気絶した鶯をベッドに残し、高尾は洗面所へと向かった。タオルをお湯で濡らしベッドに戻る。鶯の下腹部には体液がこびりつき、頬には涙の跡があった。それらを丁寧にぬぐっていく。
無我夢中で抱いてしまったが、冷静に考えれば相手はつい数時間前に会ったばかりで、しかも自分の命を狙っているのだ。
狂犬と呼ばれるにふさわしい、自分の身を守ることなど考えもしないあの瞳と気性。
この男は危険だ。人には慣れない獣だ。なのに、飼い慣らしてみたいという気持ちが湧き上がってくる。手放したくないとさえ思う。
ぐったりと横たわる鶯の顔を見つめる。
いったい今までどんな生き方をしてきたのだろうか。
『……何だって俺は、こんな若造に執着しているんだ……?』
苦笑しながら、高尾は鶯に毛布をかけ、自分も隣へ潜り込んだ。
*****
携帯電話の振動音で、高尾は目を覚ました。隣ではまだ鶯が眠っている。
起こさないように隣の部屋へ移動し、携帯電話を開く。相手は吉岡だった。
『おはようございます、社長。ご無事ですか』
「何だ、その『ご無事』ってのは。俺が殺されるとでも思ったのか」
高尾は憮然として答える。
『いえ、何事もなければいいんです』
電話の向こう側から、吉岡の安堵した声が聞こえる。確かに、自分を殺しに来た男をマンションに連れ込んだのだ。心配される道理はある。
「で、何か分かったのか」
『真島組の方は、まだ情報は掴めていません。真島組の組長は今回のテナントビル建設には大変に乗り気ですので、真島組そのものが今回の件に絡んでいるとは考えにくいですね』
「そうか。組長は乗り気でも、組員はそうではないかもしれん。引き続き調べてくれ」
『分かりました。それと、昨日の襲撃者の件ですが……』
吉岡は昨晩のうちに、鶯についての情報を調べ上げていた。高尾建設は元々ヤクザだったせいもあり、今でも歓楽街を仕切る者たちとの親交は深い。
『名前は小田島鶯。二十歳。萩乃町で職を転々としているチンピラです。誰彼かまわず噛み付くので、萩乃町では狂犬と呼ばれています。真島組の組員ではありませんが、荒事には何度か関わっているようですね。渥美という幹部に、目をかけられているようです。何人かの若者から話を聞きだしましたが、噂に違わぬ狂犬ぶりです』
吉岡は、調べ上げた鶯の数々の武勇伝をかいつまんで高尾に聞かせた。
『それと最後に、これは下世話な噂ですし、話半分なのですが……』
普段ははっきりと物を言う吉岡が、珍しく言いよどんでいる。
「何だ?」
『以前、大人数を相手に喧嘩をした際、その……複数の相手から性的暴行を受けたことがあるらしいんですが……』
高尾は眉をひそめた。確かに、朝っぱらから聞きたい話題ではない。
『後日、リーダー格の男が路地裏で、ボコボコに殴られて瀕死の状態で見つかったらしいのです。その男の……その……ペニスはナイフ傷で血だらけで、命は取り留めたらしいんですが、二度と役には立たなくなったそうです……。犯人は見つかっていないそうですが……』
高尾は思わず、自分のペニスが切り刻まれる様を想像して、顔をしかめた。先ほど、吉岡が言った『ご無事』の意味がようやく分かった。
『社長、馬鹿なことをして、同じ目にあわないでくださいよ。みっともないですから』
高尾は苦笑した。合意なしに抱いた、という点では自分もその男も同罪だった。
※※※※※
携帯電話を切った高尾は、ベッドルームへと続くドアを開けた。部屋に入ると、ベッドの上に鶯の姿がない。
不審に思ったその瞬間、後ろから紐のようなものが首に巻きついた。急激に締め付けられ、一瞬、息が詰まる。高尾は背後の人影のみぞおちに、肘を叩き付けた。締め付けがゆるんだ隙を逃さず、相手の片腕を掴んで身体を返し、床に組み伏せる。
組み伏せられた鶯の手には、昨晩、腕を縛ったネクタイが握られていた。
「畜生! ぶっ殺してやる!」
暴れながら叫ぶ鶯の瞳は、屈辱に滲んでいた。その様子が、高尾の心に燻っていた、昨晩の昂ぶりを呼び覚ます。
やはり簡単に飼い慣らせはしない。それでこそ狂犬だ。
高尾は鶯を床に押し付けたまま、真正面から見据えた。
「お前に命令したのは、真島組の渥美か?」
その言葉に、鶯の動きが止まる。
「どうなんだ?」
鶯は目をそらし、唇を噛みしめた。
「……ちがう……」
言葉とは裏腹に、鶯の態度は、高尾の言葉を肯定していた。
その様子に苦笑しながら、高尾は鶯に告げた。
「萩乃町にテナントビルを建てる話は、真島組から持ちかけられたものだ。俺は組長から直々に、萩乃町をクリーンなイメージの街に変えたいと相談されている。これからはヤクザもビジネスで身を立てる時代だ、と言ってな。テナントビル建設は、その足がりになる重要なプロジェクトだ。俺を殺して話を壊せば、お前は真島組に消されるぞ」
鶯の顔が、驚愕に固まる。
──高尾建設の方が、萩乃町を乗っ取ろうとしていると、岸本は言っていた。高尾を脅すのも、幹部の渥美さんの指示だと言っていた。高尾と岸本のどちらかが嘘をついているのか。それとも、まさか渥美さんが組を裏切って、そのために俺を利用しようとしたのか──?
高尾は、混乱する鶯を解放し、立ち上がった。
「誰に命令されたにしても、お前は真島組を敵に回したんだ。さっさと遠くへ逃げたほうが、身のためだ」
鶯は虚ろな瞳で、ゆっくりと身体を起こした。高尾の忠告が、耳をすり抜けていく。混乱して、自分の状況がうまく整理できない。
鶯は床に座ったまま呟いた。
「ふざけるな、俺は逃げねぇ。てめえも、俺を騙したやつもぶっ殺してやる……」
「物騒な奴だな。そう何度も、ぶっ殺すを連呼するな。それよりも、身の隠し場所でも考えろ」
「逃げねえって言ってるだろ! てめえこそ、さっさと俺を殺すなら殺せ!」
やけを起こしたような言葉に、高尾はあきれ顔で鶯を見下ろした。
「そんなことするか。うちは堅気の土建屋だ。ヤクザじゃない」
鶯は俯いたままだった。
「それとも……」
高尾は鶯の顎を掴み、強引に上を向かせた。唇が触れるほど、顔を近づける。反射的にびくりと身構える鶯に、高尾は低く囁いた。
「俺がお前を飼ってやろうか?」
その瞬間、虚ろだった鶯の瞳に光が戻った。自分の顎を掴む腕を振り払う。
「俺は犬じゃねえ!」
くすくすと愉しげに笑う高尾を睨みつけ、鶯は立ち上がった。ジーンズは身に着けているが上半身は裸のままだ。昨晩、高尾がつけた痕が、細身でひきしまった身体を彩っている。鶯は床に落ちていたシャツを拾い上げ、素早く身に着けた。
ジャンパーを掴み、部屋を出て行こうとする鶯を高尾が呼び止めた。高尾が放り投げたものを反射的に受け取める。それは、駐車場で高尾を襲った際に使用した、折りたたみナイフだった。
笑いながら、高尾は言った。
「俺に飼われる気になったら、いつでも来い」
鶯は高尾に背を向けた。そして一言だけ言い放つと、荒々しくドアを開け、姿を消した。
「てめえは必ず、ぶっ殺す」
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