マンションを出た鶯は、すぐ傍にある公園のベンチに腰を下ろした。
 借りた上着のポケットに手を入れようとして、煙草とライターをジャンパーのポケットに入れたまま、高尾の部屋に置いてきてしまったことに気づく。
 舌打ちをして、鶯は空を見上げた。雪はやんでいるが、どんよりとした灰色の雲が空を覆っている。公園の地面は子供の足跡で踏み荒らされ、土と雪がぐちゃぐちゃに混じっている。
 鎮痛剤がきれたらしく、右腕がズキズキと痛み始めた。
 これからどうすれば良いのか、考えが浮かばない。
 分かっているのは、岸本が自分を殺そうとしていること。……ならば、殺られる前に自分が岸本を殺ってしまえばいい。だが、そうなれば組が黙ってはいないだろう。それに、本当に渥美が自分を始末しようとしているなら……。
 ──俺は渥美さんにナイフを向けられるだろうか──
 この街から逃げ出すという手もある。だが、それは鶯のプライドが許さなかった。
 鶯は立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
 いくら考えたところで、自分の居場所は萩乃町以外にはない。それが鶯の結論だった。

 ※※※※※

 夕方になる少し前のこの時刻。萩乃町の店は、まだほとんどがシャッターを下ろしたままだった。
 少し風が強くなってきた。鶯は首をすくめ、少しでも風を避けようとする。
 その時、前方からチンピラのような服装の男が走ってきた。しきりに後ろを気にしながら走っているため、鶯とすれ違いざまに肩がぶつかる。
 撃たれた右腕に男の腕があたり、鶯は激痛に眉をしかめる。
「どこ見てやがる!」
 男は鶯に向かって怒鳴り声をあげたが、鶯の顔を見て「あ!」と声をあげる。
「てめえ、生きていたのか!?」
 男は、先日の夜、鶯に絡んできた真島組の下っ端だった。
 鶯は男の胸ぐらを左手で掴み上げた。
「どういう意味だ?」
「どうもこうもねえよ! 岸本さんが組を裏切ったんだ!」
「何だと!?」
 鶯は、胸ぐらを掴む手に力を込め、「詳しく話せ」と促す。
「岸本さんは、あんたに高尾建設の社長を襲わせて、それを組の仕業にみせかけるつもりだったんだ。高尾建設は元々ヤクザだから、下手すりゃ真島組と高尾組の全面戦争だ。そうなりゃ、テナントビルどころの話じゃなくなるだろ。岸本さんは風俗店を仕切っているから、萩乃町がキレイな街になっちまったんじゃ、アガリがなくなっちまうんだ」
「下っ端のお前が、どうしてそんなに詳しい話を知っている?」
「あ、渥美さんが言ってたんだよ! 岸本さんを探し出して、連れてこいってすごい剣幕でさ。俺、岸本さんには良くしてもらったけど、組は裏切れねえし、どうしようかと思って……」
 男は混乱からか、饒舌に離し続けた。
「あんた、渥美さんに目をかけられてただろ? あんたが高尾建設の社長を殺せば、命令させたのは渥美さんだっていうことになる。あとはあんたを始末すれば、岸本さんが命令したって証拠はなくなる、って岸本さんは考えてたみたいだ」
 鶯は少しだけ安堵した。この話が本当なら、少なくとも渥美が自分を殺そうとしたわけではない。同時に、腹の底から怒りがこみ上げてくる。自分は結局、岸本に利用されたのだ。しかも、信頼している渥美の名前を使って。
「あの野郎……ぶっ殺してやる……!」
 鶯は小声でつぶやくと、男に尋ねた。
「それで、岸本はどこにいる!?」
「それは……」
 言いよどむ男の胸を、鶯は更に締め上げた。狂気を孕んだ瞳で、男の目を睨みつける。
「知ってんだろ!?」
 鶯の迫力に気おされ、男は苦しげな声で答える。
「高尾建設の本社ビルだ。もう逃げられねえからって、こうなったら最後に自分で片をつけるって言って……俺、岸本さんが組に捕まる前に、なんとかやめさせようと思って……」
 その言葉を聞くと鶯は左手を放した。そして、地面にへたりこんだ男には目もくれず、走り出した。

 ※※※※※

 高尾建設本社ビルは、オフィス街から少し離れた場所にある。夕方近いこの時間、人通りはほとんどない。
 道路を挟んだ向かい側の植え込みの陰に、岸本は身を潜めていた。手には拳銃が握られている。
 やがて、一台のセダンが正面玄関の前に止まった。後部座席から、高尾と吉岡が降りてくる。岸本は道路に飛び出し、拳銃を構えた。
「社長! 伏せて!」
 いち早く気づいた吉岡が、高尾の身体を引き倒す。
 銃弾は二人がいた場所を掠め、車のドアに穴を開けた。
 岸本は狂ったように拳銃を撃ちながら前へ進んでくる。
 高尾と吉岡は、這うようにしながら素早く、車の陰へと身を潜めた。運転手も腰を抜かしながら車から降り、高尾の傍で震えている。
「おい、こっちにも武器はないのか」
「あるわけないでしょう!」
 呑気な高尾の言葉に、吉岡が青筋を立てて怒鳴る。
 七発の弾を撃ちつくした岸本は、緩慢な手つきで弾倉を交換する。
 その瞬間、ビルから警備員たちが飛び出して来た。岸本の手から拳銃を奪い、うつ伏せに地面へ引き倒す。
 安全を確認し、高尾と吉岡が車の陰から出てきた。
 その時。
 ナイフを持った鶯が、その場に飛び込んで来た。
「鶯!?」
 高尾が驚きの声をあげる。
 鶯は、岸本と高尾のちょうど中央にいた。警備員たちは岸本を押さえつけているせいで、身動きがとれない。
 岸本は鶯に向かって叫んだ。
「高尾を殺れ! てめえは狂犬だろうが!」
 鶯はナイフを構えたまま、高尾を見た。
 高尾は何も言わず、ただ鶯を見つめている。吉岡が、高尾の盾になるように前に出た。
 ──自分を利用しようとした岸本。プライドを傷つけた高尾。どちらも殺してやりたいほど憎い男だ。
 二人の男に言われた言葉が、鶯の中で交錯する。
 岸本は「狂犬は所詮、クズの野良犬だ」と。
 高尾は「お前を飼ってやろうか」と。
 ──どちらにしても、俺は犬でしかない。なら……俺は──
 鶯は地面を蹴ると、岸本に向かって突進した。ナイフを振り上げ、岸本の喉元を狙う。岸本の顔が、恐怖に引きつる。
 だが、ナイフが突き刺さる寸前、鶯は後ろから高尾に抱きとめられていた。
「……てめえ! 放せ! いくら野良犬だからって、利用されて黙っちゃいられねえんだよ!」
 わめく鶯を抱きしめたまま、高尾は鶯に言った。
「お前がそんなことをする必要はない」
「畜生! 放しやがれ!」
 その時、黒塗りの高級外車が現れた。全員が注目する中、車から降りてきたのは初老の男性だった。堂々とした立ち振る舞いに、只者ではない風格がある。
「渥美さん!?」
 岸本と鶯が同時に声をあげる。
 渥美は高尾の方に向かうと、深々と頭を下げた。
「高尾さん、今回のこと、大変に申し訳なかった。うちの岸本がとんでもないことをやらかしてしまった。昨晩、あんたが教えてくれなければ、どうなっていたか……」
 渥美の部下が、岸本の身柄を警備員から受け取る。岸本は放心したようにおとなしく、車に乗せられた。
「今回の不始末については、後日、改めて侘びをいれさせてもらう。岸本にはきっちりと、ケジメをつけさせる」
「そう願いたいものです」
 高尾は鷹揚に答えた。その顔は、鶯が初めて見る、底知れぬ迫力のある顔だった。例えるなら、そう、組を束ねるヤクザの長の顔だ。
 渥美は続けて言った。
「それと、そこにいる小田島も、こちらで引き取ろう。組員ではないとは言え、直接動いたのはこいつだ。うちの組で、ケジメをつけさせる」
 渥美の言葉に、鶯はうなだれた。結果的に、渥美に迷惑をかけてしまったのだ。組に恩義などないが、渥美に対しては責任を取るつもりでいた。
 だが、高尾は言った。
「いや、それは断る」
「高尾さん?」
「社長!?」
 渥美と吉岡の声を無視し、高尾は言った。
「私は一方的に殺されそうになった、いわば被害者だ。こいつは、うちで気の済むように始末させてもらう」
 高尾は渥美の方を向き、低い声で言った。
「よもや、異存はありませんよね?」
 高尾の迫力に押されるように、渥美は頷いた。
 車に乗り込む際、渥美は高尾に言った。
「高尾さん、こんなことを言えた義理ではないのだが……小田島の命、できれば助けてやってはくれないか。こいつは組員ではないが、度胸も気性も、稀に見る逸材だ。できればうちの組で働いて欲しかった……」
「それはこちらが決めることです」
 高尾の返事に、渥美はただ一礼すると車に乗り込み、去っていった。



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