■リンゴ(2)■


 パタン、と、パソコンの蓋を閉じる音がした。顔をあげると、村雨が帰り支度を始めている。須田と黒木は仕事の手を休め、何とは無しに雑談をしている。桜井はパソコンに向かってはいるが、遠目にもあまりはかどっているようには見えない。時折、顎に手を当てて顔をしかめているが、歯でも痛いのだろうか。
 安積は壁の時計を見た。定時を少し、過ぎている。
 ボールペンを机に置き、安積は軽く伸びをした。
 今日は特に事件もなく、全員、書類作りで一日が過ぎた。こんな日は、みんな早く帰ってもバチはあたらないだろう。桜井に、歯医者に行くように言うべきだろうか──?
「あ、そうだ」
 須田が椅子をガチャガチャ鳴らしながら立ち上がった。棚からビニール袋を取り出し、村雨に差し出す。
「これ、よかったら持っていってよ」
 村雨が袋を開けると、甘酸っぱい香りが部屋に広がった。
──ああ、リンゴか──
 安積は、瞬時に事情を理解した。かつては待機寮に住んでいた身だ。
 須田がにこにこしながら、村雨に言った。
「新鮮なリンゴなんだよ。ちょっと硬いから、ちゃんと切って食べたほうがいいよ」
「須田さん!」
 桜井が勢い良く立ち上がるのと同時に、須田がしまった、という顔をした。
 怪訝そうな顔をする村雨に、黒木が淡々と説明する。
「昨日、寮で、リンゴを丸齧りできるか?という話になったんです。で、桜井も挑戦したんですが、口を大きく開けすぎたらしくて顎が……」
 そんなこと、いちいち言わなくてもいいじゃないですか!という桜井の言葉は、尻すぼみに小さくなった。村雨の目が、同情を通り越して、あまりにも冷ややかだったからだ。
「まあ、大事にならなくてよかったよ、ね?」
 須田があわてて、フォローする。
 安積は苦笑交じりに頬を緩めた。正直、少々呆れはしたが、多少の無謀さは若さの特権だ。
 そういえば、今朝、速水もリンゴを持っていたな──
 特に尋ねはしなかったが、おそらく同じように須田からもらったのだろう。
 速水は夜勤明けだったはずだ。きっとあのリンゴは、朝食代わりに速水の腹の中に消えたのだろう。
 速水がリンゴを丸齧りする様子を思い浮かべ、安積は思わず笑いを噛み殺した。
 似合いすぎる。
 むしろ、包丁で皮を剥いて食べている方が想像しづらい。
 安積は机の上の書類を簡単に片付けた。桜井はまだ、帰ろうとする村雨を引き止めて何やら言い訳をしている。
 今日はもう、みんなを帰らせよう。それから、桜井は念のため、病院に行かせよう。
 そう思いながら、安積は帰り支度を始めた。
 
 
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 手近な定食屋で夕食を食べ終え、安積は腕時計を見た。
 定時過ぎに署を出たので、まだ時間は早い。今から訪ねて行って、日付が変わる前に帰ったとしても、数時間は一緒に過ごせる。
 だが、速水は起きているだろうか。起こされて怒ることはないだろうが、睡眠を邪魔するようなことはしたくない。
 安積は今朝のことを思い返した。
 外階段ですれ違った時、速水は軽い口調で言っていた、夜勤明けで、明日は昼からの当番だ、と。
 その言葉の意味と、速水がわざわざそれを言った理由を安積は考えた。
 結局、安積は携帯電話を取り出した。慣れない手つきで、短いメールを送る。
 ほどなく返事が届き、安積はほっとした。どうやら速水は、仮眠を終えて起きていたようだ。
 安積は伝票を手に取り、席を立った。
 会計をしながら、安積は思った。まったく、便利な時代になったものだ。



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