■目を閉じて、声で感じて(4)■


 気がついた時、健司は自分がどこにいるのか分からなかった。
 寝かされていたベッドの上に、ゆっくりと起き上がる。どうやら誰かの部屋のようだ。壁にはサッカーのユニフォームや有名選手のポスターが貼られている。
「あ、起きましたか?」
 部屋の中で、大きな人影がのっそりと立ち上がった。
「……桧垣……か? 俺、どうして……」
 桧垣はグラスにミネラルウオーターを注ぎ、健司に手渡した。
「あー、覚えてないんですか? 健司さん、飲み会の途中でつぶれちゃったんですよ」
 そういえば、手酌でがんがんビールを飲んで、その後、焼酎に突入したような記憶はある。
「一応、自分の足で歩いてはいたんですけどね。 俺の腕を捉まえて放してくれないんで、タクシーで俺のアパートまで連れてきたんです」
 健司はグラスの水を一気に飲み干した。ぼんやりとしていた頭が、水の冷たさではっきりとしてくる。
「迷惑かけたな。 タクシーでも拾って帰るよ」
 言いいながら、健司は立ち上がろうとした。
「『健司』」
 不意に聞こえた声に、健司の動きは止まった。
 忘れたくても忘れられない、懐かしい声、懐かしい呼び方。だが、ここにいるのは桧垣のはずだ。
「お前……」
 健司は恐る恐る顔をあげた。
「俺の声、そんなに三条部長に似てますか?」
 桧垣がいつになく鋭い目で、まっすぐに健司を見つめている。
「健司さん、タクシーの中で俺の腕を掴んだまま、ずっと言っていたんですよ。 三条さん、三条さん、って。 ついでに言えば、俺、剛彦叔父さん──三条部長と健司さんが付き合ってたことも知ってます」
 健司の足から力が抜け、ベッドに座り込んだ。頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
「……なんでだ……?」
「剛彦叔父さんとは、昔から年の離れた兄弟みたいなものなんです。 二年くらい前に、二人で飲んだ時、剛彦叔父さんが嬉しそうに話してくれたんです。 今の会社に移って、すごく可愛い恋人ができたって。 身体だけの関係だと言われたけれど、自分にとってはとても大切な人だって。 叔父さんがゲイ寄りのバイなのは知っていたし、話の流れで、健司さんだってことが分かって……」
 健司は茫然とした。よりによって、可愛がっていた部下である桧垣に全てを知られていたのはショックだった。
 だが、今更、隠し立てしても仕方がない。健司は冷ややかな表情を作り、投げやりに言った。
「で? だから何だってんだ? お前の上司が、実は男相手に腰を振るゲイだって知って、軽蔑したか?」
「そんなんじゃありません。 びっくりしたけれど、俺にもゲイの知り合いはいるし、叔父さんがすごく健司さんを愛しているのも分かったし……」
 桧垣の言葉に、健司の胸がちくりと痛む。
「だから、叔父さんが結婚するって聞いたときは、驚きました。 健司さんのことはどうするんだって、俺、聞いたんです。 そしたら、『彼は最後まで、私のことを愛してくれなかった』って。 その時は、それなら仕方ないんだと思ってました」
「……そうだ、あいつは最初から最後まで、ただのセフレだ。 まあ、身体の相性は良かったけどな。 それだけだ」
「違うでしょう!」
 不意に桧垣が、健司の両腕を力強く掴んだ。
「桧垣……?」
「違うんでしょう!? 本当は健司さんだって、好きだったんでしょう!」
「……そんなんじゃねえって、言ってんだろうが」
「嘘だ! 叔父さんがどれだけ健司さんを愛していたか、分からないんですか!?」
 その瞬間、健司は桧垣の手を振りほどくと、拳を振り上げた。
 鈍い音が響き、桧垣の身体が倒れる。
「てめえに何が分かるってんだ! じゃあ、俺に、どうしろってんだよ!」
 健司の怒声を聞きながら、桧垣はゆっくりと身体を起こした。切れた唇から流れ落ちる血を拭い、無言で真っ直ぐに健司を見上げる。
 健司は、そんな桧垣の桧垣の胸ぐらを掴み上げた。
「好きだから、結婚しないでくれとでも言えば良かったのか!? そんなこと出来るわけねえだろうが! あいつには野心も実力もある! もっともっと上まで登りつめられる男だ! それを、俺が潰せるわけねえだろうが!」
 肩を怒らせて叫ぶ健司に、桧垣は静かに言った。
「……やっぱり、好きだったんですね」
「そうだよ! 惚れてたよ! だから……だからこそ、俺のために出世を棒に振る男なんて見たくねえんだよ!」
 荒い息をつきながら、健司はその場に座り込んだ。握り締めた拳が小刻みに震える。
「畜生……っ! 本当の気持ちなんて、言えるわけ……ねえだろうが……っ」
 座り込む健司の肩に、桧垣がそっと手をおいた。
「健司さん……今からでも遅くないです。 叔父さんに本当の気持ちを言ってくれませんか?」
「……言えるか、馬鹿野郎……! 俺は……絶対に……言わねえ……」
「どうしても、駄目ですか?」
「言わねえつってんだろうが!」
「……わかりました。 でも俺は、そんな辛そうな健司さんは見ていられないんです」
 桧垣は突然、健司の目を手で塞いだ。
「おい、桧垣?」
「『健司』」
 その声に、健司の動きが止まった。身体がぶるりと震える。
「やめろ……桧垣……」
「せめて、叔父さんに言えなかったことを、ここで吐き出してしまってください。 俺、声だけならそっくりなんでしょう?」
 桧垣は手早くタオルで健司に目隠しをし、ベッドに押し倒した。
「よせっ……!」
「本当に嫌なら、逃げてください。 俺はただ、目隠しをしただけです。 手足は自由なんですから」
 桧垣は健司の首筋に顔を埋め、耳元で囁いた。
「『健司、愛しているよ』」
 違う、これは三条ではない、桧垣だ。
 頭では分かっていても、健司の身体は動かなかった。もう二度と聞けないと思っていた声が、愛を囁いている。
 偽者だと分かっていても──それでももう一度だけ、三条と抱き合うことが許されるのだろうか。言えなかった言葉を──口にすることが許されるのだろうか──。



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