■チェンジ!(4)■


 交機隊の部屋で書類仕事に集中していた安積は、人の気配に顔をあげた。
 山県が立っている。
「ヘッド、今日はまだ帰らないんですか?」
 安積は時計を見た。定時を少し回ったばかりだ。急いで帰る理由はない。
 そう思った後、安積は気がついた。ここは交機隊だ。当番の時間はとっくに終わっているのだ。
 山県は複雑な表情をしている。安積は察した。今日は明らかに、交機隊の小隊長の様子がいつもと違うのだ。おそらく全ての隊員が、そう思っている。山県はそれについて、何も言わない。ただ──できれば早く帰って欲しいのだ。
 安積は苦笑した。
「今日はもう、帰らせてもらおう」
 交機隊の部屋の中に、安堵の空気が流れる。
 とは言え、安積はこのまま帰るわけにはいかない。なんとしても、元に戻らねばならないのだ。
 とりあえず、速水と話をしよう。
 安積は、強行犯係のことを考えた。大きな事件が起こっていないといい。メンバーたちは安積がいなくても、十分に上手くやっているだろう。速水が余計なことをしていなければ、だが。
 顔を出そうかと思ったが、この姿で刑事部屋に入る度胸はない。
 安積は電話を手に取った。
 
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 小さな会議室で安積が待っていると、速水がやってきた。外見が自分なので、どうにも気持ちが悪い。速水はドアに鍵をかけ、肩をぶんぶん回した。
「刑事ってのは、めんどうな商売だな」
「何か、事件はあったか?」
「いや、別に」
 速水は軽く言った。
「ただ、村雨と須田に、頼むから定時で帰ってくれと言われたぞ」
 強行犯係も交機隊も、同じだったということだ。
「とにかく、元に戻る方法を考えよう」
「もう一度、階段から落ちてみるか?」
「冗談じゃない」
 安積は憮然と言った。速水も、同感だというように苦笑した。
「あとは、そうだな……」
 速水は考えるような仕草をした。
「昔話だと、キスをしたり告白したり名前を呼んだりすると、戻るんじゃなかったか?」
「それは、姿を変えられた場合だろう」
 安積の言葉を聞き流し、速水は安積の顔で、にやりと笑った。
「とりあえず、試してみるか?」
 安積は思わず固まった。
 この状況では、それらの手段を試すのはやむを得ない。頭では理解している。ここが職場だということも、この際、目を瞑ろう。だが、相手は──相手の外見は、自分なのだ。
 気持ち悪い。
 それが、安積の正直な感想だ。
 速水は何も気にしない様子で言った。
「俺は、おまえがカエルでも、キスできるぞ」
 いっそカエルなら良かった。安積は本気でそう思った。
 それからの出来事は、安積にとって一生、思い出したくない出来事だった。
 二人は速水の提案を全て、実行した。
 安積は決死の思いだったが、速水は余裕たっぷりだった。
「……」
「……戻らないな」
「……そうだな」
 安積はため息をついた。実は目を瞑ってキスをした時、速水の唇が自分より下にあり、ちょっと新鮮な感じがしたことなど、口が裂けても言えない。今はそれどころではないのだ。
 速水が苦笑した。
「ここで考えていても、仕方がない。とりあえず、帰るか」
「そうだな」
「来るか?」
 速水がたずねた。
「……いや、今日はやめておく」
 安積は少し迷い、そう答えた。
 この時間に帰れることは滅多にない。できるなら、二人で過ごしたい。だが、自分の姿を見続けて、正気でいられる自信が安積にはなかった。
「……そうか」
 ドアに向かいながら答えた速水の口調は、少しだけ、寂しそうだった。
「待て、速水」
 速水はそのまま、立ち止まった。後姿なので、かろうじて、顔は見えない。
 呼び止めたものの、安積は何を言っていいのか分からなかった。
「速水……」
 どうしても、何かを伝えたい、それが何なのか、安積にも分からない。どう伝えていいのかも分からない。
 安積の目線より少し低い位置に、背広を着た後姿があった。
 安積は無意識に、速水の行動を真似た。
 それは、速水の部屋で飲んでいる夜。ごく稀に酔いがまわった速水が、何かを言いたげに、だが何も言わずにとる行動だ。
 抱きしめることはなく、手すら触れず。ただ後ろから、自分の額をこつんと肩にのせる。
 速水がこの行動をとる意味が、今、分かった気がした。
 数秒の後。
 安積はゆっくりと振り向いた。
「……戻った……のか?」
「……戻ったな……」
 よかった。本当によかった。
 そう思った瞬間、安積の膝がくずれた。速水の逞しい腕が抱きとめる。
「大丈夫か?」
「ああ……」
 身体がひどく重い。この感覚はおそらく──疲労だ。
 安積は速水に言った。
「悪いが、今日は帰らせてくれ。本当に、無理そうだ」
 速水は優しく笑った。
「ああ、ゆっくり休め」
 速水の唇が、額に触れた。
 それは久しぶりの──本当に久しぶりのキスのように、安積は感じた。



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