ワケアリのワケ

平成元年の秋のことだった。

前年にクルマの免許を取っていた(24歳だから今時では遅いほうか)私は、当時茨城県の取手市に住み、ジムニーに乗っていたが、もともとがオフロード指向の私にとって、ジープは究極の乗り物であり、ぜひ欲しいクルマだった。というか実際、ほかに欲しいと思うようなクルマもなかった。

とはいっても私には貯金がそれほどあったわけではなく、給料も安かったので、100万円以下の中古のディーゼルジープJ54に狙いを定めていた。そして私は、熱心に「カー○ンサー」などの中古車雑誌を読み、経済的射程距離に入るジープを探していたのだ。

そんなある日、「カー○ンサー」によると、よさそうなジープが埼玉の埼大通りにある四駆専門の中古車屋にあるようだった。休日に、私は弟と車を見に行った。
クルマは昭和51年式の、細いシャーシのJ54だった。車検が切れ、錆びて穴が開いていたところもあったが、板金修理のうえ車検上げで納車する、ということで話がついた。中古車屋は、クルマを板金屋に出すので、25万円の内金を振り込んで欲しい、と言ったので、私は言うとおり、休み明けに25万円を振り込んだ。
その後、中古車屋とは車庫証明の関係でFAXでの書類のやり取りを何度か行っていたが、あるとき突然電話に誰も出なくなったのだ。

私はあせりを感じながら、何度もしつこく電話を掛けつづけた。
やがて、夕方になって、電話が通じた。しかし、電話に出たのは、いつもの中古車屋ではなかった。
私が電話の相手に、
「○○さん(担当者)は・・・・」と尋ねると、相手は、
「逃げたよ。みんな逃げた。店のモンは誰もいねえ」
と言ったのだ。私は、
「えーーーーーーーっっっっっ!!!!!!!」
と言ったと思う。

相手の話によると、中古車屋はつぶれたのだ。電話の相手は、銀行の決済時刻が過ぎて、手形が落ちなかったために押しかけてきた債権者だった。私が思わず、
「じゃ、オレのクルマは・・・・?」
と尋ねると、相手は親切にも、
「金払ったのかい」
と訊き返してきた。私が、金は払ったが、クルマは板金に出すことになっていた、と答えると、相手は、
「じゃたぶんダメだな、ここもみんな押さえられてるし、板金屋ったってわかんないし」
と答えてくれた。

目の前真っ暗、だ。
状況はわかったが、納得できるものではない。幸い、当時の上司や親戚にそういう関係に詳しいものがいて、相談に乗ってくれた。彼らのアドバイスは、とにかく破産管財人が入る前に、債権者の群れが金目の物を持ち出すはずだから、おまえのクルマも危ない。もう夜だから、早朝だれも動かないうちにとにかく行ってみろ、ということだった。

私は翌日、夜明け頃に中古車屋に行ってみた。まだ人っ子一人いない。
異様な光景だった。展示場のジープをはじめとするクルマには、すべて「○○モータース所有物」などの張り紙がされている。店のカギはは開いていた。不法侵入になるかな、と思いながら入ってみると、店内のワープロやパソコンにも、張り紙がしてあった。
私の注文したクルマはどこにもなく、しばらく探してみたが書類もないようだった。私は途方にくれていた。

と、早朝のこんな時間に電話が鳴った。だれもいないのでとりあえず私が出てみると、電話の相手は、
「ジープをそこに売ったのだが、金を受け取っていない。店はつぶれたような話を聞いたので、ジープだけでも取り返したい。自分のジープはあるだろうか」
というような話をした。私は相手の名前とジープのナンバーを聞くと、展示場を確認してから電話する、と請合った。
幸運にも、展示場に、そのジープはあった。グレーメタリックの、ナンバーは19-74。まさにこれだ。これにもやはり、ナントカモータース所有物、という張り紙が貼ってある。私は、すぐにジープの持ち主、Yさんに電話した。

Yさんは、これからそちらに向かおうと思うが、今群馬なので、ずいぶんかかるかもしれない、と言った。私たちは、ぐずぐずしてると虻蜂取らずになってしまいそうだ、というようなことを話し合った。
そこで私は彼に、そのジープは私がなんとか持ち出すので、私に売ってくれ、と言った。Yさんは驚いていたが、すぐにその線で話がまとまった。私は彼に実家の電話番号を伝え、そこに車を運ぶ、と伝えた。
そしてレッカー屋を電話帳で探し、事情を話してレッカーを依頼した。レッカー屋はさすがに心得たもので、そういうことならすぐに行く、と請合った。

私はとりあえずそのジープの張り紙を引っぺがした。
そのうちに、車検で車を預けたのだがクルマが見当たらない、と言う半ベソの大学生が来たり、債権者らしき人たちがおおぜい来て店内のものを運び出し始めたりして、店は騒々しくなってきた。私はジープの近くに陣取り、彼らには、あのジープのオーナーに頼まれて引き取るところだ、と説明した。
白状すると、レッカー屋が到着して、ジープを持ち出すときに、くやしまぎれに、私はスペアのタイヤを4本積み込んだ。レッカー屋も、
「ああ、持ってけ持ってけ。ほかに持ってくモノないか?」
などと手伝ってくれた。

レッカーで実家にジープを運び、待っていると、Yさんから電話があった。私は彼に実家への道順を教えた。実家には、相談に乗ってくれた親戚も来てくれていた。
Yさんは程なくやってきた。
彼の話では、ジープは中古車屋に30万だか35万だかで売ることになっていたそうだ(このへんは記憶があいまいになっている)。しかし、彼は代金を受け取っていなかった。そして私は既に中古車屋に25万パクられていた。親戚のものが間に入り、どちらも少し泣く、と言うことで、25万でジープの売買がまとまった。

このジープは、すでに10万キロを走っていた。
そして、高専の先生をしているYさんが、大切に乗りつづけてきた、まさに愛車だった。
Yさんは3000キロごとにオイル交換を行い、毎年車検の時には下回りをペイントして、10年10万キロとは思えないようなコンディションにジープを維持してきたのだ。大好きなジープだが、子供が生まれたので泣く泣く手放すのだ、とも話してくれた。ジープのサイドには、Yさんの所属していたキャンピングクラブのロゴがペイントされていた。私はYさんに、大事に乗りつづけることを約束した。

ジープのキーはオリジナルは中古車屋では残念ながら見つからなかったが、Yさんが「形見」のスペアを持っていた(この気持、よーくわかるなあ)。書類も見つからなかったので、Yさんが群馬の陸運局に掛け合ってくれることになった。

かくして手続きは順調に進み、Yさんにお金も振り込んで、ワケアリのジープは私のものになった。そんなわけなので、このジープ、手放せないのだ。もっとも、手放すつもりもないのだが。


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