■Weekend Lover(1)■


 九月上旬の、まだ残暑の気配が残る金曜の夜。
 倉田冬貴はアパート近くの坂道を登っていた。目的地は、坂の上にあるコンビニだ。住宅街のせいか、午後八時を過ぎたばかりだというのに人通りは全くない。
 空はきれいに晴れ、満月に近い月が煌々と辺りを照らしている。
 ──坂の上に、見晴らしのいい空き地があったよな。月を見ながらビールなんて、ちょっと風流かも──
 そんなことを考えつつ、冬貴は月を眺めながらのんびりと坂を登っていく。
 その時。急に視界がまぶしくなった。同時に金属が軋むような激しいブレーキ音が響きわたる。
 ──自転車!?──
 月に見とれていたため、反応が遅れた。坂を猛スピードで下ってきた自転車は、冬貴めがけてまっすぐに突っ込んでくる。
 ぶつかる、と思った瞬間。
 ガシャーンと大きな音がし、ブレーキ音はやんだ。
 転倒した自転車の車輪がカラカラ回り、その脇には人が倒れている。
「大丈夫か!?」
「……すみません……ぶつかって……ないですよね……?」
 人影は弱々しい声を出しながらゆっくりと起き上がった。二十代前半だろうか、冬貴より少し若いくらいの年齢の青年だった。
「こっちは大丈夫だ。そっちこそ大丈夫か?」
「はい、僕は大丈夫……痛っ……!」
 青年は立ち上がろうとして、大きくよろけた。反射的に、冬貴は青年の身体を抱きとめた。
「あ……すみません……」
 見ると、左足のジーンズが大きく破れ、裂け目が赤黒く染まっている。
「血が出てるじゃないか」
「あ、大丈夫です、立てますから……」
 青年は冬貴の腕を借りて、何とか自力で立った。
「すみませんでした、僕の不注意です。あの、本当にお怪我はありませんか?」
「いや、ぶつかってないから大丈夫。こっちこそ、道の真ん中を歩いていて悪かった」
 冬貴の言葉に、青年はほっとしたように笑った。
「本当にすみませんでした」
 青年は屈みこんで自転車を起こそうとしたが、足が踏ん張れないせいか、なかなか起すことができない。
 冬貴は見かねて、自転車を起すのを手伝った。
「あんた、その足で自転車に乗れるのか?」
「大丈夫ですよ。 ……多分」
 愛想よく笑ってはいるが、青年の額には脂汗が浮かんでいた。痛みをこらえるように眉根を寄せながら、それでも笑顔で自転車に跨がろうとする。アスファルトに点々と、血が滴る。
 ──ダメだ。見ちゃいらんねえ──
 男という生き物は、大抵は血に弱いのだ。
「手当てしてやる。俺のアパート、すぐそこだから」
「え、そんな、大丈夫ですよ」
 笑顔のまま拒絶する青年に、冬貴は声を荒げた。
「大丈夫じゃねえよ! っていうか、見てる俺の方が具合悪くなりそうなんだよ! いいから来い!」
 その剣幕に押されたのか、青年はうわずった声で「は、はい」と答える。
 冬貴は自転車のハンドルを青年から奪った。
「歩けるか?」
「はい」
 青年は、斜めがけにしていた布バッグからハンカチを取り出し、傷口を上から縛った。白いハンカチはたちまち赤黒く染まる。
 その様子に顔をしかめながら、冬貴は自転車を押して坂を下り始めた。後ろから、ひょこひょこと足を引きずりながら、青年が続く。
 坂を下りきり、アパートの前に自転車を停めると、冬貴はドアの鍵を開けた。
「お邪魔します……」
 青年がおずおずと中に入ってくる。
 明るい電気の下で青年の足を見た冬貴は、気を失いそうになった。ジーンズもハンカチもスニーカーも、何もかもがどす黒い。
「そこに座ってろ」
 冬貴は、玄関から一段上がった、フローリングの廊下を指し、救急箱を取りに部屋へはいった。
 救急箱と新聞紙を持って戻ってくると、青年は言われたとおり、廊下に座り込んでいた。少し顔色が悪い。
 冬貴は青年の足元に屈み込むと、下に新聞紙を敷き、ハンカチを外した。
「ジーンズ、切っていいか?」
「あ、はい」
 青年の了解を得て、ジーンズの裾部分を切り落とす。脱脂綿に消毒薬を含ませ、傷口にあてた瞬間、青年が息を呑んだ。
「痛……っ」
「我慢しろ。きれいにしておかないと、化膿するぞ」
 冬貴は丁寧に、血と泥を拭き取っていった。徐々に傷口が露になっていく。
「面積は広いけど、そんなに深くはないな」
「……手当て……慣れているんですね」
 途切れ途切れに息を吐きながら、青年が言った。
「昔、サッカーをやってたからな。怪我する奴は多かったし」
 冬貴はガーゼを取ろうと、救急箱に手を伸ばした。ふと、青年の顔が目に入る。その時初めて、冬貴は、青年が随分と整った顔立ちをしていることに気がついた。
 うっすらと濡れた長いまつげが細かく震えている。唇の薄い口元はきゅっと結ばれ、痛みに耐えているのがありありと分かる。
 ──うわ、なんか俺がいじめてるみたいじゃないか。そんな顔してると、本当に泣くまで消毒するぞ。っていうか、こいつ、泣かせてみたいかも──
 そこまで考えて、冬貴は愕然とした。動揺のあまり、ガーゼを取り落としそうになる。
 ──なに考えてるんだ! 相手は男だぞ! しかも怪我人だってのに、これじゃまるで俺がサドの変態みたいじゃないかっ!──
 努めて冷静さを装いながら、冬貴は傷口にガーゼをあて、手際良く包帯を巻いていく。
「これでよし、っと。立てるか?」
「あ、はい、ありがとうございました」
「今日はタクシー拾って帰れよ。自転車はそこに置いておくから、いつでも取りに来ればいい」
「いろいろとすみませんでした」
 青年は手帳を取り出し、何かを書き付けると破りとって冬貴に渡した。
「僕の連絡先です。何かあったら連絡してください」
 紙には丁寧な字で、携帯番号と一緒に「望月凪」と書かれていた。
「もちづき……何?」
「なぎ、です。あの、あなたのお名前は……?」
「倉田冬貴」
 冬貴はそこで初めて、自分たちが名乗っていなかったことに気づいた。
「倉田さん、ですか。本当にありがとうございました。後で、改めて、お礼に来ます」
「気にしなくていいって」
 凪は一礼し、ドアを開けようとしてまたよろけた。
「あーもう、危ねえなあ」
 結局、冬貴は凪に手を貸しながら大通りまで行き、タクシーを拾った。
 去っていくタクシーの中で、凪は何度も頭を下げていた。




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