■小さな一歩(5)■


 速水の部屋は、広いワンルームだった。安積が中に入るのは初めてのことだ。
 部屋に入るなり、速水は「風呂に入ってくる、好きにしてろ」と言い残して、奥へと消えていった。
 安積は上着を脱ぎ、所在無くソファーに腰掛けた。
 自分は何故、ここにいるのだろう?
 それは確かに、あの場で安積が選んだことだった。だが、何故あんなことを言ったのか、自分でもよく分からない。
 速水に負けた気がした。悔しかった。それは事実だ。
 思い返せば、仕事で速水に助けられることは多い。管轄の枠を速水は平然と超えて来る。安積もまた、人手不足にかこつけて速水を巻き込むことがある。
 自分が出来た上司だなどと思ってはいないが、速水とは対等だと思っていた。と言うより、速水に対して本気で勝ち負けなど考えたことがない。
 安積は落ち着かない気持ちで、速水の部屋を見渡した。
 自分のマンションとは違い、きちんと片付いている。テレビの上にも埃などない。見かけによらず几帳面なのか、それとも、掃除をしてくれる相手がいるのか──
 部屋の隅に、ベッドがあった。安積の小さな安物とは違い、そこそこの大きさがある。
 急に心臓が跳ね上がった。自分が何をしにこの部屋に来たのか、それがリアルに感じられたのだ。
 具体的にこれから何をするのか、速水が何をしたいのかが想像できない。冷静に考えれば分かるはずなのだが、安積の頭はそれを想像することを拒否していた。認めたくないが、それは恐怖だった。
 このまま帰ってしまおうか。今ならまだ間に合う。ドアから外へ出ればいい。ただそれだけだ。
 そこまで考えて、安積は気づいた。
 速水は言った、好きにしてろ、と。そして、安積の目の前から姿を消した。風呂に入っているなら、たとえ安積が部屋を出たとしても、すぐには追って来られない。
 つまり速水は、安積の逃げ道を用意したのだ。
 安積の行動を一時の感傷だと思ったのかもしれない。情けをかけられたと思ったのかもしれない。そして、冷静になった安積が感じる恐怖や不安を予測していたのだ。
──ふざけるな!
 再び、感情が昂ぶってきた。速水に対する怒りにも似た感情だ。だが同時に、安積には分かっていた。不安を感じているのは事実なのだ。それを認めたくないから、感情の矛先が速水に向かっているのだ。
 何にせよ、ここで逃げてはだめだ。安積はそう思った。速水は二十年もの間、何らかの感情を自分に持っていた。そして、それに耐えていたのだ。
 その時、浴室のドアが開いて、速水が出てきた。まだ部屋にいる安積を見て、何かの感情が速水の目に宿ったような気がした。それが驚きなのか、安堵なのか、確認せずに安積は立ち上がった。
「風呂を借りるぞ」
 そう言いながら速水を押しのけ、安積は浴室へと入っていった。



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