■目を閉じて、声で感じて(2)■


 午前九時、十秒前。
 オフィスのドアが勢い良く開き、長身の青年が駆け込んできた。毎朝のことなので、他の社員は気にした風もなく、自分のデスクに向かっている。
 青年が自分の席に着くと同時に始業を告げるチャイムが鳴った。
 今日も遅刻せずに済んだ、とほっとしたのもつかの間、背後からいきなり腕が伸びてきて、青年の首を締め上げた。
「桧垣! またギリギリか! この野郎!」
「痛い! 痛いです、健司さん! ごめんなさい! 勘弁してください!」
 桧垣拓(ひがき たく)は情けない悲鳴をあげながら、自分の首に巻きつく腕を叩き、ギブアップをアピールする。
 ようやく解放されると、桧垣は喉をさすりながら椅子ごと振り向いた。
「ひどいですよ、健司さん。俺、遅刻してないのに」
「時間までに来ればいいってもんじゃない! 五分前行動は社会人の常識だ!」
 桧垣の前で、工藤健司(くどう けんじ)は腰に手をあててふんぞり返っている。流行の和柄シャツにシルバーのネックレスが恐ろしく似合っているこの男は、桧垣の所属するチームを取り纏めるリーダーだ。工藤、という名字の人間がこのフロアだけで三人もいるため、皆からは親しみを込めて名前で呼ばれている。身長こそ少々小柄だが、派手な服装に据わった瞳はチンピラそのものだ。実年齢よりかなり若く見えるせいもあり、世界に名立たるコンピューターメーカーの現場リーダーにはとても見えない。
 因みに本日の服装は、紺色の地に鯉の滝登りを染め抜いた開襟シャツ。適度に色の抜けた緩めのジーンズ。胸元にはシルバーチェーンが光り、指輪のデザインは髑髏だ。
『……健司さんこそ、その服装は三十二歳の社会人としてどうかと思います……』
「何だって?」
 桧垣の呟きはしっかりと耳に届いていたらしい。健司の腕が再び、桧垣の首に伸びる。
「勘弁してくださいよお!」
「ごちゃごちゃ言う暇があったら、さっさと仕事しろ!」
 そんな二人のやりとりを、周りの人間は微笑ましく眺めている。
 その時、向かい側の席にいた山岸が「あっ」と声をあげた。
「社内掲示板にプロコンの結果が発表されてる!」
 その言葉に、桧垣は慌ててパソコンを立ち上げた。
 プロコンとは、三十歳未満の社員を対象としたプログラミングコンテストのことだ。いい成績を取れば、その社員はもちろん、チームの業績としても評価される。健司のチームでも、何人かの若手社員が応募していた。
 健司が桧垣の背後からパソコンを覗き込んだ。桧垣は恐る恐る、結果発表のリンクをクリックする。
 そこに表示されたのは、『最優秀賞 桧垣拓』の文字だった。
「すげえな! 桧垣!」
「お前、まだ二十六だろ? 今までで最年少じゃねえの!?」
 同僚達がわらわらと寄って来て、桧垣を取り囲む。
「え……あ……えっと……マジ?」
 桧垣は呆然としてディスプレイを見つめた。確かに自信作ではあったが、まさかこんなに良い評価がもらえるとは思っていなかった。
 と、いきなり、健司が背後から桧垣に抱きついた。
「やったじゃないか! 最優秀賞だぞ!」
 喜びを全身で表しながら、健司は拳でぐりぐりと桧垣の頭をえぐる。その姿は、まるで大型犬にじゃれる子供だ。
「痛いですって! やめてくださいよお!」
 言いながら、桧垣は嬉しさがこみ上げてきた。賞を取ったことより何より、健司が喜んでくれるのがものすごく嬉しい。
 同僚たちも口々に、桧垣と健司を賞賛した。
「健司さんも、よくここまでこいつを仕込みましたよね」
「そうそう、新人の頃は図体ばっかり大きくてぼーっとしてて、どうしようかと思ったけど、こんなに立派になって……」
 新人時代、健司と共に桧垣の教育にあたった女性社員が、涙ぐみながら言う。
「よし、今日は飲むぞ!」
「金一封、出るんだよな? 桧垣のおごりだぞ!」
「えー、勘弁してくださいよお」
 フロア中が大騒ぎをする中、ドアが開いてスーツ姿の男性が入ってきた。服装が原則自由な社内で、スーツを着ているのは営業職と部長クラス以上のみだ。
「相変わらず、ここは賑やかだね」
 穏やかだがよく通るその声に、皆の動きがぴたっと止まる。
「おはようございます、三条部長!」
 何人かの社員が明るく声をかけ、他の社員たちはそそくさと自分のデスクへと戻っていった。
「ああ、おはよう」
 三条は一人の社員を手招きし、書類を手渡しながら指示をする。
 その様子を健司はぼんやりと見つめていた。
 あの別れから半年。健司は辛さを悟られないよう、三条には常に笑顔で接していた。三条の側も全く動揺はない。たった半年前まで、二人が身体を重ねていたことなど、誰も気づきはしないだろう。
 それでも、こうして職場で顔を合わせると、あの頃のことが健司の脳裏に蘇る。愛していると、言葉と身体で何度も伝えてくれた。しかし結局、それを終わらせたのは健司の意地だった。そのことを、健司は後悔していない。いや、後悔してはいけないのだ。
 未練を振り切るように、健司は自分のデスクへと戻りかけた。と、その時。
「ああ、そうだ、健司君」
 三条の声に、健司の動きが止まる。動揺を悟られないように、努めて冷静な表情で、三条の元に向かう。
「何でしょうか」
 三条はいつもどおりの穏やかな微笑を浮かべながら、一枚の封筒を手渡した。表には金色の模様がきらびやかに箔押しされている。
「実は、結婚披露宴の日取りが決まってね。全員を呼ぶわけにはいかないが、健司君にはこのチームを代表して出席して欲しいんだ」
 健司は震える手で、封筒を受け取った。その二人のまわりを、社員たちが取り囲む。
「三条部長、ご結婚されるんですか!?」
「おめでとうございます!」
 健司は封筒を手にしたまま、その場に立ち尽くしていた。身体だけの関係とはいえ、昔の男を結婚式に呼ぶ、三条の無神経さに対する怒りで、身体が動かない。
 対照的に、三条はにこやかに、社員たちの質問に答えている。ノロケとさえ思われる三条の言葉に、社員たちは冷やかし半分に祝福の言葉を口にする。
 ただ一人、自分のデスクに残っていた桧垣は、そんな二人の様子をじっと見つめていた。



←back   next→

オリジナル小説に戻る