■小さな一歩(1)■


「安積? おい、安積じゃないか!」
 昼休みの繁華街。定食屋を出たところで呼ばれた声に、安積は振り返った。
 背広を着たサラリーマン風の男が、親しげに声をかけてくる。年は安積と同じくらいだ。顔に見覚えはあるが、誰だかとっさに思い出せない。
 須田と黒木が、怪訝そうに安積を見た。
 男は笑顔で近づいてくる。
「俺だよ、中澤だよ、覚えてないのか?」
 その言葉に、安積の記憶が蘇った。
「中澤? あの中澤か? 久しぶりだな!」
 安積は表情を緩め、旧知の人間の名前を呼んだ。
「今、なにやってるんだ?」
「普通の営業サラリーマンさ。おまえは?」
「相変わらずだ。今はそこの臨海署にいる」
「チョウさん?」
 須田が遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、俺たち、先に戻ってますね」
「ああ、すまん」
 安積は思い出したように、須田と黒木のほうを振り返った。
「こいつは中澤だ。俺と同期だったんだ」
「まあ、俺はたった三年で警察を辞めたがね」
 中澤はバツが悪そうに笑った。
 立ち話も何だろう、ということで、須田と黒木を先に戻らせ、安積と中澤は近くの公園のベンチに座った。
 安積の記憶の中の中澤は若いままだったが、目の前の男は年相応の中年男だった。髪に白いものが混じっている。
 自分も同じだ。安積は苦笑した。
「二十年ぶりか? お互い、年をとったな」
「いや、おまえは変わってないよ」
 中澤の言葉に、安積はまた、苦笑した。
 営業職というのは、誰にでもお世辞を言うものなのか? それがそつなくできる中澤は、確かに、警察には向いていなかったかもしれない。
「二十年だぞ。変わらないほうがおかしいだろう。変わってないのは、速水くらいだ」
「速水?」
 中澤が驚いたような表情をした。
「ほら、同期だった速水だよ。覚えているだろう? 目立つヤツだったから」
「あいつもまだ、警察にいるのか?」
「ああ。同じ臨海署だ。毎日元気いっぱいに、パトカーや白バイを乗り回してるぞ。
 とても俺たちと同い年とは思えん」
「そうか、速水と一緒か……」
 驚きの表情の中に、好奇心が混ざったことに安積は気づいた。
 中澤が尋ねた。
「それで、おまえら今はどうなんだ?」
「今って……言ったとおり、同じ署内にいるだけだ。まあ、腐れ縁だな」
 安積の裏のない口調に、中澤は複雑な表情をした。
「速水がどうかしたのか?」
「いや……」
 中澤はバツが悪そうに笑った。安積はその表情が気になり、穏やかに問い詰めた。いや、問い詰めるつもりなどなかったが、自然と、尋問のテクニックを使っていた。
「現役の警察官には、かなわないな」
 中澤は『笑い話だと思って聞いてくれ』と前置きして、話し始めた。
「あの頃、俺はおまえに惚れてたんだよ。おかしいだろ」
 あまりの内容に、安積は何も言えなかった。
 惚れていた? 中澤がそういう趣味だとは知らなかった。
「あわよくば、と狙ったことも何度かあったんだがな。全部、速水に邪魔された」
 速水に?
「邪魔と言うより、もう脅しだな、あれは。あの速水を敵にまわしてまで、おまえに近づく勇気はなかった。結局、俺より速水の方が、おまえに本気だったんだろうな」
 本気……? 速水が?
 そもそも、男を欲望の対象にするという感覚が、安積には全く理解できなかった。
 昔の話だ、そう言って、中澤は苦笑いした。
「若気の至り、ってやつさ。年をとったおまえには正直、何も期待してなかったんだが…… 変わってないよ、おまえ」



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