■小さな一歩(2)■


 数日後、安積はパトカーの助手席にいた。運転しているのは速水だ。
 事件の現場検証が終わったところに偶然、速水が通りかかった。例によって「署に戻るから乗っていけ」と言われ、一回断り、結局便乗したのだ。
 安積はちらりと、速水の方を見た。
 中澤に言われたことが、頭から離れない。
 馬鹿馬鹿しい、からかわれたのかもしれない。仮に本当だとしても、二十年も前の話だ。
 だが、速水が当時、脅しまがいに牽制した、というのは本当だろうか。
 そうであれば、礼を言うべきだろうか……
 無線がオフになっていることを確認し、安積は口を開いた。
「この前、中澤に会った」
「誰だ? それは」
「同期だった、中澤だよ」
 安積は、中澤から聞いたことを速水に話した。気軽な昔話ではない。言葉を慎重に選んだ。それに、速水の気持ちは中澤の推測でしかない。その部分はあえて、話さなかった。
「知らないな」
「そうか……」
 知らないと言うなら、それでいい。本当に知らないのか、シラをきっているのか、安積には分からなかった。
 あの頃、何があったかなど、本当はどうでもいい。速水が知らないと言うのなら、それはなかったことなのだ。中澤は旧友と言っても、付き合いがあったのは過去のことだ。安積にとっては、今、目の前にいる速水の言葉の方が大事だった。
 そこまで考え、安積は苦笑した。
 真実がどうでもいいなどと、およそ刑事らしからぬ考えだ。
 どうでもいいのではなく、考えたくないのかもしれない。安積はそう思った。
「もし本当なら、礼を言っておきたかっただけだ」
 速水は何も言わない。
 単に運転に集中しているのかもしれない。だが、沈黙が安積には重かった。
 何か、すっきりしない。理由は分かっている。速水に、中澤を牽制した理由をあえて尋ねなかったからだ。
 だが、いつまでもひきずるような話でもない。所詮は二十年前の、昔話だ。
 冗談話として終わらせよう。
 安積はそう考え、努めて軽く話しかけた。
「おまえは……」
「ん?」
 なんと聞いていいのか分からない。自分のことだから、なおさらだ。あれこれ悩んだ末、安積は自分でも信じられない言葉を選んだ。
「おまえは若い頃、俺を抱きたいと思ったことがあるのか?」
──失敗した
 言った途端、安積はそう思った。もう少し婉曲な言い方があっただろう。
 速水は答えなかった。変わらぬ様子でハンドルを握っている。動揺は全く見られなかった。
──馬鹿なことを聞いた
 安積は後悔した。くだらない冗談だと、笑い飛ばしてくれることを期待した。
 やがて、安積の期待通り、速水は鼻で笑った。
 安積はほっとした。

*********

 ある日、安積の携帯にメールが入った。
 差出人は中澤で、近々、飲みに行かないか、という内容だった。
 たまには旧交をあたためるのも悪くない。
 もちろん確実な約束などできないが、中澤も元々は警察官だ、そのあたりのことは承知の上だろう。
 一瞬、速水も誘おうかと考えたが、やめた。
 中澤の話を完全に信じたわけではない。そもそも信じていたら、飲みになど行かない。
 だが、速水と中澤の間に何かしらの諍いがあったのならば、わざわざ会わせる必要はないだろう。第一、速水のシフトが合うとは限らない。
 安積は、中澤に了解のメールを返した。



←back   next→

安積班/ハンチョウに戻る