■小さな一歩(4)■
「それにしても、中澤は何が目的だったんだ?」
安積の問いには答えず、速水は黙って、中澤が走り去った方を見ていた。
「本当に睡眠薬だったとして、刑事を眠らせるということは、人質か、あるいは何かの取引材料か……」
「おまえは馬鹿か?」
速水の声は、大きくはなかった。だが、明らかに怒気をはらんでいる。安積は驚いて速水を見た。
「酒に睡眠薬をいれたんだ。その後にやる事は決まっているだろう」
もちろん安積も、その手口は知っている。そういった事件の捜査をしたことは数えきれない。だが、被害者はいつも女性だった。
「……ありえないだろう? 何で俺なんだ?」
「おまえさんには想像できなくても、そういうことはあるんだよ」
安積はかぶりを振った。信じたくはないが、中澤が自ら語った二十年前の話、そして今日の行動と手口。矛盾するところはない。ありがちな事件だ。ただ一つ、安積が被害者になりかけた、という点以外は。
「わからん。あいつだって同い年だぞ。中年男が中年男を襲うなんて、理解できん。よっぽど特殊な趣味なのか……」
「そうでもないさ」
速水が静かに言った。
「少なくともあと一人、同じ趣味の中年男がいる」
安積は速水を見た。速水はあらぬ方を見たままだ。
安積は、混乱してきた。速水の言葉の意味が分からないほど、野暮ではない。理解できたからこそ、混乱しているのだ。中澤が言ったことは全て本当だったのか? だとしたら──
「正気か?」
「正気だ」
速水の声は静かだった。
「おまえは……」
声が上手く出せなかった。喉の渇きが不快に感じる。それでも、安積は言った。
「前にも聞いたが、もう一度聞く。おまえは若い頃、俺を抱きたいと思ったことがあるのか?」
「俺が今まで、おまえを想像しながら何度ヌイたか、教えてやろうか?」
速水の口調には少しだけ、自虐的な色があった。わざと下卑た言葉を選んでいるようだ。
「ちなみに昨日のネタは、今のおまえだ。俺と同い年の、な」
速水はわざとらしく、舐めるような目で安積の身体を見た。
安積は話題を変えた。
「おまえ、ずっとあの席にいたんだろう?」
「ああ」
「なら、中澤が俺の酒に薬を入れるところを見ていたんだろう? 何故、その時点で止めなかった?」
速水は笑いながら答えた。
「おまえが眠ったところで、中澤をぶんなぐって、獲物をかっさらおうと思ったのさ」
嘘だ。速水はそんなことをする男ではない。
「おまえ、俺が気づくと分かってたんだろう?」
「そんなわけあるか」
速水らしからぬはぐらかし方に、安積は確証を感じた。
例え相手の真意を知らなくとも、安積が安易な手口にひっかからないことを、速水は信じていたのだ。
速水は安積に背を向け、歩き出した。
「パトカーはないから送ってやれないぞ。今日のことは忘れて、さっさと帰れ」
不意に安積は、感情がこみ上げるのを感じた。
強いて言えば、それは怒りに近かった。あるいは、闘争心だ。
速水は全て知っていた。中澤が騒がなければ、何もせず、自分がその場にいたことも気づかせず、立ち去ったに違いない。
こんなに屈辱的なことがあるか!?
──おまえは、保護者か!? でなければストーカーか!? そうやって格好つけて、いい気になるなよ──
安積は速水の背中に声をかけた。
「おい、連れて行け」
「誰をだ」
速水は歩みを止めなかった。
「俺をだ」
「どこに?」
「おまえの部屋だ」
速水は苦笑したようだった。手をひらひらと振り、去っていく。安積の一時の感傷になどつきあっていられない、と言わんばかりだ。
安積はその背中に、更に言った。
「おまえの部屋が不都合なら、そのへんのホテルでもいい」
速水の足が止まった。
「正気か?」
今度は速水が尋ねた。安積も、先ほどと同じ答えを返した。
「正気だ」
二人はしばらく、黙って睨みあった。
先に目を逸らしたのは速水だった。ゆっくりと歩き始める。
安積は黙って、その後をついていった。
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