J54って?

J54とは、誰もが知っている四輪駆動車の代名詞、世界の名車、ジープというクルマの多彩なバリエーションの一つだ。

本来ジープというクルマは、アメリカ製の、アメリカ軍用車だった。「アメ車」であり、「外車」であり、「軍用車」だったのだ。

日本では第2次大戦後、三菱重工業株式会社(当時)がそのジープの生産ライセンスを手に入れ、昭和27年のノックダウン1号車、次いで昭和28年の林野庁に納入する54台のCJ3A-J1をふりだしに、最初は「外車」のノックダウン生産としてスタートしたのだ。したがってこの頃のジープはまんまアメ車で、ハンドルも左に付いている。
だから今でもその名残で、ジープの車検証の「車名」は「ミツビシ」ではなく、「ジープ」なのだ!こんなクルマ、ほかにはない。

やがてジープは三菱により、日本の国内事情に合わせて独自の発展を遂げていく。
昭和36年には、ついに右ハンドルのJ3Rが登場した。古い日本映画に出てくる警察ジープなどは、ほぼこれと思ってよいだろう。
その「日本仕様」ジープJ3Rは、2リッターオーバーのガソリンエンジンJH4(76馬力)を載せた、カテゴリ的には普通貨物、いわゆる1ナンバー車になるクルマだった。しかし、1ナンバー車は、1年車検の上に、保険料が高い。維持にやたら金がかかるのだ。おまけにジープは燃料も食う。その割に、ドアにカギもかからなければ幌の上屋は雨も洩るし、夏は暑いし冬は寒いとくる。

当時は、やっとジープが国内で民間用に使われるようになってきたとはいえ、昭和30年代。今とは時代が違う。クルマは超高価な財産で、自家用車を持つのは一大決心、という時代だ。
金のかかるわりに用途の制限されそうな(実際のところ、ジープは別に何にでも使えるのだが、なんとなく山奥の工事現場とかにしか使えないように思われがちな)ジープは、商売をしてるならともかく、純粋な個人ユーザーには敷居が高いクルマだったのだ。当時のジープのユーザーは、圧倒的に官庁だった。
せめて小型貨物、いわゆる4ナンバー車として登録できれば、個人ユーザーにもぐっと手が届きやすくなっただろう。

…と思ったら、実は、当時既に、小型車枠で登録できるジープが、あるにはあった。左ハンドル時代は昭和33年にJC3と6人乗りのJC10、右ハンドルになってからは昭和36年のJ3RDというやつだ。当時のジープのJH4エンジンをまんまディーゼルにした、KE31というエンジンを載せたやつだった。このエンジンは、当時としては画期的な小型高速ディーゼルエンジン(つまり、舶用などと比べて、という意味で)だったが、実際非力(一応データ上は61馬力だが)で、スピードも出せず、ドンガメと陰口をたたかれたのだった。手元の資料では、JC3は331台、JC10は200台、J3RDはわずか108台が生産されたにとどまっている。

そこに登場したのがJ54だった。昭和45年のことだ。

J54は、4DR5という、75馬力(昭和47年からは80馬力)の新型のディーゼルエンジンを載せていた。
このエンジンは、たしかもともと三菱の2トントラック「キャンター」に使用するための、タフで信頼性の高い、傑作エンジンだ。その証拠に、平成10年に生産が終了した最後のミツビシジープJ55にも、4DR5をインタークーラーターボ化したエンジンが載せられていた。なんと、28年間に渡り、同じ型式のエンジンが作られていたことになる。
これを傑作と言わずしてなんと言おう。
このすばらしいエンジンを得て、ドンガメといわれたディーゼルジープは、高速道路での100Km/h巡航が可能になった。なんといっても、もともと2トン車用のエンジンだから、力がある。J54の車重はわずか1.2トンそこそこ。乗ってみると、さらに軽くて吹け上がりのいいガソリンジープにはかなわないまでも、見た目や音の感じとは裏腹に、意外なほど小気味良いダッシュを見せてくれる。そればかりか、フロート式キャブレターと電気式点火装置を持つガソリンエンジンの宿命的弱点だった、長い急斜面や水中でのエンストも、J54の機械式燃料噴射のディーゼルという心臓にはまったく弱点にはならなかったのだ。もっとも、エンジンが水を吸い込むところまで行くと、ディーゼルの圧縮比の高さから、ハイドロリッキングといって、水圧でエンジン自体を破壊してしまうようなダメージを受けるのだが。

さらにこのエンジンは同時に、燃料を食うクルマだったジープに、2ケタ燃費という経済性まで与えたのだった。実際、20万キロ近く走ってへたっているわがJ54でも、普通の通勤使用ではリッター10キロを切ったことはない。
また、日本のユニークな車両区分法規では、登録は税金の安い4ナンバーの小型貨物となり、個人ユーザーでも所有、維持しやすい。
それやこれやで、J54がジープユーザーの底辺を広げたことに疑いをさしはさむ余地はないだろう。昭和45年ごろを境に、ジープの生産台数は飛躍的に伸びていっている。
J54は、多くの男たちの夢、憧れの的だったジープを、夢からまさに手の届くところへ降ろしてくれたのだ。
そして、昭和61年に後継のJ53にバトンを渡すまで、実に16年にわたって、同一モデルとして生産が続けられ、官民に広く使われつづけたのだ。数ある自動車の中でも、名車と呼ばれる資格は十分あるだろう。いや、J54を名車と呼ばずして、何が名車だろう。

私のJ54は、昭和54年製である。最初のオーナーは、群馬の高専の先生、Yさんだった。彼はこのクルマに10年間乗り続け、こどもができたのを機に、ジープを手放したのだ。私はセカンドオーナーということになる。

YさんとJ54と私の出会いは、まさにワケアリと呼ぶにふさわしい、ドラマチックなものだった。


VOJ (Very Old Jeep)復活作戦 「ワケアリのワケ」へ