夜の萩乃町は、いつもと変わらず喧騒に満ちていた。その人ごみの中、鶯は、以前、岸本に連れて行かれたクラブへと向かっていた。クラブが入っているビルの前には、派手な電飾の看板が並べられ、ちらつく雪を照らしている。鶯はビル脇のエレベーターに乗り込むと五階のボタンを押す。
エレベータの中で一人、鶯は壁に凭れた。
身体がだるい。昨晩、犯された部分が未だに熱を持ち続けている。その熱が身体を駆け巡り、心臓の中心を鷲掴みにされたようにドクドクと脈打っている。エレベータのガラス窓には、目の下に隈ができて荒みきった自分の顔が映っていた。
チン、とベルが鳴り、エレベーターが止まった。
鶯は熱を振り払うように頭を振り、エレベーターを降りた。
クラブのドアを開けると、入り口にいたボーイが声をかけてきた。愛想は良いが、ジャンパーにジーンズ姿の、高級クラブには不似合いな若い客を胡散臭そうな目で見る。鶯はボーイを無言で押しのけた。ボーイが慌てて止めようとするのを無視して、真っ直ぐ店の奥に向かう。
最奥の席では岸本が、三人の取り巻き組員とホステスを侍らせていた。
追いついたボーイが、鶯を後ろから羽交い絞めにして連れ出そうとする。
騒ぎに気づいた岸本が顔をあげた。取り巻きたちが、岸本を守るように腰を浮かせる。
鶯は、背後のボーイや取り巻きには全く構わず、岸本を睨みつけて言った。
「俺を騙したのか」
腹の底から絞り出すような鶯の声に、岸本は驚いたような表情をしたが、すぐにいつもの薄笑いを浮かべた。
「なんだ、おだやかじゃねぇな」
言いながら、岸本は手でボーイを追い払う仕草をした。ボーイは渋々鶯を放し、ちらちらと鶯を岸本を見ながらその場を去る。
岸本の合図で、ホステスたちも席を立った。席には岸本と取り巻きたちだけが残った。
鶯は岸本を見下ろしたまま言った。
「どうなんだ」
「まあ、座れや」
岸本の言葉に取り巻きたちが立ち上がり、鶯の肩を両側から掴んで、岸本の向かい側に無理やり座らせる。岸本はテーブル越しに顔を近づけ、辺りを窺うように小声で言った。
「で、殺ったのか?」
「……まだだ」
鶯の返事に、岸本は眉間に皺を寄せる。
「殺りそこなったのか!?」
「まだだって言ってんだろうが! あいつは絶対、俺が殺す!」
「大声を出すんじゃねえ!」
興奮した鶯を小声で怒鳴りつけ、岸本は辺りを見渡す。
鶯たちのいる席は間仕切り代わりの観葉植物で他の席とは隔離されているため、鶯の声に気づいた者はいないようだった。
「それで、素性は割れちゃいねえだろうな」
「……渥美さんの命令かと聞かれた。多分、真島組が絡んでいることは気づかれている……」
「なんだと!?」
岸本は苦々しい顔をして何か考え込んでいたが、やがて、鶯に問いかけた。
「それで、俺のことは何か言っていたか」
「いや、あんたの名前は一度も出なかった」
「そうか……」
岸本は安堵したような顔でソファに凭れ、グラスのウイスキーを一気に呷った。
その様子が、鶯の癇に障った。
──組や渥美さんのことがばれているというのに、こいつは何故、自分のことを気にするんだ?
鶯は岸本を睨んだまま言った。
「それよりも教えろ。高尾を殺るのは本当に組の──渥美さんの命令なのか?」
「何を言っているんだ、当然だろう」
鶯の問いに、岸本は鼻で笑いながら答えた。
「だがしかし、高尾を殺り損ねたのはマズかったな……」
岸本が合図をすると同時に、鶯のわき腹に硬い感触が触れた。横を見ると、隣に座っていた取り巻きの一人が、自分の上着越しに硬い物を押し付けている。拳銃であることは明らかだった。
「どういうことだ」
鶯は怯まず、岸本を真正面から見据えた。
「成功しても失敗しても、お前を始末しろと言われているんだ。……渥美さんにな」
岸本の言葉に、鶯は驚愕した。──自分を子供のようにかわいがってくれた渥美さんが、そんな事を言うはずがない!
「嘘をつくな!」
「静かにしろ!」
取り巻きが低い声で言い、わき腹に拳銃をぐっと押し付けてきた。
岸本が、連れて行け、と言うように顎で裏口を指した。
取り巻きの一人が鶯に拳銃を押し付け、残りの二人が両腕を押さえつけて無理やり鶯を立たせる。
「くそったれが!」
薄笑いを浮かべる岸本を睨んだまま、鶯は店の裏口へと引きずられるように連れていかれた。岸本の言葉が鶯の耳に届いた。
「狂犬は所詮、クズの野良犬だ」
※※※※※
店の裏口を出ると、そこは非常階段だった。雪の舞う夜の外気が急激に身体を冷やす。拳銃を押し付けられたまま、鶯は非常階段を降り、人気のない裏路地へと連れていかれた。
二人の男が、鶯の肩と腕を両側からしっかりと押さえ、身動きできないように固定する。もう一人の男が正面に回り、鶯の腹に向けて、サイレンサー付きの拳銃を片手で構える。
「悪く思うなよ」
拳銃の男が嗜虐的に笑った瞬間、鶯は両脇の男に体重を預け、正面の拳銃を思い切り蹴り上げた。両脇を押さえる力が緩んだ瞬間を逃さず、腕を振りほどき、表通りに向かって走り出す。
「待ちやがれ!」
その瞬間、鶯の右腕に熱が走った。生暖かいものが、肘を伝って指先に下りてくる。
鶯は激痛に顔を歪めながら、右腕を押さえ、人通りの多い表通りに飛び出した。男たちは通行人を掻き分けながら鶯を追ってくる。だが、さすがにこの人ごみの中でこれ以上は発砲できないようだ。
路面の雪に足を取られながら、鶯は走った。凍った空気が肺に入り、心臓が爆発しそうだ。交差点を曲がったところで、ふと、工事中の建物らしきものが目に入った。工事現場に使われる、青いシートで全体が覆われている。
鶯はシートを跳ね上げ、中へ飛び込んだ。そのまま、耳を澄ませる。
シートの向こう側では男たちの怒声と靴音が聞こえる。
「どこに行きやがった!」
どうやら、交差点で鶯を見失ったため、追いかける方向を決めかねているようだ。
やがて男たちの声は遠ざかっていった。シートの中の鶯には気づかなかったようだ。
鶯は、積んであった資材に凭れかかるように、その場に座りこんだ。右腕を押さえていた左手を放し、開いてみる。手のひらは真っ赤に濡れていた。
激痛の中、頭が混乱して、うまく考えられない。
──何故、渥美さんが俺を殺すんだ? 高尾は、組長はテナントビルに乗り気だと言っていた。やっぱり、渥美さんが組を裏切っているのか? ──
何がどうなっているのか、分からない。分かるのは、渥美か岸本か、とにかく誰かに利用されたということ。自分の命が狙われているということ。自分のアパートには戻れないということ。
今までも、クズのような生き方をしてきた。自分の命など惜しいと思ったことはない。薄々と、いつかはこの街で野垂れ死ぬのだと感じていた。だが、他人にいいように利用されるのは我慢ができない。
それに──あの男。高尾恵治。あいつにまだ、借りを返していない。
──このまま殺られてたまるか──
鶯は、建設現場を見渡した。まだ更地も同然の状態で、雪を凌げそうな場所はない。かといって、ここから出るのは危険だ。
資材の山にかかっていたビニールシートをはがすと、鶯はシートを頭からかぶってうずくまった。降ってくる雪はなんとか防げるが、地面からは底冷えする寒さが伝わってくる。冷気が右腕の傷から侵入し、芯の部分まで凍えさせる。
雪がだんだん、激しくなってきた。
膝を抱えてうずくまったまま、鶯は朝が来るのを待った。
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