一流のホテルや料亭、高級クラブなどが集まる、上品で華やかな夜の街。
その一角にある、落ち着いたたたずまいの料亭の前で、高尾建設の社長である高尾恵治(たかおけいじ)は初老の男性を見送っていた。
料亭の入り口前に停められた高級セダンのドアを運転手が開けると、男性はさもそれが当然という態度で後部座席に乗り込む。
高尾はドアの外から、車内の男性に声をかけた。
「先生、萩乃町のテナントビルの件、どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる高尾に、男性は鷹揚に応える。
「わかっている。悪いようにはせん」
「ありがとうございます」
高尾は丁寧に頭を下げて車を送った。
完全にセダンが見えなくなると、高尾は頭をあげた。先ほどまでの愛想が嘘のように、面白くなさそうな顔で、車が走り去った方を見る。
整えられた髪を夜風が揺らし、形の良い額に一筋の黒髪が落ちた。長身に広い肩幅を持つ身体に、ブランド物の高価なスーツが、嫌味なく似合っている。高い鼻や削げ気味の頬がシャープな印象を与え、三十二歳とは思えない落ち着いた雰囲気をかもしだしていた。とても、今は解散した高尾組組長の息子には見えない。
「まったく、足元を見られたものだ。コンパニオンだけじゃ飽き足らず、次は芸者を呼べだと? これだから政治家ってやつは……」
「接待も仕事のうちですよ。それと、誰に聞かれているか分かりませんから、軽率な発言はお控えください」
脇に控えていた秘書の吉岡が、穏やかな声でたしなめる。吉岡は、先代組長の元で若頭を勤めた男の息子だ。高尾とは兄弟同然に育ったせいか、口調は敬語だが言うことに遠慮はない。
「仕事だと思わなくては、やってられん」
不機嫌そうな顔のまま、高尾は料亭の裏にある駐車場へと向かった。深夜零時を過ぎているせいか、停まっている車はまばらで、高尾と吉岡以外に人影はなかった。高級料亭らしく、駐車場は竹林を模した植え込みで囲まれていた。
二人が駐車場へ入ったその時。
竹林の中から人影が飛び出した。薄暗い電灯の光を受けて、人影の手に握られたナイフが光る。ナイフと人影は、高尾の胸に向かって一直線に突っ込んで来た。
「社長!」
反射的に、吉岡は高尾の腕を引き、身体を入れ替えるようにして高尾をかばった。
その瞬間、黒い液体がアスファルトに飛び散った。
ナイフは高尾の腕を切り裂いていた。人影は吉岡を押しのけ、再び高尾の胸を狙う。だが、吉岡の動きの方が早かった。吉岡の手が、ナイフを持った手首を捕らえてねじ上げる。襲撃者の口から苦痛の声が漏れ、ナイフが手から落ちた。襲撃者はナイフを拾い上げようとする。その時、高尾の車の中で待機していた若い運転手が駆けつけてきた。
「どうしたんですか!」
一瞬、襲撃者がその声に気を取られた隙を、吉岡は見逃さなかった。襲撃者の腹に膝蹴りを加え、身体が折れ曲がったところで、顎に右ストレートを決める。
襲撃者は呻き声を上げると、その場に昏倒した。
吉岡は襲撃者が起き上がらないことを確認すると、高尾に駆け寄った。
「社長! 大丈夫ですか!」
高尾は、左腕を押さえて膝をついていた。
仕立ての良いスーツの左腕は、既に血でどす黒く染まっている。
「ああ、腕を切られただけだ。たいしたことはない」
「じっとしてください、応急処置をします」
吉岡は手早く自分のネクタイを外し、高尾の上腕部をきつく締め上げた。
運転手は高尾の怪我を見て狼狽していたが、倒れている襲撃者の顔を見て声をあげる。
「あ、こいつ!」
「知っているのか?」
高尾の問いかけに、運転手は答えた。
「あ、はい、萩乃町でボーイなんかをしている奴です。相手がヤクザでも何でもすぐに噛み付いていくんで、街では狂犬って呼ばれてます」
「萩乃町……となると、真島組の差し金か?」
「そんなことよりも、怪我の手当てが先です! おい、救急車と警察を呼べ!」
吉岡の指示を、高尾は制した。
「いや、真島組がらみなら、事を荒立てない方がいいだろう」
高尾は立ち上がると、気を失って倒れている襲撃者に近づいた。まだ若い男だ。唇は薄く開き、まつげの長い瞼はきつく閉じられて苦悶の表情が浮かんでいる。
「社長! 傷は!」
「大したことはない。吉岡、こいつを俺のマンションに運べ。バックが誰か吐かせる」
「社長、高尾建設はもうヤクザではないのですよ。こういったことは警察に任せましょう」
高尾の傷が思ったより大事に至っていない事に安堵したのか、吉岡の言葉には冷静さが戻っていた。
「ウチはヤクザではなくとも、真島組はヤクザだ。面倒は少ない方がいいだろう」
それに、と高尾は続けた。
「この『狂犬』に興味が沸いた」
「何を言っているんですか! 命を狙われたんですよ!」
「今時、ナイフ一本で命(タマ)を取りに来る度胸が気に入った。いいから連れて行け」
「そういう、先代のような言い方はおやめ下さい。貴方は堅気の高尾建設の社長なんですから」
高尾は、先ほどまでの愚痴を言っていた時とは全く違う表情をしていた。愉しげに、地面に転がる襲撃者を見る。
吉岡はその表情を見ると、あきらめたように「わかりました」と言って、落ちていたナイフを広いあげた。運転手のネクタイを外させ、気を失っている襲撃者を後手に縛り上げる。
「まったく、こういうことがあるから、外出するときはボディガードをつけてくださいと申し上げているんですよ」
吉岡の、苦言とも愚痴とも取れる言葉に、高尾は平然と答える。
「お前がいれば十分だろう」
「私はあくまで秘書です。ボディガードにまでなった覚えはありません」
言いながら、吉岡は運転手と二人がかりで、意識のない鶯を車に運んだ。
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