく、毎回は無理だし」
「それはそうだよね」
「本当はもっと、フツーの付き合いがしたかったんですよ。遊園地でデートとか、安くて美味い居酒屋とかでメシ食ったりとか」
 グラスの残りを一気に飲み干し、冬貴は溜息をついた。
「やっぱり、俺には無理だったのかなぁ」
 凪は黙ってグラスのウーロン茶に口をつけた。
 と、萎れていた冬貴が急に顔をあげ、凪に詰め寄った。
「そうだ、凪さんは彼女いるんですか?」
「え? 僕は……その……」
「あ、いるんでしょ。どんな人ですか? かわいいタイプ?」
 凪は答えにくそうに視線を逸らしながら、ぽつりと答えた。
「先月まではいたんだけどね……僕も、別れちゃったんだ」
 しまった、というように冬貴の顔が強張る。
「すみません、俺、無神経なこと聞いちゃって……」
「あ、気にしなくていいよ、もう過去のことなんだし」
 少しつらそうに笑う凪が、なんだか痛々しい。
「だ、大丈夫ですって。凪さん、優しいし、料理上手だし、きれいな顔してるし! すぐに次の彼女ができますって!」
 自分でも何を言っているのか分からないが、冬貴はとにかく凪を元気付けようとフォローを入れる。
 凪は一瞬、複雑な表情をしたが、くすっと笑い「そうだといいね」と答えた。
「倉田くんも、また、いい人と出会えるといいね」
「そうですねー。そうだといいんですけど……。あ、そういえばこないだうちの上司がね、……」
 話題は職場の愚痴に変わり、冬貴は酔った勢いでしゃべりまくった。
 凪も上手に相槌を打ちながら、時折、自分の仕事の話をする。
 お互い、縁のなかった職業の話に興味が湧き、話は盛り上がった。
 結局、凪が冬貴のアパートを出たのは深夜だった。



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