■獣と人間(2)■


 刑事たちが毎日のように慌しく出て行き、疲れた様子で戻ってくる。たとえ捜査本部に呼ばれることはなくとも、一階にいれば、自ずとその様子は目に入る。
 速水は通常通り、午後から夜までの当番を終え、残務をこなしていた。交機隊の部屋の中では、夜勤の隊員たちが机に向かい、あるいは深夜に備えて一時の休息を取っている。
 時刻は零時近い。書類仕事を切り上げ、速水は帰り支度をした。
 ロッカールームで独り着替えながら、速水は無意識に唇を舐めた。自分の感情が僅かに昂ぶっているのが分かる。
 もう何日も、安積は速水の部屋に来ていない。ただでさえ二人きりで会える機会は少ない。帳場が立ったとなれば、なおさらだ。
 触れたい。抱きしめたい。
 かつては二十年もの間、この衝動に耐えることができたというのに。
 たった一週間と少しの、僅かな時間の間に、あきれるほどに飢えている。
 速水は、最後に抱いた安積の姿を思い浮かべた。
 一度、抱きしめることを知った欲望は、殺すのに多大な労力と忍耐を必要とする。

 帳場が立っている間、時折、刑事部屋に顔を出して。
 煮詰まっている安積をからかって、ほんの少しの息抜きをさせるのがせいぜいで。
 できることをやればいいと分かってはいても、それに満足できない自分がもどかしい。

 安積は今夜も、刑事部屋のソファーで眠るのだろうか。
 速水は、その様子を想像した。
 寝つくまで待って、こっそり刑事部屋へ行けば、安積の寝顔を見ることができる。頬に触れることくらいはできるだろう。
 真夜中の誰もいない刑事部屋。
 もし安積が起きてしまったとしても。安積は困った顔をして、本気では怒らない。仕方のないやつだという顔で、でも少し嬉しそうに笑うだろう。
 だからこそ、深夜、刑事部屋に行くことはできない。安積が許しても、速水は自分にそれを許すことはできなかった。
 安積の領域の中には、速水が立ち入れる領域と、安積だけの領域がある。それは、安積が決めた境界線ではない。速水が自分で決めた、境界線だ。
 自分がどんなにひどく安積を求めたとしても。安積には、それに溺れることなく、刑事である安積のままでいて欲しい。そう願うのは自分のエゴだ。十分に自覚はある。実際のところ、速水のせいで不本意な方向に変わってしまうほど、安積は芯の柔な男ではない。過剰なほどに悩み苦しみながら、それでも決して自分の信念を見失わない男だ。
 十分すぎるほどに、速水はそれを知っていた。知っていてなお、安積を変えてしまうかもしれない行動を取ることができない。
 矛盾と飢えが混じりあい、速水の中で、想像と欲望があらぬ方向へと向かい始めた。
 抱きたい。犯したい。喰らい尽くしたい。安積の世界を自分で埋めたい。
 普段なら思いつきもしないし、そもそも望んでもいない。それなのにこんなことを思うのは、日付が変わる間際の、この不安定な時間帯のせいなのか──
 速水は自分の思考に、苦笑した。どうかしている。
 こんな時、どうすれば正気に戻れるか、速水は知っていた。
 廊下に出て、一番大きな会議室に向かう。開け放たれたドアから、速水はそっと中を窺った。
 捜査本部と書かれた会議室を蛍光灯の青白い光が照らしている。電話番らしき数人の若い刑事がいる。
 がらんとした会議室の一番後ろ、ドアに一番近い机の前に、安積が座っていた。

 どんなに想像の中でひどく犯しても、その興奮を一瞬で上回るもの。
 それは、目の前の、この安積だ。

 事件が起こったのは零時頃だったという。おそらく安積の部下たちは、事件発生と同じ時刻を狙って、聞き込みに行っているのだろう。安積は今は聞き込みに行く立場ではないと、速水は聞いていた。だが、夜中に外で捜査を行う部下を置いて、一人で休む安積ではない。
 安積は気難しい顔で、捜査本部の椅子に座っている。その目は静かに、だが厳しく、前を見据えている。事件のことと部下のことだけを考えているのだ。おそらく、速水のことなど微塵も考えていないのだろう。
 どんな淫らな姿より、この安積の顔が速水の心を高鳴らせる。
 この安積こそが、俺の安積だ。

 速水は苦笑した。煮詰まっているのは自分の方かもしれない。
 速水は黙って、署を後にした。



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