■小さな一歩(3)■


 その日、安積は約束どおり中澤と会うことができた。
 大きな事件がなくとも、定時に出られるはずはない、それを見越して、待ち合わせ時間を夜十時にしたのだが、その判断は正しかった。
 外で飲み始めるにはいささか遅い時間だ。サラリーマンの中澤にとっては遅すぎるのではないかと安積は心配したが、中澤は問題ない、と笑った。安積は翌日、非番だ。
 中澤が選んだ店は、大手チェーンの居酒屋だった。
 平日の夜にも関わらず、広い店はそこそこ込んでいた。学生コンパらしき集団がはしゃいだ声をあげ、店内は騒がしい。
 安積は少し、意外に思った。「いい店」を知っていることが、大人の価値だと考える男は多い。値段の高い安いは関係ない。酒の種類が豊富なバーの場合もあれば、安くて美味い焼き鳥屋の場合もある。そういった店に知人を連れて行き、自分が常連であることを暗に自慢するのだ。まして、中澤は営業職だ。接待の経験も多いだろう。
 まあ、安く済みそうなら、それに越したことはない。安積はそう思った。
 中澤と安積はテーブル席を選び、ビールで乾杯をした。
 中澤は饒舌だった。初任科時代のこと、交番勤務時代のことなど、共有する思い出は多い。安積は相槌をうちながら、追加注文したウイスキーを口へ運んだ。当時のことを鮮明に覚えている中澤の話を聞くのは楽しかった。
 十二時近くなり、客はさすがに減ってきた。
 そろそろ退散しよう、と安積は思った。自分は非番だが、サラリーマンの中澤は明日も朝から仕事だろう。
 切り上げるきっかけをつくるため、安積はトイレに立った。
 戻って来ると、中澤が言った。
「悪いがそろそろ終電なんだ。それを飲んだらお開きにするか」
 安積に異存はなかった。氷が溶けて薄まったウイスキーを飲み干そうと、グラスに口をつけた。
 違和感を感じた。
 それは確かに、つい二、三分前まで安積が飲んでいたウイスキーだ。
 何もおかしいところはない。だが、何かがひっかかった。
「さっさと飲んでしまえよ。終電に間に合わなくなる」
 中澤が言った。声が少し上擦っている。
 安積は、中澤の目を見た。落ち着き無く、ちらちらと目線が動く先には安積のウイスキーグラスがあった。
 安積は静かに、グラスをテーブルに置いた。
「……何を入れた?」
 正面から見据えられ、中澤は明らかにうろたえた。その視線が一瞬、背広のポケットを見たのを安積は見逃さなかった。
 立ち上がってテーブル越しに素早く手を伸ばし、中澤の背広のポケットに手を入れた。中澤の阻止は間に合わなかった。安積の手は、丸められた薄い紙を掴んでいた。
 開いてみると、薄い色の粉末が僅かに残っていた。
──麻薬か!?
 安積の考えを読んだかのように、中澤が大声をあげた。
「違う、ただの睡眠薬だ! ヤバい物じゃない!」
「何が目的だ?」
「え……」
 安積は中澤を正面から見据えた。
「刑事に薬を盛って、何をする気だった」
 中澤は言いよどんだ。唐突に、中澤は走り出そうとした。一瞬遅れて、安積が追いかけようとする。その時、近くのカウンターから男が立ち上がった。中澤の前に立ちはだかる。
「おまえ……」
「よお、久しぶりだな、中澤」
 安積は茫然とした。そこにいたのは、速水だった。
「おまえ、なんでここに……」
 速水は安積の方を見ず、さりげなく中澤の身体を押さえた。中澤は抵抗したが、腕力に差がありすぎた。
 速水は、怪訝そうな顔でこちらを見ている店員に笑いかけた。
「こいつが酔っぱらったみたいなんだ、外に連れて行くよ。支払いはあいつに言ってくれ」
 そう言って速水は、顔で安積を指した。そのまま速水は中澤を連れ、外へ出て行った。


 安積が二つの支払いを終え、店の外に出えると、速水が中澤をおさえつけ、小声で何かを言っていた。中澤は二、三度うなずき、転げるように走り去った。
「待て、中澤!」
「ほっとけ」
 速水の低い声に、安積は怒鳴り返した。
「あいつは薬物所持の疑いがある!」
「ただの睡眠薬だ。町医者で簡単に処方される類だ」
「本当か?」
「何なら、その紙を鑑識にまわすか?」
 安積は、中澤から取り上げた紙を広げた。よく見ると粉末の中に、錠剤を砕いたような破片が混じっている。断定はできないが、今までに見た麻薬の類とは違っているように思えた。
 居酒屋の店員が、電飾の看板を片付け始めた。健全な店は、閉店の時間だ。
 道が暗くなり、人通りも減ってきた。
 安積は改めて、隣の男を見た。
「おまえ、なんでここにいるんだ?」
 中澤と会うことも、場所も時間も、速水には言っていない。
「交機隊は何でも知っているんだ」
 安積は溜息をつき、肩をおとした。この男を追及しても、無駄な気がしたのだ。



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