昨晩降っていた雪はやんでいた。アスファルトの上では溶けかけの雪が朝日を反射している。外に出てから気づいたが、高尾のマンションは中心街に近い有名な高級マンションだった。
だるい身体を引きずるようにして、鶯は自分のアパートへと向かって歩き始めた。朝の澄んだ冷たい空気が、肌に突き刺さる。水と雪が混じったぬかるみのせいで、ことさら足が重たく感じる。
一時間ほど歩き、ようやくアパートの前にたどり着いた。古ぼけた階段を軋ませながら二階の部屋に入ると、鶯は風呂場へ直行した。
着ているものを全て脱ぎ捨て、熱いシャワーを頭から浴びる。一刻も早く、あの男の痕跡を消し去りたかった。石鹸を泡立て、高尾が触れた場所をごしごしと擦る。内腿の奥を洗おうとした時、指先に違和感のあるぬめりが触れた。昨夜使われたローションが、シャワーの熱で溶け出してきたのだ。羞恥と屈辱に震える指で、奥まった場所からローションを洗い流す。
シャワーの湯を止めた時、風呂場にある錆びた鏡が目に入った。鎖骨や首筋に赤い跡が残されている。鶯の脳裏に昨夜の事が蘇る。
あの男に、女のように脚を開かされ、あまっさえ女のようにやさしく扱われ、そして自分は女のように声をあげ──。
「畜生!」
鶯は鏡に拳を叩き付けた。ナイフを返された時、もう一度あの男に刃を向けることができなかった。それがたまらなく悔しい。
行為の間中、あの男は自分を気遣い続けた。恐怖を与えないよう、額や頬に口づけをし、やさしく、苦痛を与えないやり方で自分を抱いた。そのやさしいやり方が、自分の身体だけでなく、心の芯の部分までもを犯した。いっそ、乱暴に扱われた方がましだった。そうすれば、ただ復讐心の赴くままにあの男を殺せたのに──。
シャワーで暖めた身体が再び冷えてきた。換気扇から流れるわずかな風に、濡れた肌をなでられ、鶯は身震いした。身体が冷えると同時に、頭も急激に冷めてくる。鶯は濡れた頭を勢い良く振った。
──馬鹿馬鹿しい。これじゃあまるで、初めて男を知った生娘じゃねぇか──。
鶯はタオルで頭を拭きながら、風呂場を出た。まずは岸本に会って、高尾の言っていたことをもう一度確かめる必要がある。できれば渥美に直接話を聞きたかったが、真島組の幹部を一介のチンピラである自分が呼び出すことなど、できるはずもない。
とにかく、行動を起こすのは夜になってからだ。
鶯はベッドに潜り込むと、そのまま泥に沈むように眠りに落ちていった。
*****
午前十時。
高尾は、迎えに来た吉岡と共に、車で高尾建設本社ビルへ向かっていた。
「社長、腕の傷の具合はいかがですか?」
気遣う吉岡の言葉に、高尾は左腕をぶんぶんふり回しながら答えた。
「ああ、少し痛むが血は止まった。問題ない」
「そうですか。念のため、西村医師に本社ビルに来てくださるよう、お願いしました」
吉岡の言葉に、高尾は顔をしかめた。
西村は代々、高尾家の近くで開業している医者だ。高尾や吉岡とは幼馴染なので親しいことは親しいのだが、やさしげな顔をして大変に荒っぽい治療をするので、高尾家の人間には恐れられている。だが、高尾建設が高尾組だった時代からずっと、事あるごとにお世話になっているため、高尾家の関係者は西村医院に頭があがらない。
現在はマンションで一人暮らしをしている高尾も、子供の頃は高尾家の本宅で暮らしていた。子供の頃、風邪をひくたびに先代の西村医師に痛い注射をされたせいで、医師としての西村は苦手だった。
「いらん、放っておいてもじきに治る」
「素人治療で化膿でもしたらどうするんですか! 駄々をこねないで、しっかり診てもらってください」
高尾の心理など知り尽くしている吉岡に、きっぱりと言われてしまう。
「ところで社長、昨晩の襲撃者から何か情報は取れましたか?」
「いや。真島組の渥美が絡んでいるらしい、ということだけだ」
「そうですか……。ところで、その襲撃者……確か小田島でしたか。彼はまだマンションに?」
「いいや。とっくに解放した」
「何ですって!?」
吉岡は驚いて高尾を見た。
「命を狙われたんですよ!? 警察に引き渡すか、でなければせめてもっと背後関係の情報を吐かせてからの方が……!」
「そんなことを言っても、もう解放してしまったんだから仕方ないだろう。それに……」
──それに、あれ以上、傍においたら手放せなくなってしないそうだった──
高尾は、自分の口から出かかった言葉に、思わず苦笑した。どうやら自分は、相当あの狂犬に興味を持ってしまったようだ。
「それに? 何ですか?」
「何でもない」
高尾はしばらく考えた後、吉岡に尋ねた。
「今日のスケジュールはどうなってる?」
吉岡は胸ポケットから手帳を取り出した。
「十二時から、建築デザイナーの松岡様とパシフィックホテルでビジネスランチです。その後、本社に戻り、いくつか書類に目を通していただきます。本日は以上です」
「なら、夜は空いているな。真島組の渥美と、食事会をセッティングしておけ」
「今晩ですか? 急なことなので、先方が受けてくださるかどうか……」
「今回のプロジェクトに関して、内密に重大な話があると伝えろ。断りはしないはずだ」
「了解しました」
吉岡の返事を聞くと、高尾は目を閉じて車のシートに背中を預けた。
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